すぼらしものと素晴らしい
さてさて、最近は追放ざまぁブームもすっかり鳴りを潜めたなーと感じますが、江戸歌舞伎の人気演目には勘当される大店の若旦那ってのが良く出てきます。
朝寝朝酒朝湯が大好き、呑む打つ買うも大好きな、どこに出しても恥ずかしいボンボンが、ついに堪忍袋の緒を切られて親に追放されてしまう話ですね。
因みに、追放されたボンボンが実は有能で、追放した父親が没落なんて展開はありません。
追放されたボンボンはそれまでちやほやしてくれた取引先や遊び仲間を頼りますが、勘当されていることが知られているために袖にされます。
あー自分は金と家柄しか価値が無かったのだと気付いて、後悔するボンボンにかつて自分に取り巻いた太鼓持の一人がやって来ます。
その太鼓持の手引きで贔屓にしていた遊女と逢い、きっと再起できる、それまでは匿ってやろうと損得なしの人情に触れて、ボンボンは改心、父親の元に土下座謝罪にいき、無事に勘当を解かれて、全うな商売人となり、成功する。
だいたいこんな感じのストーリーで、こうした演目はすぼらしものなんて呼ばれますね。
このすぼらし、すぼらしいという言葉のことで、見た目が貧相で汚ならしいことを言うんです。
漢字で書くと窄らしい、こう、縮こまって身体を窄めている様が卑屈で劣って見える様を言うんです。
見た目(身なり)すぼらしいで、見(身)・すぼらしい→みすぼらしいとなり、「身(見)窄らしい」の語源でもあります。
さて、このすぼらしい、後の明治期ごろに音便変化して「すばらしい」と発音されるパターンが産まれます。ただ、当初はすばらしいとすぼらしいは同じ意味だったようです。
そして、みすぼらしいには漢字がある中で、すばらしいには相応の漢字が存在しないために当て字がつけられます。
そう、素晴らしいです。
ここで、変化が生じていきます。
素晴らしいの漢字、素で晴れるって書いてますから、字面だけ見ると、とても良いことのように見えるんですね。
このことが、素晴らしいの現在のイメージへと繋がっていきます。
素晴らしいと窄らしい、元は同じなのに全く違う正反対のものになったんですね。
すぼらしものの若旦那は遊びふけるダメダメなボンボンな凡暗でしたが、生来の繊細さや、育ちの良さで物を見る目が養われているなど、太鼓持や遊女から、その才覚や人柄を慕われて、やり直しが出来ると支えられます。
すでに身なりはボロボロ、僅かな見栄で裏地に錦を飾る「ボロは着てても」な演出はされるものの、もう、誰も信用出来ず心まで堕ちる寸前で、人情に触れて再起を誓うんですが、一見、みすぼらしい姿でも、実は素晴らしい才能や人格を秘めているかもしれない。こう考えてみると、すぼらしいと素晴らしいは得てして語源が一緒なのも頷けるかも知れませんね。
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