近衛文麿の足跡をたどって
近衛文麿といえば、太平洋戦争における指導者であり、東京裁判において絞首刑となった事は、誰もが知る歴史である。
そんな彼の評価は一言では表現出来ない。
戦争指導者としては並以下であり、そもそもが軍人ではないので作戦指導力もなく、軍事知識も欠落していたとされる。
更に、彼は東洋のヒトラーと例えられるように、戦争指導において憲法から逸脱した権力を確立した独裁者でもあった。
ただ、まったく別の分野においては偉人として讃えられ、彼の存在無しに今の産業すら無かったと言われたりもしている。
彼の評価は主に太平洋戦争についてのものが大々的に語られ、彼を否定する事が当たり前。その様な時代が21世紀を迎えるまで長く続いてきた。
今でもその傾向は強く残り、政治家の言動や政権運営に対して批判的に「近衛の様な」と叫ばれる。
そんな彼の経歴は他に類を見ない高貴なものであり、それがために史上稀に見る独裁体制を確立し得たと云われている。
彼は五摂家のひとつ、近衛家に生まれ、父の早逝によって僅か12歳で当主に就いている。少年期の彼は母が早逝し父の再婚相手である後妻とは折り合いが悪かったという。更に父には莫大な借金もあり、家庭環境は非常に悪かったという。
そんな彼は華族のレールを外れ、社会主義へとのめり込んで行ったが、1914年、突如として農機具商会を創業、自身の考案とする手動式簡易田植え機と手動式稲刈り機の販売を始めている。
その営業で全国を回る中で、島根において佐藤忠次郎と知り合い、彼を自身の商会へと招いて農機具開発を依頼している。
近衛と佐藤によってハーベスターや籾摺り機といった農業機械化の柱となる機械が生み出されている。さらに、田植え機の効率化のため、苗箱育苗法を考案したのも近衛とされる。
研究者の誰もが首を傾げ、ネットが普及した21世紀に入ってからは、「近衛文麿は転生者である」との都市伝説が広まっている。
たしかにそうでも考えないと、華族に生まれ、農作業と無縁であった彼が、農業機械化の中心に居た事の説明が付かない。
後に佐藤忠次郎も「近衛の発想力なしに実現が難しかった物は多い。あの発想力はどこから来ていたのか」と、その自由な発想力を賛えている。
そんな近衛は1916年に貴族院議員資格を得て政治活動を始めると、農政改革を強く主張している。
何のことはない。農業機械を普及させるには、それを扱う農家が購入出来なければ意味が無いのだから、機械購入可能な収入を農家が手に出来る環境を作ろうとしていたのだろう。
そんな彼は第一次世界大戦後のパリ講和会議において、代表団随員となり渡欧。期せずして機械化農業を実際に目にする機会を得ると、代表団が呆れるほど各地の視察を要望したという。もちろん、帰りは米国へも立ち寄り、本格的な大規模経営にも触れている。
帰国した彼はそれまでにも増して農政改革へと傾倒し、学生時代に共に社会主義思想を学んだ者たちから、その変貌ぶりから激しい批判にも晒されている。
しかし、彼はまるで意に返さず「摂関家は朝廷の核。農業は国家の核である。私が農政を指導しなくて誰がするのか?」と、彼らに問い返したという。が、そもそも社会主義や農本主義における農業とは違い、彼が目指したのは企業型経営による土地集約型農業なので、批判者達には何ら理解される事がなかった。
そんな1920年、彼が持ち帰った石油発動機の国産化に成功し、早くもその販売を始めている。商会は近衛が貴族院議員となって以後、佐藤にその経営を任せ、彼の開発したサトー式脱穀機同様に、「サトー」の商標による販売が行われていた。
さらに、苗箱育苗法の確立とそれに伴う育苗事業などによる経営拡大によって得られた資本力を使って石油発動機の燃料を独自調達するために相良油田を買収した。
奇しくもこの油田、細々とした採掘でしかなかったのだが、1923年に発生した関東大震災の影響によって大規模自噴が引き起こされ、以後、日本の石油消費に多大な貢献を果たすことになる。
この相良油田の急拡大は近衛の発言力と資金力に直結し、貴族院において彼が結成した「緑の革命」は最大会派へと成長していく。
1926年頃からは一部資金を米国投機に流用して批判も集めているが、それで滅気るような彼ではなかった。「なるほど、先が解っている転生者ならば、やらないハズはない」と、この行為も彼の転生者説を補強する材料とされている。
さらに資金は朝鮮における探鉱にも投入され、カーバイト、ニッケル、クロム等の鉱山発見にも貢献している。
こうして得た発言力によって、強引な農政改革を推し進める彼への反発は社会主義者だけでなく、地主層からも現れてくる。
1932年にはそうした近衛包囲網がうねりを見せていたが、近衛は軍に近付く事でその批判者達に圧力を掛けていく。
この頃には石油発動機を用いた耕運機の販売もはじまり、日本初の乗用トラクタの開発も成功させ、軍用機械の分野をも伺っていた。
こうした成功は昭和天皇の目に留まり、いつしか御進講に通う近衛の姿が見られるようになる。
時は統帥権干犯華やかかりし頃であり、天皇の覚えめでたい彼を表立って批判する者は急激に減少していった。
その裏で、近衛による暴走は加速し、空母計画に口を挟み、龍驤の設計が大幅に変更されているとする話が実しやかに語られている。
当時はごく一部しか知られていなかったのだが、天皇への御進講の際、事もあろうに「米国において空母とは、今後この様な機能を有したものとなるそうです」等と、後のワスプに似た開放型格納庫を持ち、なぜか3基のエレベーター全てが舷側配置された図面を手渡している。
もちろん、天皇から直接その様な図面を受け取り、最新技術だとお言葉を頂いた海軍が無視を決め込む訳にも行かず、「天の声」によって龍驤の設計にはその図面から多大な影響を受ける事になった。
この話がどこまで信憑性があるのかは分からない。龍驤は積み重なる要求で重心上昇が著しかった事から、軽量化や重心位置低下を意図して設計変更されたとするのが定説とされ、近衛や天皇が関与したとする明確な資料は存在しない。