第6話~白髪の商人~
地中海の水平線に太陽が沈み、夜の闇が広がった。
今宵は欠け月すらも隠れた新月の夜だ。その暗がりを照らすのは兵の駐屯所に点在する篝火と、酒と女を楽しむ宿から漏れる燭台の火のみだ。
その宿から怒号と笑い声、そしてときおり艶やかな嬌声が響く。砂漠の夜風は身を切るような冷たさだが、出入口にある粗末な木の扉と布のカーテンを隔てて、石造りの宿の内部はむっとする熱気と酒の臭いが充満している。
アーシムはそこで酒を飲んでいた。賊から奪った金品を無駄遣いするつもりはなく、最低限の酒で喉を潤してから寝床に入るつもりだ。
宿の酒場は男たちが多い。兵舎などの建築に携わる作業員、安く仕入れた物資を高めに売りつける羽振りの良い行商人、給金を酒代と娼婦につぎ込む兵士崩れなど、どれも一癖のある者たちばかりだ。
喧騒に包まれた酒場の隅に座っているアーシムに声をかける人間はいない。西の国境と地中海に面しているこの町には流れ者や異国人も多く、他人の素性を根掘り葉掘り聞くことは暗黙の禁止事項なのだ。
「おい、聞いたか? 町外れの高台に人食い獅子が出没したらしいぜ」
少し離れた席から聞こえてきた会話に気づき、アーシムは杯をあおった手を止めた。明らかに暴漢を殺害した自分の話をしている様子だ。
「なんだよそりゃ、こんな砂漠に猛獣が出るかよ」
その噂話をしているのは2人組の男たちだ。どちらも幅広の剣を腰に差し、簡易な鉄の胸当てを着ているため、この町に常駐している兵士だろう。
「いや、俺も嘘だと思ったんだが、今日見回りだった胡麻髭のやつが獅子に喰われた男たちの死体を見つけてたんだってよ。あいつは嘘で人を担げるようなやつじゃねえだろ」
「あの頭の鈍い胡麻髭が言ってたのか。それなら嘘じゃないかもしれないな」
「だろう? あの野郎が言うには、武器を握っていた男たちの死体がしっかりと喉元を喰い破られていたらしいぜ。ハイエナの集団に襲われたとかではなく、本当に力強い獣がきれいに食い殺したような死体だと」
「砂漠を大型の猛獣が歩き回るわけない。どこかの商人が連れてきた獣を逃がしてしまったんじゃないのか? 俺たちがよく知っている鼻持ちならない商人の仕業なら、俺は喜んで訴え出るけどな」
商人と言った兵士の男が振り返って睨んできた。一瞬だけアーシムは自分が睨まれたと思ったが、兵士が睨みつけたのは酒場の奥にいる商人だった。
「ちっ、これ見よがしに楽しみやがって……」
兵士は悔し気な恨み言を呟いたが、その呟きは遠くに座っている商人に聞こえるはずがない。
その商人は小柄だがなかなか色白な美男で、着ている装束も、頭に巻いているターバンも、上品かつ質の高いものだと分かる。服装こそ中東風に寄せているが、明らかに西欧のどこかの国からやってきた若者だ。
そして若い商人は華やかな衣装を着た女を侍らせ、上機嫌に笑い合いながら酒盛りを楽しんでいる。
「くそ……ギイの野郎め。いい気になるのも今のうちだぞ」
「なあ、ギイがこの店から出たところでやっちまうか?」
兵士の片割れが不穏なことを言い始めた。悪だくみをする話になると、もう一人の男は首を低くして声を潜めた。
「ただ言いがかりをつけて殴るだけなら、俺はおりるぞ。口の上手いギイに顔を見られて訴えられたら、俺たちの居場所はなくなる」
「分かってる。なあに、俺もそんな馬鹿じゃない。何日か前にギイの店をのぞいた時、やつは休憩している時に女を抱いていた。その時にやつの背中を見ると、見たこともないでっかい焼き印がついていたんだ」
「焼き印?」
「あれが何なのかは分からねえ。けど、あの焼き印を大勢の人間の前で晒したらどうなる? 現にやつは裸の背中を見られないように気をつけて、女を抱いていたように見えたぜ」
「へ、へへ、良いなそれ。もしかしたらあいつにとってとても不名誉なものかもしれない。うまく着物を引っぺがせば、その焼き印が人目に晒されるってことだよな」
