ギイとの再会
海の上に建つ島々からなるヴェネツィアは、歩けばすぐに水路のそばに出る特殊な。水路を小舟が行き交い、人と物が運ばれる。このヴェネツィアでは水路も主たる運搬路であり、通行路なのだ。
「船でここへ着いた時は圧巻だった。あれほど華やかで、活気にあふれた港広場は見たことがない」
アーシムは商隊の用心棒の仕事を終えた後、本土とヴェネツィアを連絡する船に乗り、早朝にヴェネツィアの主要な港に到着した。その後は港に面した広場からギイの店を探したが、なかなかギイの店は見つからず、途中でウルフスタンと別れて、アーシムとハリルはヴェネツィアを散策していた。
「早朝でも人は多いですよね。それからずっと店を探していたんですか?」
隣を歩くナシートがアーシムに尋ねる。
「休み休みだがな。もう一度港に戻って、こうしてお前たちと合流できたのが幸運だった」
「広くないといえど人と建物が集まってますから、もしかしたら会うまでもっと日にちがかかっていたかもしれませんね」
ラティーフが先頭を歩いてギイの店まで案内し、すぐ後ろをハリルが歩き、最後尾でアーシムとナシートが歩いている。
このヴェネツィアには人さらいもはびこっていて、標的となるのは女や子供、そして異国人だ。ヴェネツィアでは奴隷商売も盛んに行われており、キリスト教化に至っていないスラブ諸国の戦争捕虜や、その他の国々で買った人間を売り買いしている。
これだけ固まって歩いていればハリルやナシートが誘拐されることはないが、それでもどこで人さらいが目を光らせているか分からない。ラティーフたちはヴェネツィアに来て一か月経つが、このヴェネツィアの危うさも忘れていない。
4人は小さな路地を進んでいくと、ヴェネツィアの中心をS字に通る大運河に沿う大通りに出た。大運河の通りは港の次に栄えている。アラビア出身のアーシムたちがかすんでしまうほど、様々な人種の人間がごったがえしている。
「こっちです」
ラティーフは通りに沿って大通りを北進し、大運河にかかった木造の橋を渡った。橋は木造だが頑丈で、橋の周囲にも露店などが立ち並んでいる。
橋の途中で大運河の方へ目を向ければ、大運河の中を行き交う小舟と、その小舟を停泊させる数多の停泊所が見える。多くの船と人が交わり、どこもかしこも賑わっている。
橋を渡ってから、再び小さな路地に入る。左右に建物が立つ路地をまっすぐ進んで突き当たりを左に曲がると、すぐに小さな広場に出た。
この小さな広場は正方形で、ここも建物に囲まれている。建物はどれも商店や宿であり、人の往来が盛んだ。
ラティーフはその広場を通って奥へ進み、小さな階段を上った先にある建物まで行くと、アーシムの方に振り返って、その建物を手で示した。
「着きましたよ、ここが僕たちと主人の店です」
ギイの店は薄茶けた石造りの建物で、2階建てで、間口は控えめだ。建物は広場を越えたすぐ先に位置している。もちろん正面は広場につながり、向かって左手には細い路地が伸び、右手側は水路に面しているので柵を立てている。
右手の水路の方に目を向ければ、ギイの店が入っている建物を含め、多くの建物が水路に面してどこまでも続いている。
「ここか」
アーシムはギイの店を見上げた。建物はそれなりに年季が入っているが、他の店と比べて見劣りはしていない。広場の店よりは間口は狭いが、店先ではギイの使用人が積極的に人々へ声をかけている。
店先にいた使用人の1人がラティーフとアーシムたちに気づくと、大急ぎで店内に入っていき、少し経つとギイがみずから出迎えてきた。
ギイは深い赤色の上衣を着ていて、下衣は黒いズボンを履いている。アラビアにいた時とは違い、西欧人の顔つきのギイに似合っている服装だ。
