第19話~悪魔狩りの夜~
工房を出たアーシムはフィッチとともに西へ走る。もちろん村の西側の丘には教会が建っており、悪魔を滅ぼすなら、その根城に赴いて決着をつけねばならない。
悪魔が逃げ出したというアーシムたちが流した情報により、村は異様な空気に包まれている。外に出て騒ぐ者はいないが、外をうろつく悪魔がいるという情報に村中の人間が怯え、得も言われぬ張り詰めた空気が漂っている。
「予想通り、誰も出てこないな」
「悪魔が外に逃げたと流布したことが効いているのだ。おかげで余計な邪魔をされず、俺は悪魔に集中できる」
「絶対に倒そう。シャーリア夫妻の仇をとってやるんだ」
悪魔退治に意気込むフィッチを見て、アーシムはそこで立ち止まった。
いきなり急停止したアーシムにつられて、フィッチも足を止める。
「どうしたんだ?」
アーシムはフィッチに歩み寄り、首を振った。
「お前は教会に入るな。悪魔を倒すのは俺だけで良い」
「なっ、そんな! 俺も戦うぞ! シャーリア夫妻の教会を取り戻さなきゃ……」
「取り戻した末に、お前が生き残ってなければ意味がないぞ」
断ち切るようなアーシムの一言が、興奮したフィッチを押しとどめた。
「忘れるな、大切なのはそこで生きる人間だ。思い出の場所を取り戻すのは良いことだ。だが、そこに囚われて命を散らせば、取り戻す意味がない」
「……わかった。俺は外で待ってる」
「そうしてくれ。ただ、お前の協力は何もいらないというわけではない」
「どういうことだ?」
「俺は姿が見えない悪魔でも倒す自信がある。剣も持っているし、何か別のものに映して見つけることもできるからな。しかし、それでも不測の事態が起こる可能性もある。やつの根城にどのような罠があるのか、一切予想がつかないからだ」
アーシムはそこで剣を抜き、月光に照らされた刃を見つめた。
刃の腹にはアーシムの瞳が映る。無用の高ぶりはなく、これから始まる戦いを冷静に臨める目だ。
「そこでフィッチ、お前の助けが必要になる」
「俺が……」
「ああ、ぜひとも必要だ。教会の中で俺が口笛を3回吹いたら、助けを求める合図だ。外から教会の扉を開けてきてくれ。その時に追って指示を出すから、むやみに動くなよ」
「よし、わかった。ちゃんと指示に従うぜ。もちろん、危なくなったらすぐ呼んでくれよ」
フィッチが念押しすると、アーシムはわかったと返事した。
それからアーシムとフィッチは教会まで慎重に近づいた。悪魔が教会に閉じこもっているとは限らない。現にアーシムは教会近くの廃屋で悪魔に襲われている。
「近くに悪魔はいるか?」
警戒しているフィッチは周囲を何度も見渡しながら、手斧を強く握って構えている。
「今は近くにいない。悪魔は笑い声を出しながら襲いかかってくるから、近づいてきたら判断できる。心配するな」
「おう……」
悠々と丘を登り続けるアーシムと、手斧を構えて後ろに続くフィッチに隙はない。確証はないが、ここで悪魔に襲われる心配はないとアーシムは踏んでいた。
『マヘス、悪魔の気配は近づいているか?』
『まったく近づく気配はない。悪魔もなかなか知恵があるようで、自分が不利になる状況だと現れないのだろう。拓けた場所で襲うよりも、暗くて狭い室内で襲うつもりだな』
『やつにとって有利な場所か。望むところだ』
フィッチの知らぬところで、アーシムとマヘスは士気を高めている。
アーシムとマヘスにとっても、教会の悪魔は、魔導書アル・アジフに繋がる重要な手がかりだ。悪魔を呼びだした老人が何者なのか、悪魔はアル・アジフに関連する生物なのか知るために、必ず悪魔は討ち果たさねばならない。
「……着いた」
フィッチがそう呟き、目の前に建つ教会を見上げた。
教会は2階建てで、村の中では5本指に入るほど立派な建築物だ。石と木材を組み合わせた白塗りの外壁は、風雨にさらされて所々が剥げている。しかし窓の扉はどれも割れずに無事で、入り口の両開き扉は外から何枚も板が打ち付けてある。