「ああそうだ。やってみないか? もし失敗しても殴るよりは誤魔化しが効くぜ」
勝手な妬みによって人を陥れようとする歪んだ笑いは、そばで聞き耳を立てているアーシムにとって心地の良いものではない。
空になった杯をテーブルに置いて、アーシムは左腕にいるマヘスに小声で話しかけた。
「マヘス、あの男たちの話は聞こえたか」
『もちろん聞こえていたぞ。お前が殺した男たちの死体は兵士たちに見つかったそうだな』
「ああ、それも重要だが、それよりも兵士たちが陥れようとしているあの若い商人が気になる」
『あそこで女を囲っているやつか。かなり裕福そうだが、何か用があるのか?』
「うむ……大したことじゃないが、恩を売ろうと思っている」
それを聞いてマヘスは少し黙ったが、すぐに聞き返した。
『あの兵士たちに焼き印を晒されそうになる時に、割って入って助けようということか?』
「そういうことだ」
『まだ読めないな、ただの商人に恩を売っても、取引の値段を多少融通してくれるくらいではないか。それに豊かな人間が少々助けられたくらいで恩を感じるかどうか怪しいものだ』
「狙いはそこじゃない。物資も必要だが、俺たちが最も欲しいのは情報だ。見たところあの商人は裕福な異国の人間で、こんな小さな町でずっと金稼ぎしてきたやつじゃない。つまり俺よりも諸国を旅した経験があり、見識だってずっと深いはずだ。アル・アジフに関連する噂だって聞けるかもしれない」
『理屈は分かるが……ただのがめつい成金かもしれぬぞ』
「まあ、商人なんて十中八九はそんなやつらだ。恩を感じてくれなかったり、有益な情報を持ってなければ今後関わらなければいい。ちょっと助けるくらいなら、こちらが損する要素は無いだろう」
『なるほど、一理あるな。助けて損しないなら、試してみるのも悪くない』
「よし、そうと決まればあの商人が宿を出るまで待とう。店を持っているほどの商人なら、こんな粗末な宿で泊まらず帰ってくれるはずだ」
アーシムは若い商人と兵士たちの様子をつぶさに観察しながら、これから始まるであろう荒事に向けて気持ちを落ち着かせる。
諍いに対する恐れは一切ないが、緊迫感を忘れることなく動きを窺っている。
待ち始めてから30分ほどして、商人の男が女たちに別れを告げて席を立った。連れ立った女の飲み代もまとめて勘定したのだろう、羽振りの良い金の出し方に女たちは喜んで男にもたれかかっていた。
そうして商人の男が上機嫌で酒場から出ていった後に、兵士の男たちも勘定を置いて即座に出ていった。
「さて、行くか」
続いてアーシムがテーブルに酒代を置いて席を離れた。
酒場への入口はひとつで、兵士たちは商人に続いてすぐに店を出たので、店を出た先で衣服を引き剥がすつもりなのだろう。なるべく人が集まりやすい場所で背中の焼き印を晒したいはずだ。
アーシムも遅れないように店の扉を開けて、襟布で顔を隠しながら外の様子を見た。
夜風は冷たいが通りには人がちらほらいた。店を出て右側へ向かった商人の男の後ろには、兵士たちが何食わぬ顔で足取りを速めて距離を縮めている。
「おっと、もうやる気か」
兵士たちが間もなく行動を起こすと分かったアーシムも駆け出す。兵士たちは酔った勢いで衣服を剥がしてしまったという筋書きを思い描いているのか、途端に千鳥足になって、商人の肩を乱暴に掴んだ。
驚いた商人が振り返って叫ぶが、兵士は騒ぎが大きくなる前に背中を晒そうと掴みかかる。
そこへ顔を布で隠したアーシムが乱入した。
「なっ、なんだ?!」
突然邪魔が入ったことに兵士たちが驚いたが、アーシムは手近にいた兵士のみぞおちに肘鉄砲を入れて昏倒させた。
「てめえ!」
乱入者によって相棒が倒されたことに、片割れの兵士が怒りのまま殴りかかってくるが、アーシムは拳を避けつつ顎に掌底をぶつける。
「がっ……はっ……」
