モップと杵
〇■☆◆
〈美幸〉が行先も告げずに出かけていった、休日なのに仕事に行くようなパンツスーツでだ。
怪しいな。
浮気をしにいく女が着る服じゃないが、カモフラージュだったらあり得る、高度な擬態だと言えよう。
二日前くらいから〈美幸〉の様子がおかしかったため、俺は昨日の深夜に眠い目をこすりながら、ハンドバックの底を切り裂いて超小型のGPS装置を忍ばせている。
切れ目を瞬間接着剤で張り合わせたため、元通りにはなっていない、浮気じゃなかったら、新しいハンドバックを買ってやるから良いんだ。
頭にはヘッドストラップで小型のカメラを装着している、これで浮気現場をバッチリ撮影して動かぬ証拠をゲットしてやるぜ。
動画だから動くんだけどね。
スマホの画面を頼りに〈美幸〉を追跡すると、ラブホテル街がある駅で降りたぞ。
道行人が俺の頭の方を見て、嫌そうな顔と言うか迷惑そうな顔をしているが、どうしてだろう。
〈美幸〉の浮気を疑っている俺の顔が、醜く歪んでいるのか。
〈美幸〉は駅前で誰かと待ち合わせをしている感じだ。
〈美幸〉に段々と腹が立ってくる、新婚なのに黙って人と会うのか、仮に女性だったとしても夫婦の間にいきなり溝が出来た感じだ。
〈美幸〉は結婚を喜んでいると思っていたが、それは俺の都合の良い勘違いだったのか、嬉しそうなのは表面だけで、裏ではお目出度い野郎だと俺をバカにしているのだろう。
そして待ち合わせの相手は、やっぱりと言うか、そうじゃなければ良いと思っていた〈クズ部長〉だった。
俺は事前に準備をしていたくせに、カッと頭に血が昇り、目の前に紅蓮の炎が轟々と燃え盛った状態へ陥ってしまう。
〈美幸〉のことをほとんど信じていたのに、一生連れ添う伴侶になれそうだと信頼するところだったんだぞ。
それを直ぐに裏切りやがって、想像と現実は別もんだな、胸が痛いほど憎しみが湧き上がってくる。
結婚なんかするんじゃなかった。
〈クズ部長〉もそうだが、俺を騙して嘲笑っている〈美幸〉を絶対に許せない、必ず復讐を果たす。
俺をコケにした報いを、後悔と絶望の中で思い知れば良い。
騙されたフリをして結婚したんだ、不倫の慰謝料をたんまり盗ってやる。
それプラス、会社にねじ込んで社会的にもただじゃおかないぞ、俺が恥をかくとしても徹底的に追い詰めてやる。
〈これから楽しい不倫をするぞ〉と、仲良く並んで歩く二人の後を、俺は憤怒の湯気をモクモクと上げながら追っていたと思う。
そんなになっているのに良く見つからなかったものだ、不倫をする嬉しさで周りが全く見えないのだろう、それほど二人だけの世界へ入り込んでいるんだな。
俺の怒りは頂点だ、怒りMAXだ、頭の中がグツグツと茹っている。
俺が歩くと道沿いからも、熱くて白い蒸気がモクモクと噴き出してくるくらいだ。
「おい、兄ちゃん、見たことがある顔だな。 店の新装開店に駆けつけてくれたのか。 わざわざ動画を撮ってくるんだな、ありがたいことだよ」
急に声をかけて来たのは、俺がボーナスの度に豪遊している焼き肉屋の大将だ。
どうも前の雑居ビルから、新しい飲食店ビルへ店を移したらしい、俺はボーナスの後しか行かないから新装開店なんか知っているはずがない。
俺の顔を覚えているのは素直にすごいと思う、さすがは長く客商売を続けてきただけの事はあるな、かなりの自己中ではあるけど。
「急いでいるんだ」
「えっ、そうなのか。 故郷の風習で餅まきをするんだよ。 縁起が良いから、お兄ちゃんも搗いてみないか」
大将が餅つきの杵を俺に渡そうとしてきたが、〈付き合っていられるか〉と冷たく無視をしてスタスタと歩き出す。
俺は今怒っているし浮気を追跡しているんだ、悠長に餅つきをしている場合じゃない。
ちょっとした邪魔が入り二人を見失ってしまったが、何の心配もいらない、GPSを見る必要もない、行きつく先は例のラブホテルに決まっている。
ラブホテルへ入った俺を、掃除のおばあちゃんが待ち構えていた。
一人で入ったため文句を言われると身構えたが、摩訶不思議な事を言い出し始める。
