誰も来ない
誰も来ない。
約束の時間から2時間ぐらい経ったか。部屋の時計の秒針が、カチ、カチ、と静かな音を刻んでいる。
少し前まで冷えていた麦茶も、今はもう空気に合わせてぬるくなってしまっていた。外からは夏の蝉の声が聞こえる。
夏休みの課題を持ち寄って、みんなで一緒にやる約束だった。冷房の効いた部屋で、お菓子を食べながら。めちゃくちゃ楽しみにして、お菓子も買ってきて、準備して待っていた。しかし、このありさま。
私はソファに座って、またスマホを見る。
LINEは既読のまま。通知はなし。電話にも出ない。グループチャットは、数時間前から沈黙状態。
「まだ来ないねー……」
何度目かの同じ言葉。横にいる晴翔くんが、曖昧に頷いた。
今日はどこか落ち着かず、ソファの端を指で小さく叩いている。
なんだかイラついてるっぽい? 多分みんなが来ないからなのと……私、と二人だから?
ぼーっと見ていたら彼もこちらを見た。目が合った瞬間、慌てて視線を逸らす。その動きはどこかぎこちない。
「そうだな」
そう短く返す彼の声は、いつもより少し硬い。会話はそれっきりになった。
重苦しい空気が部屋を包む。いつもはリラックスしてくつろぐ私の居場所であるこの部屋。
でも今は、少し居心地が悪い。
私は視線を落として、またスマホを弄った。分かっている、無意味だ。通知が鳴る気配はない。
「LINEも既読なのにね。電話も出ないし……なんかあったのかな」
「そうかもな……」
「……スマホ見てるけど、なんか来てた?」
「……いや、あいつらから連絡ないかなって思ったけど特に……」
静かな返事。広くもない部屋でいつもと断然近い場所なのにどこか遠く聞こえた。
いつもより優しいけど、優しすぎて、逆に距離を感じる。
……居たたまれない。何気ない言葉なのに私の心の不安を逆なでしている。
「……さすがに二人じゃなんだし、解散しようか? 来なさそうだし、連絡つかないし」
そう言ってしまったのは、私が空気に負けたせい。彼のせいじゃない。
でも一緒にいるのがしんどいのは事実。
「俺は別に二人でもいいけど。後から来るかもしれないし」
「……いや、うん。その。あー……晴翔くんがいいなら、そうしようか」
言いながら、声がどんどん小さくなっていることに自分でも気づく。
自分でもよくわからない感情が、胸の中でぐるぐる回って逃げ場がなくなっていた。
「……嫌なら帰ろうか? そもそも、くるみの家だし」
「……嫌じゃないけど、その前にひとつ、聞いていい?」
この感情の逃げ場を作らないと爆発しそうで、それを少しでも逸らすにはここで彼に聞かないといけないことがある。
ひとつ息を吸った。言うのが怖くて喉の奥がひりつく。でも、言わなきゃ苦しいままだ。
「な、なに?」
「私、なんか……これまで晴翔くんの嫌がるようなことしてた?」
彼から息を呑む音が聞こえる。私は彼の目を見られなかった。
視線を落としたまま、指先を組み、ぎゅっと握る。
これから二人にとってイヤなことになるかもしれない気配をひしひし感じた。
「……え? それはない、けど」
「じゃあ、最初から印象悪かったのかな? 明らかに他と私で違うから。みんながいたから私も無理して普段通りにしてたけど、そろそろ我慢の限界……」
「違う。そんなこと、本当に全然ない」
焦ったような声。でも、それでも私の疑いは止まらなかった。
「じゃあなんで、避けられてたの? 私、最初は気のせいだと思ってた。でもこの間なんて、目が合ったのに、私なんていないみたいに無視して……」
胸が詰まる。声が震える。言葉を吐き出すたびに、心が軋む。
「もしかして私、みんなにも嫌われてるのかな? 今日誰も来ないし、返信もないし、ハブられてるの? 一人ではしゃいでお菓子とか用意して……こんなの馬鹿みたい……」
