金とおばあちゃん
〇■☆◆
いつものように業務を淡々とこなし、〈今日も平常運転だったな〉と帰り支度していた時に、〈町田部長〉から話があると言われた。
あぁ、あれか。
俺に不倫現場を見られたので、口止めをしようとしているんだろう。
俺は煩わしい事に関わりたくないから、誰にも言うつもりはないのにな。
「君はまだ独身だったな。 恋人もいないのだろう」
はぁ、なんだコイツは。
年下で会社の部下と言っても、この言い方は失礼すぎるぞ。
こんな上からの目線で話をするから、皆に嫌われるんだよ。
そのくせ、上には見え見えの胡麻をすりやがる、本当に嫌なヤツだ。
「はぁ、まあそうですけど」
「気の抜けた返事だな、まあ今は良い。 そんな君に女性を紹介してあげようと思っているんだ。 良い娘なんだよ」
えぇー、口止めじゃないのか。
不倫現場を見られたことに気づいていないのか、ふん、どうせやることしか考えて無かったんだな。
それにしてもだ、〈町田部長〉とは仕事の話しかしたことがないぞ
仕事以外のことは、親睦会でちょこっと話をしたくらいだ、それで紹介するってあり得ないだろう。
それに俺はそれほど優秀でもないし、会社でちょっと孤立気味の目立たない男だ。
自分で言うのもなんだけど、結婚相手としてはいかがなものかと思う。
「えっ、部長の紹介ですか」
「そうだよ。 君は真面目だから、真面目な娘が合うと思ってな。 前にいた経理部の〈美幸〉君なんだ。 大人しい娘だから、嫁としては最高だよ」
おぉ、俺に不倫相手を押し付けるつもりなんだ。
だからか。
優秀じゃなくてどうでも良い俺に、紹介しようとしているんだろう。
それとも単に、今の部署で女性と付き合っていない若い男が、俺しかいないのかも知れない。
今の部署も世間と同じで高齢化が進んでいるし、入ったヤツも若いうちに転職してしまうからな。
同業他社の方のが給与等の条件が良いらしい、俺も一度真剣に検討する必要があるな。
「はぁ、私はまだ結婚する気はありませんよ」
「また〈はぁ〉か、君は覇気がない男だな。 相手も選ぶ権利があるんだから、まだ結婚は決まってはいないぞ。 当たり前だけど、しばらく付き合ってからだ」
けっ、あんたが〈嫁としては最高だ〉と言ったから、こう返事をしたんだ、バカじゃないのか、このコネコネ野郎。
「はぁ、好きでもない相手と付き合うのは、ちょと」
「〈美幸〉君に君のことを話したら、以前から気になっていた男性ですって言ってたぞ。 君のことを好きになってくれる女なんて、この先一生待っても現れるはずがないじゃないか。 〈美幸〉君はもう了解しているから、一度だけでも会ってやれよ。 それに君の同期は係長になったから、君もそろそろだと思っているんだろう。 所帯を持って責任感が上がったら、僕が口添えをしてやるよ」
この僕野郎が、また失礼な事を言いやがったな。
でも係長か。
これはチャンスなんじゃないか。
「分かりました。 部長の顔たてて一回は会ってみます」
「おっ、分かってくれたか、このメモは〈美幸〉君の携帯の番号だ。 後は若い二人でよろしくやってくれたまえ。 ヒヒィ」
〈町田部長〉は「ヒィヒィ」とマントヒヒみたいに薄笑いをしながら、俺の前から消えてくれた。
〈美幸〉君の男の好みは独特だな、どうしてこんな下衆なマントヒヒが良いんだ。
変わった女だな。
あっ、金か。
〈町田部長〉は、〈美幸〉君の金づるなんだな。
それならよーく分かる。
俺もこの紹介を受けたのは、金のことだけだ。
係長に昇進すると世間の評価も上がり、転職が有利になると思ったんだ。
まあ、転職しなくても給与は結構増えるらしい。
仕事は普通に出来るのだが、俺は会社の人達と最低限のコミュニケーションしかとらないから、昇進はかなり厳しいと思っている。
協調性がないと評価されているだろう、違うとは自分自身でも反論しようがない事実だ。
それに、このマントヒヒ部長は結婚した後でも、〈美幸〉君と不倫を続けるだろうから、慰謝料をたんまりと盗れるぞ。
不倫がバレたら身の破滅だからな、脅せば数百万円は固いと思う。
〈美幸〉君の方からも、百万円くらいはいけるんじゃないのかな。
金はあればあっただけ良いもんだ。
俺は昼食も、金のことだけを考えて、業者の配食弁当を頼んでいるくらいだ。
理由はもちろん、節約して貯金をするためだ、金は信用出来るものだからな、投資は信用出来ないからやってない。
配食弁当は冷たくて安くてマズイため、ローンに追いまくられている既婚の社畜の人しか頼んでいないものだ。