出入りできる場所はすべて閉じられている様から、教会内部はあの夜の空気を閉じ込めたままなのだろう。
「フィッチ、その斧で板を壊してくれ」
アーシムの指示にフィッチが頷く。若いフィッチの顔には、緊張と決意が溢れている。
「よし、任せろ……そらぁっ!」
フィッチが手斧を板に振り下ろすと、木の板は一撃で割れて崩れた。風雨を浴びて脆くなっていたのか、板は次々にフィッチの手で破壊されていく。
やがて全ての板を壊して、フィッチはふうと一息ついた。
古びているが教会の大扉はなかなか美しい紋様が施されていた。本土の聖堂には遠く及ばないものだが、それでも丁寧な村の職人の仕事が窺える。
扉の前にアーシムが立つ。扉の奥から漂う邪悪な気配を感じ取り、アーシムの目が一段と鋭く光った。
「ここで待っていろ。口笛が聞こえたら、手筈通りに頼む」
「おう、わかったぜ」
フィッチが応えると、アーシムは扉に手をかけてゆっくりと押し開いた。
木がきしむ音とともに、分厚い扉が少しずつ奥へ押されていく。月の光が届く外とは違い、開いた先からは濃密な闇が噴き出てくる。
そこが一寸先も見えない闇なのはもちろんのこと、明らかな血の臭いが奥から広がってきた。フィッチは思わず鼻を押さえ、アーシムも険しい顔をした。
「く、臭え……なんだ、これは……」
「5年前のおびただしい血、いや、違うな。アンダーソンたちが与えていた動物の血の臭いだろう。悪魔にしか生じない腐臭なのか知らんが、屠殺場のそれとは比べ物にならない臭いだ」
アーシムは顔をしかめつつも、迷いなく教会へ足を踏み入れる。エジプトの暗黒の陵墓よりは重苦しくないが、この教会からも、現世からかけ離れた空間特有の恐ろしさが感じられた。
「扉を閉めろ。大丈夫、灯りは持っている」
背を向けたままアーシムがフィッチに指示する。フィッチは言われた通りに扉を閉め、アーシムは手に持っていたランタンに火をつけ、懐にあるろうそくを手で触って確認した。
完全なる闇の中、アーシムが灯したランタンの光が教会内部を照らし出す。
入った先は礼拝堂だった。複数人が並んで座れる長いすが並列し、奥の祭壇まで続いている。祭壇は簡素だが、中央には木で作られた立派な聖書台が置かれている。
礼拝堂の中央まで足を進め、アーシムは再び顔をしかめた。
「これは、血か」
足元を見ると、そこは一面が赤黒く染まっていた。5年前のあの夜に流れた犠牲者の血が固まり、床一面を黒く染め上げていた。
『新しい血はこぼれていない。血の臭いも上から漂っているため、この古い血痕は、悪魔が封じられた夜にこぼした血だろう』
「シャーリア夫妻が封印したことで、その時に吸い取った村人たちの血を一斉に吐き出したということか」
『この様子から見れば、そう推察できる。あの悪魔にとって血は重要な主食だ。あの夜以降に与えられた餌はしっかりと消化してきたのだろう。しかし、封印された直後はせっかく吸った血を吐き出してしまったと見える』
「ならば、この天井からこぼれた床の血は、シャーリア夫妻の努力を示唆するものということになるな」
アーシムはそう言い置いてから、礼拝堂をあとにした。
次に向かったのは入り口近くの階段だ。教会へ入ってすぐ右手にある階段で、途中で曲がって2階へ続いている。
他に2階へ行く階段はない。この階段の先に、老人と悪魔が巣食っていた空き部屋があるのだろう。
「この先だな。やはり血の臭いが濃くなっている」
『上からやつの気配も感じられるぞ。用心しろ、ここからはいつ襲ってきてもおかしくない』
「ああ、気をつける」
アーシムは階段を上り始めた。一段一段上るごとに階段がきしみ、その音がやけに大きく聞こえる。それと同時にわずかに脈拍が早くなる。勝てる算段があるといえども、悪魔と対峙する緊迫感を感じている証拠だ。
