無月の夜
痛い!
痛い!
頭が…痛い!
奇妙な夢が突然ガラスのように砕け散った。東雲太一は、まるで野球バットで強打されたかのような激しい頭痛に襲われた。いや、それよりも、鈍い刃物で頭を生きたまま切り裂かれるような感覚に近い。
目を開けたい…体を起こしたい…頭が割れそうだ…でも、動けない。体が…動かない…。
なんだこの悪夢は?これは明晰夢じゃないのか?なんでまだ目が覚めないんだ?
私はうつ伏せで寝てるのか?心臓が圧迫されてる?それにしても、このベッド…硬すぎだろ…。
「早く……起きろ……」
冷たい、感情のない声が太一の頭の中に響く。
私だって起きたいさ。明日…いや、もう今日か。開校初日だし、市内でも有名な私立学校だ。初日から病人みたいな顔して登校したくないぞ。
「まだ、起きないのか!」
冷たい声が再び響き、今度は焦りを含んでいた。そして、雷鳴のように鐘の音が鳴り響いた。
「ゴォォォォン……!」
その瞬間、太一の重い体がふっと軽くなった。まるでその鐘の音と呼応するかのように、眉間に暖かい感覚が広がっていく。
鐘の音に合わせて、その暖かさは全身に伝わり、ついに目を開けることができた。
視界はぼやけていたが、次第に淡い光が目に映り込む。自分が鐘楼の下に横たわっているのがわかった。耳元では、水が静かに揺れる音や、鐘の音に驚いた生き物たちが逃げ惑う気配が感じられた。まるで世界全体が一瞬息を潜めたかのような静けさが漂っていた。
「見慣れない天井……なんで私、外で寝てるんだ!?夢遊病か?」
太一は力を振り絞り、体を起こし、顔をこすって意識をはっきりさせようとした。だが、手に触れた感覚は、どこかで感じたことのある粘り気だった。
「……血?」
驚いて手のひらを見ると、そこには生々しい赤い液体がべっとりとついていた。
頭が真っ白になり、指先が震える。何が起きているのか理解できず、ふらりと水面に目をやった。
水面には、自分の顔が映っていた。しかし、その顔には鮮血がこびりつき、口元から耳まで大きく裂けた恐ろしい傷跡が浮かんでいた。
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「大特価……」「今すぐ会員になって……」「特別ご招待!」
さっきまでおばあさんたちと争ってゲットした50%オフの牛豚肉を袋にしまい、時計を見るとすでに21時を回っていた。
仕方ない。太一はできるだけ安く済ませるため、閉店直前のタイミングを狙って半額の肉を手に入れるのが日課になっていた。ここは家から遠いが、バイト代で電車賃を払ってくれるので、結局お得なのだ。
「珍しいスーパームーンが春に現れるが、残念ながら最近の濃霧のため、都内では観測できない模様です……」
「大人気の霊能者!一ヶ月で10件の憑依を解決!」
……
『うーん、学食が安いって聞いたし、夕飯だけ自炊すれば、冷凍したらちょうど一週間分だな』
道を歩きながら、太一は次の一週間の食生活をどうするか考えていた。
改札を抜け、春の少し冷たい風を感じながら、周りの雑多な情報を耳に拾っていく。
「聞いたか?最近また学校で噂が広がってるんだって」
「どうせまた、あの退屈な連中が作り上げた話だろう……」
……
このスーパーは駅に近くて便利だし、何より割引が強烈だ。さらに、周りには人が多いので、いろんな噂話や情報が飛び交っている。
生きている実感がある。
「キャアアア!」
突然の悲鳴が響き、太一は我に返った。どうやら改札口の方からだ。
電車が到着し、太一が乗り込もうとしたその瞬間、騒ぎはさらに大きくなっていた。
『……とりあえず、肉をすぐ冷凍するから。ちょっとくらいなら大丈夫だろ』
改札の方では、何人かの女性が怯えた様子で固まっていた。そのそばには、顔中血だらけの男性が倒れていた。駅員が残りの人々を落ち着かせながら、倒れた男性に応急処置を施している。すぐに警官も駆けつけ、事情を聞き始めた。
「私、わかんない……整形しちゃった!私が悪いんです!」
突然、女性が大声で叫び、その場で気を失ってしまった。場はさらに混乱し、群集がパニック状態に陥りかけたが、すぐに副官の女性警察官が冷静に指示を出し、人々を落ち着かせた。
しばらくして、人々がようやく落ち着きを取り戻すと、もう一人の女性が事の経緯を語り始めた。
「私たち、夫と一緒に改札を通ったんです。そしたら、マスクをした女の人に呼び止められて……その人、夫に聞いたんです。『私、きれい?』って。夫は、少し私を見てから『きれいだ』って答えました」
「その瞬間、彼女はゆっくりとマスクを外して……その顔は、私と全く同じだったんです!」
女性はその恐ろしい光景を思い出し、再び息が荒くなった。
「私、驚いて叫んでしまいました。夫も呆然としていました。すると、その女の人が『きれいなら、なんで私が整形しなきゃいけないんだよ!?』って叫んで、夫に飛びかかってきたんです」
「裂け女!あの女、口がすごく大きく裂けていて……」
突然、女性は椅子から立ち上がり、髪を引っ張りながら歩き回った。
「彼女、ハサミで夫の口を無理やりこじ開けて……そのまま舌を切り落としたんです!」
女性の言葉に場が凍りつく。警官はすぐに彼女をなだめ、他の女性たちにも確認を取った。
『裂け女が彼らの姿をして現れて、夫たちを襲ったってことか?』
その場に居ても、これ以上の情報は得られないと判断した太一は、駅のホームに戻り、電車に乗り込んだ。
『裂け女が実在するかは別として、これは伝説とは全然違う話じゃないか?それに、こんな人目のある場所で?監視カメラが普及してから、都市伝説とか怪異事件は激減しているってのに、こんな派手な事件が目の前で起こるなんて?』
考え込んでいるうちに、太一は視界の端に鋭い光を感じた。鋭い刃物が自分に向かってくるのが見えたのだ。
思考が追いつく前に、冷や汗が背筋を伝い、太一は反射的に前に飛び出した。
だが、何もなかった。
電車の音だけ
突然、車両の灯りがすべて消えた!暗闇の中、太一はまるで蜘蛛の巣に引っかかった獲物のような感覚に襲われた。一瞬でも油断すれば、命を落とすような不吉な気配が全身に広がる。
太一は身動きせず、隣の車両から漏れるわずかな灯りを頼りに周囲を見渡す。だが、何も起きなかった。次の駅に着き、スタッフが問題を発見し、電力が復旧するまでの間、何事もなかったかのように時間が過ぎていった。
そうして、太一は無事に目的の駅へと到着した。
『こんなにあっさり終わるのか?整形もしてないし、誰かをけしかけたわけでもない。裂け女がどうして私を襲ったのかも分からないが、まさかこれで終わりなのか?あんなに派手に手を出してきたのに……』
一連の出来事に疑問を抱きながら、太一は買った肉を提げ、周囲に注意を払いつつも慎重に駅を出た。
『あれだけのことがあったせいか、体が妙に重い。たったこれだけの荷物なのに、まるで全身の力が抜けた感じだ。帰ったら早く休もう……』
太一は荷物を提げて疲れた様子で街を歩いていた。だが、彼は気づかなかった。道行く人々が恐怖の目で彼を避けるように歩き、ショーウィンドウに映る自分の姿を――そこには、徐々に裂け始める口元と、顎を伝う血が無言で滴り落ちていたのだ。