金をある程度自由に使える独身者が、食べるような代物じゃないと思う。
油で揚げた物が多いし、栄養も大いに偏っていると思う。
だけど俺は毎日飽きもせずに、黙ってそれを咀嚼している。
いや、〈飽きもせず〉じゃない、飽き飽きとしているし、最初に食べた時に〈なんてマズイんだ〉と言いそうになったぐらいだ。
それじゃ違う物を食べれば良いと誰かに言われそうだけど、俺は値段が高い物を食べる気がしない、かなり抵抗があるんだ。
俺は金だけを信じて、他人はとてもじゃないが信用することが出来ない、割り切った考えをする男だ。
だから会社には親しい人は誰もいない。
それどころか会社以外にも誰もいないし、両親や兄とも疎遠で、もう何年も実家に帰ったこともないが、それを淋しいと思ったこともない。
それにしても、俺と結婚するつもりになっている、〈美幸〉君の意図がちょっと読めないな。
〈町田部長〉は下衆なマントヒヒだから、俺から嫁を疑似で〈寝取る〉と言う下劣なプレイを夢見ているはずだけど、〈美幸〉君にはどんなメリットがあるんだ。
やっぱり金だとは思うが、好きでもない俺と結婚する対価に見合うほどの、大金を〈町田部長〉が用意出来るとも思えない。
〈美幸〉君には浮気願望があるのか、弱みでも握られているのか。
経理部を良い事に、まさか会社の金をちょろまかしていないよな。
そうなら結婚するのはリスクがあり過ぎる、俺まで犯罪者扱いされてしまう可能性が出てくるぞ。
〇■☆◆
くっ、また〈町田部長〉からメッセージが届いた。
よく理解出ないことが書いてある、〈営業部の人と結婚しろ〉と書いてある。
なにこれ。
無茶苦茶を言ってきた。
相手の男性の顔は、見たことがある程度で、ほとんど話したことが無い人だ。
いくらなんでも、結婚は命令されてするものじゃない。
〈クズ部長〉は女としての私に興味を失って、今度は私を玩具にして笑うつもりなんだ。
たけど、ラブホテルに引っ張り込まれて、侮辱されながら抱かれるよりは、まだマシかも知れないな。
それにしても、相手がその気にならないとどうしようもないことだから、私がそうしますって言っても始まらないよ。
私は〈クズ部長〉に侮蔑されたように、どちらかと言えば自分でもブスだと思う。
〈背を丸めて暗い顔をしているのがよくない〉、〈あぁ、もう。鏡を見て何とかしなよ〉って良く言われるけど、出来ないんだからしょうがないじゃないの。
職場の先輩にも、〈陰気で面白味が無い〉って言われたこともある。
相手の人はイケメンじゃなくて平凡な顔だと思う、そしてすごい無口でまるで愛想が無い人だから、女子からの評判は決して高くはない。
悪口みたいで悪いけど、最低に近い評価だ。
だからこんな私でも、しょうがないって妥協する可能性はちょっぴりあるとは思うけど、やっぱり私なんかとはしたくないはずだ。
〈容姿は良くない〉、〈一緒に居ても楽しくない〉、〈お金を持っていない〉と三拍子揃っているからね。
それと私にとっては、とても大切な〈おばあちゃん〉を、邪魔だと思う人もいるかも知れない。
私は恋人になっても、奥さんになっても、〈おばあちゃん〉が最優先なのは絶対に変わらないからね。
それにしたって、自分から男性にアプローチするなんて私にはとうてい無理だよ。
今まで、男性と一回もお付き合いしたことが無いんだ。
命令されても、どうすれば良いの。
〈クズ部長〉に私には無理ですと返事を返したら、動画をバラ撒くとまた脅されて、色仕掛けで迫れとメッセージが返ってきた。
胸を強調する服とミニスカートでデートに行けと書いてある。
はぁ、そんな服を持っているはずがないよ、そんな服は恥かし過ぎてとてもじゃないけど着られないよ。
それに、いやらしい服を買うために貴重なお金を使うのは、とても辛いな。
安そうなお店を考えていた時に、ふと、どうしてと考えてしまう、〈クズ部長〉はその人と私をなぜ結婚させたいのだろう。
相手の人は、十中八九〈クズ部長〉の手下に違いない。
あの〈クズ部長〉のことだから、どうせひどいことを企んでいるに決まっている。
二人で私を玩具にして、いやらしいことをして笑い者にするつもりなんだ。
色んなことを犠牲にして、私を育ててくれた〈おばあちゃん〉まで、笑い者にされたらどうしよう。
クズと手下が、もしも〈おばあちゃん〉を笑ったら、昨日買ってきたこのナイフで私が刺してやろう。
〈おばあちゃん〉は、きっと悲しむと思うけど、私がもう持たないよ。