「一応、灯しておくか」
階段の途中でアーシムは膝をつき、懐からろうそくを取り出して、ランタンの火を使って灯した。ちなみにこのランタンやろうそくは、ギイから譲り受けた旅の道具の一部である。
どれも小さいろうそくだが、一定の間隔を空けて階段に置いておけば、とっさに階段を駆け下りる時に足元を照らしてくれるだろう。
階段を上りきると、目の前には1つの扉があった。
その扉の前には椅子や机が乱雑に積まれており、外から何人もの人間が扉を塞ごうとしたことがわかる。扉そのものには白い塗料で複雑な印が描かれていて、扉を飾り立てるものではないことは明白だ。
「マヘスはこの印に見覚えはあるか?」
『見覚えはないが、調べれば魔術印の効能はなんとなくわかるぞ。一度、左手で触れてみろ』
アーシムは椅子や机を押し退けてから、マヘスに言われた通りに左手を伸ばして扉に触れた。
『……うむ、やはり邪悪な存在を押しとどめるための印だ。別の文化で生まれたものだが、性質は俺が教えた生命十字と似ている。アンダーソンやギュンターたちが外から開けてしまったために効力を失ったようだが、まぎれもなく悪魔を閉じ込めるために有効な術だぞ』
「悪魔を呼びだした老人も気になるが、シャーリア夫妻の経歴や正体も興味深いな。これほどのことができるとは、並の人間ではなかったのだろう」
『フィッチや村人たちには知らない一面があったのだな。諸国を遍歴したという話は聞いたが、その時に身につけた知識と術やもしれぬ』
アーシムは扉から手を離し、邪魔な椅子や机を脇へどかして、その扉の取っ手に手をかけた。
ランタンを前に掲げて、扉を開けた先を照らす。部屋は礼拝堂より狭いが、それでも普通の村人の家よりは広い間取りに見える。
「……やつはいるか?」
『間違いなくいるぞ。おおまかな位置しか感じ取れないが、迫ってきたら知らせてやる。俺を信じて進め』
「ああ」
アーシムは部屋の扉をさらに大きく開けて、部屋の中へ踏み入った。
クスクス……クスクスクス……
廃屋で襲われた時と同じ笑い声が聞こえる。いやらしく、不気味な声だ。
「近づいているか?」
『いや、まだ遠い。おそらく左上方に浮かんでいるが、一向に近づいてこない。様子を見ているかもしれん』
「そうか……ん?」
アーシムは足元に転がる何かに気づき、それを手に取ってみた。それは小指ほどの長さの白く棒で、軽くて固いため、すぐに人骨だと理解した。
「おそらく夫妻の骨だな。扉のそばで力尽きたのか」
悪魔への警戒も怠らず、アーシムはその場にしゃがみ込んで確認した。足元には骨が散らばっており、それは開けた扉の陰まで続いていた。
開けた扉の裏を覗き込むと、扉の外側に描かれていた印と同じものが裏に描かれていた。そしてその扉の下には2人分の人骨が重なっており、それを見たアーシムとマヘスはその意味を理解した。
「俺が扉を開けた際に骨を押し退けてしまったか。そして、シャーリア夫妻……俺が想像していた以上に勇敢で、執念深い者たちだったようだな。まさか村人たちに外から扉を塞がれてもなお、扉の内側に印を施して悪魔を封じたとは……」
アーシムは骨の一部を手の中で握りしめてから、静かに立ちあがる。
「案ずるな。お前たちがやり残したことは、俺がここで終わらせる」
視線は左上方を油断なく見上げたまま、アーシムは指先から左手の包帯を解いていく。
『……来たぞ!』
マヘスの知らせとともに、アーシムが左手を振りかぶる。
悪魔の姿は見えないままだが、気合の咆哮とともに左手刀を大上段から振り下ろした。
「ぉおおおおっ!!」
必ず当たる確証はなかったが、その瞬間のアーシムは、夫妻の意思を遂げてやるという想いだけを燃やした。当たるか当たらないかは関係ない。
その力を込めたアーシムの一撃は、不用意に襲い掛かってきた悪魔の触手を真っ向から切断した。
ピギュアアアアアッ!?
