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忍び寄る影

 大勢の人間が行き交う狭い通りを、アーシムとウルフスタンが進んでいく。ヴェネツィアの入り組んだ通りにも人は多いが、大柄なアーシムとウルフスタンの姿を見た人間は、萎縮して道を譲っていく。


 アーシムとウルフスタンが通行人を威嚇しているわけではないが、屈強な体つきの男2人が並んで歩く様は充分な威圧感を醸している。


「ウルフスタン、お前はどの酒が飲みたいのか決めているか?」


 酒場の多い地区に案内するアーシムが、後ろを歩く船乗りウルフスタンに話しかける。


「うんにゃ、なんにも決めてねえよ」


「それでは困るぞ。俺だってお前がどんな酒が好きか頭に入れておきたい。船で飲んでいた蜂蜜酒とかが良いのか?」


「蜂蜜酒かあ……そう言われても、気分によって飲みたいものが変わるからなあ。エールも良いし、東方の乳酒も気になるしな……」


「気の多いやつだな」


「まあ、そう言わんでくれよ。あっ、でもひとつだけ決めてることはあるぜ!」


「む?」


「とびきり上等なもんを頼む! 飲んだ瞬間に天に昇っちまうような酒だ!」


「あ、ああ……」


 遠慮というものを知らなそうなウルフスタンを見て、さすがのアーシムも苦笑いするしかなかった。


 2人が路地を抜けると大運河沿いの通りに出た。昼下がりの通りはまだ賑わっていて、いかついアーシムとウルフスタンにも果敢に客引きする商人もいる。


 運河の上でも船の往来は激しく、商人同士の場所争いが勃発することもしばしばだ。


「栄えていることは素晴らしいが、街や島々を行き来するのに水路に大きく頼っているというは、不便にも思えるが」


 運河の光景を見て、アーシムがぽつりと呟いた。


「まあ、たしかに面倒なこともあるだろうさ。水路のおかげで物の運搬は楽だが、その分だけ道は狭っくるしい。本土へ行くにも、隣の島に行くにも、そして商売するにも船がなきゃお話にならねえ」


「この街の商人は全員が船を持っているのか?」


 そう話すウルフスタンにアーシムが質問を投げかける。


「いや、船を持ってないやつも多い。誰かの船に乗せてもらってここに来た行商人とかな。そういうやつは自分の船を持っていない分、台所事情は厳しいだろうな。何らかのツテがなければ、すぐにこの街で落ちぶれるってことさ」


「華やかだが、世知辛い街だな」


「ここはそんなところさ。探せば金を稼ぐ手段はいくらでもあるが、長続きしない仕事がほとんどさ。水夫の仕事にしたって、ここでは競争が激しい。どんな職でも、ここで長く生きていけるやつは、ずる賢くて世渡り上手なやつか、よっぽど知恵と力があるやつだろう」


「ふむ……知恵があることとずる賢いことは、お前の中で明確に違うのか?」


「どう死ぬかの違いだぜ。これは俺の経験則だが、前者はみじめに死ぬし、後者は苦しんでから死ぬ。まあ、どう死のうが、生きてる方がずっとマシだが」


「面白い考え方だ。どう死ぬかで人のなりが分かると」


「へっ、俺が勝手にそう思ってるだけだ。ここは栄えているが、世間は狭いんだ。自分のことを賢いと思って仲間を出し抜く奴ほど、どこかで無理が生まれて痛い目に遭うんだ。背伸びしているわけだからな。そうやって、仲間外れにされて野垂れ死んだ同業者はいくらでもいるぜ」


 いつになく饒舌なウルフスタンを見て、アーシムはウルフスタンの本質がなんとなくわかった気がした。


 船で一緒だった時も、ウルフスタンは常に明るく豪放だったが、どこかでふと孤独な一面をのぞかせていた。他の船乗りと違い、ヴェネツィアでの生きづらさや、食い扶持を得るための苦労を知っていて、それらの現実を冷淡に受け取っていた。


 その見た目からは想像がつきにくいが、ウルフスタンは意外にも繊細な思考の持ち主らしい。細かいことを考えないのではなく、生き抜くために必要なことしか考えられない男なのだろう。


 ウルフスタンはコルス島からヴェネツィアに着くまでの間、なにかとアーシムとハリルの面倒を見てくれた男だ。その礼もしたいアーシムは、酒を飲み歩ける地区に着いたら、ウルフスタンにたらふく酒を奢ってやろうと思うのだった。