「早くおしよ。 〈あんた〉はあの娘の彼氏なんだろう。 〈あんた〉が不甲斐ないからさ、悪党に付け込まれちぃまったんだよ。 本当に愚図でのろまだね」
「はぁ、何を早くするんだ」
「屁みたいな事を言うんじゃない。 あんなに決意を込めた顔を、葵さんはここで初めて見たよ、泣かせるじゃないか。 ラブホテル掃除歴五十年の〈葵さん〉だから、こいつは普通の不倫じゃなくねぇって、ピーンと来たってわけ。 案内してやるからさ、救っておやりよ」
茫然としている俺の手に、〈葵さん〉は掃除用具のモップを持たせてグイグイと引っ張り、ある部屋の扉の前まで連れてきた。
〈葵さん〉と俺は正真正銘初対面だが、モップの使い方としてはどうなのかと言ってやりたくなる。
「この部屋だよ」
「鍵は」
「人に頼りぱっなしの情けない男だね、知るか。 自分で何とかおしよ」
そう言い残して、〈葵さん〉は違う部屋に入っていった、行為が終わった後の部屋の掃除をするのだろう。
俺は試しに扉のノブを回してみるが、やっぱり鍵がかかっている、当然だな。
俺はうーんとちょっぴり考えた後、ピカッとひらめいてしまった、天才奇才である。
全速力で新装開店の店まで戻り、大将がペッタンと搗いていた杵を「拝借つかまつる」と強奪して、また全速力で走り出した。
「おーい、待ってくれ。 俺の故郷では杵を持って走らないんだよー」
ラボホテルの廊下を全速力で走り抜け、何も躊躇すること無く、あの部屋の扉に、
― ドーン ―
と思い切り杵を打ちつけてやった。
ラボホテルがビリビリと震え、倒壊する幻視が出来るほどのインパクトだ。
だがしかし、敵のラボホテルの扉もさるもの、無駄に丈夫に出来ている。
俺は「ちくしょう」と叫びながら、もう一回杵を叩きつけた。
―ドガァ―
扉の蝶番がギシリと音を立てたがまだ壊れない。
俺は口から、泡と一緒に呪詛の言葉を吐き出す。
「ちくしょう、絶対に許さないぞ」
もう一回だ。
「クズ部長」と罵りながら叩きつける。
―ドガァ―
扉の装飾部分が粉砕されて、茶色い紙吹雪の様に俺の周りを舞っている。
俺は口から、木屑と一緒に〈クズ部長〉への宣戦を吐き出す。
「クズ部長、てめぇの思い通りにさせるか」
さらにもう一回だ。
―ドガガァ―
扉の中央に裂け目が出来て部屋の中から光が零れてくる、紙吹雪はさらに増加して猛吹雪みたいだ。
あははっ、みんな壊れてしまえ。
再びもう一回だ。
―ドガガァン―
調子が出てきたぞ。
扉がベリベリと大きな音を立てて裂け目を大きくてしている、部屋の中から「ヒィー」と汚らしい悲鳴が聞こえてきた。
心をイラつかせる五月蠅い声だ、黙らせてやろう。
―ドガガァン― ―ドガガァン― ―ドガガァン―
俺は《美幸》と叫びながら扉を杵で乱打してやる。
―ドガガァン― ―ドガガァン― ―ドガガァン―
全力攻撃を食らえやがれだ。
裂け目は叩きつける度に大きさを増し、もう人が通れるほどになっている、それでも俺は止まらない。
―ドガガァン― ―ドガガァン― ―ドガガァン―
このラボホテルの扉を完全に破壊するまでは、
―ドガガァン― ―ドガガァン― ―ドガガァン―
俺の衝動が薄まることはあり得ない。
ついに扉は俺と杵の前に、完全屈服したんだろう、跡形も無い状態だ。
部屋に入れれば良いだけで、これほど破壊する必要があったのかと問われれば、否と答えるだろう、だがそれがどうした。
俺は《美幸》と怒鳴りながら、扉があった場所を通り超然と部屋に入っていく、《美幸》の浮気現場を押さえて裏切りの代償をキッチリ払ってもらうつもりだった。
〈クズ部長〉にも、ゲスな計画の報いをガッツリ払ってもらう気満々だった。
「あぁ、願いが〈あなた〉に届いたんだ。 私を助けに来てくれたのね」
「えっ」
あれ、想像してた反応とかなり違うよ、えっ、あれれ、おかしいな。
「うぅ、〈あなた〉はやっぱり私のヒーローだったんだ。 絶体絶命のピンチから救い出してくれたわ」
