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第22話~アーシムの内に眠るもの~

 ねばつく汚泥おでいの道を商隊の馬車が2台、3台と駆け抜けていく。日が落ちかけた森は暗く、木々の間から差す夕陽の光は弱弱しい。しかしそれでも目の前の道は見えるため、拓けた場所に出るまで御者は馬車を走らせる。


 最後尾の馬車の荷台には布に包まれた物資と、アーシムとハリルが乗っている。乗り心地は最悪だが、用心棒兼雑用として商隊に入れてもらったため、乗る場所を変えてもらうことはできない。


「ハリル、酔うなら目を閉じて丸まっていろ。よほどのことがない限り、振り飛ばされないはずだ」


 アーシムはそう忠告したが、ハリルは揺れの激しい中で目を閉じる勇気はない。船の上よりも激しく小刻みに馬車は揺れているのだ。


「そ、そうは言っても、怖くて……」


 馬車と同じぐらい震えた声でハリルは返答する。たしかにこの馬車は森の中を右に左に曲がりながら進んでいる。いつ道から外れて転倒するか分からない状態で、目を閉じて揺れを我慢することは、相当な恐怖なのだろう。


「もうすぐ森を抜けるはずだ。商人たちも抜けたら適当なところで休むと言っていた。もう少しの辛抱だ」


「はい……!」


 ハリルは頷き、唇を強く結んで前を見据えた。顔色は青ざめていたが、もう少しでヴェネツィアに着けるんだという思いを新たにして、北へ進む馬車の先へ目を向け続けた。


 それからしばらく馬車の一団が森を進んで、さらに斜面になっている山道を駆け上っていくと、木々がまばらになった先に湖が広がっていた。


 蒼い月光を反射させた湖は、まるで大きな鏡のようだ。動物の気配はなく、しんと静かで美しい湖だった。


「今夜はここで休憩だ!」


 先頭の馬車に乗った商人が叫び、後に続く馬車もそれぞれ適当な場所に停まった。


 ようやく退屈な移動時間が終わったと、商隊に属する者たちは疲れた足取りで馬車の幌から降りて、休みやすいところに腰を落ち着けていく。


 アーシムとハリルも荷台から降りた。昼間から日暮れまで揺れる荷台に乗っていたせいで、湿った土の地面に足をつけると、どうにも足がしっかり立っていないような、奇妙な感覚を味わった。


「ふう、なんとか森は抜けたな。さすがにくたびれた」


「うう……足が笑ってますよ。ちゃんと立ってるはずなのに、なんだか変な感じです」


「無理せず座っていろ。飯は俺がもらいに行ってやるから、ハリルは俺たちの荷物を見張っていてくれ」


「でも、周りの人たちはほとんど言葉が通じませんよ。僕がいないと……」


「良いんだ。少しならロマンス語も話せる。そこで待っていればいい」


 ハリルをその場に残して、アーシムは先頭に停まっている馬車の方へ行く。


 他の馬車の近くでたまっている人だかりをかいくぐり、食料を積んでいる荷馬車の傍で立ち止まった。


 荷馬車の周りには食料を分けてもらいたい雑用が集まっていた。裕福な商人は自分たちの食料を確保しているが、雇われて商隊に属している人間はそうもいかない。自分がどれほど今日の仕事に精を出したか商人に売り込み、なるべく安く食料を譲ってもらうことに苦心している。


 今日の取り分を取るために必死な雑用たちは、後から近づいてきた異国人のアーシムに気づくと、あからさまに睨みを利かせてきた。いくらアーシムが用心棒といえども、山賊に襲撃されていない日に食料をもらうのが許せないようだ。


「お前は一番後ろだ。順番を守れ」


 集団の中で、ぼさぼさと髭を生やした男がアーシムに詰め寄ってきた。その男の両脇には取り巻きが控えていて、同じように睨んできている。


「余所者は隅っこで大人しくしろ。働いてもいないの飯にありつこうなんて、図々しいんだよ!」


 黙ったまま何も言わないアーシムを、取り巻きの1人が怒鳴りつけた。言葉を返さないアーシムを見て、見掛け倒しの大男だと思ったのか、周りにいた人間もけらけらと笑い始めた。