 アーシムを見送った後、ギイは店の前の通りとその先にある広場の方を見ていた。


 広場に品物を広げる露天商と、元から広場に建物を建てている商店は、どちらも客を招くことに注力している。商店にとって広場に居座る露天商はこちらの売り上げを落とす邪魔な存在だが、露天商の商人も道楽で物や食料を売っているわけではない。どちらも必死に、狡猾に、金を稼ぐことを目指して声を張り上げている。


 そしてそこに様々な人間が通り、時には店の前に立ち止まる。休憩中の水夫、どこかの店の使用人、若い修道士や武装した傭兵まで、低い身分の者も楽し気に歩いている。道端に座っている物乞いを除けば、いたって明るく活気のある街並みだ。


 しばらく通りを見下ろしていたギイは、部屋の扉をノックする音に気づくと、テーブルの上に広げていた地図を本棚にしまい、部屋の扉を開けた。


 部屋の前には旅の服から仕事着に着替えたハリルが立っていた。顔つきや肌の色を見ればアラビアの人間だが、身なりはヴェネツィアに馴染んでいる。


「着替え終わったのか」


「はい!」


 元気よく返事したハリルを見て、ギイは穏やかな顔で労う。


「アーシムさんの旅に協力してくれてありがとう。今日は旅の荷物をまとめたら、そこの部屋でゆっくり休んで良いぞ」


「いえ、僕は大丈夫です。明日から仕事を覚えても大変なので、下にいるラティーフさんたちの手伝いをしてきます!」


「わかった。あまり無理はするなよ」


「はい!……あの、そこの部屋で休んで良いって、この店に寝室があるんですか?」


「数は少ないが、この店にも従業員用の個室がある。商品の倉庫と大人数の宿舎は前の広場へ出て、右手の路地を入った先の建物だ」


「そうだったんですか。でしたら、僕もその宿舎で荷ほどきした方が……」


「ああ、すまない。そもそも宿舎の部屋が厳しい広さなんだ。一人増える準備もまだできていない。近いうちにハリルも住めるようにしておくから、数日間はここで過ごしてくれ」


「わかりました!」


 仕事仲間と寝食を共に過ごせないことに、わずかにハリルの顔が曇ったが、すぐに気を取り直して階下に降りていった。


 元気よく下へ降りていくハリルを見送った後、ギイは2階にある別の部屋の中に入った。


 部屋には使用人のナシートが掃除を行っていた。水で濡らした布で部屋の床を拭いている。


「あ、ご主人」


 ナシートはギイに気づくと、姿勢を正して立ち上がった。ギイは挨拶を止めさせ、掃除の進捗状況を聞いた。


「気にするな、そのまま続けてくれ。もう少しで終わりそうか?」


「そろそろ終わりますよ。狭い部屋ですし、楽なもんです」


「はっきり言うじゃないか。貸してくれている店を狭いと言うのはお前くらいだ」


「あはは、すんませんね。思っていることが出てしまうもんで」


 ナシートの言葉にギイがふっと笑い、ナシートのそばを通り抜け、窓を開けて外を見た。


 この部屋の窓は店の側面にある路地に面している。店の前の通りより道幅は狭く、向かい側の建物はギイの手が届きそうなほど近い。またその路地には日の光がほとんど届かず、常に薄暗く、人通りも少ない。


「今日はハリルが別々に泊まること、知っているよな」


 ギイが窓を背にして立ち、ナシートにそう言った。


「もちろん知っていますよ。だから、こうして綺麗にしているじゃないですか」


「わかっているなら良い。予定通り、あいつの荷物は隣の部屋にも移してくれ」


「わかりました」


 ナシートに指示を出してから、ギイは部屋を出た。


 薄暗い廊下に立つギイの顔には、ピンと張り詰めた緊張感が現れている。大きく息を吐いて気分を落ち着けてから、ギイは階下の店舗に降りていった。


 


 アーシムの先導のもと、アーシムとウルフスタンはヴェネツィアの東部に位置する地区に足を踏み入れた。すでに陽は傾き、潮風が涼しい空気を運んできているが、それに反してウルフスタンは高揚している。


