第23話~ヴェネツィアに集いし者たち~
強い陽光が土と汚物にまみれた街路を照らし、ヴェネツィアの街路には様々な人間がごったがえしている。
どこからか仕入れてきた果物と野菜を、必死に客引きして売る行商と、その売り物を横から奪おうとする貧民が嗅ぎまわっている。
汗と土汚れがこびりついた革鎧を着こみ、他の通行人を威嚇するような目つきで歩く傭兵もいる。
彼らはたまたま稼げた金の使い道を探すためにここへ来たが、人の多さや売っている品物の珍しさに気後れしないように、威勢よく街中をねり歩いていく。彼らの頭には、良い酒を買うか、身なりの良い情婦を買うかのどちらかしかない。
街角には怪しげな大道芸人がいる。彼らの多くは詐欺師だが、中には常人ではできないような一芸を身につけ、それを惜しみなく称賛される者もいる。
また、街路で商売を営む者とは別に、建物を所有している裕福な商人の店も多い。
そういった店には労働力の要たる異国の奴隷がいる。彼らは主人の機嫌を損ねないように黙々と仕事をこなし、一方で主である商人は、様々な場所から取り寄せた食品、嗜好品、武具、あるいは奴隷すらも売り買いの品目として取り扱う。
ごったがえす人の熱気にあてられ、ヴェネツィアの昼間の空気は生暖かく濁った臭いを漂わせている。武具の鉄と血さび、汚泥と腐乱物、異国の薬草を詰めた壺に、花の蜜と酒を混ぜ込んだ香水……それらが絡み合った、形容しがたい臭いに満ちている。
アラビアとヨーロッパの中心に位置し、地中海貿易の要であるヴェネツィアは、今日も多くの享楽と栄光、衰退と絶望を生んでいる。
そんなヴェネツィアの中、5年ぶりに南方から戻ってきたギイは、かつてのツテを頼って、即席の店を構えていた。
アーシムと別れ、ヴェネツィアに戻ってきてから1か月経った。今では借りた建物に構えた店が繁盛していて、昼間から賑わいを見せている。
「ほほう、これは立派な宝石だねえ」
「はい。それはファティマ朝の王侯貴族が、喉から手が出るほど欲しがった宝石です。宝石と金塊を手に入れるために彼らは街を攻め、こういった宝飾品を下々の者に作らせます」
「なるほど。そんな上等なものをこの値段で売ってくれるのか?」
「ええ。この店にあるものは私が直々にファティマ朝で仕入れた逸品ばかりです。他の店とは違い、仕入れる際に外部の者を極力使いません。自分の目で見た物を仕入れて、それをお安く提供するために」
店の中で、恰幅の良い貴族とギイが話している。髭をたくわえた貴族は使用人と用心棒を引き連れ、ギイの店で品物を値踏みしている。その身なりや取り巻きの多さから、ギイはこの貴族がヴェネツィアでも有力者だと判断し、みずから接客に当たっていた。
「どうでしょう、今後も良い関係を築けるように、さらに値を引きますが……」
「ふふふ、若いのに気が利いておるな。それに、誰と懇意にすれば良いかよくわかっている」
「ありがとうございます……今後もご贔屓にさせていただきたいのですが、このヴェネツィアには新参者を疎み、弾く輩もいます。そういった工作に負けないように努力いたしますが、あいにく私どもには後ろ盾がいません」
「他の者がいる前でそういったことを平気で話すとは、思い切ったことをするな」
「誰もが裏でやっていることですが、そもそも私はやましいことだとは思いません」
「うむうむ、確かに他の者はこういったことを回りくどく頼んでくる。大した商談でなくとも、それをさも重要そうに話す様は滑稽だとつねづね思っていた……いいだろう。ギイと言ったな、君の店の仕入れに邪魔立てする者がいたら、私の方からきつく言っておこう」
「ありがとうございます。私どもも、あなたにご満足いただけるように精進して参ります」
ギイの接客に満足した貴族は、宝飾品や武具、酒などの嗜好品を多く買って帰っていった。店を埋めるほどの部下を引き連れた貴族が、この店にとっての上客となってくれたことで、周りで見ていたギイの使用人たちはホッと胸を撫でおろした。