「……順番? 並んでいるようには見えないぞ。お前、目は大丈夫か?」


 いきなりアーシムが口が開くと、その場にいた雑用たちは固まった。簡単な問いかけだったが、意味は通じたようだ。挑発された髭の男の顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。


 凍りついた空気の中で、さらにアーシムは挑発を続ける。


「俺も荷物を運んだぞ。お前たちより多く。多分、お前は自分の仕事で精一杯だっただけかもしれないが」


 淡々と簡単な言葉で述べるアーシムだったが、それがむしろ子どもを諭すような口ぶりに聞こえ、男たちの神経を逆なでした。たどたどしく話す異国人に低く見られていることが、男たちの癇に障ったのだ。


「てっ、てめえ!!」


 真っ先に殴りかかってきた髭の男の手を受け止め、アーシムはそのまま強く握る。


「があぁぁっ!? は、離せええっ……!」


 つかまれた手の骨がきしみ、その痛みで男は叫んだ。


 アーシムは周りにいる男たちが怯んだ隙を見逃さなかった。


「来るなら、来いっ!」


 拳をつかんだまま怒号を上げると、取り囲んでいた男たちが慌てて後ずさり、アーシムを中心にした円ができた。


 アーシムに気圧された男たちは、先ほどとは打って変わって勢いがなくなった。憎々しげにアーシムを睨んでいても、近づいて殴りかかってくる者は出てこない。


「何をしているのかね?」


 緊迫した雰囲気が漂っていたその時、先頭の馬車から降りてきた男が、迷うことなく輪の中に入ってきた。


 その男は裕福な商人のようだ。顔や髪の色つやが良く、外套は分厚い毛皮を使っている。少々太った腰に帯びている剣も、立派な装飾がこしらえてある。


「食料を配っておけと言っておいたのだが、これは一体なんの騒ぎだ?」


 商人が辺りを見渡して尋ねると、アーシムに殴りかかってきた男が手を振りほどいて、その商人のもとへ駆け寄った。


「あ、あいつが原因です! あのサラセン人が俺の食料を奪おうとしたんだ!」


 必死にアーシムを指さして、男は商人に訴える。


 商人はそれを聞いて輪の中心にいるアーシムの方を見てきたが、アーシムも悪びれることなく目を合わせた。


「言葉が通じるか分からないが……君、今の話は本当か?」


 裕福な商人はいきなりアーシムを追い出すような真似はせず、厳しい口調で問いただしてきた。


 その場にいる人間の視線がアーシムに集中する。アーシムはいつもと変わらず、なるべく簡単な言葉で答えた。


「奪うつもりはない。俺と連れの取り分をもらおうとしただけだ」


「……他の者はそう思ってないようだが?」


 さらに商人が問い詰めると、アーシムは肩をすくめた。


「さあな、そんなことは知らない。それに、お前に泣きついたその男も、同じようなものだ。ここにいる誰にも配られていない食料を、俺の食料だと確かに言ったぞ」


 アーシムに言い返された男の表情に緊張が走った。アーシムの言う通り、この場にいる者たちが食料にありつけていない中、髭の男は商人に俺の食料が奪われたと言って騒いだ。


 少しずつアーシムに向けられた敵意が薄れていき、がめつい一面を見せた男を非難する空気が流れる。


「俺は用心棒だが、今日は荷物運びしかしていない。たくさん寄こせとは言わないが、せめて連れの分の食料だけはもらっていくぞ」


 有無も言わさず1人分の食料を荷台から取り、アーシムは悠々とした足取りで去っていった。すでにアーシムに食ってかかる人間はおらず、アーシムの進む先にいた者は、慌てて道を空けていった。





 最後尾の馬車から少し離れた湖のほとりで、アーシムとハリルは休憩していた。


 1人分の食料を持ってきたアーシムはハリルに食べるよう勧めたが、事情を聞いたハリルは受け取れないと言い続けた。


 結局は2人で山分けして食べ、今は近くの岩に腰かけて休んでいる。


「しかし、異国の人間には風当たりが強いですね。この地方の人たちはみんなこうなんでしょうか」


「どうだろうな。おそらく単に苛立っていただけだ。飯の取り分で騒いでいる中に、俺のような大柄な異国人が入ってきたから焦ったのだろう」


「それにしてもひどいですよ。アーシムさんも俺も、他の雇われ人夫と同じように働いていたのに……」


「自分の食い扶持を守るために必死だからな。周りの人間の働きぶりは見ないし、仮に隣にいたやつが働き者だったとして、それを認めても自分の取り分は増えない。中にはああして騒ぐやつもいて当然だ」