 それは当然のこと、この地区には酒場や賭博場、娼館や奴隷商が多い。市場の多いヴェネツィア南部や中心部と比べて建物が多く密集し、明らかに大衆的な雰囲気が感じられる。


 酒好きなウルフスタンにとって、ここはヴェネツィアの中で最も楽しめる場所だ。


「アーシム、初めてヴェネツィアに来たくせに、こんなところをよく知ってたなあ。俺もたまにここへ来るが、なかなか通な場所だぜ」


「俺はギイから色々聞いただけだ。さて、どこで飲む?」


「腹も減ったし、肉や魚がうまいところがいいな。まずは冷えたエールと燻製肉が欲しいところだ」


「よし、わかった」


 ウルフスタンから今の気分を聞いたアーシムは、それに合った店があるか、周囲を見渡しながら歩き続ける。


 この辺りの路地は基本的に狭く、入り組んでいる。人口の多いヴェネツィアでも特にここは密集地であり、食いつめ者や荒くれ者など、ごろつきめいた酔っ払いも多い。


 ギイの言う通り、ここで何か嗅ぎまわれば目を付けられるだろう。ただでさえ後ろめたい人間が多い場所だ。華奢なギイや使用人たちがうろつけば、間違いなく絡まれてしまう。


 今のところアーシムたちが絡まれていないのも、外見が主な原因だろう。


 アラビア出身のアーシムが歩き回っている姿を見ても、下手に絡もうとする無謀な人間はいない。アーシムもウルフスタンもともに背が高く、薄着のウルフスタンは筋肉質な巨腕を見せつけている。


「ここはどうだ?」


 アーシムが指差した先には一件の大衆酒場があった。建物は木造で、牡牛のシンボルの看板を掛け、煙突から香ばしい肉の匂いが漂っている。


「草原の牡牛亭か。ここは酒も肉も良いところだぜ」


「なんだ、ここは来たことがあるのか」


「1年くらい前にな。久しぶりに、ここのエールを飲んでみてえな」


「よし、ならここに入ろう」


 ウルフスタンの反応が良かったため、アーシムは扉に手をかけて中に入った。


 牡牛亭の中は濃い酒の臭いと、食欲をそそる焼いた肉の匂いがブレンドされていた。店の中には水夫や職人など、労働にいそしむ人間が多く、陽気に歌を歌い、快活に笑い合って酒を酌み交わしている。


 ウルフスタンが先を歩き、店の奥の空いている席に2人は座った。


「おやじ! エールを2丁! あと、肉と魚をつけてくれ!」


 手を大きく振ってウルフスタンが叫ぶと、カウンターの中にいた中年男が返事した。


「あいよ! 今日は上等な黒エールが入ったんだが、そっちにするか?」


「そうしてくれ!」


 ウルフスタンが黒エールを頼んで待つと、すぐにテーブルに酒と肉と魚が置かれた。


「さあ、飲もうぜ! 乾杯だ!」


 酒を見て上機嫌になったウルフスタンが器を掲げ、アーシムもそれに続いて乾杯する。


 木の器になみなみと入ったエールは黒く、普通のエールよりも香りが濃い。早速、アーシムは器をあおって黒エールを飲んだ。


「うまいな。これは癖になる……!」


 香りから多少は想像できたが、黒エールの独特の苦みと酸味は、アーシムも感嘆した。ギイから馳走になったワインも良いが、この黒エールの苦みの奥には、ワインにはない絶妙な酸味がある。


 アーシムが黒エールを飲み干した頃には、ウルフスタンも器を空にしていた。


「いやあ、久しぶりに飲んだがやっぱりうめえな! そこらの安物のエールとは大違いだ!」


 飲み切った器をテーブルにドンッと置き、ウルフスタンは酒の美味さに酔いしれる。


 すぐにウルフスタンは追加の黒エールを注文し、次はテーブルの上に並ぶ肉と魚に目を向けた。


 若鶏の脚を焼いた肉には、東方の黒胡椒と唐辛子の粉がまぶされ、細かく刻んだハーブが添えられている。魚はこんがりと塩焼きにされ、ターメリックとナッツを混ぜたソースがたっぷりとかけてある。