「くるみ、落ち着いてくれ。そんなことはないんだって。本当だよ、実は――」
「もしかして、晴翔くんには連絡あったの? やっぱりハブられてんじゃん私。普段から色々相談してたのも全部笑われてたのかな。昨日も『晴翔君に避けられてるみたいだから明日は出来るだけ一緒にいてね』って話したのも私以外はみんな知ってるの?」
「……それは、いや、あいつらが心配してて、状況聞いてきて……」
「……え、聞いてきてって……え?」
声が裏返って、膝の上に置いた手が震える。
もう耐えきれる量でない涙が目から溢れていた。
悔しくて、悲しくて、恥ずかしくて、やるせなくて、色んな感情が一気に押し寄せて止まらない。
「もう嫌だ……何も信じられない。ごめん、帰って」
「違うんどよ、って、あぁ! 噛むし! 泣かせるし! やっぱダメだって言ったのに!」
彼が立ち上がる。わたわたと慌てた様子が目に入って、それがまた余計に悲しくなる。
一瞬、部屋が静まり返った。その時、彼の目が初めて真剣に意思をもって私を見た。
「とにかく落ち着いてくれ。他の奴らは俺が連絡すれば即、まとめてやってくる程度にウキウキで待機中だから! 今連絡する!」
「もういいよ、もう嫌だよ。こんなの。人騙してウキウキとか、前提として酷いじゃん」
「ごめん! ごめん! 本当に、ごめん! 俺も泣きたいよ! 俺も半分くらいは被害者だよ!」
「何もかも全部話してた私ピエロじゃん……いじめじゃん……晴翔くんも聞いてるとか、最悪じゃん……」
「いや、聞いたっていうと聞いてたけど、本人に聞かないと最終的には——あー違う! また誤解される!」
「……私、晴翔くんのこと好きなの。話で聞いてたのと同じだったかな? こんなことになるとは思ってなかったけど」
一瞬、彼の目が見開かれる。その表情に少しだけ気が晴れた。
でも未だそれ以上に絶望が心を埋めている。
「まぁ、そんなの、もうどうでもいいけど、あーほんとどうでもいい……世の中全てどうでもいい……」
頭を抱えている膝に埋める。頭をごつごつ膝頭にぶつけて響きを脳で感じた。
次の瞬間、ドンっと床から音が響く。
顔をあげると晴翔くんは、土下座していた。勢いのある音と共に、頭を下げる彼の背中が見える。
「聞いてたのと同じだけど、当たってるけど、……どうでもよくない!」
「……えぇ?」
顔を上げた彼は必死の形相だった。
「ごめん! 今日こんなことになったのも、俺のせい! 頼んでもないのに、今日来たらこういう状況になってたけど、それも俺が煮え切らないからで。最低な告白だけど、俺も好きなんだ! ずっと前から。ずっと、好きだったから、仲良くなるほど我慢できなくなって、目が合わせられないし、普通に話せないんだよ!」
「……疑問なんだけど、なんで仲良くなるほど避けるの? いまいち分からないんだけど」
「なんでって……あいつらにも散々聞かれたけど、正直わかんねーよ。好き、だから話すとボロが出そうで、逃げた? ああ、やっぱりわからん!」
「晴翔くんにわからないなら、私にもわからないよ」
「今日もこんな近くにいると、頭真っ白になって、変なこと言いそうで…………って、まだ来ないしあいつら。俺ももしかしていじめられてた?」
私にそれを聞くのか? それでも話を続けないと埒が明かない。
「そうかもね。こんなことする人たちだしね」
「ごめん……」
「まだ何も言ってない。とりあえず、ごめんって一旦言わないで」
「ごめっ、あー」
思う通りにいかず頭をかく晴翔君。
しかし、嫌われてるかと思ったあれこれ全部照れ隠しって……なんだかなぁ。
「……ていうか、両想いなの?」
「ん?」
「私たちって、両想いだったの?」
彼は少し呆けてから、こくりと頷いた。
その時、彼の手元でスマホの画面が光った。スマホが小刻みに震えている。
ん? これはまさか――?