「ひとまずうまくいきましたね、ご主人」
ギイが一息ついた時、近くにいたラティーフがロマンス語で声をかけてきた。大柄で筋骨隆々なラティーフは見た目こそ威圧的だが、物静かで面倒見が良い。現在は他の使用人たちの指導を行いながら、店を切り盛りするギイを補佐している。
「ああ、お前たちも慣れないヴェネツィアでよくやってくれているな。まだまだこの都市の習わしやロマンス語など、覚えることはたくさんあるが、それでもかなり助かっている。その調子で励んでくれ」
「はい! 昼から何人か連れて、港の方を見てきても良いですか?」
「構わないぞ。面白そうな品物を仕入れている商人がいたら報告しろ。あと、多少ならそういった人間と情報交換しても良いが、うまい話には気をつけろ。たどたどしいロマンス語を聞いて、こちらのことをカモだと思って近づいてくるやつもいるからな」
「わかりました!」
ラティーフは大きく頷き、他の使用人を連れて店から出ていった。店の中にはまだまだ大勢の使用人がいて、通りを歩いている客に積極的に声をかけ、勉強中のロマンス語でうまく応対している。
今の店の様子なら自分がいなくても大丈夫だろう。そう思ったギイは、店の奥にある扉から建物の奥に入っていった。
扉の先は廊下になっていて、近くに裏口と階段がある。小窓から裏口を覗けば、木造の店舗が連なった裏路地が見える。路地には汚れた果実と藁が散らばっており、なんらかの病を患った乞食がうつむいて座っている。
ギイは5年ぶりにヴェネツィアに戻ったが、街の雰囲気は変わっていない。今でも富裕と貧困がない交ぜとなっていて、縄張り争いや競争が激しい港湾都市だ。他の国家の支配や干渉を跳ね返す時は、内部で強く結託するが、その時以外は多様な人間が往来し、誰もが富裕と権勢を高めるために血と汗を流している。
変わらない街を懐かしんだのか、それとも呆れたのか、ギイは小さく嘆息してから階段を上がった。
階段を上がった先には扉があり、ギイは扉の錠前を開けて部屋に入った。
部屋には机と本棚があり、中央には大きな丸テーブルがある。窓は店の前側に面していて、店に出入りする人の往来が見えるようになっている。
ギイは本棚から1冊の本を取り、その中に挟めていた紙を抜き取った。本の中に隠していた紙は丁寧に畳まれていて、それを丸テーブルの上に大きく広げた。
紙には巨大な地図が描かれていた。その地図の作り込みは精巧で、中には小さい文字でびっしりと注釈が記入されている。どの区域に何の店があり、いつ休んでいるか、いつ品物を仕入れているかなど、多くの情報がその地図に書き込まれている。
この地図はギイとラティーフが作ったものだ。ヴェネツィアで再び商売を成功させ、友人であるアーシムの魔導書探しに協力する。この2つの目的を達成するには、とにかく情報が必要だとギイは考えた。
いくらギイが5年前のヴェネツィアで手広く商売をやっていたといえど、今の情勢を知り、それに合わせて動かなければならない。ヴェネツィアのことを知らない使用人を統率し、新参者を妨害しようとする他店に負けないために、ギイは素早く情報を集め始めた。
まだこの地図は完成ではない。縄張り意識が激しい区域や、荒っぽい傭兵がはびこっている路地もあり、ヴェネツィアの表と裏のすべてを網羅したとは言えない。身軽なギイですら潜入できていないところが残っている。
「七割方は完成したが、それでも足りない。ここへ戻ってきて一か月経ったが、勝負はここからが本番だ。そろそろ他の店がなんらかの工作を行ってくるだろう。ラティーフが有益な情報を仕入れてくれたら良いが……」
地図を広げたギイは、そこへ書き込んだ他の商店の中から警戒すべき店を決めている。そこにはギイのことをまったく知らない店もあれば、ギイがヴェネツィアにいた時のことを知っている店もある。