「そんなものですか……やりきれないですよ」


 寂しそうにハリルが呟くと、2人の後ろから男の声が聞こえてきた。


「まったくやりきれねえよなあ。働き者をほうっておいて飯を食わせねえなんて、くっだらねえ稼ぎ場だぜ」


 アーシムとハリルが後ろを振り向くと、こんがりと日焼けした大男が立っていた。


「ウルフスタン! あんたもこの商隊に?」


「おうよ、あの小せえ港町にいても食い扶持がねえから、久しぶりにヴェネツィアに行こうと思ったんだ。そうしたらアーシムが商隊にくっついていくのが見えたからよ。どうせなら驚かそうと思ってな! がはははっ!」


「やれやれ……」


 いきなり後ろから話しかけてきたのは、船で酒を酌み交わした船乗りウルフスタンだった。


 思わず苦笑いしたアーシムだったが、ほろ酔いのウルフスタンは楽しげに話しかけてくる。


「それにしても、さっきの喧嘩見たぜ。お前もなかなかやるもんだなあ」


「見ていたのか」


「まあな。いよいよお前が困っていたら俺が暴れてやろうと思ったが、俺の出る幕じゃなかったようだな。お前があの髭面の顔に一発入れてやったら、もっと面白かったのによお」


「そんなことするか。それこそ、こっちの立場が危うくなる」


「へっ、ずいぶんと真面目だねえ。まあ、若い連れがいるならさすがに我慢するってことか……坊ちゃん、俺はウルフスタンってんだ。よろしくな」


「あっ、よろしくお願いします! 俺はハリルです!」


 ウルフスタンとハリルが挨拶を交わすと、ウルフスタンも近くの岩に座った。


「よっこいしょっと。そら、これでも食えよ」


 座るやいなやウルフスタンは、腰にぶら下げていた干し肉をアーシムによこしてきた。


「おいおい、いきなりどうした」


「さっきの様子を見るに、ちゃんとした飯をもらってねえだろう。商隊の中に俺の知り合いがいたから、少し譲ってもらったんだ。遠慮しねえで食えよ」


「悪いな。助かった」


「良いってことよ。酒はいるか? エールが残ってるんだが」


「そうだな、いただこう」


 アーシムがそう言うとウルフスタンは木の筒を渡してきた。筒の蓋を開けると、エールの香りが鼻をくすぐった。


 もらったエールを一口飲み、アーシムはハリルにも回した。はじめは遠慮がちだったが、ハリルも一口飲んで喉を潤した。


「しかし、ここまで世話になるのも考え物だな。ウルフスタン、ヴェネツィアに着いたら俺に酒でも奢らせてくれ」


「お、そりゃありがてえ。久々にヴェネツィアの酒屋で良いもんを探そうと思ってたところだ。そんじゃ、お言葉に甘えさせてもらおうか」


「よし、じゃあ決まりだ。俺はヴェネツィアにいる友人に会わなければならないから、その後に行くことにしよう」


「探し物を頼んできたっていう友人か。わかったぜ」


 こうして3人は湖のほとりで他愛ない話をしながら夜を過ごした。ほとんどはウルフスタンの冗談や仕事の愚痴だったが、激しくも明るい彼の話しぶりに、思いのほかアーシムとハリルも笑って楽しんでいた。





 夜も更けて商隊の面々が寝静まった頃、アーシムは体を起こして、荷馬車の陰から離れた。


 この商隊には雑用と用心棒が多く雇われている。商人は馬車の幌の中や座席に陣取って寝ているが、雇われた者はそうもいかない。あくまでも物資を運び、また守るために雇われた者たちであり、荷台の近くに固まって眠らなければならなかった。


