前編
心臓が今にも飛び出してしまいそう。でも、今でなければいけなかった。私は、ありったけの勇気を拳で握りこんで、レックスに近づく。私の婚約者でもある彼は、校内のカフェテリアにいた。いつものように女の子と二人で。
「婚約を解消しましょう、レックス」
カフェテリアの雑音が消え、一気に注目を浴びたことを感じる。でも、やり切らなければいけない。
「……いきなりどうしたんだ、グレース。とにかくこんな所で話す内容じゃない、後で」
「後なんてものは、もうないわ。大体、そう言って、貴方が後で時間を作ったこともなかったでしょう。私たちの婚約はこれでなかったことになる、貴方がそれを理解して受け入れれば終わる話よ」
私、グレース・エクレールと、レックス・クレプスキュールは子どもの頃に親が決めた婚約者同士だった。私たちは魔法使いの家の子どもで、貴族ほどではないにしろ政略結婚は珍しくない。古い魔法使いの家は一子相伝の魔法や、魔法植物の土地の管理などがあるからだ。昔は、仲がよかった、と思う。このまま結婚するんだとも思っていた。
でも、もう限界だ。この全寮制の魔法学校に入ってから、レックスは多くの“女友だち”を作った。彼曰く、『友だちに性別は関係ない。彼女たちだって、僕のことは友だちだと思っているよ』らしい。
何度かそれとなく『二人で会うのは控えてほしい』と訴えたが『やきもちもいい加減にしないと。何だったら、グレースも男の友だちを作ればいいよ。僕は君のことを信じているから一向に構わない。君だって僕のことを信じるべきだ』と言いくるめられる。
初めは、レックスのことを信じられない私が悪いのだとばかり思っていた。でも、卒業を控えて結婚が一層現実味を帯びた時、私の意見を一切尊重してくれない人と、これからの一生を過ごすのだと自覚してしまったのだ。……そんなのは嫌だ。
「ほら、レックス。あたしと二人っきりで会うから、エクレールさん嫉妬しちゃったじゃない。当然でしょ? 彼女、自信なさそうだし、あたしみたいなのが傍にいたら嫌よね?」
今日のレックスのお友だちは、この魔法学校でも一、二を争う豊満な女性だった。元々この魔法学校には、彼女のように化粧がばっちりで交友関係の激しい肉食系女子は少ないからとても目立つ。肉食系が悪いとは言わないが、その名に恥じない程度には彼氏をとっかえひっかえしており、お世辞にも品行方正とは言い難い人で有名だった。……それもまあ、人の自由だ。何度か元カレに呪われて先生方を奔走させていたが、私には関係のないことだからいい。
「アンナ、君は魅力的だけれど、僕たちは友人だ。グレース、僕の友人関係に対して文句を言うのはおかしいって何度も言っているだろう?」
「文句はもうないわ。レックスの好きにしたらいいと思う。私と貴方との結婚がなくなるというだけの話だから」
言い切って、私は踵を返した。心臓がばくばくと煩くて苦しい。早くこの場から立ち去りたかった。
「グレース、いい加減にしてくれ! もううんざりなんだ!」
びくりと肩が上がりそうになったのを、どうにか堪えて振り向く。ああ、そうだ。言うべきこと忘れていた。
「君は、いつもそうだ。僕が何度も言っていることをちっとも理解しない。いつだって何か言いたげにして、黙って逃げて。僕は君のそういうところに疲れたんだよ!」
「そう、それはごめんなさい。でも、もう関係がなくなるのだしいいでしょう」
「僕たちの婚約はそんなに簡単になくなるものじゃ――」
「いいえ、なくなったわ。私の両親も貴方の両親も承諾している」
そう言うと、レックスは目を見開いた。何の準備もなく、短絡的に行動すると思っていたのなら、彼はもう本当に私のことを理解できていないらしい。私は、昔から慎重に物事を進めるタイプだった。最近では、慎重が過ぎて先生に『もっと大胆に!』と叱られるくらいだ。……そんな私が、こんな所で浴びたくもない注目を浴びながら婚約の解消を迫るはずがないのだ。