 焼きたての肉と魚からは湯気と香りがくゆり立ち、テーブルを囲んで座るアーシムとウルフスタンの鼻腔をくすぐった。


「冷めないうちにさっさと食おうぜ!」


「そうだな」


 ウルフスタンが若鶏の脚の1本を取り、大きく口を開けて頬張った。肉にかぶりついた歯と歯の間から熱い肉汁がこぼれるが、ウルフスタンは気にせず二口目にかじりついた。


 アーシムは持っていたナイフで魚の身を開き、半分になった身を器用にナイフですくって、口に放り込んだ。辛みと甘みがちょうど良く絡み合い、プリプリと弾力のある身を口の中で味わう。


「かぁ~~っ! うめえ!」


「うむ、これは絶品だ! 魚の鮮度も良い」


 2人が料理に舌鼓を打っている時、追加の黒エールが店主によって運ばれてきた。


「ほら、2杯目だ! 遠慮せず飲んでいけ!」


 禿げ頭の店主が黒エールをテーブルに置き、そのまま空いているイスを引っ張ってきて、アーシムとウルフスタンいる席に座った。


 店主の手にはすでに自分の分のエールがあり、顔も酒で若干赤くなっている。どうやら仕事を休憩して、アーシムたちと飲みたいらしい。


「船乗りのあんちゃんはよく見るが、あんたは新顔だな。旅しているサラセン人か?」


 店主はアーシムに話しかけてきた。日ごろから酒場に来る客を見ている店主にとって、見ない顔ぶれは気になるようだ。


「ムスリム教徒ではないが、生まれはその通り東方だ」


「へぇ、よくこんなところまで来たな。この街は色々と物騒なところもあるが、退屈しねえ良い街だぜ。東西南北、あらゆるところから色んな物や人間が集まるからな」


「ああ、たしかに面白い街だ。活気があるし酒も美味い。特にここは良い酒場だと思う」


「へへぇ、わかってるじゃねえか! よし、せっかくヴェネツィアに来たなら、その祝いをしてやろう。ちょいと待ってろ!」


 店を褒められた店主は上機嫌に立ち上がり、店の奥へ消えていった。料理を食べながら待っていると、ほどなくして店主が木の水筒を持ってきた。


「この店の名物、東方の花の蜂蜜酒だ。最近は特に売れた酒で、普通の蜂蜜酒よりも独特の風味で希少だ。今やこの店の客のほとんどが、エールよりも好んでいる酒さ」


「蜂蜜酒か」


 アーシムは店主から水筒を受け取り、コルク栓を抜いて、まずは香りを嗅いだ。


 東方の花から採れた蜂蜜酒の香りは、ウルフスタンからもらった蜂蜜酒とは別の香りだった。西洋の甘さの強い香りではなく、全く別の、どこか薬膳めいたものをうっすらと感じさせる。


 水筒を傾け、蜂蜜酒を喉に通す。


 東方の蜂蜜酒を口に含んで飲みこんだアーシムは、まったく経験したことない酸味と甘みを味わった。香りこそ控えめで独特だが、口の中で転がした時、まろやかな甘みとアクセントの利いた酸味が広がった。


 そしてまろやかな味わいとは裏腹に、アーシムは突然強い酩酊感に襲われた。視界がぼやけ始め、手にも力が入りづらくなった。


 頭を何度か振り、すぐに酩酊は収まったが、アーシムは驚いていた。口当たりことなめらかだが、意外にも強い酒なのかもしれない。


「……どっ、どうだ? 名物の酒はうまかったか?」


 早くアーシムの感想を聞きたいのか、ウルフスタンがしきりに顔を覗き込んでくる。酒好きのウルフスタンにとって、先に名物の蜂蜜酒を飲むということは、よだれを垂らすほどうらやましいことなのだろう。