強い衝撃が顎から脳へ突き抜けたことで、2人目の兵士も地面に崩れ落ちた。
若い商人はまだ何が起こったのか理解していない様子だが、アーシムは人が集まる前に商人の手首を捕まえて路地裏へ走り出した。
アーシムは少し時間を置いてから走る速度を緩めた。商人の男が冷静になってくれたことを振り向いて確認してから、足を止めて手を離した。
「おい、怪我はないか?」
そう呼びかけたアーシムが振り向くと、商人が被っていたターバンが解けて、雪のような白い頭髪が現れた。商人はターバンを巻き直そうとしたが、すぐに直せないと諦め、仕方なくターバンを懐に突っ込んだ。
珍しい髪色に素直に驚いていたアーシムを見て、商人も警戒心が和らいだのだろう。身構えることなく、息を大きく吐いてから答えた。
「ああ、俺は大丈夫です」
「そうか。ちなみにだが、あいつらが何を企んでいたかわかっているか?」
「……金品を奪おうとした、と思うのですが」
アーシムの問いに商人は少し考えてから、絞り出すように言った。もちろんアーシムは商人の背負う焼き印を耳にしているため、さらに込み入った問いを投げかけた。
「いいや、あの兵士たちはお前の衣服を破って剥がそうとしていたぞ。たしかに質の良い衣を着ているが、それが大した金になるとは思えない。お前の背中にある何かを知っていたんじゃないのか?」
背中のことに言及すると、男の目がわずかに険しくなった。冷静で思慮深い男のようだが、その背中にあるものは余程大きな問題になるものらしい。
「どこまで知っているのですか?」
「俺はあの兵士たちの話に聞き耳を立てていたにすぎない。知っているのは、お前の背中によく分からない印があるということ、そしてあいつらがそれを晒し出そうとしたことだけだ」
「分かりました。そこまで知っていて助けてもらったのであれば、礼をしなければなりませんね。ここでは何もできないので俺の店に来てください。大した物はありませんが、できる限りもてなしましょう」
商人の男はそう言って背を向けて歩き出し、アーシムも男の後に続いていった。
暗い夜道の中を歩いてたどり着いたのは、町の中心から離れた場所にある家屋の集まりだった。そこは大きな店や酒場が並ぶ市場などではない。ただの住民が住まう家々の中に、まるで亡命者の隠れ家のような場所に店があった。
「ずいぶん入り組んだ所なんだな」
「言っておきますが誰も住んでいませんよ。ここらへんの家は大体俺のものです」
商人が言った言葉にアーシムは面食らったようで、再び辺りの住宅をしっかり見渡した。どの家も古くて寂れているが、人が住めないほどではなく、買い取るとなれば相応の値段がするはずだ。
「元々あった家をまとめて買い取ったのか? かなりの額になるはずだが」
「なるべく邪魔の入らない場所を確保したくてね。俺がこの町に来る少し前に『病虫の巣がある』とか『町の人間を憎む亡霊が出る』とか悪い噂を触れ回って、先住者が逃げてから、安く買い取ったんですよ」
「……手段はともかく、よくそんな場所で商いが成り立つな」
そこで商人が振り返った。先ほどは暗がりで話したせいか表情が読めなかったが、ちょうど店先の篝火に照らされて、ずる賢い笑みを浮かべた細面の端正な顔が浮かび上がった。
「へへへ、もちろんいわくのついた場所で商売を続けるやつなんていませんよ。雇った人間に占術師の格好をさせて退魔の術を施したように見せたり、適当なアリの巣を利用して虫退治を演じたり、しっかりと人が集まるようにしましたよ」
それからも商人の男はあくどい含み笑いをしながら店の扉を開けて、奥の部屋にアーシムを誘った。
アーシムが通された奥の部屋は客人をもてなす部屋のようだ。これといった品物を並べておらず、良い生地の布をかぶせた樫の椅子が2脚あり、その間には緻密な木彫りが施された円卓がある。
商人はアーシムをもてなすために酒を用意するため、部屋にアーシムを残して別の扉から出ていった。