「……今、何してるの?」
「え? あ、いや……」
「まさか、今の状況、報告してた?」
晴翔くんが何か言おうとして、口ごもった。晴翔くんの顔は青ざめている。
こっそりスマホの画面を隠そうとするが、もう遅い。
ぐっと寄ってのぞき込むと、案の定想像通りの会話が画面上で行われていた。
「はぁー、実況中継されてたの? 私が泣いてるのも?」
「ご、ごめん……あいつらが心配してて、どうなってるかって……」
「心配って言うか、どう考えても面白がってるんでしょ」
「そ、それは……」
「もしかして、両想いだからみんな気を遣って、こんなことしたの?」
「そう、そうなんだよ。こうでもしなきゃ動かないと思われてる俺も、なんだろ……舐められてる?」
「しかも、ただでさえ落ち込んでる私に対して、こんなことを?」
「ほんとだよ……」
晴翔くんがバツの悪そうな顔で言う。その瞬間、私のどこかで何かが切れた気がした。
「私、どうでもよくなっちゃった」
「え、それってどういう——」
「みんなが来る前に、どっか行こう。二人で」
「……は?」
「は? じゃない」
「行くって、どこに?」
「分からないけど、デートに」
「え?」
「お菓子も持っていく。連絡は無視。下手な雑音なしに、復讐も兼ねて」
「そ、そうか。なら、映画とか——」
「騙した相手への復讐も兼ねてるから、晴翔くんに主導権ないからね」
「は、はい。すみません」
スマホを取り出し、グループLINEを開く。
最初は「この件はあとでまとめて裁判ね(笑)余計なお世話(笑)」で、だんだん怒りマーク、般若、鬼の顔と連打していった。怒りを込めて。
「居留守使って、外で待ってもらおう。実況中継の仕返し。この暑さの中でね」
「……でもあいつら、この炎天下で辛くない?」
「知らない。勝手にやったんだから、勝手に待ってればいい。冷房代だってかかってるのに」
「…………そうだね」
「……ねぇ、なんか外、声しない?」
「うん? 声……?」
ちょうどその時。家の前からドタバタ騒がしい音が聞こえた。
「うおーい! くるみ! 晴翔! 許してくれー!」
「ごめん! ごめん! 泣かせるつもりなかったのぉー!」
「スタンプ攻撃怖いよ! 般若から鬼になってるし!」
「暑いよー! 日陰ないよー! 開けてぇ!」
外の騒がしい声が、すぐそこなのに、なんだか遠くに聞こえた。
私は晴翔くんを見る。彼も私を見返して、気まずそうに、でもどこか安心したように小さく笑う。
「……もう間に合わないかぁ」
「ほんと、やることなすことタイミング悪いやつらだ」
「でもやだ。最低15分は待ってもらおうかな。ふっ、夏休みの課題なんてどうせ最後まで溜めるくせに」
「確かに……」
「晴翔くんも同罪なんだけどね」
「う、申し訳……」
「もう土下座やめてよ。あとでみんなにいくらでもしてもらうから」
「怒ってるな」
「そりゃあね」
「ごもっともで……」
「告白されたことだけしかいい点なかったから。今度、二人でちゃんとデートする時は、みんなに内緒ね」
「んん!? えっ、あっ? いいの?」
「……付き合うことになったのも、しばらく誤魔化そうね」
私はそう言って、彼の手を軽く叩く。
ビクッと反応したすぐ後、晴翔くんは照れたように笑った。
その笑顔はとっても素直でいいものだった。彼はおずおずと手を差し出す。
「くるみ。それじゃお手柔らかに、お願いします……」
――その後、晴翔くんは私の“復讐”のせいでしばらく落ち着かない日々を送ることになるのだけれど、それはまた別の話。