「ここで店の稼ぎを落とすわけにはいかない。使用人たちやアーシムさんのためにも、ひとつでも多くの情報を集めて、うまく立ち回らければならない」
部屋の中をゆっくりと歩き回り、ギイは今日はどう行動しようか考え始めた。
今のところ、ギイが手掛けていることは全て順調に進んでいるが、なぜかギイに焼き印をつけたあの組織の情報が一切入ってこない。
ヴェネツィアに戻ったギイが真っ先に警戒したのが、焼き印をつけた組織の動向だ。
あの組織が今もヴェネツィアにいるのか、どこまで勢力を広げているのか、再びギイの身を狙っているのか、それらの情報を初めに集めようとした。しかしギイが張った情報収集の網目に、あの組織はまだ引っかかっていない。
「分からない……あいつらはどこに消えたんだ?」
困惑した表情でつぶやいたギイは、肩口から背中に手を回し、5年前に刻まれた焼き印の縁を指先でなぞった。
柔らかい皮膚のすぐそばに、硬い肌触りの皮膚がある。焼かれた皮膚はいびつに肥厚し、縮んで硬くなった皮膚が大きい分、周囲の皮膚が引きつって拘縮している。
見た目もそうだが、この瘢痕拘縮による皮膚の引きつれが本人にとって苦痛だ。今でも天候や気温の変化が激しい夜に痛みを感じて、思うように寝つけない時がある。
ギイはあの組織に焼き印を刻まれた後、隙を見て財産をかき集め、ヴェネツィアから脱出した。ヴェネツィアから逃げた後も商売を続けつつ、アラビアの医学や魔術に頼って焼き印を治そうと必死にもがいていた。
「……まあいい。時間はまだある。アーシムさんが無事にここへ来たら、また別の方法を考えよう」
しかしギイにはまだ余裕がある。
アーシム・アルハザードという男が現れ、ギイはアーシムと協力してガザール隊を謀殺した。その後にアーシムの不思議な力で焼き印を切り裂いてもらってから、胸が悪くなる悪夢や幻聴に悩まされなくなった。
精神的な余裕が現れたのはそれが大きな理由だ。アーシムに出会うまでのギイは、どこか隔絶した精神状態だった。実利のみで周りの人間を信用するかどうか決めていて、心から安らぐことはなかった。
だが、今は心から人を信頼することを覚え始めた。楽観主義者になったわけではないが、最近のギイは使用人の働きや努力を信頼して仕事を任せている。目に見える変化ではないが、使用人たちもギイのもとで働く楽しさが増え、慣れないヴェネツィアでの商売にも不満を言わず、今日も精を出して働いている。
マヘスの爪は焼き印に宿った邪悪な魔力だけを切り裂いたため、見た目の変化はほとんどない。ギイが手鏡を使って映してみても、うっすらと焼き印に太い爪痕が残っている程度だ。
それでも効果は劇的だった。アーシムと別れてからも、焼き印の呪縛が復活することなく、今は驚くほどなりを潜めている。
「ついにここへ戻ってきたんだ。もう誰にも、何も、俺たちの居場所を奪わせやしない。もしもあいつらが裏で潜んでいたなら……出ていくのはあいつらの方だ」
ギイは薄明るい部屋で、拳を強く握った。
青い空には薄い雲が細々と浮かび、ジリジリとした強い日差しが港の熱気をさらに高めている。青緑色の海の上を、方々《ほうぼう》の国からやってきた大小さまざまな船が往来し、港にも多くの船が停泊している。
ギイの使用人ラティーフは、使用人仲間のナシートを連れて、ヴェネツィアの港に来ていた。2人はアラビアの人間だが、ヴェネツィアでも馴染みやすいようにターバンを外して、白いチュニックを着て、革のズボンを履いている。
「いやあ~……いつ来ても、すごい活気だよなあ」
港の往来をかき分けて歩きながら、ナシートは楽し気にそう言った。
「これは遊びじゃないよ、ナシート。主人のためにも、今の物流をちゃんと見ていかなきゃいけない。それに、ここにいる人たちはやり手ばかりだ。下手に目立ったら危険だよ」
軽薄そうなナシートの隣で、ラティーフが釘を刺すが、当のナシートはラティーフの忠告通りに動くつもりはないようだ。
