黒斧の女戦士
女戦士の不意打ちをかろうじて防ぎ、飛び下がったアーシムは橋の上に立っている。
その橋は小さな水路の上に架けられた橋で、石造りだが狭くて短い。ここなら下手に回り込まれる心配はないと考え、アーシムはいまだ痺れる手で短剣を構え直す。
橋の近くの地面ではウルフスタンが尻もちをついている。とっさにアーシムが突き飛ばしたおかげで怪我はなさそうだが、この緊急事態に驚きを隠せていない。
「早く見せな。持っているのだろう? アル・アジフを」
アーシムを背後から攻撃してきた襲撃者、ヴァイキングの女戦士は手をクイクイと倒して、アーシムを軽く煽ってくる。
当然、それに乗るほどアーシムは短気ではない。
しかしこの女戦士の言っていることは聞き流すことはできない。アーシムとマヘスの旅の核心部分、魔典アル・アジフのことを口に出したのだから。
『こいつはアル・アジフを知っている……そして、お前がアル・アジフを持っていると思っているようだ。まさか、こいつもアル・アジフを集める魔術師なのか』
禁断の魔典の名を恐れず口に出す女戦士を見て、マヘスはその女戦士にただならぬ気配を感じ取った。
『なんにせよ油断するなよ、アーシム。この女、今までの人間とは別だ』
マヘスの忠告をアーシムは心に刻みつつ、女戦士の問いに返答した。
「アル・アジフ、だと? 何を勘違いしているのか知らないが、いきなり殺される筋合いはないぞ」
「とぼけないで。すでに大体はわかっているんだ……そう来るなら、勘違いかどうかお前の左腕を叩き斬ってから確認してやるっ!」
「ッ!?」
左腕を狙われていると気づき、アーシムは戦慄した。アーシムは常に左腕を包帯で覆い、マヘスの存在を知っているのはギイだけだ。この女戦士がどこでそれを知りえたのか、まったく想像がつかない。
「何を呆けている!」
アーシムが戸惑った直後、女戦士は駆け出す。一気に距離を詰めてきて、黒い斧を振り下ろしてきた。
「らぁあーーッ!!」
「っ、しぃッ!」
迷いなく襲い掛かる女戦士の気迫にアーシムは押されそうになるが、負けじと斧の刃を剣で受け止めた。さらに剣の凹凸で受け止めた斧をひねりながら、体を翻して回し蹴りを浴びせた。
鋭い回し蹴りが女戦士の首を狙うが、女戦士はもう1本の斧の柄で蹴り脚を防いだ。
蹴りは不発に終わったが、女戦士の体勢が崩れる。
すかさずアーシムは追撃しようとしたが、女戦士は蹴られた勢いを利用して橋の石へりにぶつかり、逆にアーシムの体へ体当たりしてきた。
「うおぉっ!?」
大柄なアーシムの体が宙に舞い、橋を渡った先の路地に転がる。体が衝突した瞬間の衝撃は、今までの出会ってきたごろつきや賊とは比べ物にならない強さだ。
なんとか立ち上がったアーシムの目の前、石橋の上に女戦士が立ちはだかる。黒い双斧を握って迫る様は、まさに泣く子も黙る蛮族の姿だ。
「どうした? ずいぶん大人しい戦い方をしているが、余裕のつもりか」
「なに……?」
「人ならざる力で暴れるのが本性じゃないのか。狂気に染まり、血に酔うのが魔典の眷属たるゆえんだろう」