 他の者が起きないように気をつけながら、素早くその場から離れる。やましいことをしているわけではないが、見つかっても面倒事になるためだ。


「……ここら辺で充分だろう。しかし、どうして今からやるんだ?」


 誰もいない場所でアーシムはマヘスに話しかける。人目につかない場所まで行けと指示したのは、他でもないマヘスだった。


『ちょうど今夜は満月だからな。魔術を学ぶには良い機会だ』


「月が何か関係があるのか?」


『エジプトの魔術にとって月は大きな意味を持つ。それを含めて、今夜は新たな魔術の会得を目指すぞ。まずはシャーリア夫妻の手記を出してみろ』


「わかった」


 アーシムは懐から手記を取り出し、表紙を開いた。


 船旅の途中で読んでいたので、すでにおおかたの内容は知っている。しかし内容をただ読んだだけに過ぎず、夫妻が旅先で知った魔術の本質を理解したわけではない。


「手記に書かれているものは、ほとんどが父なる神への祈りの言葉や、それに関連した警句といったものが多い。そしてそのどれもが、旅で知り合った貧しい人々に対して書き残したものだ。魔術的な効果は薄く、ただの旅の日記に近い」


『そうだ。老魔術師とは違い、典型的な聖職者が旅の体験を述べているだけの手記だ。しかしところどころに、邪悪な存在を押しとどめる聖印のスケッチがある。キリスト教の聖職者が扱うラテン語と、それを用いた複雑な印……お前が一朝一夕では身につけられない技術だ』


「それはわかっている。なら、今の俺が学ぶべきものはなんだ?」


『シャーリア夫妻には聖職者としての経験と知恵があった。だが、お前にはエジプト神たる俺がいる。学ぶべきはエジプトの魔術だ』


「……以前、生命十字アンクの他は試したが、何も起こらなかったじゃないか」


 マヘスはエジプト魔術を学ぶべきと勧めるが、アーシムは首を傾げた。


 ギイの船に乗ってコルス島まで行く間に、マヘスとともにエジプトの魔術を学んだことはあった。その時はアーシムもマヘスも、生命十字が使えたならば他もできるはずだと思っていた。


 しかし結果は出なかった。エジプト神への祈りを唱えても、エジプト文字を血液で書き綴っても、何も現象は起こらなかった。


『こたび試すことは違う。少し危険だが、今のお前なら大丈夫だろう』


「今度は何をさせる気だ?」


『まずは俺が限界まで()()()()()()()。限りなく獅子に近づいた状態で、お前にエジプトの魔術を試してもらう』


 マヘスの危険な提案に、アーシムは眉間に皺を寄せた。


「近くには大勢の人間がいるぞ。理性を失えば、取り返しのつかないことになる」


『心配するな。お前の左腕に憑依してからずいぶん経つ。憑依を深くしてもすぐに理性を失うことはない』


「大した自信だな。良いだろう、ただし危ないと判断したらそこで憑依を拒絶するからな」


『うむ、それでいい……では、始めるぞ』


 マヘスが始まりを告げ、アーシムは気を引き締めた。


 見た目こそすぐには変わらないが、アーシムの内側から徐々に変化が起こる。アーシムとマヘスの意識の境界線があいまいになり、やがてそれが一つに溶け合う。


 意識の要になるのはマヘスである。アーシムの人間としての意識が薄れていき、荒々しい獅子神の影響に晒されたことで、アーシムの奥底にある本性が引きずり出されていく。


「ぐっ、うううぅぅうっ……!」


 獣のようにアーシムが唸りをあげ、身をよじる。強く歯を食いしばり、叫び出したい本能を抑え込もうとする。その食いしばった歯も鋭く伸びて、凶暴な牙に変わっていく。


 耐えるアーシムの意識の中、マヘスがその奥深くまで侵入する。


 いつも通りにマヘスが声をかけても、今のアーシムには届かない。無理に憑依を引き戻して、なおかつ刺激を与えれば理性を取り戻すだろうが、マヘスは構わず憑依を深くしていく。


 マヘスには2つの目的があった。


 まず、深く憑依した状態で、エジプトの魔術を試すことは大事なことだ。先ほどのマヘスの提案に偽りはなく、今夜はそれを存分に試すつもりだ。


 しかしあえてアーシムに話さなかったもう1つの目的も、マヘスにとって重要なものだ。


『アーシムには謎がある。幼少の頃に病に罹り、それを治したために父親が命を落とした。その頃から身の回りに取り巻いた不幸……アル・アジフを追った半生……それらが関係しているか不明だが、アーシムの中には謎の力が眠っている。まずはこれを明らかにせねばならない』