「どういうことなんだ?」
「私が、レックスとの結婚はできないと申し出て、私の両親と貴方の両親を説得した。それだけよ、ご両親に聞いてみればいいわ」
「僕は聞いていない!」
「お手紙は来ていた筈よ。……差出人には私の名前が書いてあったらしいけれど」
「は?」
「貴方が、いかに私のことを蔑ろにしているかを量るために、名前を貸してほしいと貴方のご両親に言われたから承諾をしたの。三通程、私の名前で手紙を出したそうよ。全て返事が返って来なかったと聞いているわ」
私の両親は辛抱強い私が言うならよっぽどだろうと、婚約解消をすぐに了承してくれた。しかしレックスの両親は、調べさせてほしいと言ってきたのだ。自身の子どもに責がありそうだったことを信じたくないのだろうとばかり思っていたが、彼らはむしろ証拠を集めてくれ謝罪をしてくれた。
私としては婚約が解消できればそれでよかったから、謝罪や慰謝料のようなものは必要ないのだけど、レックスの両親にどうしてもと押し切られてとても良い魔道具まで貰ってしまった。
まあ、大人の事情で形だけでも手切れ金は必要だったのかもしれない。しかもこの魔道具は最新式で、ずっと欲しかったものだった。使用者の魔力を吸収して貯めることができ、繊細な実験や魔法に必要な分の魔力を完璧な調節で出力することができる最高級品だ。これさえあれば実験中に魔力切れを起こすこともないし、複雑な魔法陣を組んでいる最中に魔力調節のせいで集中力を切らすこともない。
とんでもなく素晴らしいものを貰って、この時ばかりはレックスとの婚約のことで沢山苦悩したことがどこかへ飛んで行ったものだ。
「何を笑っているんだ。非常識だぞ、こんな時に!」
いけない。
「非常識なのは、レックス。貴方じゃないの?」
「何だと!」
「公共の場であるカフェテリアで大声を出して、非常識だわ」
「――っ!」
これは、いつか私がレックスに言われた言葉だ。女友だちと二人きりで会っていた彼を、初めて見つけた私が問い詰めた時に『グレース、ここは公共の場だ。周りに人がいるんだぞ、大声を出してみっともない。非常識だよ』と。
あの時は、ひどく惨めだった。当時、レックスの隣にいた女友だちは『もう、そんなふうに言ったら泣いちゃうってー』と笑って、『皆、ごめんねー、気にしないでー』と可愛らしくその場にいた人たちに謝ってみせたのも、辛かった。
でも、もういいのだ。もう終わったことだから。
「ふざけるなよ! そうやって厭味ったらしく言えば、僕が謝ると思っているのか!?」
……まだ、言うか。
私は、段々とこの状況に慣れてきた。心臓も最初の時よりは随分落ち着いて、静かにしてくれている。初めから婚約解消は決まっていたことだったし、この場でレックスにそのことを宣言したのはこれまでかけられた苦悩への意趣返しだった。
けれど、こんなに絡まれるとは思っていなかった。てっきり、『ああ、そう。分かったよ』くらい言われるんだろうと考えていたので、この言い合いは想定外だ。
少し面倒になってきた、と私が眉間に皺を寄せるのと、後ろから声をかけられたのはほとんど同時だった。
「おい、もうそのへんにしておけよ」
「テオドール……?」
「ノクテュルヌ会長……?」
「はいはい、生徒会長のテオドール・ノクテュルヌさんですよ」
私の後ろから現れたのはテオドール・ノクテュルヌ。この魔法学校でトップの実力を持ち、良くも悪くも実力第一主義のこの学校で無理矢理生徒会長にさせられた人だ。本人は面倒くさがりで生徒会長なんてしたくないらしいが、仕事が早いのでそつなくこなしているのが少し憎らしい。ちなみに私も生徒会役員だ。成績優秀者も個人の意志に関係なく生徒会に入れられる。
目立つ上に憧れと嫉妬の対象であるノクテュルヌ会長には、近づくだけで煩い親衛隊なるものまで存在しているので、生徒会役員はもれなく彼のことをノクテュルヌ会長と呼んでいた。