「予想以上に裕福な商人らしい」
『そしてなかなか狡猾な人間のようだ』
「ああ、俺もそう思う。まさか風評を操作して住宅一帯を丸ごと手に入れるとは、正直ついていけない考えだ」
『それで、肝心の情報は訊けそうか?』
「任せろ。あの男ほど財力と影響力があるのならば、他の国や地域の情報を多く知っている。この程度の町の中であれば、最も情勢に明るい人間のはずだ」
『アル・アジフのことを何か知っておれば良いのだが……』
「こればかりは運任せだ。空振りだったらそれはそれでしょうがない。またどこか別の場所まで旅をして、アル・アジフのことを聞いて回るだけさ」
マヘスと話してからひとしきり部屋を見渡し終えると、商人の男は酒瓶と瑠璃色のグラスを2杯持って戻ってきた。
「お待たせしました。有り合わせの品しかありませんが、どうぞご賞味ください」
そう言って商人はうやうやしく酒をグラスに注いだ。さらに懐から革袋を出して、円卓の上でその袋の口を開けた。部屋の中には濃厚なブドウ酒の香りと、香ばしい燻製肉の匂いが広がった。
「これはワインという酒か?」
中東の世界には馴染みの少ない物を前にして、アーシムは素直に商人に質問した。
「ええ、そうです。飲むのは初めてで?」
「そうだな。果実からできた酒だとは知っていたが、これほど匂いが強いとは思わなかった」
「このワインは良い物ですよ。地中海よりもずっと北にあるフランス王国のブドウで作ったワインでして、そこらのワインよりも匂いと味に深みがあります」
そして商人は先に自分のグラスに口をつけてワインを飲んだ。アーシムより先に一口飲むことで、毒見は済んだと伝えたかったのだろう。
「いただこう」
アーシムは美しい瑠璃のグラスを傾けて、香り高い赤ワインを口の中へ迎え入れた。
口に含むとブドウの酸味と甘みが広がり、鼻腔にも芳醇な果実の主張が突き刺さる。その濃厚さゆえに苦みすら感じるほどだったが、その苦さすらもブドウの魅力的な味わいの揺れ動きによるものであり、このワインの上質な濃度を物語っていた。
未知の味が予想を越えて美味であったため、アーシムはじっくりと口に含んでから名残惜しそうに飲み込んだ。
「美味いな。いい酒だ」
「ふふ、口に合ったようで良かった」
「そういえば名前を聞いてなかったな」
「そうですね。俺のことはギイと呼んでください。ヴェネツィアからやってきたばかりで、この地方の決まりや宗教は勉強中ですが、どうぞよろしく」
「こちらこそ。俺はアーシムと呼んでくれ」
「アーシム……守る人、ということですか。いい名前ですね」
ギイに名前の意味を当てられ、思わずアーシムは数秒固まった。
「……よく知っているな。まだ勉強中だと言っていたが、そこまでアラブの言葉を知っているとは驚いた」
「なあに、たまたまですよ」
にやりと笑ったギイはグラスをあおってワインを飲み干した。
「ぷはぁっ……アーシムさんはどこの国から来た人なんですか?」
「ここからずっと東の地だ。ここファティマ朝と同じ文化圏だが、俺が生まれた所は内乱が多く、どの王朝が支配しているのかあいまいだった」
「それは大変ですね。俺の生まれた所も似たようなものですが」
「む、ギイの生まれはイタリア王国ではないのか」
「少年の頃はポーランドのプラハで生まれ育ちました。大きな戦こそないですが、町や村どうしの争い、賊徒による人さらいまで、何でもござれでしたよ」
話しながらギイが両方のグラスに酒を注ぎ足す。それから自分で出した燻製の肉をつまんでかじった。
「それは何の肉だ?」
アーシムが訊くとギイは答えた。
「鶏の肉ですよ。個人的に、ワインには豚の腸詰めが定番だと思うのですが、この国の人は豚肉を好まないと聞いたので」
「好まないというよりも、教えによって禁じられているという方が正しい。まあ、正直俺は信徒でもないから特に気にしないが」