 透明の悪魔と戦った時、マヘスが指示していないにも関わらず、アーシムは悪魔が爪で襲いかかってくると察知した。


 普段であれば見逃すような些細な事だが、透明な爪を予知して回避するという芸当は、単なる偶然では説明できない。アーシムの中に潜む何かが働きかけた可能性が高い。


『さあ、姿を現せ……アーシム・アルハザードの奥底に潜む存在よ』


 アーシム自身すら理解できていない領域まで、戦神マヘスが入り込んだ。意識の中のマヘスは、白く輝く獅子の姿である。白い獅子が深層意識に近づき、そこに居座る存在に語りかける。


『お前は何者だ? なぜここに居座っている?』


 深層意識の中に、それはいた。


 その姿は小さく、少し丸い。形は黒い球体のように見えるが、ゆっくりと脈動しながら広がって縮むその姿は、なんらかの肉塊や軟体生物のように見える。


『……答えぬか。仕方ない、こちらからやらせてもらうぞ』


 マヘスが前足を伸ばし、黒々とした塊に触れようとした。


 その鋭い爪の先が触れるかどうかという時、塊が形を変えて、マヘスの前足を飲み込んだ。


『なにっ!?』


 豹変した塊に反応して、飲まれた前足を引き抜こうとした。しかし引き抜こうとしても黒い塊は分裂しながらまとわりつき、無数に散らばった黒い泥がマヘスの腕を這いあがってくる。