男女関係なく『何、軽々しく名前で呼んでんのよ!』と難癖をつけられるからだ。部外者がいない所では、気安く名前で呼んでいる人もいるが、私はいつかボロが出そうなのでずっとノクテュルヌ会長と呼んでいる。
そんなノクテュルヌ会長を、レックスが呼び捨てにしている意味が分からないが、彼の女友だちが守ってくれているらしい。ノクテュルヌ会長は、レックスは別に友だちじゃないって言ってたけど。
「さっきグレースも言っていたが、ここは公共の場だ。騒ぎたいなら余所に行け」
至極真っ当な意見だ。これは私も怒られているのかもしれないと思ったけれど、ノクテュルヌ会長はずっとレックスだけを見ている。それどころか、私を隠すみたいに前に立ってくれた。……守ってもらっているみたいで、すごく心強い。
「……分かった、グレース。場所を変えよう」
「変えてどうしようと言うの? 私はもう話すことはないわ」
話しかけた時よりもずっと精神が安定しているから、思ったことをちゃんと言うことができた。昔から、レックスは口が立つので彼と口論になっても勝てた例がなかった。けれど、今は違う。もう私は、レックスの言いなりになって納得していないのに『分かった』なんて言わない。ノクテュルヌ会長が来てくれたことによる効果が大きいけれど、今回はそれをありがたく使わせてもらう。
「だそうだぞ、とっとと寮に帰れ。俺らは今から生徒会の仕事があるんだ」
「え? もうなかった筈……」
「残念だったな、グレース。それが、まだあったんだ」
「ええ……?」
来てくれたのは、仕事のせいか。いや、それ以外にないのだけれど。
この学校は卒業するその日まで生徒会をやらせる。生徒会に属すくらいの学生は、就活などほとんどやらないからだ。成績優秀者は毎年取り合いになるし、実家を継ぐ人もいる。研修なんてものは本当に就職してから行うものだから、事前に就職先へ顔を出しに行くこともない。
それはいいのだけれど、最後の最後まで仕事がたっぷりあるのは全然嬉しくない。今度は何が起きたのだろう。運営に関する規定の仕事は終わっている筈だから、おそらく何かが起きたのだ。
一年生が校舎の壁をぶち抜いたのだろうか、二年生が飛行術の失敗でもしたのだろうか、それともどっかの研究部が薬品使い切ったり紛失したり変な魔法生物でも喚んだのだろうか。もう全部嫌だ。嫌だけどやらなきゃいけない。
仕方なく生徒会室に行こうとする私たちを、レックスが止めた。
「待ってくれ、テオドール! 僕たちは大事な話を!」
「あ? まだいたのか、恥ずかしい奴だな」
レックスに返事をしたのは、私ではなくノクテュルヌ会長だ。驚いて会長を見上げると、下がっていろと顎で指示される。
「何?」
「お前、フラれたんだぞ」
「ふ」
「いいだろう、別に。お前、女友だち多いんだし慰めてもらえば?」
また目を見開くレックスを見て、笑いが込み上げてしまった。確かにそうだ。私はレックスをフッたのだ。人の不幸を笑うなんて私は酷い奴なのかもしれないけれど、それでも笑ってしまった。いいか、私は別に聖人君子なんかじゃないのだから。
「ふざけるな、僕は認めていない!」
「認めようが何しようが、両家で決まったことなんだろう? まず、そっから確認したらどうだ。エクレール家は古くから魔法薬開発に秀でた名家だ。それこそ生徒会にも選ばれないお前如きの一存で、婚約を新たに結びなおすことなんてできないだろう」
「だから、そもそも僕は婚約の解消なんて!」
「本当に馬鹿だな」
呆れたようにノクテュルヌ会長が吐き出した言葉は、聞いたことがないくらいには冷たかった。それなのにまだ突っかかっていけるレックスは、大物なのかもしれない。
「さっきから何なんだ、テオドール! これは僕とグレースの問題なんだぞ!」
「エクレールさんったら、レックスに構ってほしくてノクテュルヌ会長にまで泣きついたの? そういうのよくないと思うー」
レックスの腕に自分の手を絡ませながら、彼の女友だちがノクテュルヌ会長を熱のこもった瞳で見つめる。さすが肉食系だ。ここまで来るとちょっともう尊敬してしまいそうになる。