「アーシムさん! お久しぶりです!」
明るい笑顔で駆け寄ってきたギイを見て、アーシムもしっかりと頷きを返す。
「久しぶりだな、ギイ。元気そうでなによりだ」
「アーシムさんこそ、元気そうで安心しました。それで、コルス島では収穫がありましたか?」
「ああ、そうだな。積もる話は店の中でしよう。まだ忙しいなら、俺は別の場所で時間をつぶしておくが」
「全然大丈夫ですよ! せっかく来てくれたのですから、ゆっくりしてください。さあ、どうぞ中へ」
ギイはアーシムを店内へ招き、アーシムは2階まで進んだ。2階に進むまでに、店内にいたギイの使用人たちがアーシムに挨拶してきた。久しぶりに会った使用人たちの顔は明るく、このヴェネツィアでの暮らしに慣れているようだ。
ギイの案内で2階へ上がり、店の前の通りが見える部屋に入った。今朝、ギイが地図を広げていた部屋だ。
部屋に入ったアーシムに椅子を差し出し、アーシムは椅子に座って、持っていた荷物を床に下ろした。少し待つとギイの使用人が部屋に現れ、2人分のワインを持ってきた。
ギイはワインを受け取ってから使用人を帰らせて、アーシムに片方のワインを渡した。
「お疲れでしょう。さあ、まずは一杯」
「いただこう」
アーシムはワインを受け取り、ギイとともにグラスをあおった。濃いブドウの香りが鼻を突き抜け、酸味と甘みを味わった。
ギイもワインを飲み干すと、中央のテーブルにワインを置き、テーブルに飛び乗って腰かけた。椅子に座るアーシムと、テーブルに座るギイが対面する。
「ご機嫌のようだな」
アーシムが小さく笑うと、ギイもつられて笑った。
「まあ、そうですね。でも、安堵してると言った方が正しいかな……アーシムさんは無事だったし、俺もアーシムさんが来るまで持ちこたえることができましたから」
「そうか。焼き印の方は大丈夫か?」
「ええ、今のところ。悪夢も幻聴もなく、快適に生活できていますよ」
「うむ、それなら良かった」
「アーシムさんはどうでした? コルス島での旅は」
「大変な目に遭ったが、収穫もあったぞ。お前の情報通り、ヴェネツィアに流刑された人間の中に、魔導書アル・アジフをヴェネツィアに流布していた者がいた。そして、そいつが召喚していた悪魔とも戦って……」
それからアーシムが一部始終を話し終えると、ギイは目を丸くしていた。
ヴェネツィアに魔導書を広めた魔術師が本当に実在したこと、そしてその魔導書がアーシムの探し求めているアル・アジフだったこと、さらには生前の魔術師が召喚していた悪魔を倒したこと。
これらの成果を一度に聞かされ、さすがのギイも驚きを隠せなかった。
「そうだったんですか……相当な戦いだったということですね」
「まあな。下手を打てば俺は生きていなかっただろう。あの悪魔はそういう敵だった。お前の方は、久しぶりにヴェネツィアへ戻ってどうだった?」
「商売の方は今のところ順調ですね。ヴェネツィアにいた知り合いにこの建物を借りて店を開き、大した損害もなく店を回せています。いずれは他の店からちょっかいをかけられるでしょうが、それも想定済みです」
「よくこの建物を借りることができたな。ずいぶんと気前の良い知り合いがいたものだ」
「ヴェネツィアから古く住んでいる貴族の1人が生きていたんですよ。俺がヴェネツィアから離れる前でも高齢のご隠居でしたが、今もちゃんとご存命でした。店の売り上げの一部を払うと言えば、二つ返事で建物を貸してくれましたよ」
「運も味方したということか」
「ええ……それで、さっきの話ですが、その老魔術師が所持していたアル・アジフの一部を奪われたんですね。アル・アジフを奪った黒衣の集団が気になります……」