そう言ってアーシムも鶏肉をつまんで口に放り込んだ。噛み応えがあり、噛むほど香辛料を含んだ塩味が口の中に染み渡っていく。酒を楽しむにはまさにうってつけの肴だ。
「薬味が強い。だが、これは癖になるな」
「それはインドから来た行商人が売っていた香辛料を練りこんだものです。まだこの香辛料は広く知れ渡っていませんが、俺はもっと大勢の人が食せるようになってほしいところです」
「食や生活が豊かになるのは良いことだと思うが、はたしてそのような平和が訪れるかな」
意味ありげな言葉を口にしたアーシムの顔を、商人のギイがじっと顔色を窺ってくる。何か言い返すことはなく、アーシムの言葉をゆっくりと咀嚼しているようだ。
それからしばらく2人は静かに酒を酌み交わしていた。特に会話を続けることなく、グラスから酒が切れればギイが注ぐだけだった。
「どれ、次は俺が酒を注ごう」
ギイのグラスが空になったところで、アーシムが右手で酒瓶を取ろうとした。アーシムから見て、酒瓶は左側にあるというのに。
「つかぬことを訊きますが、アーシムさんは左手が不自由なのですか」
アーシムの手の動きを見ていたギイが踏み込んだ問いを投げかけた。
そのままアーシムは酒瓶を持ち上げて、両方のグラスに酒を注いだ。ギイとアーシムの視線がそこでぶつかり合い、アーシムの目にも狩人のような集中力が宿っていく。
「別に不自由ではないぞ。醜い傷痕があるから隠しているだけだ」
「そうですか……もし、余計なことでなければ見せていただけませんか? 俺の店の在庫には膏薬や医療化粧などが揃ってます。傷の程度によっては、痛みを和らげ、傷の痕を覆い隠すこともできますが」
ギイの顔には柔和な笑顔が張り付いているが、その笑顔の奥には、アーシムという謎多き男への好奇心が隠されている。その好奇心はギイという男が生来持つ純粋なものなのか、はたまた利と知を飽くなく求める商売人としてのものなのか。
「いやだ、と言ったら?」
射貫くような目でアーシムがギイを見ている。善意ではなく好奇心でアーシムの左手を見ようとしたギイを、注意深く品定めしている目だ。
「であれば、僕にそれ以上できることはありません。せっかく助けていただいたお礼ができると思ったのですが、残念です」
そう言って息を吐いたギイは目線をそらしてグラスをあおった。頑なに左手を隠すアーシムに対する好奇心は強くても、無理に探ろうとはしなかった。
「ギイよ、お礼がしたいというのであれば、少々訊きたいことがあるのだが」
アーシムは酒を一口含み、静かにグラスを置いてギイを見据えた。ギイも重要な雰囲気を感じ取って、わずかに体を前傾させてしっかりと聞き取る構えを見せた。
「なんでしょう?」
「お前個人のことではなく、俺が知りたいのはとある書物についての情報だ。深いわけがあって俺はその書物を探す旅をしている。故郷を出てから、今までずっとだ」
「書物、ですか……」
「俺は地中海以北の国や文化について疎い。それに、東から旅をしてきたといっても見識が特別深いわけでもない。だからこそ、西欧諸国を回り、物流の盛んなヴェネツィアで商売をしてきたお前に情報を頼りたい」
「……わかりました。して、その書物とは?」
「アル・アジフ、という名の古い書物だ」
「アル…アジフ……耳にしたことはないですね。どのような書物なのですか?」
「一言で表せば魔導書の類に入る。200年以上も昔に書かれたもので、あまり口にできないおぞましい知識が記されている。そこらの詐欺師が金銭目当てに書いたものではなく、人の人生を破滅させることができる書物だ」
「そんな危険な書物が……アーシムさんは、そのようなものを手に入れたいのですか?」
「手に入れたいとは思えないな。危険だから在りかを突き止め、この世から消してしまうのが最善だと思っている」
「なるほど」