「ああ、変わっている味だが、なかなか美味い酒だ……思いのほか強い酒で驚いたが」


「そうかそうか、そりゃ良いな。俺にも一口飲ませてくれよ」


「いいぞ、そら」


 アーシムが水筒をウルフスタンに渡す。ウルフスタンは水筒の口に顔を近づけて、先に香りを楽しんでから、勢いよく水筒を傾けて飲み始めた。


「んぐっ、んぐっ……ぷはぁっ! こりゃたまらねえな! こんな良い酒があるなんて、一度は東方に行ってみてえもんだぜ。おやじ、もう一杯頼めるか?」


「悪いが、その蜂蜜酒は一席に一本だけだ。たくさん仕入れられるもんじゃねえし、明日の分も残しておく決まりなんだ」


「なんだ、それは残念だぜ……」


 あからさまに気落ちしたウルフスタンを見て、アーシムはテーブルに残っている水筒を、ウルフスタンの前に置いた。


「ウルフスタン、なんなら残りはお前が飲んでいいぞ」


「ん、ああ……いやいや、これはお前がもらってくれ。これはおやじからお前への祝い酒だしな。俺はこの黒エールで充分だ」


「そうか」


 舶来の名物酒の魅力に揺らいだウルフスタンだったが、さすがにアーシムに悪いと思い、蜂蜜酒の入った水筒をアーシムの方へ押し戻した。


 好意に甘えてアーシムは水筒を受け取る。しかし再び口を開けることなく、先に出された黒エールの方から飲むことにした。


「そういえば、この街は何年か前まで騎士団やらなんやらで物騒だったらしいが、今はどうなんだ?」


 黒エールと料理を口に運びながら、アーシムは店主に質問した。


 ウルフスタンは度々ヴェネツィアを離れていた時期があったらしいが、この酒場の店主なら、過去5年間のヴェネツィアについて話してくれるはずだ。


「ああ、騎士団ねえ。もう何年も前になるが、たしかにあの時はひどかったな。この街は交易で成り立っているから、内輪もめなんてしていたら、他の国の信用はガタ落ちだ。そのせいでこの店の仕入れにも影響が来てな……自由に商売できないヴェネツィアなんて、翼をもがれた鳥みたいなもんさ」


「よくこんな立派な店を保てたな」


「まあな、騎士団が去っていった後は、なんとか商売が軌道に乗ったんだよ。細かい苦労をあげればキリがないが、気兼ねすることなく酒を飲みたいって人間が多く、こうして店を続けることができたんだ。新しい酒や調味料も海の向こうから伝わったから、そのおかげでもある」


「そういえば、どうして騎士団はこのヴェネツィアから立ち去ったのだ? 悪く言えば、この街で幅を利かせるためじゃなかったのか」


「ああ~、それはわからねえな。今でもたまに仲間内で騎士団のことを話すんだが、なぜ突然ヴェネツィアから去っていったのかは謎のままだ。異端の人間を大規模に捕縛できて満足したんじゃないかって、大体の人間は言っているが……」


「そうか……」


「なあ、そんな辛気くせえ話なんてやめて、楽しい話をしようぜ。なんなら、どっかから女でも呼んでくるか?」


 店主とアーシムが話していると、黒エールを飲み干したウルフスタンが割って入ってきた。すでに酔いが回っているようで、日焼けした顔がだいぶ赤らんでいる。おそらく、あの蜂蜜酒の酔いが後になって効いてきたのだろう。


「おいおい、さすがに女を呼ぶ金までは払えないぞ。そこまで路銀が残っているわけではないからな」


「しらけること言うなよぉ~、ここらの踊り子や娼婦は別嬪べっぴんだぜえ。器量よし、場も盛り上げられるし、上玉ぞろいだからなあ! ふひひひっ!」


 かなり出来上がったウルフスタンはアーシムに詰め寄る。アーシムはため息をついてたしなめつつ、店主の方に向き直った。


「わかったわかった、それは今度にすればいいだろう……店主、勘定はこれでいいか?」


「おう、毎度あり! また来てくれよな!」


「ああ。機会があれば、また飲みに寄らせてもらう」


 テーブルの上に勘定を置き、アーシムは千鳥足のウルフスタンを支えながら酒場を出た。


 酒場から出ると、涼しい潮風が頬を撫でていく。酒で火照った体にとって、とても心地よい夜風だ。


「ふぃ~、ああ、食った食ったあ」


 酔いの回ったウルフスタンが、夜空を見上げながら満足した様子でつぶやいた。


 もう日は落ちていて、空には星がかかっている。酒場の煙突から出ていく白い煙が、揺らめきながら空へ散っていく。


「さあて、もう一軒行こうぜ! 今夜は飲み明かすとするかあ!」


「本気で言っているのか? かなり酔っているだろう」


「がはははっ! こんなの酔ったうちに入らねえよ!」


 大声で笑うウルフスタンの足取りはふらついている。約束通り酒は奢ったが、ここで放って1人で帰るわけにもいかないので、アーシムはウルフスタンに肩を貸しながら歩き始めた。