女戦士の蒼い瞳がアーシムを見据える。その瞳の奥からは揺るがない殺気が感じられる。まるで獲物を狙う猛禽類のような、獰猛な意志を感じる。
「……まあ良いさ、お前たち眷属が狡知に長け、人を化かす術に長けているのは知っている。姿を隠したまま抵抗するというなら、このまま殺すだけだ!」
叫んだ女戦士が肉薄する。今度は2本の斧を同時に振り上げ、左右から振り下ろしてきた。
「ちぃ!」
両方の斧を防ぐ手段がないアーシムは、横へ飛んで回避した。
「逃がすか!」
だが女戦士も全力で斧を振り下ろした直後に、アーシムを追ってくる。女の身でありながら2つの武器を自在に振るい、なおかつ精強な体力を有しているようだ。
このまま逃げているだけでは状況は変わらない。そう思ったアーシムは剣を構え、突撃してくる女戦士の胴体へ剣を突き出した。
「甘いっ!」
しかし女戦士は体を沈ませながら横へずらしたことで、剣を躱しつつアーシムの懐へ入り込んだ。
「なっ…」
「だぁッ!」
体が密着するほど迫った女戦士は、その接近した間合いで肘を振り上げ、アーシムの顎を打ち抜いた。
「ぐがぁっ!」
アーシムがよろめいたことで、間合いがわずかに遠くなる。女戦士が存分に斧を振り回せる間合いだ。
「これで、終わりだ!」
よろめいたアーシムへ斧が襲い掛かる。
視界が明滅したまま命が刈り取られてしまう直前、アーシムの中にいるマヘスが力を発揮した。
その場からアーシムの体が右後方へ翻る。斧はアーシムの肉体に食い込まず、空を切り裂いてから地面に激突した。
「なに!?」
ふらふらとよろめいていた男の体がいきなり飛んで逃げたので、さすがの女戦士も目を見開いた。
アーシムが飛んだ方向へ女戦士が目を向けると、水路に浮いていた小舟にアーシムが着地していた。
小舟の上で、アーシムがうつむきながらしゃがみこんでいる。外から見ればうずくまっているようにしか見えないが、アーシムの中では、戦神マヘスが憑依を開始していた。
『ひとまず、こいつを撃退するぞ。逃げてもギイの店まで追われてしまえば被害が大きくなる。殺しはまずいが、全力で叩きのめせ!』
アーシムの中でギイが檄を飛ばした。マヘスもアーシムも、どこまで憑依を深くすれば理性を失ってしまうか把握している。
ならば今回の全力というのは、アーシムの理性が消えない範疇で、獅子神マヘスの憑依を限界まで深くするということである。
「ぐぅぅぅっ……う、ぐ、おぉおおおっ!!」
獣のごとく咆哮したアーシムの体が飛び、その衝撃で小舟が裏返って沈む。
アーシムの体は女戦士のいる路地へ着地、そのまま距離を詰めていく。
「なっ…だぁああっ!」
無造作に迫ってくるアーシムに女戦士は驚いたが、斧を叩きつける絶好の機会を逃さず振り下ろす。
グンッ!
しかしその瞬間にアーシムが加速する。斧は空振り、アーシムは肩を前面に押し出して女戦士の腹に激突した。
「ぐはっ!」
アーシムの強烈な突進を受け、女戦士の体は吹っ飛んだ。
宙に浮いて飛ばされた女戦士だったが、意識までは手放さず、歯を食いしばって滑りながら着地した。
「ぐ……こ、のっ……!」
腹を押さえた女戦士が顔を上げると、すでにアーシムが間近まで迫っていた。
ゴォオオオッ!!
