関白 総理大臣 近衛文麿
1934年、近衛は欧米視察へと出かけた。すでに農業機械化が始まっていた米国の現状にひどく衝撃を受けたと後に述べ、農地法や農業事業法の成立を強く推し進める契機となった。
農地法において農地は地主、事業主の所有と定義され、財産分与として細切れに所有することを禁じ、地主には非常に喜ばれる事になる。
しかし、農業事業法において、地代を取って農作業を請け負わす事は禁止され、小作人は事業主と雇用関係にある労働者とされ、小作制度の解体を明確化した。地主にはぬか喜びでしかなく、事業経営が出来ない地主は土地を丸ごと「事業主」となる元小作人へ明け渡す事態も各地で巻き起こる事になる。
さて、その様な農政とは別に、欧米各国を周る近衛は各国首脳との会談も行っている。
帰国した彼は、米国のルーズベルト大統領について「あれは災厄をもたらす魔王だ。己の権益を得るために手段を選ぶことはない」と、痛烈に批判している。
また、ドイツ国首相であったヒトラーについては「あれはダメだ。早く何とかしないと」と、当時としては意味不明、数年後にその意味が分かる名言を残している。
しかし当時の日本に欧州情勢に関与する力は無く、彼もヒトラー対策を講じた様子はない。
この頃、商会において航空ガソリンエンジンのディーゼル化が行われていた。ガソリンエンジンでも使えなくはないが、高度な精油設備を持たない近衛が、自前燃料でエンジンを動かすにはディーゼルや石油発動機の方が都合が良く、農業用は主に石油発動機を開発、販売しており、商用、軍用として用いるディーゼルエンジンを欲していたのだった。
まさに、この時期の欧米視察はタイミングがよく、ユモ•クルップ式対向ピストンエンジンのライセンスを得て、新たな開発に繋がっていく。
この頃には「緑の革命」は衆議院にも大きな影響を与え、研究者の中には、この頃から近衛は独裁化を志していたと指弾する者も居る。
だが、彼は確かに衆議院にも影響を与え、強引に農地法、農業事業法の成立を急いではいたが、それ以上の動きがあったとは言えないとする意見が大勢である。
そんな彼はまず、1925年頃から朝鮮での試験的な運用を手始めに、農業事業者の企業化モデルを確立し、商会資本による農業事業会社を設け、自ら新しい農業を実践している。
この頃、視察から帰国した近衛は天皇を訪ね、成果報告をする傍ら、新型戦車の在り方とする資料を手渡したとされる逸話がある。
その戦車とは、車体、砲塔全周囲が傾斜し、主砲として対地、対戦車両方に用いる長砲身を備え、ディーゼルエンジンを搭載したモノ。
今の我々から見ればT34を思わせる。が、一般にはフランス戦車FCM36を念頭に置いたものだったと理解されている。
これを拝聴した陸軍では、やはりその通りFCM36の様に全周囲が傾斜し、37ミリ砲を備えた九五式軽戦車を開発したと云われているが、これも信憑性に乏しい。
ただ、後に兵器開発に口を出した彼の姿勢が、こうした実験的、先進的な試みを「近衛による先走り」と捉える先入観を与えているのかも知れない。
1935年に起きた第四艦隊事件において、龍驤は多大な被害を出している。
開放型格納庫へと打ち寄せる時化によって格納庫にあった艦載機が流され、支柱やハッチに衝突し艦を破壊。ヒンジが曲がり閉まらなくなったハッチからの浸水も酷く、更には延長された飛行甲板もめくれ上がってしまった。
この結果、開放型格納庫の欠陥だけでなくダメージコントロールの重要性も認識され、密閉艦首化の必要性も論じられた。
もし近衛が転生者であり、龍驤設計に影響を与えていたならば考えられない事故である。
第四艦隊事件を知っているなら開放型格納庫の欠陥は周知であるし、後のエセックス級空母の運用のみを見て導入を促すなど狂気ないしは無知と言う他無いからだ。
こうした事からも、龍驤設計に近衛が関わったとする逸話をもって、転生者と判じる事は出来ない。
そんな年にも、彼は軍需分野への関わりを深めようと動いている。この年、伊アンサルド社から47ミリ砲のライセンスを購入、陸軍の戦車砲として提案しているが、取り付く島もなく相手にされなかった。
近衛の本分である農政において、成立した農業事業法による事業者確認が全国において一部地主の強硬な反対を強引に押さえ付けながら進んでいた。
この問題は地主だけでなく、社会主義者からも農業への資本主義導入と反対する声は強く、連日新聞でも大きく報じられていた。
しかし、実態は小作人開放であり、特に貧農からの支持は高かったと言う。
それは翌年226事件でも現れており、世間から厳しく指弾された近衛は、クーデター部隊の襲撃対象になっていなかった。
農業事業法に沿って農業経営する場合、それまで搾取していた地主が、労働者に対して農具を買い与え、給与を払う必要があったのだから当然だ。
才覚のある小作人は無能な地主から農業事業権を買い、自ら農業経営に勤しむ、新しい農業の形も浸透しつつあった。
こうして農業事業法の実施が行われると、次に農地法による農地整理が始まる。
これを見越して米国から建機ライセンスを購入していた近衛商会の独壇場となったのは、誰の目にも明らかだった。
「緑の革命」首班である近衛はその影響力を縦横に駆使し、農地整理予算を確保していく。
1936年、226事件の責任を取る形で岡田内閣が総辞職すると、元老の推薦と天皇自らの意向によって近衛に大命降下が下される。当初は辞退の意向を伝えようとしたが、天皇自らの説得によって近衛は組閣の意向を固め、3月9日に組閣、近衛内閣が始動した。
当初は総理としての職よりも農政改革に注力する姿勢を見せていた近衛であったが、商会が提案していた47ミリ戦車砲を装備した次期中戦車を無視して陸軍が戦車開発を進めていることに激怒し、天皇にその事を抗議、その席上、自身が皇統に連なる血筋にあること、元来、摂関家が政治を執り行っていた事、武家政治が終った現在、本来ならば摂関家である自身が政治を行う資格があるなどと長々語り続け、嫌気がさした天皇から「近衛はそれで何がやりたい?」と御下問されると、「全権をもって政治を行いたい」と答えている。
こうして、1937年8月22日、近衛に対し、関白任命が行われ、大権代理の権限が与えられることとなった。
この事は政界の与り知らない処で決められた昭和天皇による新政であったことから、多くの批判が近衛に浴びせかけられることとなった。そもそも、関白による政治運営など、明治憲法下では定められていない事態であり、近衛にその様な資格が本当にあるのか?という声が各所から上がったが、それに対する回答は力であった。
これは近衛がナチスのやり方を学び、ひそかに日本式の全権委任法を画策していた結果であるとされているが、実のところ、今に至るまでその様な計画の痕跡はどこからも発見されておらず、近衛が頻繁に行った御進講による信頼と、組閣後に近衛が天皇に対して漏らした愚痴や弱音などが積み重なった結果であるとするのが定説となっている。しかし、なぜそのような蛮行が行えたのか、それ自体が謎であり、そこには人ならざるナニカの関与があったと言う意見が存在するのも確かである。