丁寧に説明しながらも、アーシムはギイの反応をつぶさに観察している。
魔導書と聞けば、その信憑性に眉をひそめる者もいる。逆に信心深さから恐怖を抱く者もいる。さらに言えば、万が一ギイが闇の勢力に属する者ならば、アル・アジフを追うアーシムに対して敵意を抱くかもしれない。
ギイという名うての商売人が、アル・アジフと聞いてどう出るか。何気ない質問の中にも、アーシムなりの考えがある。
『アーシム、この商人は知っていると思うか?』
『まだ分からないさ。魔導書と聞いて真剣に考えてくれるのかさえ微妙なものだ』
『ああ……しかし、俺はこの商人に何か引っかかる。まだ確証はないが、ただ知恵のある商人ではないと思うのだ』
『それは勘か? それとも予感か?』
『予感だ。それも悪い方のな。そして実を言うと、昔から悪い予感の方がよく当たる』
思考の中でアーシムとマヘスが会話を交わしている間、ギイは問われたアル・アジフという魔導書に対して記憶を辿っているようだった。それが演技だったのか、本当の思索だったのかは判別できないが、ややあってギイは口を開いた。
「アーシムさん、その魔導書は中東の地で書かれたものですか? 題名の単語の意味だけ取れば、アラビア語で『昆虫の鳴き声』だと思うのですが」
「その通りだ。古来から夜に響く虫の鳴き声は、魔物たちが吼える音だと伝わっている。そういった伝承に則って、作者はアル・アジフと名付けたのだろう。それがどうかしたか?」
「なるほど……いや、実は5年前にヴェネツィアにいた頃、そういった魔導書が密かに取引されているという噂が流れたんですよ。しかもその書物はアラブ人が書いたものらしく、今思えば、もしかしたらそれがアル・アジフだったかもしれないと」
「アラブ人が書いた魔導書か。それは怪しいな」
「俺もそう思います。けれど、それを追うのは難しいでしょう。もう5年も前の出来事ですし、もはやヴェネツィアでそのようなものを探し回るのは危険です」
ギイは再びグラスをあおって飲み干した。危険と言われて疑問符が浮かんだアーシムに、ギイは説明を続けた。
「ちょうどその魔導書の噂が俺の耳に届いたあたりで、教皇領から派遣されてきたという騎士団がヴェネツィアに来たんですよ。騎士団は戦のように殺気立っていて、特にアラブ出身の貿易商に対して厳しい取り調べをしていました」
「宗教の兵士……つまり異端の排除か」
「ええ、それです。そして彼らは強引な手腕でしたが、成果も確実に上げました。嘘だらけのインチキ魔導書からいわくつきの呪術奇術の草本など、そういった書物を余すことなく焚書にして、さらにそれらを売っていたと思われる商人たちを一斉に捕縛したんですよ。アラブ人だけではなく、中には同国人もいましたが、容赦なく彼ら騎士団は捕らえました」
「いくら同国とはいえ、他所から来た武装集団をヴェネツィアは許したのか? 交易の自由が確保された大都市と聞いたが」
「あくまでも秩序が保たれた中での自由です。戒律に厳しい騎士団は恐ろしく強く、また頑迷です。敬遠することはできても、排除することはできません」
「そうか……しかし、そうなるとヴェネツィアで魔導書探しをするのは危険だな。俺が追うアル・アジフに何かしら関わりがあるのなら、どうにかして調べたいものだ」
グラスを手で弄びながらアーシムは思い悩む。
ここまでギイと話していて、ギイに悪意などは感じられない。嘘をつくことも、話を変に誇張することもしていないように見受けられ、純粋にアーシムとの対談を積極的に行っているようだ。
それに、ギイの言うヴェネツィアで噂された魔導書というものも気になる。それがアル・アジフなのか、またそもそも存在しているのかさえ不確かだが、まだ何も手がかりがない状態ならば調べてみる価値はある。
『マヘス、もしギイの言っていた魔導書の出どころを本気で調べるとしたら、訊くことはひとつしかないぞ』