「お、なんだなんだ? もう一軒行くのか?」


「わかったから、とりあえず歩いてくれ」


 ウルフスタンの話を適当に流しつつ、アーシムは帰る方向へ向かって歩いていく。


 体格の大きいウルフスタンを支えて帰るのは、なかなかの重労働だ。アーシムは来る時に通った大きな路地ではなく、ギイの店に近道で帰れる裏路地を通ることにした。


 ウルフスタンの重さにうんざりしながら歩くアーシムに、マヘスが声をかけてきた。


『今日のところは、この男を連れて帰るしかあるまい』


『ああ。だが、なんとなくこの地区の雰囲気はつかめたし、酒場にいた者たちの様子も観察できた。焼き印の組織に関する直接的な情報は聞けなかったが、俺の姿を見て警戒している人間も見つけた。ただ異国人を嫌っているだけかもしれないが』


『ふむ、では日を改めて出向くか。調べるべきはこの地区だけではないから、焦らず動けば良い』


『そうだな』


 ふらふらと歩くウルフスタンをうまく支えつつ、アーシムはマヘスと会話を交わしていた。会話に気を取られているアーシムは、ふらつくウルフスタンの足取りに合わせて、はたから見れば滑稽な足取りで歩いていた。


 夜の路地は一層暗く、店や住宅からこぼれる灯りだけが頼りだ。時に路地のそばを水路が通っている。もしも足を滑らせてしまえば、冷たい水路に落ちてしまうだろう。


 裏路地の人通りは少ない。たまに曲がり角ですれ違う酔っ払いや、道端で毛布に包まって寝ている浮浪者などがいるくらいだ。


 そうしてしばらく歩き続け、アーシムとウルフスタンは少し広いT字路に出た。


 路地は背の高い建物に囲まれているが、雑然とした様子はなく、浮浪者も寝転がっていない。おそらく比較的富裕な地区に出たのだろう。


「ギイの店に戻るなら、左か」


 右の方へ行けば建物にぶつかり、行き止まりだ。アーシムは左へ曲がった。


 曲がった先にうっすらと橋が見える。まだまだギイの店までは距離があるが、今のところは迷わず帰れているようだ。


 整然と並べられた石畳の道を進んでいくと、橋に差し掛かる途中でアーシムは足を止めた。


「……アーシム?」


 酩酊していたウルフスタンが、なんの前触れもなく立ち止まったアーシムの方を見た。


 ウルフスタンに肩を貸しているアーシムの横顔には、強い緊張が走っていた。浅黒い肌に冷や汗が流れ、目元がぴくぴくと小さく震えている。


「どいてろっ!!」


「ぐぅっ?!」


 突然アーシムが体を屈ませながら、ウルフスタンを突き飛ばす。ウルフスタンは抵抗する間もなく地面に転がった。


 屈んだアーシムが体を反転させる。すでに抜いていた腰の剣で、眼前に迫っていた手斧を受け止めた。


 ガァンッ!


 櫛状の剣の凹凸に斧の刃がぶつかり、アーシムの前で鉄の火花が散った。


 アーシムは無我夢中で剣をひねる。剣の凹凸に絡めとられた斧は大した抵抗を見せず、地面に転がり落ちる。


 しかし安堵する間もなく、視界の隅から別の斧が襲い掛かってきた。


「くっ!」


 今度は体をのけぞらせ、なおかつ後ろへ飛ぶ。革の靴と石畳が擦れた音が響き、アーシムは勢いを殺して着地した。


「……力づくで腕を斬り落とすつもりだったが、まさか剣がソードブレイカーとはね。これは誤算だった」


 斧で不意打ちを仕掛けた張本人が、淡々とした口ぶりで話す。一切悪びれる様子はなく、むしろどこか楽しんでいるように聞こえる。


 それもそのはず、襲撃者は間違いなく人を殺すことに手慣れている。千鳥足のウルフスタンを支えるアーシムの足音と、自分の足音をぴたりと合わせて、背後まで忍び寄ってきたのだから。


 雲に隠れていた月が出て、その光がアーシムを殺そうとした人間を照らし出す。


 編み込まれた長い金髪に、革の鎧、そして手には黒塗りの斧が握られている。


「さっさと見せてみろ、アル・アジフの眷属。私がお前の全てを暴いてやる」


 港で船乗りたちを圧倒した北欧の海賊、2本の斧を振るうあの女戦士だった。

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