「ああ、俺が今一番知りたいのは、まさにその黒衣の集団だ。老魔術師の日記が正しければ、アル・アジフを集めている集団がいるということになる。このヴェネツィアに黒衣の集団の手がかりがあるのかわからないが……怪しい組織はあるだろう?」
そう聞き返されたギイの顔に緊張が走る。
「俺に焼き印をつけた組織、ですね」
「そうだ。例の組織に関する情報収集はどうだ?」
「そっちは思ったより難航しています。ヴェネツィアの至る所を調査してみましたが、俺に焼き印を刻んだ組織の情報はまだありません……自作ですが、情報を記した地図があります。詳しくはこちらを見てください」
そう言ってギイはテーブルから降りて、本棚から地図を取り出した。ギイが地図を部屋の中央のテーブルに広げると、アーシムも立ち上がって地図を見下ろした。
長く旅を続けてきたアーシムが驚くほど、その地図の出来は精巧だった。大小さまざまな島で構成されたヴェネツィアの地理が分かり、さらには主要な建物、水路、通りなども記されている。
地図の外側には注釈が書き込まれ、ギイの字で気になった点を細かく記している。
「これは、すごいぞ。ここまでの地図をよく作り上げたな。お前1人で作ったのか?」
「実際に地図を作っているのは、俺とラティーフだけです。情報収集はラティーフを含めた使用人たちに頼み、たまに俺自身が出張って情報を集めています」
「この空白の部分は?」
アーシムは地図にあるいくつかの空白部分を指差した。
「俺たちがまだ調べていない場所です。縄張り意識が強く、新入りを寄せ付けない店だったり、傭兵などがはびこっていて危険な場所だったり、様々な理由で調査を断念した場所です」
「ならば、この未調査の地区にあの組織が潜んでいる可能性も、充分あり得るということか」
「そうですね。確証はありませんが、そこを調べればヴェネツィアの裏を暴くきっかけになるでしょう。俺に焼き印をつけた組織の情報も手に入るかもしれません」
「危険だが出向く価値はある、か……よし、今日にでも俺が調査しよう」
アーシムの提案にギイはわずかに驚いたが、すぐに気を取り直して頷いた。
「わかりました、アーシムさんならそう言うと思っていましたよ」
「それなら話が早い。準備が整ったら出向くから、少し待っていろ」
「ですが、おひとりでは行かせません」
「おいおい、心配なら無用……」
「いいえ、だめです」
アーシムがかぶりを振ると、ギイはすかさず切り返した。
「まだまだアーシムさんはこのヴェネツィアに疎いでしょう。地理だって把握していないし、どんな店がどこにあるのかも分からない。ロマンス語だって、たどたどしいところがあります。このヴェネツィアでは、うまく話せない外国人なんて目立ちますし、格好のカモですよ」
「地理くらい、その地図を持ち歩けば……いや、だめか」
「はい。こんな重要な地図を持ち歩くこと自体が危険です」
ギイに諭され、アーシムは肩を落とした。危ない地区を出歩いて傭兵の5人や10人に囲まれたとしても、アーシムなら特に問題はないだろうが、アーシムとギイの目的は暴れることではない。焼き印の組織を調べるために、ヴェネツィアの表も裏も調べつくすことが目的だ。
「俺が単独で動いたら目立つということか」
「その通りです。俺たちが今するべきは、あくまでも調査。やり方を工夫しないと、思わぬところで落とし穴に落ちますよ」
「お前の言うことはもっともだ。だが、他に適役はいるか? 俺はもちろん、お前の使用人たちもアラビア出身の使用人だ。同じように潜入するにしても、俺と大差ない。あの使用人たちが俺と同行しても、結局は見知らぬサラセン人2人組がうろついていることになる」
「うーん……だったら、俺が同行しますか?」
「余計に目立つだろう。人種はともかく、いかにも裕福そうなお前と並んで歩けば、どんなに大人しくしても目立つ」