 思いもよらぬ危機感にマヘスは総毛立った。敵意のようなものは感じないが、その黒い塊は理解できない性質を孕んでいる。


『ーーーウォオオオッ!!』


 このままでは取り返しのつかないことになると判断し、咆哮とともに爪を振るい、黒い塊の中心をズタズタに引き裂いた。


 いくつにも裂かれた塊は、マヘスの足元で崩れた。マヘスの肉体にまとわりついた黒い無数の流動体も、力を失ったかのように剥がれ落ちていった。


『こいつは、一体……』


 黒い塊の正体はマヘスにもわからない。


 実際に触れ、さらにはこの手で破壊した今でも、あの塊の正体や意図は理解できない。


 しかしマヘスはこうするほかなかった。たとえ悪意のない反応だったとしても、神であるマヘスを飲み込もうという行いは看過できない。


 深層心理の闇の中、マヘスはふうと息を吐いて、何気なく目線を下に向けた。


 視線の先には水面が広がっていた。いつの間にか自らの足は水面に立っていて、重心を傾ければ、かすかに波紋が広がっていく。


『どういうことだ、アーシムの魂には何があるというのだ』


 何一つ説明がつかない現象の連続に、マヘスは困惑する。


 辺りを見渡せば、闇の中にどこまでも水面が広がっている。そこに途切れ目はなく、その全容は測り知れない。


 自らの足元の水面を覗き込む。光のない闇の世界にいるにもかかわらず、水面は鏡のようにマヘスの姿を映し出している。


 水面には白い獅子が映っている。それは己の姿が反射したものだと理解しているが、また一方で、水面に映っているのは自分とは別の存在だと感じている。


 反射しているマヘスの外皮がずるりと剥がれ、中から別のものが現れる。


『アーシム……』


 剥がれて出てきたのはアーシムだった。水面の上に立つマヘスを正面から見据え、直立不動の姿勢でじっと見つめてくる。


『分からぬ。これが、お前の内にあるものなのか?』


 目の前に映るアーシムにマヘスが語り掛ける。


 水面に映るアーシムは口を開かない。その代わりに一度たりとも瞬きせず、黒々とした瞳でマヘスを見つめている。


 それに気づいたマヘスは、ゆっくりと水面に顔を近づけて、見つめてくるアーシムの瞳を間近で覗き込んだ。


 瞳の奥に何かがある。さらに目を凝らせば、黒い瞳の中に光の粒子が散らばっていることに気づいた。ただの暗闇ではない、その奥には原色に輝く星々が漂っていた。


『夜空……いや、違う……これは、空をはるかに越えた先の世界……』


 大小さまざまな星々が移ろうその世界は、まぎれもなく宇宙である。


 アーシムの瞳の奥にある宇宙は単に星々が輝いているだけではない。


 時に黒々と濁った大気が嵐となって吹き荒れ、時に星間を漂う霧が凍りついて星々を氷で覆い、時に生々しく膨張と圧縮を繰り返した星が赤く爆発する。


 明らかに常軌を逸した世界に放り込まれたマヘスだったが、それに目を背けることはしなかった。


 これがアーシムの底に眠っていたものなのだろう。もちろん確たるものは一切なく、あの黒い塊に幻を見せられているだけかもしれない。


 しかしマヘスは直感でこの世界の本質を捉えた。


 アーシムの魂の深みには黒い輝きを持つ混沌の宇宙が広がり、その宇宙を揺りかごの中にしまっていたのは、マヘスが先ほど切り裂いた黒い塊なのだろう。


 マヘスが塊の中核を切り裂いたことで、塊に内包されていたこの世界が飛び散って広がったのだ。飛び散った黒い塊は、暗い大海原になり、アーシムの姿を入り口にして、マヘスにその世界の全容を見せた。


『俺の知っている魔術に適合しなかったのも、不自然な危険予知を行ったのも、この世界が原因かもしれない。あくまで仮説だが、もしかしたら、アル・アジフを滅ぼすこの旅は……』


 考えを巡らし始めたマヘスが、顔を見上げた。


 見上げた先には白い光を放つ満月が浮かんでいた。蒼白の月光はマヘスの姿を照らし、闇の水面に冷たい光を差し込む。


 マヘスの体が水面から離れ、音もなく浮かび上がる。


『満月の光がアーシムの理性を呼び起こしてくれたか。念のために、満月の夜に憑依を試みて正解だった……』


 マヘスは魔術を試すために憑依するにあたり、自分が手を打ってもアーシムの理性が戻らない危険性を考えていた。


 そのため、満月の光が差す夜を選んで、アーシムに憑依を持ちかけることにした。


 古代エジプトでは魔術に長けた神は、月の出る時間に人を見守ると伝えられていた。魔術、文字、そして月と時間をつかさどるトート神が信仰されていたことから、エジプトの文化では、月と魔術は密接に関係している。


 エジプトで崇拝された戦神マヘスも例外ではなく、魔術を試みる際に月の加護は必要だと考えたのだ。


『闇の中で理性を失えば、人はすぐに狂う。しかしその闇の中でも光を感じ取れば、理性を戻すきっかけになる。これも正しく魔を使いこなすトート神の導きゆえだな……ともかく、エジプトの魔術を学ぶのはやめだ。アーシムの中に眠るものを解明しなければ……』


 光を感じてアーシムの理性が目覚め出したことに乗じて、マヘスは深層心理から抜け出した。


 マヘスはアーシムの左腕に戻った。深い憑依とはアーシムの全身を支配し、意識の奥底まで侵入することだ。そして今は再び左腕に小さくまとまり、アーシムが完全に覚醒するまで待っている。


「ぐ……うぅ……憑依は、終わったのか。悔しいがその間の記憶がない……どうだ、俺の体でエジプトの魔術は試せたか?」


『……試したが、うまくはいかなかった。だが、早合点はするなよ。適性がないと諦めるのは簡単だが、別の原因も考えられる』


「別の原因だと?」


『以前言っていた、お前の中に眠っている謎の存在だ。それが居座っているせいでできなかったのかもしれない。確証はないがな』


「そうか、わかった。今日はこれまでにしよう。日を改めてエジプト魔術を学ぶか」


『俺もその方が良いと思うぞ。お前の中に残っている謎は、少々難しいもののようだ。ヴェネツィアに着いてからじっくり調べても良い。俺も何かわかったら、お前に知らせる』


「了解だ。異変があったら知らせてくれ」


『……ああ』


 マヘスは憑依した時に目にしたものを伝えるべきか迷ったが、報告は一時的に保留することにした。本能や直感であの宇宙のことをおぼろげに理解したが、確たる証拠はない。


 そしてなにより、あの宇宙を目にしたマヘスの直感が当たっていたならば、それはアーシムの旅の目的の根底に関わってくる。


 今は何も話せない。そう思ったマヘスは、これからは自らが得た情報と経験を総動員して、アーシム・アルハザードという人間の本質を知らねばならないと考えた。


 例え飲み込まれる危険があったとしても、それを解明せず逃げることは、アーシムへの義理を欠く。


 アル・アジフを滅ぼすため、ひいてはネフレン=カの一派に復讐するために、盟友の謎を探究する。それがマヘスの新たな誓いとなった。

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