すき焼きと街灯
〈美幸〉の家に招待されて、俺はすき焼きを作らされている。
〈美幸〉の〈おばあちゃん〉が言うには、すき焼きは男が作るものらしい。
すげえ昭和だと思ったが、良く考えたら〈おばあちゃん〉は生粋の昭和人だ。
俺の家でも、おじいちゃんや父親が作っていたけど、それは一家の大黒柱だからだと思う。
まさか俺を、一家の大黒柱にしようとしていないよな。
この家の柱はどれも細くて、折れてしまいそうに見えるけど。
すき焼きを作ると言っても、俺の知っている作り方は雑なもんだ。
〈おばあちゃん〉以外の俺の家族は、雑って言うか、無神経なヤツラばかりだからな。
すき焼き用の鍋に牛脂を溶かしながら塗って、長ネギと玉ねぎを炒めた後、割り下を入れるだけの至ってシンプルなレシピだ。
主役の肉の色が変わったら、固くならいうちに溶いた卵で、後はひたすら食べるだけだ。
俺が手土産代わりに持ってきた、缶ビールをプシュッと開ければ、〈美幸〉と〈おばあちゃん〉の笑っている顔が鍋の湯気越しに見えている。
何がそんなに楽しいんだろう。
賢い猿みたいに、俺が上手にビール缶を開けたのが、面白かったのかも知れないな。
きっと吹きこぼすと思っていたんだろう。
「皆の幸せを祈って、カ・ン・パ・イ」
〈おばあちゃん〉の乾杯の発声でささやかな宴が始まった。
最初は俺に乾杯をしてほしいと言われたのだが、そこは当然年長者にお譲りしたんだ。
「すき焼きを作るのが、お上手ですね」
〈おばあちゃん〉が空になったガラスのグラスに、トクトクとビールを継ぎ足してくれる。
ヒマワリが黄色の太い線で描かれている、懐かしいデザインのグラスだ。
誰か忘れたけど小学校の同級生の家で、これにジュースを入れて貰った覚えがあるような、無いような。
「いやー、上手くはないです。見様見真似ですよ」
〈いやー〉って何だ。
もっと洗練された言い方があるだろう。
「家ですき焼きを食べるのは、両親が亡くなって以来なんですよ。 すき焼きってこんなに、甘くて美味しいんですね」
えっ、この家はまだ昭和なのか、〈美幸〉さんよ、いつの時代の話なんだ。
「お肉も食べてくださいよ。 さっきから、キュウリの糠漬けしか食べていないですよ」
んー、そう言われてみればそうだ、
「いやー、このキュウリの糠漬けが絶品なんです。 糠床の手入れが素晴らしいのですね」
泣きながら食べた想い出が蘇る、〈おばあちゃん〉が作ってくれた、お茶漬けは美味しかったな。
「ふふ、褒めて頂くのは嬉しいのですけど、お肉も食べて貰わないと余ってしまいます」
「ははっ、それじゃ遠慮なく」
「ビールももっと飲んでよ。 私が注いであげる」
〈美幸〉と〈おばあちゃん〉が俺の小鉢に、肉や白滝や焼き豆腐やネギをこれでもかと放り込んできて、ビールが注げないと苦々しい顔で急かしてくる。
俺はもう高校生じゃないんだぞ、食べ過ぎてもうギブアップだ。
もうすき焼き戦争からは、撤退させて頂きます。
「あれ、しめのおうどんは食べないのですか」
「もぉ、これが一番美味しいんだよ」
良く言うよ、あんたらが俺の腹をパンパンにしたんだろう。
鍋や食器を洗いながら、〈おばあちゃん〉が俺に聞いてきた。
〈美幸〉の家はかなり狭い事から、水を使いながらも台所と居間の間で、普通に会話が可能なんだ。
便利と言えば便利なのか。
「お昼は外へ食べに出られているのですか」
はぁー、腹一杯の時に、食べ物の話はもうしないでほしいな。
「いやー、お昼は配食弁当なんです」
「えぇー、あの〈猫またぎ弁当〉を食べているのですか、信じられない」
〈猫またぎ〉ってひどい言い方だな、でも令和の猫は高級志向だから、猫も食べないのはそのとおりかも知れない。
「〈美幸〉ちゃん、そんなに酷いの」
「うん、一度頼んだことがあるけど、吐きそうになったよ」
「ふふ、それなら〈美幸〉ちゃんが作ってあげたら」
「えっ、良いけど。 美味しくなくても怒ったりしないでね」
