階段と踏み台
そうだ、私も先輩のように乗れば良いんだわ。
スカートなら、高校生の時に憧れていた先輩のように、股は開かないでお上品に乗るべきだ。
彼氏の自転車で下校する時に、先輩はちょこんと横に座って足を綺麗に揃えていたぞ。
自転車に〈横座り〉で乗って、私は彼の腰へヒシっと抱き着いた。
右の胸が彼の背中へ当たっているのは、落ちないためだからしょうがないんだ、変な意図は持っていないよ。
ふふっ、憧れていた先輩も、彼氏へこんなに密着していなかったな、へへっ、私が大人になって、やっと高校時代の先輩を超えた瞬間だよ。
彼のアパートはかなり古いように感じる、そしてとても不便だ、急な階段を五階まで昇る必要がある。
彼と一緒になればこりゃ大変だな、〈これを毎日昇るのは辛いな〉と、勝手な心配をしてしまうほどの段数があるよ。
彼は下着が見えないように、直ぐ後ろにいてくれている。
私が頼んだら直ぐそうしてくれたんだ、小さな事だけど、守られているようで心が温かくなってしまう。
ふぅー、だけどキツイな。
五階までの急な階段は、私にとっては軽い登山並みの運動だよ。
案の定、踏み板が狭いこともあり、四階くらいで足が引っ掛って手をついてしまった。
私は「きゃー」と悲鳴をあげてしまったの。
彼は直ぐに私を後ろから、抱き起してくれたわ。
だけどその動作は、後ろから抱かれて胸を掴まれた形になってしまったんだ。
私は「きゃっ」と、さっきよりは小さいけど、また悲鳴をあげてしまった。
わざとじゃないと思うけど、後ろから胸を掴まれたら、声が出るのは仕方がないよね。
彼の手の感触が胸に甘く残り、何とも言えない感情が体の奥に生まれた、私はその感情を持て余しそうになる。
クズに触られたのとは、全く違った感情だ、触られても嫌じゃないんだ。
くっ、クズは人じゃないケダモノだ、だから、まともな人である彼と比べるのはおかしいこと、彼にとても失礼だわ。
クズのことを考えてはいけない。
「お邪魔します」と言いながら私は彼の部屋に入っていく、ドキドキするし甘酸っぱい気持ちにもなるわ、彼女である私が彼氏の部屋を訪れた瞬間なんだ。
私にとっては歴史的な快挙に間違いない。
ほんの一月前には想像すら出来なかったこと、展開が早過ぎるわ、私はこの先どうなってしまうのだろう。
玄関で靴を脱ぎ部屋に一歩足を踏み入れれば、高揚感と一緒に、なぜか違和感を覚えてしまう。
「綺麗にしているんですね。 って言うか物がほとんど無いです」
違和感の正体は、ガランとした殺風景なリビングにあった。
私の家の居間より大きいのに、家具が無い、圧倒的に何にも無い、寒々とした空白が空間を占めているだけ。
私の彼は、薄々分かっていたけど、ちょっと変わった人なんだ。
「シンプルイズベストだろう」
はぁ、シンプルだとは強く思うけど、ベストだとはとても思えないよ。
テーブルもなくて、どこでご飯を食べているのよ、呆れるわ。
パソコン用の椅子に座れと言うけど、〈あなた〉は一体どこに座るのよ。
もっと呆れた、踏み台に座っているわ。
「えぇー、それは踏み台じゃないのですか」
「〈ハイステップチェア〉って言う優れものなんだよ」
どうして〈優れもの〉なのか、全然わかんない。
普通に椅子かソファーを買えば良いだけじゃないの。
寒いほどスペースはあるし、無理をしなくても椅子を買えるお給料を貰っていることは、私経理だから知っているよ。
はぁー。
まあ、良いか。
良い事もあるな。
ここで住むことになったら、私の趣味で家具を買いそろえれば良いだけのことだ。
ふふっ、将来のことはおいおい考えましょう。
それより、この後の事が大切なんだ。
「掃除用具を忘れてしまいました」
私はわざとらしく頭を抱えて見せている、でもこれは演技なんだ、初めから掃除用具を持ってくる気はなかった、それはそうでしょう。
箒やバケツやちり取りを、電車で持ってくる勇気は、私には備わってはいない。
雑巾や洗剤くらいなら持ってこれるけど、彼の部屋へ初めて行くのに、持ってくる気にはなれない。
雑巾には、ロマンティックさの欠片もないんだから。
要は〈掃除します〉は、その場限りの言訳だったんだ。
彼は全く気にすることもなく、ペットボトルのお茶を渡してくれたわ、ふふっ、私達って以心伝心だね。
ざっと見たところ、掃除は行き届いているみたい、だから私がする意味が無いとも思うから、何も問題はないんだ。
ただ問題はあった、彼が冷蔵庫を開けた刹那、素早く中を確認した私に衝撃が走る。
「食材が何も入っていない」
私の目論見は、カラカラと音を立てて崩れ去ってしまった。
冷蔵庫の余り物で、パパパッと夕ご飯を作るつもりだったんだ。
余り物で、そこそこのおかずを作るが私の特技だから、それを披露して褒めて貰うつもりだったんだ。
ガックリ、浅墓だったと思う。
私は一人暮らしの男性の生態を、なんにも分かっていなかったんだ。
彼が常食にしているであろう、カップラーメンを、互いの額がくっつきそうな距離で食べている。
いかにも彼と彼女の関係らしい、こんな食事も悪くはないけど、この人には私がちゃんとした食事を作ってあげなきゃと改めて決意をする。
カップラーメンやコンビニ弁当では、味気ないし病気になってしまうよ。
私の愛情がこもったご飯を、毎日食べさせたいな。
汚れを見つけたシンクを、どうでも良いやり取りの後、ピンクの可愛いエプロンをつけて、私はお掃除しだした。
このエプロンは、あまりにも新婚の奥さんじみているので、違うものにしようと思ったんだ、でも鞄にちゃっかりと入っていたよ。
どうしてだか、わかんない。
いいえ、簡単に分かるよ、生まれて初めて彼氏が出来たので、私は舞い上がっていたんだ。
手に持った〈怖いほど落ちるさん〉は、名前と違いごく普通のメラミンスポンジだから、ゴシゴシ磨く必要がある。
本当はシンクをメラミンスポンジで磨いてはいけないのだけど、クエン酸や重曹も洗剤も無いのだから、今はどうしようもない。
次は朝から来て、洗剤や普通のスポンジを近くのスーパーへ買いに行こう。