「それもそうですね……」
アーシムとギイが頭を悩ませていると、階下から使用人の声が聞こえてきた。
「主人、アーシムさん! お客様です!」
「む?」
名を呼ばれたアーシムは首をひねった。
ここはギイの店で、この店を訪れるのはギイの揃えた商品を買いに来る客だけだ。ギイを呼ぶのはまだしも、客人に過ぎないアーシムを呼ぶのは不自然だ。
使用人に呼ばれたギイは部屋を出ようとしたが、アーシムが一度止めた。
「待て。俺を呼ぶ客が来るというのはおかしい。もしかしたら、魔導書にかかわりのある危険な人間かもしれない」
「ええ、わかっています。護身用の短剣も持っていますし、用心しながら下に降りますよ。アーシムさんは店に出ないまま、廊下から店の中を窺ってくれませんか」
「よし。もしも危険なやつだったら、ただちに飛び出そう」
「はい、お願いします」
示し合わせたギイとアーシムは階段を降り、店につながる扉を開けて、先にギイが出ていった。
残ったアーシムは扉をわずかに開けたまま、店の様子を窺っていると、すぐにギイと客の声が聞こえてきた。
「お呼びでしょうか、お客様」
「おう、あんたが店主か! この店に知り合いが入っていくのが見えたんだが、呼んできてくれねぇか?」
「あいにくですが、ここは商店でございます。人を会わせる場所ではございません」
「固えこと言うなよ。アーシム、居るんだろ? ウルフスタンが来たって言えばわかるはずだ」
ウルフスタンと聞いて、アーシムは扉を開けた。
店の中央にはギイと、日焼けした大柄なウルフスタンが立っていた。
「おう! アーシム!」
「誰かと思えばウルフスタンだったのか。どうしてここに?」
「前と同じく、お前が騒ぎを起こしてたから、気になって後を尾けてきたんだよ! あんな人の多い港で喧嘩するなんて、悪目立ちもいいところだぜ! ガハハハッ!」
店の中で大笑いするウルフスタンに、他の客があからさまに怯えている。ウルフスタンの目の前に立っているギイも、その声の大きさを嫌がって耳を塞いでいた。
「相変わらず騒がしいやつだな……」
「アーシムさん、この人と知り合いだったんですか?」
「まあな。コルス島からイタリア王国までの船で知り合った船乗りだ。ヴェネツィアの港で別れたが、まさかここまで尾けてきたとは思わなかった」
ため息をついたアーシムを見て、ウルフスタンもやれやれと首を振った。
「おいおい、人を尾けることが趣味みたいに言うなよ。俺もお前と別れてからは知り合いを訪ねたりしていたんだぜ。それから港でブラブラしていたら、お前が喧嘩していたのを偶然見つけたってわけだ」
「そうだったのか……」
「アーシムよお、それはそうと、こいつが例の友人かい? お前に探し物を頼んで、あっちこっち行かせている友人ってのは」
「まあ、そんなところだ」
「そうかいそうかい……若い店主さん、俺はウルフスタンっていうんだ。よろしくな」
「え、ええ。俺はギイといいます。よろしくお願いします」
「おう!」
ウルフスタンはギイとの自己紹介を済ませると、アーシムの方に向き直った。
「あ、そうだ! 俺はアーシムに用があったんだよ!」
「用だと?」
「おいおい、忘れたのかよ! 俺に酒を奢ってくれるって約束だったじゃねえか!」
「……そうだったな」
ギイとのことですっかり頭から抜けていたアーシムは、ばつが悪そうに顔を背けて答えた。
「その顔の様子だと、忘れちまってたらしいな。ひどいぜ……」
巨体を縮こませて肩を落とすウルフスタンを見て、アーシムが手を振った。
「おい、わざとらしく落ち込むな。ちゃんと約束は守る」
「本当か! よおし、それなら早速行こうぜ! 酒の神が俺たちを呼んでいるぜえっ!」