「いやー、それは申し訳ないですから、ご遠慮します」
「それはダメです。 それほどマズイものには、きっと体に良くない物が使われていますわ。 健康を損なっても良いのですか」
うわぁ、あれほどニコニコしていた〈おばあちゃん〉が、般若の顔で俺を睨みつけているぞ。
笑顔と怒った顔の落差が激し過ぎて、過ぎし日に鉢合わせした怪異を想起してしまう、めっちゃ怖い。
死んだ〈おばあちゃん〉に叱られたことを思い出して、チビッてしまいそうになる。
ビールを五缶も飲んでいるから、冗談ではすまないんだ。
「えと、えと、食べさせて頂きます」
「うふふ、分かってくれたら良いのよ」
えへへ、〈おばあちゃん〉が、朝顔の大輪が開いたような笑顔になったから、俺も嬉しくなってしまう。
でも、俺のことを本当は好きでもない〈美幸〉は、迷惑じゃないのか。
「〈美幸〉さんは負担じゃないのか」
「んー、負担とは思わないな。 いつもの倍の量を作れば良いだけだから、あまり変わらないよ」
どうして俺の弁当を作ることになって、邪魔くさいと思わないんだ、良く分からない女だな。
すき焼きをご馳走して貰ったお礼に、俺はペコペコと頭を下げて、〈美幸〉の家を出てきた。
「まだ早いよ」と拗ねたように口をすぼめて、〈美幸〉は慌ててエプロンを外しだした、大きな通りに出るまで俺を送ると聞かないのは、どうしてなんだろう、不思議な女だな。
「子供じゃないから、一人で帰れるよ」
「ふん、意地悪言わないでよ」
怒っている顔をしているくせに、〈美幸〉は腕を絡めて俺に体をすり寄せてくる。
〈おばあちゃん〉が玄関で見ているのに、色仕掛けをするんだ。
一応結婚はするから、〈美幸〉としてはこれで良いのか、俺はこれに流されて良いのだろうか。
〈美幸〉の体からはプーンとすき焼きの匂いが漂っているので、空腹の時なら〈美幸〉を美味しそうだと思うのだろう。
「意地悪ってなんだよ」
「〈おばあちゃん〉には優しい笑顔をしてたくせに、私にはかなり冷たかったよ」
「えっ、そうだったかな。 そうでも無かっただろう」
「ふぅん、そうだったのよ。 もっと一杯笑顔を見せてほしかったんだ」
そう言うと〈美幸〉は暗い路地で立ち止まって、俺の顔じっと見詰めてきた。
古い街灯は橙色の小さな灯りで、俺達を不確かに照らし続けている。
〈美幸〉にそう言われても、俺は笑ったりは出来そうにない、笑う要素がなにもないじゃないか。
顔の良いヤツなら爽やかにニカッと笑うところだが、俺にはそんな高度のスキルが備わっていない。
顔が良くない男は、基礎値が低い影響でスキルが生えてこないんだよ。
髪の毛も生えにくいと、喚いていた血統が残念なヤツもいたな。
〈美幸〉の真剣な眼差しに、なぜか焦った俺は何かしなくてはと考え、〈美幸〉の小さな頬に触れみた。
何の意味も無かったんだ、寂しそうに頬が街灯の灯りで淡く光っていただけだ。
「あっ、触ってくれたんだ。 嬉しいな」
〈美幸〉も俺の頬に手を伸ばしてきたので、そのまま〈美幸〉を抱きしめてしまう。
こんなことをするつもりは、全く無かったんだ、その場の勢いってヤツなんだ。
「良い匂いがする」
まだすき焼きの匂いが濃く漂ってくる、〈美幸〉が美味しそうに見えてしまうな。
「うぅ、恥ずかしいよ。 ふぅん、私の匂いを嗅いじゃダメ」
〈美幸〉がトロンとした目で俺を見詰めるから、流れるようにキスをしてしまった。
偽りでも結婚するから良いんだよな。
あれ、そうか。
〈おばあちゃん〉を泣かせないように、結婚するのは止めたんだ。
〈美幸〉に触れた唇を離すと、
「私で良いの」
と〈美幸〉が俺に答えを迫ってくる。
「〈美幸〉のことは嫌いじゃない」
けっ、なんだこれは。
ハッキリしろよ、中途半端な腰が引けた答えだな。
「私はあなたを好きになったの。 もう一度してほしい」
俺はさっきより少し長くにキスをして、〈美幸〉とそこで別れた。
〈美幸〉は古ぼけた街灯の下で、いつまでも俺に手を振っていたよ。