「そうは言っても、ただ見学するだけなら誰だってできるぜ。みんなの中でも俺とラティーフはロマンス語が得意だろ? だったらどんどん色んな人と関わって、主人が喜ぶような話を持ち帰ろうぜ」
「でも、」
「はいはい、お前の言う通りにするよ。危ないやつに近づかなきゃいいんだな。ちゃんと守るよ」
「まったく、本当にわかっているのかな……」
肩をすくめて首を振ったナシートは、ラティーフの説教を話し半分で聞きながら歩いていく。
ナシートに遅れないようにラティーフも足を速めるが、すぐにナシートは人ごみの中に入っていき、気づいた時には赤の他人に話しかけていた。
「お! おじさん、この赤いのは何の野菜?」
ナシートが話しかけた相手は香辛料を売る商人だった。通りの一角に屋台をこしらえている店で、その陳列台の上には彩り豊かな香辛料の実が並んでいる。
「おう、元気のいい坊主だな! これは唐辛子ってやつだ。香りも良いし、なにより辛みが最高だ。ひとつどうだ?」
「そのまま食えるもんなのか?」
「まさか! 細かく切ったり、小さくすり潰したりして、料理にかけるんだよ」
「へぇ~、辛いもんをかけるだけで変わるのか?」
「あったりまえよ!」
そうして話を弾ませているナシートと商人を見て、仕方ないなと言ってラティーフはため息をついた。
ナシートは使用人の中でも年長者で、ラティーフのひとつ年下だ。とても好奇心旺盛で、頭の回転が速い。仕事の出来も良いため、ギイにも信頼されているが、たまに調子に乗って失敗することもある。
積極的に情報を集める場合、ナシートのような仕事仲間は心強いが、それでもラティーフは不安をぬぐえない。多少危ない目に遭いそうになっても、ナシートならば懲りずに首を突っ込みかねないからだ。
商人や他の客と話し込むナシートを後ろで見守りながら、ラティーフは港の様子を見渡した。
ナシートのことを諫めたラティーフも、新しい情報や分野を学ぶ大切さを知っている。危なっかしいナシートのお守りをしつつも、ラティーフは今の港の様子をつぶさに観察する。
「……ワインや穀物の取引は、そんなに賑わっていない。それと、東洋から来た品物が最近減ってきた。噂では東ローマ帝国と北の国が争っているらしいけど、どうやら本当らしい。今の東ローマに、東洋の資源を売って交易する余裕はないのかも……」
ギイの補佐を担うラティーフは、物流や他国の情勢について勉強中だ。商人は貴族や王侯よりも政治の流れを知らなくてはならない。ギイからそのように教わっているため、真面目なラティーフは順調に物流を見極める力を高めている。
「大きな戦争は起きていないから、国が違う商船どうしが平気で接舷して、その場で交流を図っている。好調とはいえないけど、混乱はしていないか……」
「おーい、何を小声でぶつぶつ言っているんだよ」
港の様子を観察していたラティーフの背中を、ナシートが肘で小突いてきた。
「あ、ごめんごめん。港の様子を見て、どんな品があって、どの商団に勢いがあるか考えていたんだ」
「真面目だなあ……お、なんかあっちの方が騒がしくないか?」
「え?」
ナシートが指さした方向を見ると、港の中で最も出店が多く、いつも賑わっている場所で人だかりができていた。人の壁ができているせいで詳しい様子はわからないが、なにやら不穏な空気が漂っている。
「まずそうな雰囲気だね……ちょっと離れよう」
「いやいや、見に行こうぜ。別にこっちが危なくなるわけじゃないし」
「ちょ、ちょっとナシート!」
どよめいている人だかりの方へ、ナシートが走っていく。慌ててラティーフは引き留めようとするが、もう手が届かないところまでナシートは行ってしまっていた。
「ごめんごめん! ちょっとどいてくれよ!」
集まっている人の山をかき分け、ナシートは人だかりの中心へ進んでいく。
「おい、押すなよ!」
「わりい! それで、この騒ぎはなんなんだ?」