腕を突き上げて叫ぶウルフスタンを見て、アーシムとギイは顔を見合わせてから、疲れた顔でため息をついた。
それからアーシムはウルフスタンに店先で待ってもらうように頼み、ウルフスタンは大人しく店を出て待つことにした。
「騒がしい人でしたね」
店の奥の階段を上り、アーシムとギイは再び地図のある部屋に戻った。ギイはテーブルに、アーシムは椅子に腰をかけ、ふうと息を吐いた。
「お前の言う通りだ。悪いやつではないんだが、騒がしいのは間違いない」
「ええ……そういえば、道中で食糧と酒を譲ってくれた礼として、アーシムさんが酒屋で酒を奢るんですよね」
「その通りだが、それがどうかしたか?」
「ヴェネツィアのことを右も左も知らないのに、アテはあるんですか?」
「む、それは……」
「酒屋もしくは酒場といっても、このヴェネツィアには星の数ほどありますよ。古くからある老舗や、新しい酒を仕入れて勢いがある店まで様々です。世話になった人なら、それこそ上等なお酒を振る舞わないと恥ずかしいんじゃないですか?」
「お前の言うことはもっともだ。だが、ウルフスタンもヴェネツィアで仕事したことがあると言っていたぞ。俺が無理に案内しなくても、適当にウルフスタンの後をついていって、着いた酒場で奢れば良いだろう」
「いいえ、今日はアーシムさんが案内しなければなりません」
「……どういうことだ?」
アーシムの問いを受けて、ギイはすぐそばに広げられた地図を指差した。アーシムは椅子から立ち上がり、ギイが指し示した場所を見る。
ギイが指した場所は、地図にいくつかある空白の1つだった。アーシムが上陸した港広場から東側に位置する場所で、精巧な地図の中でぽっかりと口を開けている。
「この地区には傭兵や船乗りが多く、ヴェネツィアでも様々な人間の出入りが激しい場所です。詐欺まがいの仕事を行う人間や、密輸に携わる人間もいるという噂が絶えません」
「まさか、ウルフスタンと一緒にここへ行けというのか」
「そのまさかですよ。何も悪い噂だけではなく、ここはうまい酒を仕入れている店や、陽気な大衆酒場も多い地区です。ウルフスタンさんも喜ぶと思いますよ」
「しかし、何も知らぬウルフスタンを巻き込むのは避けたい」
「いえいえ、危険な場所に一緒に足を運んでほしいというわけじゃありません。ウルフスタンさんは船乗りで、なおかつヴェネツィアで働いていたのなら、そういった地区を出歩いても不自然ではありません。そんなウルフスタンさんと一緒に歩き回れば、異国人のアーシムさんも怪しい目で見られずに済みますよ」
「……なるほどな。たしかに俺たちの目的は調査だ。なるべく危険な場所に近づきすぎないよう、ウルフスタンと飲み歩けば充分か」
「はい、それで充分です。それとなくウルフスタンさんをその地区に誘い、適当にお酒をひっかけながら、おかしな人間が出歩いていないか調べてください」
「それなら問題ないだろう……万が一、危険な目に遭ってもウルフスタンの腕っぷしなら大丈夫そうだが」
「あはは、僕もそう思います。ああいう人なら、下手に絡まれても返り討ちでしょう」
「そうに違いない」
ギイの提案を了承したアーシムは、長旅で汚れたローブとターバンを脱ぎ、また別のローブを袋から取り出して着替えた。新しいターバンは頭に巻かずに出かけるようで、多少の癖のある巻き髪が揺れている。
「ああ、そうだ。無事にヴェネツィアにたどり着いたゆえ、この剣は返しておくぞ」
アーシムは腰に差していた剣を外し、ギイの目の前に差し出したが、ギイは首を横に振った。
「一度譲ったものは受け取れません。そのまま持っていてください」
「しかし……」
「もうその剣はアーシムさんのものですよ。俺のものではありません」