『俺も同じことを考えていた。現状、目的地が無いのならばそれしかないだろう』
マヘスとアーシムの考えがまとまった。アーシムはグラスを上げて一気に酒を喉に流し込んだ。
「ギイ、ヴェネツィアで騎士団に捕まった者たちの流刑先を教えてほしい」
「流刑先……まさか、行く気ですか」
「ああ。中東の王朝も分裂が激しく、西欧諸国も日に日に乱れていると聞く。どこの国も大勢の人間を処刑する余力はなく、俺の見立てでは大部分の人間は奴隷として働かされるか、離島などに流刑されるはずだ。違うか?」
「それは、そうです。騎士団が捕まえた人間の多くは処刑されず、イタリア本土から離れた場所に放り出されたようです。しかし、それはあまりに危険な旅だ」
「なに、危険なことなら何度となくあった。俺はその魔導書を見つけなければならない。たとえ命を失うことになってもだ」
アーシムとギイの視線が交差する。
特にこれまで多くの人間を見てきたギイにとって、アーシムの眼光は格別の力を持っていた。どんな人間にも目の力にわずかな揺らぎがある。そんな心の隙を突いて、そして時には情報を前もって仕入れて意図的に揺さぶることで、ギイはヴェネツィアという海千山千の人間が住まう都市で巧みに生き抜いてきた。
だからこそアーシムのまとう雰囲気には他では見られない力がある。死線を潜り抜けた歴戦の戦士の如く頑強で、悟りを開いた修験者の如く泰然としている。
半端な誤魔化しは通用しない。それを理解したギイは席を立ち、部屋の奥の壁にかけてあった地図を外して、アーシムのいる方へ持ってきた。
アーシムの目の前にある円卓の上に、色のついた精巧な地図が広がる。
「今いるのがこの町、そしてこれが地中海です。まっすぐ北へ行けば東ローマ帝国のクレタ島、大きく西へ進路をとればイタリア王国へ行けます」
「ふむ」
「そして流刑先はここです。外交に長けた住民が住まう都市もあり、戦略的要衝として活用されるところですが、奥地へ行けば未開の山もあるので、流刑者を押し込めておくことにも適しています」
「これは島か」
「はい、コルス島と言います。俺の当時の記憶が正しければ、この地におよそ30人の人間が魔導書に関わりを持ったとされ、教皇の騎士団に島流しされました」
「それだけ分かれば十分だ。ありがとう、世話になった」
「もう出発するつもりで?」
「ああ、この町に他の用はない。お前のおかげで有益な情報がとれたし、早々に船を見つけてコルス島へ向かう」
そう言ってアーシムは席から立ち、ギイに謝辞を述べてから部屋を出ようとした。
「待ってください」
しかしギイがすかさず呼び止める。アーシムはワインを飲んだせいで足取りがわずかに遅くなり、後ろにいたギイに回り込まれた形だ。
「目的の地へ行くために急ぐのは構いませんが、そう頻繁に船は行き来しませんよ。大都市のカーヒラならともかく、この町の流通はまずまずです」
「ならばカーヒラまで行けばいいだろう」
「平たく言えばそうです。しかし事は単純な話ではありません。今のカーヒラは東ローマやイタリアと戦うための支度を水面下で進めていると聞いてます。表面上は友好的に商売していますが、きっかけがあれば戦の火蓋が切って落とされますよ」
「戦になれば海路は封鎖され、船の行き来はできなくなる……だが陸路では月日がかかってしまう」
「そこで、俺と取引しませんか。商団が持っているような大船ではありませんが、俺も個人的な船を所有しています」
「商魂たくましいなと言いたいところだが、あいにく俺には持ち合わせがない。取引する相手を選び損ねていないか」
毅然と言い切ったアーシムに対し、ギイはゆっくり首を横に振った。
「いいえ、それは目先の利益です。俺が欲しいのは船の運行料などではありません。いずれアーシムさんの周りで、大きな出来事が起こる可能性がある。それを察知しているからこそ、アーシムさんにとっても、俺にとっても得がある条件を出させていただきます」
