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暫定大統領の就任

 台湾航空戦は「紫電」そして戦闘機型「銀河」の奮闘もあって、米側の損害が上回る結果となる。


 本来はフィリピン攻略の前哨戦であったこの戦いで米側には手痛い損害が出てしまう事となった。

 さらに、サイパンに次いで投入された「桜花」による損害や潜水艦による被害などもあり、作戦としては失敗とみなされるような状態になっていた。


 台湾沖海戦に参加した潜水艦も1944年になってようやく実戦運用が可能となった水中高速潜伊201型である。海軍の極秘計画であった第71号艦を嗅ぎつけた近衛が開発継続を命じ、あれやこれやと事あるごとにかき回した結果、ようやく完成にこぎつけた潜水艦である。近衛のたっての願いもあってシュノーケルを装備した4ストロークディーゼルを搭載している。電動機は戦前に米国企業の技術を取り入れて開発を始めていた2500馬力電動機が2基搭載され、水中速力20ノットを誇る。

 さらにイタリアを介してドイツからの技術導入も行われており、聴音機や探信儀の性能も大幅に向上している。その性能を十分に発揮するための静粛性向上が最大の難関であり、ただ速度のみを求めるのであれば、1942年には完成できていた。そこから2年要して聴音機の性能を生かせるだけの静粛性を手に入れ、ようやく就役。量産化が叶ったのが1944年4月であった。

 その初陣として、米艦隊の動きを探る三式長距離偵察機の情報を基に、台湾沖へと進出し、見事米艦隊と会敵、巡洋艦1隻撃沈、小型空母1隻撃破という戦果を挙げる。もちろん、その高速力と静粛性を生かして損失無しで無事帰還したのは言うまでもない。


 こうして出鼻をくじかれた米軍は、さらにフィリピン上陸作戦においても機動部隊吊り上げ作戦に見事引っかかり、初陣となった「将星」攻撃隊の攻撃と「紫電」による日本艦隊上空での迎撃戦で更に損害を積み増す結果となってしまった。

 ただ、空母吊り上げこそ成功した日本軍だが、戦艦改修に消極的な近衛によってマトモな近代化も出来ていない戦艦部隊はスリガオ海峡に沈み、上陸地点であるレイテを目指した攻撃部隊は突入に成功するも、軽巡洋艦中心の豆鉄砲では効果も低く、駆け付けた米戦艦部隊の餌食となる末路を迎えてしまった。


 こうして、日本海軍は空母を除く主力艦の大半を失い、保有するのは駆逐艦か多少大きな防空駆逐艦ばかりとなり、決定力を欠いた歪な海軍となってしまう。


 フィリピン攻略を大統領選挙前の花火にと考えていたルーズベルトだが、結果は空母機動部隊の惨敗、上陸部隊にも3割近い損害を出し、挙句、共和党陣営に選挙直前演説で叫ばれては、何とか接戦となっての勝利という結果に甘んじるしかなくなってしまう。

 だが、ルーズベルトの悲劇はそれで終わらず、選挙戦の結果による心労から就任を待たずに入院する事態となり、執務能力のない大統領の就任を認めるか否か米国政治の空転が4カ月にわたって続くことになった。


 そうした米政界の混乱を余所に、決定力不足の日本海軍はもはやフィリピン上陸を阻止する力を失い、地上での戦闘に掛けることになった。

 上陸した米軍が対峙したのは、それまでの日本戦車とは違い、短砲身ながらM4と同じ75ミリ砲を備えた二式中戦車であった。

 この戦車の主砲は伊アンサルド社との共同開発による戦車砲で、砲身には四一式山砲の物が流用されている。当然、イタリアでも同様に七五ミリ山砲を流用した戦車砲を積むМ17/41が開発され、北アフリカ戦線で活躍したのは有名だ。

 この戦車砲開発に関し、近衛は砲弾として成形炸薬弾を提案。回転力の低い短砲身であれば80ミリ~100ミリもの貫徹能力を持つ事を証明し、長砲身小口径戦車砲よりも歩兵支援、対戦車双方に有用であるとして日本だけでなく、イタリアでも採用され、マチルダⅡやМ3中戦車を多数撃破する戦果を挙げている。フィリピンでも同じ光景が繰り広げられ、米軍の進撃は遅延し、政治の混乱もあってフィリピンの攻略を終えるのは翌年5月の事であった。


 その間、米国がただ指を咥えてフィリピン情勢を視て居たなどと言う事は無く、サイパン島やテニアン島を大改造してB29の基地を建設し、日本本土爆撃を開始するのだが、そこには米軍にとって死神である「銀河」や「紫電」が待ち構えていた。出撃機の一割前後は常に撃墜される苛酷な戦場が出現し、作戦の継続是非が何度も問われるほど壮絶な状況になっていた。


 その状況を更に悪化させたのが、硫黄島攻略の失敗だろう。


 そう、空母を除く日本艦隊の大半を海底へ送ってはいたが、空母は未だ残っていた。

 さらに、米潜水艦の生還率も1943年秋以降、極端に下がっていた。

 それもそのはず、磁気探知機と電探を搭載した専用の哨戒機「東海」が運用を始め、日本近海での偵察活動が厳しくなっていたからだ。

 フィリピン攻略が5月までかかった原因も、台湾からフィリピンまでの海域には日本側の制空権が確保され、東海や九六陸攻改造機などによる濃密な対潜哨戒網が存在していたからである。哨戒網を破ろうにも、相手は悪魔の戦闘機「銀河」である。電探まで装備して夜戦すら可能となった機体を屠る事など、並大抵の事では無かった。何度も試み、何度か破ることには成功するが、果たしてそれを勝利と呼べるのかどうかは損害と成果を直視して冷静に語る必要がある。どう考えても収支が合わないというのが、後世の評価である。


 1945年4月21日、硫黄島へと来襲した米艦隊を待ち受けたのは、大龍型空母3隻を基幹とする空母艦隊、さらに、タイミングを合わせて飛来した「銀河」や「連山」と言った攻撃機部隊。


 それらによる飽和攻撃を受け、さしもの米艦隊も航空管制がマヒし、200発もの「桜花」が殺到しては、被害を防ぐ手立てなど存在しなかった。4隻のエセックス級が浮かぶ棺桶と化し、軽空母3隻が沈んだ。ただ、日本側には掃討に投入できる水上部隊が無かったため、そのまま取り逃がす以外の選択肢が無かった。

 空母とそれを守る駆逐艦さえあれば良いと言った近衛指令の結果、このような事態を招くことになった。この海空戦においても多数の犠牲を出した日本はとうとう、空母運用が難しくなり、地上運用すらカツカツという事態に陥る。

 米側も硫黄島作戦失敗を受け、民主党は大統領職を手放し、6月には大統領選で敗北したはずの共和党候補が暫定大統領への就任を果たす事となった。

 だが、この状況で対日戦懐疑論を展開しても何も収まる訳がなく、何らかの成果と戦争終結のきっかけを求めながら、戦争は継続されることになった。

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