「……わかった。そこまで言うなら頂戴しよう。では、それと話はまったく別だが、この剣を一旦預かって、代わりになる武器を貸してくれないか? 素晴らしい業物をもらって恐縮だが、これほどの剣をぶら下げて酒場に行くのは気が引ける」
「まあ、それもそうですね。一目で高価だとわかるものは外した方がいいでしょう。今から使用人に持って来させますよ」
「助かる」
礼を言ったアーシムが支度を済ませている間に、ギイが部屋を出ていって使用人を呼び出した。扉の外でギイが2、3言告げると、使用人が階段を下りていく音が聞こえた。
少し経つと再び足音が戻ってきて、ギイが部屋に入ってきた。
「小さいですが、これならどうでしょう」
ギイが手渡してきたのは分厚い短剣だった。鞘は質素な茶色の革で、柄も太く、粗布が幾重にも巻かれている。その無骨な見た目から、高級さは感じられない。
「短剣か。うむ、これなら目立たないな」
「ふふ、ただの短剣とは一味違いますよ。抜いてみてください」
言われるがままアーシムは鞘から短剣を引き抜くと、分厚い刃の片側には、深い凹凸がいくつも刻まれていた。
「おい、これはどういう剣だ? 刺すことはともかく、刃にこんな溝があったらうまく斬れないだろう」
「斬るための短剣ではありません。その凹凸で敵の刃物を受け止めて、強引に刃物を絡めとるんですよ」
「相手の剣を受け止めるための凹凸……面白い武器だ」
「ええ、まだ試作品ですが、その中でも一番出来の良かったものです。相手の剣を受け止めても折れないために、刃がかなり分厚くなってしまった点が玉に瑕ですが、アーシムさんなら問題ないでしょう」
「そうだな。こういう剣ならば斬ることは諦めて、相手の武器を引き剝がすことを狙えばいい。武器さえ落とせば素手同士で確実に倒せる」
「そういうことです。コルス島と違って、このヴェネツィアには日常的に武器を持っている人間がほとんどです。そういう者たちから身を守るなら、この剣が最適です」
「代わりの剣ですら中々の逸品とは、さすがだな」
「お褒めに預かり光栄です。それが俺の本業ですから」
うやうやしくギイが頭を下げ、アーシムも思わず笑みがこぼれた。このようにギイが軽口を叩けるのも、今やアーシムしかいない。
年齢はギイの方がだいぶ若いが、両者は気兼ねのない友人の間柄になっている。助け合い、互いに世話をかけつつ、知恵と力を尽くして同じ目的を追っているのだ。
こうして準備が整い、幾分か身軽になったアーシムは、店先に待たせていたウルフスタンのもとに向かった。
「待たせたな」
「おうおう、待ちくたびれたぜ。俺の喉が酒をくれって叫んでるよお」
「わかったわかった。ならば、すぐに酒場がある場所まで行こう」
そう言って先導しようとするアーシムを見て、ウルフスタンは目を瞬かせた。
「お、おい? ヴェネツィアに来たのは今日が初めてだったんじゃねえのか?」
「まあな。だが、さっきのギイに色々と通な場所を聞いておいた。酒場が多い地区への行き方も知っている。そこまで行ってから、うまそうな穴場を見つけてみようじゃないか」
「なんだ、そうだったのか。そりゃ安心して任せられるぜ」
「その通り、今日は俺の案内で、俺のおごりだ。ワインだろうがエールだろうが、好きなだけ飲めばいい」
「へへっ、好きなだけって言ったな? 後悔しても遅いぜえ!」
歩き出したアーシムの後ろを、ウルフスタンが巨体を小躍りさせながらついていく。
一方、ギイは2階の窓から遠ざかっていくアーシムの後ろ姿を見届けて、アーシムの調査が首尾よく進むことを祈るのだった。
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