ナシートに押し退けられた若い船乗りが文句を言ってきたが、かまわずナシートは話しかけた。最初は不機嫌そうにしていた船乗りだったが、人だかりの中心が騒ぎ出すと、早口でナシートに状況を教えてきた。
「喧嘩だ、喧嘩が始まったんだよ! 旅の戦士が、売り物の武器にケチをつけたんだ!」
「旅の戦士?」
状況を教えてもらったナシートは、さらに前に進んで、人だかりの最前列まで進んだ。ラティーフも追いつき、2人は喧嘩が起きている現場を目の当たりにした。
兜を被った戦士が5人の船乗りに囲まれていて、その戦士のそばには黒髪の少女がしがみついていた。
「女の子? それに、なんだ? あの気味悪い兜は……」
ナシートは屈強な船乗りたちに囲まれている戦士の兜を見て、素っ頓狂な声を上げた。
囲まれている戦士が被っている黒鉄の兜は、頭と顔を全体的に覆うものだが、その見た目が恐ろしい。生々しい鷲鼻が伸び、真っ赤な牙を剥いて大口を開け、あご髭の部分には細かい目玉が刻まれている。
両目と口の部分は穴が空いているが、その戦士の表情はうかがい知れない。着こんでいる革鎧と鎖かたびらは長年使いこまれているようで、ただの見かけ倒しではないだろう。
「てめえ、よくも俺たちが仕入れた物をガラクタだと言いやがったな! 」
船乗りの1人が、戦士に向かって声を荒げる。
その戦士のそばにいる少女は、殺気立っている船乗りたちに怯えているのか、兜を被った戦士にしがみついている。
戦士が少女の頭に手を添えて小声で何か伝えると、少女は頷いて、戦士の後ろの方へ離れていった。
さらに戦士が一歩踏み出して、船乗りたちに言い放った。
「ガラクタを売りつけようとした方が悪い。戦場ではあんなものを持っているやつから、真っ先にくたばるんだよ。得物の良し悪しを知らないお前みたいなやつがな」
戦士の声は思いのほか若々しく、その場に高らかに響いた。
挑発された船乗りたちはそれぞれ持っている武器を構え、その戦士へ向かって徐々に近づいていく。
兜の戦士も背中に差していた2本の斧を抜き、わずかに体を前傾させて構えた。両方の斧は片刃で、刃全体が炭で黒々と塗られている。
「うぉおおおらっ!」
雄たけびを上げ、船乗りが短剣を構えて突っ込んできた。
その突撃をかわしながら戦士は斧をかち上げ、男の膝を下から叩き割った。
「ぅぐわああっ?!」
走っていた状態で膝を砕かれ、男は泣き叫びながら地面に激突する。
「死ねえぇーーっ!! うらぁっ! おらぁっ!」
また別の男が短剣を振り回してくるが、戦士はそれを巧みに避け続け、隙ができた瞬間にみぞおちへ膝蹴りを浴びせた。
「がっ、ごぼっ……」
膝蹴りを喰らった男は吐しゃ物をまき散らしながら、苦しそうに地面をのたうち回る。
さらにもう1人が手斧を振りかぶろうとしていたが、怯え始めたところを戦士は見逃さず、刃の根本から飛び出ている柄頭で喉元を突いた。
柄の先端で喉を突かれた船乗りは吹っ飛び、ごほごほと激しく咳き込んでから、意識を失って倒れた。
「ひぃっ!……な、なんなんだ、こいつ……」
残った2人の船乗りも武器を構えていたが、仲間たちがあっという間にやられていく姿を見て、明らかに戦意を挫かれている。
「おい、まだやるか」
両手に斧を持っている戦士が、少しずつ近づいてくる。
その威圧感に押されて、船乗りたちはもちろんのこと、その後ろにいた見物人も同じように引きさがっていく。
「も、もう良い! 逃げろ! 逃げるんだぁっ!」
「おいっ! さっさとどけろ!!」
この戦士には敵わないと理解した船乗り2人は、真後ろにいた見物人たちを乱暴に押し退けて逃げていった。
「……ふん」
逃げていく船乗りの背中を見送り、兜の戦士は呆れたように鼻を鳴らした。
その時、戦士の後ろから怒鳴り声が聞こえてきた。
「てめえ! こっちを向けえ!!」
戦士が後ろを振り向くと、また別の船乗りが少女を捕まえていた。船乗りの手には短剣が握られていて、その刃は涙を浮かべている少女の首筋にあてられている。