獅子の力を身にまとったアーシムが拳を突き出す。女戦士は首をひねって回避し、一旦後ろへ飛んで距離を離す。
かろうじて避けたアーシムの拳は凄まじい風切り音をたてていた。女戦士はわずかに顔がひきつっていたが、すぐにこれが眷属の本領を発揮したのだと考えた。
「ふ、ふふっ、なるほど……意外にも凶暴だ。そして、他の眷属と違って正面から来るのか」
苦笑いした女戦士は、双斧を静かに構えた。マヘスが憑依したアーシムを真っ向から迎え撃つ覚悟を決めたのだ。
両者の殺気で空気が圧縮される。唸りを上げるアーシムの恐ろしい殺気と、女戦士の鉄のように冷徹な殺気が混ざり合う。
「……来いッ!!」
「ォォオアアアッ!」
先にアーシムが駆け出す。低い体勢から突進し、右の拳を女戦士に目がけて突き上げる。
「だぁっ!」
女戦士は斧で拳を叩き斬ろうとしたが、アーシムの拳の速さを見誤り、拳は振り下ろした斧の柄に衝突する。
「グウゥッ!」
「ちぃっ!」
硬い木製の柄と拳がぶつかり、両者の手がしびれる。しかし押し切ったのは女戦士の方だった。アーシムの体勢がかすかに崩れた瞬間、もう片方の斧でアーシムの首を薙ぎ斬ろうとした。
その斧の刃を、アーシムは左手刀で迎え撃った。
まずは指を切り落とせたと確信した女戦士だったが、包帯に巻かれた左手に刃は突き刺さらず、むしろ斧の刃に亀裂が走った。
「なにいっ!?」
手練れである女戦士は武器こそ落とさなかったが、明らかに常識から外れた現象に怯んだ。斧の刃を破壊する手刀など、怪物だとしてもありえない。
「うおりゃあああっ!!」
女戦士が怯んだ時、その背後から別の怒号が飛んできた。振り返ろうとする前に女戦士の体は水路へ吹き飛ばされた。
「ゔっ!?」
後ろからウルフスタンが木材で殴り飛ばしたのだ。女戦士は水しぶきを上げて水路へ落下し、そのまま浮かび上がってこない。
「おい、早く逃げようぜ! 今のうちに!」
持っていた木材を捨てて、ウルフスタンがアーシムの手をつかむ。まだ理性が残っているアーシムは女戦士が落ちた水路を見て、わずかにウルフスタンに抵抗した。
「ま、待て、あの女が……」
「あんなやつ気にかけてる場合か! 生きてたら襲い掛かってくるだろうし、あれで溺れ死んだら俺たちが人殺しだ! 誰も見てないうちに、ここから離れるんだ!」
アーシムは落ちた女戦士がどうなったか気になったが、ウルフスタンが有無も言わさずアーシムを引っ張って走り出した。今の殺し合いに巻き込まれたせいで、とうにウルフスタンの酔いは醒めたようだ。
2人は走ってその場から去り、後には暗い水路に波紋が広がっているだけだった。
閑静な街の一角で繰り広げられた戦闘の音に気づいたのか、それともウルフスタンの大声のせいか、少し遅れて住民が顔を出してきた。
酒場にも近いこの辺りでは、酔っ払い同士の酒場は頻繫に起こる。今さら喧嘩を見物する物好きはいないが、先ほどの騒ぎはいつもの喧嘩とは違うと思ったのだ。
「今の音、聞いたか?」
「あ、ああ。なにか、人を殴ったり、誰かを水路に突き落としたような音がしたぜ」
家の扉を開けて出てきた住民の中に若い男2人がいる。男たちは顔を見合わせて先ほどの音について話し始める。
「喧嘩にしてはすごい音だったよな。もう誰もいないみたいだが……」
「水に落ちた音はしたよな? けど、誰かが岸に上がった様子はないぞ」
「じゃ、じゃあ落ちたやつは今頃……」
このヴェネツィアでは人が誤って水路に落ちる事件はよくある。
そしてもちろん、落ちた人間が助からなかったらどうなるのか男たちはよく知っている。
最悪の事態を想像した男たちは、わずかに波紋が残っている場所に近づき、真っ暗な水路を覗き込もうとした。
その途端、黒々とした水の中から金髪の頭が飛び出した。
「ひぃいっ!?」
浮かび上がってきた人間に腰を抜かした男たちは、あわあわと声を上げながら、体をよたつかせて逃げていった。
水路から頭を出した女戦士は周囲を見渡し、まず斧を岸に置いて、その後に岸へ這い上がってきた。
「逃げたか……」
そう呟いた女戦士の長い金髪から水がしたたる。うっとおしそうに首を振って水を飛ばしてから、左手でゆっくりと前髪をかき上げた。
「まあ良い、あの程度ならいつでも殺せる。アラビアの眷属の力が知れただけで充分だ」
女戦士は殺意の籠った笑顔を浮かべている。そして足元にある双斧を拾い上げ、暗い路地の中へ消えていくのだった。
質問、ご意見等があれば、お気軽にどうぞ!




