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ゼロ戦、撃墜ス

 1939年、関白総理大臣近衛文麿は、第二次世界大戦勃発にもあまり関心を示していなかった。

 当時の日本は好景気もあって国外の事に対する関心が薄かったというのも大きかったと言われているが、憲法に規定の無い関白という令外官に就く身としては、とても相応しい態度ではなかったと、誰もが口を揃えて指摘している。


 そんな情勢であった為、盧溝橋事件より続く対中紛争への関心も薄く、この紛争に対して米英が批難している事への反応も軽く済ませるほどだった。


 その頃、近衛は軍の兵器開発や導入へかなり事細かく介入し、兵器行政の混乱を招いている。戦後、彼が東京裁判で裁かれた以外にも、多くの歴史家、作家、そして戦記小説の読者から糾弾されるのが、この頃、近衛が執拗に行っていた兵器行政への介入行為である。

 中には、「近衛は戦争犯罪などと軽い話ではなく、国家戦犯として日本が自ら裁くべきであった」との声が挙がるほどだ。


 それは先の戦艦建造中止や自社の為に戦車砲を強引に変更しただけには留まらない。

 この頃開発が行われていた一二試艦戦の開発にも介入し、三菱で行われていた開発を中島に変更するように迫ったり、一四試局戦と陸軍のキ44の統合を迫るなど、当時の軍事行政を無視した傍若無人なものだった。


 陸海軍も好調な経済から国民やメディアの支持を集める関白の権力を跳ね除ける力もこの頃には無くなり、下手に反発すれば国民やメディアからの批判に晒されるほどだった。

 そうした状況の中、海軍と三菱は近衛に対して新型艦戦開発の必要性を説くが、逆にまったく異なる要求仕様を突き付け、最後には主任設計士である堀越技士を外せとまで迫ったりしている。


 この様な混乱によって開発は遅々として進まず、局地戦闘機に関しては、近衛の主張通りにキ44の海軍仕様を中島に指示する事態を招いている。

 しかし、だからといって彼が企業としての中島や創業者であり政治家であった中島知久平と何らかの利益関係にあったかというと、それらしき痕跡は当時も今も発見されていない。なぜ、そこまで一二試艦戦や一四試局戦の開発変更に固執したのか、その理由は謎とされている。

 もちろん、局地戦闘機開発を受けた中島から近衛に何らかの利益供与などがあった痕跡もなく、単に近衛から中島に対して感謝状が渡されただけであった。


 こうして流産の憂き目にあった一二試艦戦に代わって急遽策定された一四試艦戦の要求仕様は近衛の意見が強く反映され、発動機は三菱の金星、武装はこれまた陸海軍を巻き込む大論争を強引にねじ伏せ、近衛が決めた米国製M2機関砲4門、時速300ノット(約555Km)とされ、開発期間も短いものだった。


 こうして生まれた一式艦戦の能力は、当時の並であり、特に特筆すべきものはない。米海軍艦戦F4Fと互角程度であった。よく比較される一二試艦戦であれば、より高性能であったと言われるだけに、近衛による介入はヒトラーによって混乱を来したドイツと比較される事が多く、より悪いとさえ云われている。

 

 とくに一二試艦戦が実用化されていれば、対フィリピン戦は空母を使わず行えた可能性を指摘する海軍関係者も多く、架空戦記においては、一二試艦戦が実用化した世界を描き、日本が東南アジアを瞬く間に席巻する描写が多数存在している。残念ながら、一式艦戦は開発に時間も掛けられず、陸軍の一式戦闘機とさほど変わらない航続距離に落ち着いている為、その様な長駆侵攻など望むべくもなかったが。 


 ただ、近衛の介入が全て悪いものであったかというと、そうとは限らない。

 電波兵器開発に早くから興味を示した彼は米国企業からレーダー装置一式の購入まで行い、陸海軍共同での開発を推進している。

 これによって、九州空襲を早期探知出来たという実績は認めなければならないだろう。


 さて、近衛に引っ掻き回されたのは海軍ばかりではない。陸軍もその被害を受けている。

 先に述べた航空機関砲もさることながら、より深刻だったのは、歩兵銃の弾薬であった。

 陸軍は中国における紛争において、従来の三八式実包では車両や障害物に対する威力が低く、中国軍の使う弾薬同等の大口径弾薬を導入しようとしていた。しかし、近衛はこの計画を端から否定し、三八式実包の弾頭や装薬の改良による威力増強を命じている。指示や提言ではない。大権を傘に命じたのである。

 こうして、銃弾開発が白紙からのやり直しになった陸軍は混乱した。

 弾頭や装薬の改良の為に近衛が米国銃器メーカーから技術者を招聘した事も対立を招く結果を生んでいた。

 ただ、当時米国ではМ1ガーランド自動小銃開発に際し、当初は小口径化を意図していた事が幸いし、弾頭、装薬の改良は順調に進む。

 ただ、同時に米国人顧問が提案した自動小銃導入に固執した近衛と、生産や兵站に問題があると反対する陸軍の溝は敗戦まで埋まることはなかった。

 結局、この問題が陸軍の弾薬不足や兵站問題を生んだとする意見も多く、海軍のみならず、陸軍も近衛によって弱体化されたと評される原因である。

 考えても見て欲しい、彼が未来を知り得ていたならば、幾ら一式実包が高性能でも、「このタイミングでは弾薬更新は行わない」が最適解ではなかったか?しかし、彼は闇雲に弾薬更新に介入し、制式化を1年以上遅延させたと言われている。


 さて、近衛にはこの様な評価を覆す実績がある。言わずと知れたガスタービン実用化だが、これは近衛がガスタービン、何よりジェットエンジンの未来を知っていたからという意見が多く、これを持って預言者や未来人、転生者と説く意見まで存在している。

 しかし、この事はそんな夢のある話ではない。


 事は米国、米国企業との関係に由来する話で、近衛は相良油田、更には満州、遼河地域にも油田を発見した。米国よりその採掘機械を多数購入しているが、精製設備に関しては、産油量は多いが重質な遼河油田に適した設備の導入が出来ていない。

 もちろん、相良油田に関しても、国内の消費需要を賄うに過剰な産油量を誇るが、こちらも実は、高オクタン価ガソリンの取得には程遠かった。


 気付くのが遅すぎたというのもあるだろう。そこで、起死回生の策として目を付けたのが、ガスタービン実用化であった。

 彼がなぜ、ガスタービンの基本構造を知っていたのかは分からない。もしくは、米国企業から購入したものであったのかも知れないが、実用化はこの様な理由から急がれたもので、実際、ジェットエンジンよりもターボプロップとしての開発が先行しているのは、高オクタン価ガソリンの入手が難しく、高出力ガソリンエンジン開発に支障を来していたからだ。

 その為、ジェットエンジン機は陸海軍共同開発の「(はやて)」など少数なのに、ターボプロップ機は多数に上る事を見ても明らかだ。もし、高性能ガソリンエンジンとして開発された、誉エンジンなどの実情を見るに、ターボプロップを採用しなければ、より酷い結果になっていたのではないかと思われる。


 確かに先は見えていた。しかし、それはガソリン生産という観点からのモノであり、相良油田から採れる軽質油を高度な精油設備なしに活用する、かなり私的な企みを発端としている。間違ってもジェット戦闘機やジェット攻撃機の実用化といった架空戦記にある考えから始まったものではない。

意図的か偶然かは分からないが、真珠湾攻撃を阻止した近衛さん。

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