「身内が喧嘩を始めたと思ったら、こんなことになるとはな……おい、さっさとその斧を捨てろ! このガキをぶっ殺すぞ!」
少女を人質にとった男も、今の船乗りたちの仲間だったようだ。人質をとられた戦士は黙ったままだったが、男が再び脅すと、ゆっくりと両手を上げて、まずは左手の斧を手放した。
石が敷き詰められた地面の上に、鉄の斧がガランッと音を立てて転がった。
「へ、へへ……そうそう、それで良いんだ。そら、もうひとつの斧も捨てろ!」
さらに男が戦士に向かって叫んだ時、男の真後ろから伸びてきた誰かの手が、少女に刃物を向けていた男の手首をねじり上げた。
「なっ?! ぎゃあああ……っ!!」
突然の乱入者に手首をねじられた男は、痛みに耐えかねて刃物を落とし、逃げ出した少女は戦士のもとへ駆け寄っていく。
「まったく貧弱な腕だな。船乗りといえど、所詮は小悪党か」
その乱入者は長身で、アラビアのローブをまとった壮年の男だった。
「あ、アーシムさん!」「アーシムの旦那!?」
船乗りの手首をつかんだ男がアーシムだと気づき、ラティーフとナシートは驚いて声を上げた。
しかしアーシムはラティーフたちがいることにまだ気づいていない。少女を人質にとった男の手首をひねったまま、アーシムは拳を振り上げた。
「や、やめっ」
「刃物を子どもに突きつけておいて、それは通らないだろう……せいぜい、歯を食いしばれっ!」
許しを請おうとした男の顔面に、アーシムが右の拳を叩き込んだ。
そばでいるだけで目を背けたくなるほど、凄まじい音を立てて男が吹っ飛んでいく。殴り飛ばされた男は何度か転がってから、歯が折れ、白目を剥いている姿を見せて倒れた。
「喧嘩の薄汚さは、どこの国でも変わらないな」
うんざりした口調でアーシムは呟いてから、少女を守るようにして立っている戦士の方を見た。
「ああ、余計な真似をしてすまない。どうも見過ごせなくてな」
兜の戦士に言ったアーシムの言葉の意味が理解できず、周りにいた人間は怪訝な顔をした。
戦士は黙ったままだったが、そばにいる少女が汗を拭く布を渡してきたため、不気味な鉄兜を脱いだ。
兜が頭から離れた途端、編み込まれた黄金色の髪がひらめいた。
「え……お、女なのか?」
兜を外した戦士の横顔を見て、ナシートがそう言った。
目つきこそ鋭いが口元に髭が一切なく、ふっくらとした唇は男性にはない豊かさがある。まぎれもなくこの戦士は女だった。
女戦士は手ぬぐいで汗を拭いて、少女に礼を言ってから、アーシムの方に向き直った。
「たしかに加勢は無用だった。だが……世話になったのも事実だ。礼を言う」
そう言い残して女戦士は少女を伴い、その場から去っていった。少女は一度だけアーシムの方に振り返ったが、すぐに人ごみの中に消えていった。
アーシムはその背中を見送ってから、人だかりの中にいたラティーフとナシートの方へ歩いてきた。
「久しぶりだな。ラティーフとナシート、だったか?」
ついさっきまで強烈な腕力を振るったアーシムに話しかけられ、ラティーフもナシートも思わず背すじを伸ばした。
「は、はい! お久しぶりです!」
「相変わらず元気そうで良かった。ギイの調子はどうだ?」
「へへっ、すごいもんですよ! こんなに競走が激しい都市で、すでにけっこうな店を構えてますから」
「そうか。ギイもうまくやっているようだな」
「アーシムさんはいつヴェネツィアに着いたのですか?」
「今日の早朝に着いたばかりだ。あちこち歩き回ってギイの店を探したが、なかなか見当たらなくてな……今の喧嘩に首を突っ込んでしまったが、お前たちを見つけることができて助かった」
「そうだったんですか。俺たちを見つけたからにはもう大丈夫ですよ! ささ、俺たちが主人の店まで案内しますから!」
「ああ、よろしく頼む……っと、そうだ。おーいハリル! もう終わったぞ!」