《美幸》は両手両足を器用に使い、ヒシっと俺に抱き着いてきた、涙を流しながらも、嬉しそうに俺の胸へ顔を埋めているぞ。
浮気現場へ踏み込まれた妻が、決してとるべき態度ではない、俺が混乱してしまうじゃないか。
俺が助けに来たみたいに言っているよ、お芝居なのか、ヒーローごっこをしていたのか。
《美幸》はベージュ色のおばさんが身に着けるような、一体型の下着姿で、おまけに鼻血で顔が真っ赤になっている。
髪の毛もぐちゃぐちゃだし、頬も赤く腫れているように見える。
〈クズ部長〉に襲われたようにしか見えない。
〈クズ部長〉はまだ服を着たままで、手にはスマホを持ち尻もちをついた情けない格好をしている、股間が濡れているのは杵の恐怖でちびったんだな、やっぱり最低最悪のゲス野郎だ。
〈美幸〉は下着姿でおっぱいを片方出してはいるけど、やっぱり浮気現場とは違っているように思える。
俺は無意識に、むき出しになっているおっぱいを押さえながら、〈美幸〉に何があったのかを聞いてみることにした。
「うわぁん、黙っててごめんなさい。 〈クズ〉に脅されていたの」
かぁー、〈クズ部長〉に脅されていたのか、いかにもやりそうな事だ。
真偽のほどは分からないが、〈クズ部長〉なら違っていても良いだろう、〈クズ〉だからな。
俺はまだ興奮していたんだろう、杵を大きく振りかぶり、〈クズ部長〉の股間を目掛けて思い切り振り杵を下ろした。
〈クズ部長〉はまた「ヒィー」と悲鳴を上げて、チョロチョロとまたチビッていやがる、汚物そのものだな。
あははっ、粉砕されろ。
〈クズ部長〉の股間はラボホテルの扉より、数段丈夫さでは劣るから、この一撃で粉砕出来るな、良い事をすると気持ちが晴やかになる。
― ガシャン ―
うわぁ、しまった、杵が折れてしまったぞ。
真っ赤な夕日とまだ青い空が織りなす、外の景色が見えてしまっている。
俺の手には三十センチくらいの棒が残っているだけだ、杵の本体は窓ガラスを粉砕してしまったらしい、杵を本来の目的以外で酷使したつけが今回ってきたんだ。
うわぁ、杵とガラスを弁償しなくてはいけない、これは高くつくな。
俺は大きな負債を抱えた衝撃で、目の前が真っ暗になってしまい、足がふらついてしまった。
そこに〈美幸〉が俺にヒシっと抱き着いているんだ、もう倒れるしかない。
「きゃー、〈あなた〉許して。 あんまりよ」
〈美幸〉は悲鳴を上げているがもう止まんない、俺は〈美幸〉を守るため当然手をついたのだが、二人分の体重を支えるのは少し無理だった、哀れ〈美幸〉は〈クズ部長〉の濡れ濡れの股間に後頭部をぶつけてしまった。
「ピチ、キュウ」
変な音がして〈クズ部長〉は、「痛い」「死ぬ」と泣き喚き股間を押さえて七転八倒している。
偶然転がった先が浴室だったため、そこへ逃げ込んだようだ、追撃があると思ったんだろう。
「あたたた、よくもやってくれたな。 お前達は絶対に許さないぞ」
「ギャー、汚い。 浴室から出なさいよ。 頭が洗えないでしょう」
〈美幸〉の後頭部には、〈クズ部長〉のしょんべんがついてしまったから、それは悲鳴を上げるよな、気持ちは大いに分かる。
だから俺はトイレの手洗いで濡らしたシーツで、〈美幸〉の後頭部を拭いてあげることにした、〈クズ部長〉のしょんべんがついた頭で抱き着かれるのは、ご勘弁願いたい。
ついでに鼻血も拭いてあげた、〈葵さん〉が怒ってモップで俺をバシバシとしばく未来が幻視で出来るけど、ものの勢いってやつだ。
「本当にありがとう。 私は〈あなた〉に救われました」
〈クズ部長〉のしょんべんは、死ぬほど嫌だったんだろうな。
ついでに、零れているおっぱいをベージュ色の下着の中へ、ムニュッと収納してあげた。
少し揉んでから収納したのは、おっぱいへの敬意だと思ってほしい。
「あっ、触ってくれたのね。 〈クズ〉に汚された箇所が、浄化されていくわ」
〈クズ部長〉のしょんべんの匂いは強烈だから、家に帰って徹底的に洗わないと取れないと思うぞ、濡れた布で拭いただけでは心もとないな。




