虐めとライオン
「頭がすごく痛いんです」
会社の廊下ですれ違った〈美幸〉が、俺に辛いと訴えてきた、顔も心なしか青く見えるな。
「弱いのに飲むからだよ」
「うぅ、反省してます。 でも嬉しかったな」
「へっ、そんなにお酒が好きなんだ」
「違いますよ。 可愛いって言ってくれましたし、私をホテルへ連れ込まなかったからです」
「あっ、ちょっと、会社でそんなことを言うなよ」
「うふふ、そうですね。 会社以外で言いますね」
何が嬉しいのか、〈美幸〉は言うだけ言って行ってしまった、どういうことなんだろう。
今の話だけ聞いていると、クズ部長と不倫関係にあって〈寝取らせプレイ〉のために、俺と偽装結婚をしようとしているとは、とても思えないな。
だけど俺を色仕掛けで落とそうとしているは、まぎれもない事実だ。
良く分からない女だなと思うけど、他の女のことも俺はまるで分っていないからな。
今まで付き合っていた女には、短期間で全員に振られているんだ、全員と言っても二人だけだけど。
別れを告げられる時の言葉は、少し違っているけど「愛されている気がしない」と言う内容で、ほぼ同じだ、俺はあの行為をする時だけ、「好きだ」「愛している」と言うけど、普段は一度も言ったりしないらしい。
おまけに、とてもそう思っているとは見えないようだ。
大いに自覚がある。
「好き」だとか「愛している」は、興奮している時にしか恥ずかしくて言えないし、そもそも行為を盛り上げるためのスパイスだとしか考えていない。
俺は小学生の頃に軽い虐めを受けて、先生や両親にもその事を訴えたんだけど、先生は虐めている子へ注意もしないで、ホームルームで虐めの授業をしただけだ。
両親には、〈やられたらやり返せ〉〈情ない〉と言われる始末だった。
それから両親を含めて他人は、俺の事を分かってくれない、助けてもくれない、冷たい生き物だと言うことを悟《ったんだ。
人は決して信用してはいけないことを、経験から学びとることが出来たから、今もそれを守っている。
その時、唯一俺の苦しい心を聞いてくれたのが、死んでしまった〈おばあちゃん〉なんだ。
俺は辛いことを聞いて貰って、抱き着いて泣かせて貰ったことを、今でも鮮やかに覚えている。
俺は〈おばあちゃん〉に救われて、今も生かされているんだと思う。
実家には帰らないけど、お寺にあるお墓には毎年欠かさず、お参りに行っている、俺にとり〈おばあちゃん〉はかけがえのない人なんだ。
〈美幸〉から、携帯にデートのお誘いがあった。
今度は動物園に行こうと言ってきた。
係長と金は諦めてもう断ろうと思ったのだが、デートの後に〈美幸〉の家で〈すき焼き〉を食べましょうとも言ってきたんだ。
この前に奢った分を返すつもりなんだとは思うけど、「〈おばあちゃん〉も、すごく楽しみにしています」といやらしい事をつけ足してくる。
ぐぬぬ、俺が〈おばあちゃん〉に弱いことを知って、そこをついてくるとは、卑怯じゃないか。
俺は死んだ〈おばあちゃん〉も、大好きだった〈すき焼き〉を食べるしかないじゃないか。
動物園で俺は猿山をじっと見ている。
猿の世界にも序列があり、その世知辛いことで嫌な気持ちにもなってしまうが、どうしても見てしまうんだ。
群れの中で第一のオスは、他のオスとメスが交尾をしようとすれば怒り狂って引き離すけど、それでもメスは第一のオスの目を盗み、他のオスと交尾をするらしい。
子孫を、遺伝子を残すための知恵なんだろうけど、不倫をする人間も猿と同じなんだと思う。
この前までの俺は第一のオスじゃないのに、結婚という契約をしたメスを奪われようとしていたんだな。
金を得ようとすれば、何かの代償を支払うことになるのは、揺るぎない真理かも知れないな。
邪な金なら、代償はかなりの負を帯びているのだろう。
「お猿さんが好きなんですね」
「そんなことはないよ。 猿と人間は同じだなと思って見ていたんだ」
「うーん、人間はお猿さんよりも、ずっと凶悪だと思いますけど」
そうだよな、〈美幸〉の言うことはもっともだ。
ここの猿は檻に入れられて、著しく制限された環境化でも、必死に生きていると思う。
だけど人間は傲慢にも生きる糧以上に、他の生き物を殺戮しまくっているんだ。
少し飛躍するけど、クズ部長がその典型だ。
結婚という檻に自分から入ったくせに、チョロチョロと抜け出して、悪さをしてやがる。
奥さんがいるのに、俺を出汁にして〈美幸〉と下劣な行為をしようとしているんだ。
それに加担しようとしている〈美幸〉も傲慢なんだろうか。
デートで会っている限り、下劣な女だとはとても思えないが、何を考えてクズ部長と不倫をしているのだろう。
人間って理解出来ないほど、傲慢なんだなと思う。
「私は小さなころ、家族でここへ来たことがあるんだよ。 ライオンに吠えられて、ワンワン泣いたのを覚えているわ」
ワンワンね。
俺は幼い頃の思い出を語り純朴を装う、〈美幸〉をからかってやろうと思った。
「へぇー、可愛い頃もあったんだ」
「あー、ひどいな。 今は可愛くないみたいじゃないですか」
〈美幸〉は傷ついたような、次の言葉を待っているような、複雑な表情になっている。
「ははっ、ごめんよ。 〈美幸〉は可愛いって言うより、今は綺麗になったんだよ」
俺もこんな歯が浮くような台詞が言えるんだ、まやかしの恋人だからだと思う、最初から嘘だから平気なんだな。
直ぐに壊れる砂上の楼閣みたいな関係だから、何を言ったところで、崩れ去って虚無へ帰って行くだけだ。
「もぉ、そんなことを真顔で言わないでよ。 私は綺麗じゃないです」
〈美幸〉は顔を赤くして、俺の次の行動を待っているように、手の平を開いている。
俺はちょっと考えて、〈美幸〉の手を少し強引に握って、また恋人繋ぎにしてみた。
俺はもうガッポリ慰謝料作戦を諦めて、〈美幸〉との関係も今日で終わらせるはずなのに、何をやっているんだ。
〈美幸〉の目が、何かを必死に訴えているように感じたからだと思う。
「あっ、私の手を握ってくれるのですね。 もう離さないでほしいです」
〈美幸〉は寄り添うように俺の顔を見上げながら、ニッコリと微笑んでくる。
そうされると演技だと分かっていても、ドキッとしてしまうじゃないか。
「檻に入っているから、今見るとライオンってそんなに怖くないですね」
当たり前だな、檻に入ってなければ、多くの動物は人間にとって脅威だよ。
アニメで人気が出て野生化したアライグマは、デッカくて凶暴で、ものすごく怖いらしい。
「幼かったから、檻から出てくると思ったんじゃないかな」
「この檻が壊れたりしないと、今の私は信頼しているってことですね」
「まあ、皆そう信じているよ。 その信頼を裏切られることは万に一つもないからね」
「その信頼が裏切られてしまうと、襲われてひどい目に遭うのですね」
「それはそうだな。 その時は上手く攻撃をかわして、僕達が檻に入るしかないな」
「ふふ、逆に檻へ自分達から入るのですか」
「少し壊れていても、何もないよりは檻の中の方がまだ信頼出来るだろう」