「……」
「それに、助けてもらった礼が酒の一杯だけというのは、まったく度量の低い振る舞いでしょう? とりあえず今晩はこの建物にある客人室に泊まって、明日の朝にまた細かい話をしましょう」
「そこまでするということは、ただ俺をコルス島に運ぶだけではないらしい。お前も何か考えがあり、コルス島ひいてはイタリア王国の何かに新たな用件ができた。そうだろう?」
「ふふ、もう夜も更けています。その話の続きは、また明日」
そして酒席はお開きになり、ギイはアーシムを奥へ案内した。
この建物は一般的な住宅よりも一回り大きく、廊下は広く、部屋の数も多い。その中で2階の奥にある一室を、ギイはアーシムに紹介した。
「この部屋にあるものは好きに使って構いません。用があれば袖机にあるベルを鳴らしてください。昼ならば近くにいる俺の使用人が、夜ならば俺が用を伺います」
ギイはそう言って部屋から出ていき、アーシムが残された。
案内された部屋は木骨が等間隔に入った石造りだ。どの調度品にもアラブの文化とは別の趣があり、特に目を見張るのは重厚なオーク材を用いた棚と机だ。家具に詳しくないアーシムでも西洋の高級品だと分かるほどだ。
「いい部屋だな。あるものはどれも値打ちものだろう」
『ああ、そしてこの家の他にも家を所持している。あの若造、荒事は苦手だが商才は申し分ない。下手に隙を見せて騙されないように気をつけろよ』
「それは充分気をつけているさ。ただ俺が気になるのは、お前の言った嫌な予感だ。杞憂に過ぎればそれで良いが……」
アーシムがベッドに腰かけて左手の方をじっと見る。
『なんだ、真剣に考えてくれていたのか』
「当たり前だろう。お前はまだこの時代の知識については疎いが、魔術的なことは俺よりもはるかに鋭い。脈絡が無くても、お前が危険だと言えば聞くつもりだ。……それで、ギイは実際怪しいか?」
『怪しいが、悪人かは分からん。もしも魔導に通じている悪人なら、酒に毒でも混ぜておけば済む話だ。もてなすにしても、油断を見せないお前にわざわざここまでもてなす道理がない』
「手下が潜んでいる可能性は?」
『それもないな。人外の者が潜んでいたら俺が察知できているはずだ。あの地下で怪物が現れた時のような、隠された魔術式ならば触れるまで気づけないが』
「分かった。ギイの正体と目的は不明だが、ひとまず敵ではなさそうだ。明日起きたらもう一度話し合い、対価の条件が悪くなさそうなら船を出してもらおう」
『そうだな。よし、ならば眠る前に防御魔術を扉と窓に施しておけ。怪物に襲われた時に使った、生命十字アンクの魔術だ』
「あの血文字の魔術か、よし」
マヘスの指示を受けて、アーシムが腰に差していたナイフで指先を切る。切られた皮と皮の間から血が流れ、その血がついた指で窓と扉にアンクを描いた。
「汚しすぎないためとはいえ、こんな小さな文字で良いのか?」
『あの時は怪物の魔術が強いと感じたから大きく描いたのだ。本来のアンクは手のひらより小さく描くものだ。これは防御というよりも、危険の到来を主に知らせる意味合いが強い』
「守るためではないのか」
『大きく描けば強い防護壁となるが、消耗が激しい。旅先でいちいち大きく描いていてはお前の身が保たないぞ』
マヘスの忠告通りにアーシムは小さなアンクを描き終えると、アーシムは自らの体がわずかに重くなる感覚を覚えた。
『まさしくそれが魔術を使った時に見られる疲労だ。魔術は人の為す技ではなく、代償として精神を削るものだからな』
「下手に多用することはできないか。分かった、気をつけよう」
それからアーシムは燭台の火を吹き消した。部屋は暗闇に包まれ、窓の隙間からこぼれる夜風を感じながら眠りについた。
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