再会の挨拶もそこそこにして、ラティーフとナシートが案内を始めようとしたが、アーシムが後ろを振り返って叫ぶと、おどおどした様子のハリルが出てきた。
「ハリル!」
「あっ、ラティーフさんに、ナシートさん!」
ハリルはラティーフたちの顔を見ると、嬉しそうに走ってきた。仕事仲間と無事に再会できて、旅に疲れていたハリルの顔が綻んだ。
「なんだ、意外と元気そうじゃないか!」
ナシートが年下のハリルの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「良かった、2人とも無事にヴェネツィアに着いたなら、主人も喜びますよ」
「うむ、そうだろう。さあ、ギイのもとへ戻ろうか」
「はい! そうですね!」
アーシムは黙って2人の後ろをついていったが、今の喧嘩を見物していた人間は、アーシムの行く手を遮らないように離れていく。
「少し目立ってしまったらしい」
周りの人間の様子を見てアーシムは苦笑いしたが、むしろナシートはわくわくした口調で話してきた。
「でも、さっきのアーシムの旦那は圧巻でしたよ。人ってあんなに吹っ飛ぶもんなんですね」
「なに、大したことではない。それを言うなら、先ほどの女戦士の方がよっぽど戦慣れしている」
「あの女戦士かあ……変な兜を被っていましたけど、どこの国の戦士なんでしょう? 女があんな立派な武器を持っているなんて、なかなか聞きませんよ」
「あっ、ナシートさん! さっきの人ごみの中で、その女戦士について聞きましたよ!」
「うん?」
アーシムが女戦士の加勢に入ると決めた時、ハリルは巻き込まれないように人ごみの中に残っていた。その時に見物していた男たちの話が耳に入ったのだ。
「ずっと北の果てにある土地の戦士らしいですよ。北の海には武装した船を率いて略奪を行う戦士たちがいて、その中にはああいった女の人もいるって話していました」
その話を聞いて、アーシムは感心した顔をした。
「北国の戦士か。女の身でも戦士として身を立てることができるとは珍しい。しかもあの人数を制するとは相当な豪傑だ」
「でも、そんな戦士が、あんな小さな女の子を連れているなんて、どういう関係なんでしょう?」
ナシートの疑問はもっともで、あの女戦士と少女がなぜ一緒にいるのか謎だ。親子にも見えなければ、そもそも人種すら違う。
「まあいい。見たところ、あの女戦士も旅人だったようだ。いずれヴェネツィアから離れ、もう会うこともないだろう……」
「そうですね」
その後もアーシムたちは雑踏の中を進んでいったが、アーシムは左腕に宿っているマヘスから話しかけられた。
『あの女戦士のそばにいた子ども、何か気づいたか?』
いきなりマヘスから声をかけられ、アーシムは心の中で返答する。
『いや、特には。最後に少しだけ、俺の方を見ていたが……』
『そうだ。しかし厳密に言うと、あの少女が見ていたのはお前じゃない』
『どういうことだ?』
『あの少女、包帯を巻いているお前の左腕を見ていた。ただ包帯に目線がいったという次元の話ではない。何かに気づいて、俺が宿っている左腕を見据えておった』
『……まさか』
『念のためだ、用心しろ。俺もただの偶然だと思いたいが、あの目は……何か違う』
張り詰めたマヘスの口ぶりに、アーシムもその忠告をしかと受け止めた。
このヴェネツィアには魔導書アル・アジフに関連した多くの謎が潜んでいて、それを突き止めるためにアーシムはここへ来た。
いつどこで、なにがあってもおかしくない。たとえそれが何の変哲もない子どもであったとしても、ただ商人だったとしても、このヴェネツィアにいたっては気が抜けない。
様々な人間が行き交う雑踏の中、マヘスとアーシムは魔導書アル・アジフを突き止める思いを新たにして、再び身を引き締めるのだった。
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