「……まさか、グレース。君、テオドールと浮気してたのか? だから、急に婚約の解消なんて!」
「ああ、もう気分が悪い、全員黙れ」
私が言いたかったことを、ノクテュルヌ会長が言ってくれた。意図してかせずか、魔力が込められた彼の言葉にカフェテリアにいる全員が黙る。私も少ない方ではないけれど、ノクテュルヌ会長は桁違いだ。
「まず、俺とグレースはお前みたいに二人きりで会ったりなんてしてない。俺から何度か誘ったことは認めるが、グレースは頑なに異性と二人きりで行動することを避けていた。お前と違って」
力を込めて二度も「お前と違って」と言ったノクテュルヌ会長に、何故かカフェテリアにいる他の学生たちもうんうんと頷いている。まあ、レックスの女友だちの多さは有名で、彼も結構妬まれていたから味方は少ないのだろう。
「別にお前にしがみついてる女を“お友だち”だって主張するならそれでもいいんじゃないか? これからもそうやって、いろんな女と二人きりで会っていればいい。だが、グレースにはもう二度と近寄るな」
じわ、と涙が滲んできた。自分の味方がこんなに近くにいることが、こんなにも頼もしくて、嬉しい。
さすがのレックスも、これで引き下がるだろう。彼は昔からプライドが高かった。こんな風に人前で糾弾されるなんて、きっと耐えられない筈だ。そう思ったのだが、私はやはりレックスを理解できていなかったらしい。彼はノクテュルヌ会長をきっと睨みつけて叫びだした。
「……んで、お前にそんなこと言われなきゃいけないんだよ!?」
「俺がグレースに惚れてるから」
「え!?」
え?!
「な、人の婚約者に!」
「今はもう違うからな。いつまで婚約者のつもりなんだよ、ストーカーか? あ、グレース」
「ひゃい!?」
「俺、正式にエクレール家に申し込んでるから」
「……な、何を?」
「婚約を」
「何で、いつ!?」
そんなことは聞いてない! 両親からも、ノクテュルヌ会長自身からも聞いていない!
「いい加減に――!」
「ああ、忘れてた。ほら」
「!?」
ノクテュルヌ会長がレックスに小さな魔法石を投げる。この時、レックスに対してまだいたのか、と思ってしまった自分に驚いてしまったけど、次の瞬間に響いた爆音にそんなことすぐに気にならなくなってしまった。
【レックス、この愚か者が! 今すぐに帰ってこい! 猶予はない、すぐにだ!】
「ひ、ひいい!」
小さな魔法石は、カフェテリアの外にまで響いていそうな大声を再生した。レックスは、声に驚いて腰を抜かしている。この声は、レックスのお兄さんのものだ。ノクテュルヌ会長が投げたあの魔法石は、魔法手紙だったようだ。
魔法手紙とは、文字でなく声を届ける魔法技術の一つだ。最近では声だけでなく、画像も送れるように研究が進んでいるらしい。しかし、現状の魔法手紙もまだまだ気軽に使えるものではない。魔法具ではなく、魔法技術だからだ。それなりの腕前を持つ魔法使いでなければ、魔法手紙は作成できない。まあ、国のお抱え魔法使いであるレックスのお兄さんにかかれば、そう難しいものでもないのだろうけれど。
暫く放心したように座り込んでいたレックスは、誰かの椅子ががたりと音を立てたのをきっかけに飛び上がりカフェテリアから出て行った。それを呆然と見ていた彼のお友だちも、その後すぐに足早に出て行った。おそらくレックスは、実家に走っていったのだろう。レックスのお兄さんは厳しくて、彼はご両親よりもお兄さんに躾けられたと言っても過言ではない。きっと未だに怖いのだ。
レックスのお兄さんにもこれまでの経緯は伝わっている筈なので、思う存分叱られてきたらいいと思う。……これで、きっと、もう終わりだ。何だかとても久しぶりに、ゆっくりと呼吸ができた気がした。
「じゃ、生徒会室に行くぞ、グレース」
「え、ああ、そう言えばそうでしたね」
読んでいただき、ありがとうございます。