触手が切断されたことに戸惑った悪魔だが、アーシムが追撃する前に素早く逃げていく。この部屋から出ていくつもりはないようだが、慌ててアーシムと距離を取ったのは確かだ。
『よく当てたな。珍しく感情的になったのは驚いたが、まさか上手くいくとは思わなかったぞ』
「まあな。だが、やつを殺すには不充分だ。やつの姿を捉え、確実に致命傷を与えなければ倒せないだろう」
『それをわかっているなら何も言うことはない。やつは部屋の奥に避難している。今のうちに剣を抜いて、やつの姿を映し出せ!』
マヘスの言葉に頷いたアーシムが、威勢よく剣を抜き払う。ギイから譲り受けた業物の刃は美しく、赤いランタンの光を反射させる。
剣を顔の上まで掲げて、刀身を覗きながら体を転じていく。刃には炎に照らされた暗い部屋の様子と、その奥で浮遊する悪魔の姿が見えた。
「ギュンターから聞いた通りだ。まともに見たら透明だが、反射させれば姿が映っている。これなら戦える……行くぞっ!」
すかさずアーシムが距離を詰め、悪魔がいる場所に向かって剣を振るう。
剣が通った場所は何もない空間に見えるが、剣の切っ先から確かな手応えが感じられた。
悪魔が叫び声を上げ、再びその気配が天井の方へと逃げていく。
「ちっ、浅かった」
『姿が見えるといえど、狭い刀身を介して見ているからな。距離感が狂ったのだろう』
「次は外さん。やつはまた上か?」
『上だ。あの天窓の近くまで逃げたぞ』
アーシムが見上げた先には小さな天窓があった。天窓からは淡い月光がこぼれていて、天窓の周りには紋様が描かれている。
「あれも封印の術か?」
『その通り。しかし、扉の印と比べて少し綻びがあるな。焦って描いたように見える……そうか、だからやつは何年も天窓から出入りしていたのか。扉の封印は通れないが、運よく未完成の封印なら、なんとか通れたということか』
「ならばあの天窓の封印も、シャーリア夫妻のやり残したことだな」
アーシムは天窓がある方角へ目を凝らす。
相変わらず天窓の先から蒼い月光が差し込み、その周囲の天井に白い印が描かれている。
しかし、そこには悪魔がいるのだ。醜悪な姿を隠して、アーシムの血を吸い尽くそうと欲望をうねらせている。
『来るぞっ! 備えろ!』
悪魔の気配を察知したマヘスの声を聴き、アーシムが剣を構える。
だが、アーシムの内部で何かが脈動した。迫る危険に最大の警鐘を鳴らし、アーシムの体を無意識に突き動かす。
無我夢中でアーシムは横に飛んで転がった。アーシムも自分自身に驚愕していた。呼吸や四肢の筋肉が準備する前に、体全体の細胞が強制的にアーシムを動かしたような感触だった。
その直後に派手な音を立てて、飛ぶ前のアーシムが立っていた床が削られた。大型の猛獣が爪を振るったかのような、深々とした痕跡が発生した。
ただちにアーシムとマヘスは悪魔の意図を察した。
「こいつ……手段を変えたぞ」
『そのようだな。血を吸っては姿が見えてしまう。また、お前の血を吸おうとすれば、以前のように反撃されると学んだらしい。お前をかぎ爪で切り刻んでから、ゆっくりと血を吸うつもりだ』
そう話しながらも、マヘスは先ほどのアーシムの動きに違和感を覚えた。
マヘスも悪魔がかぎ爪を振るうとは予測できなかった。しかしアーシムは自分でも知らないうちに体を動かし、かぎ爪の襲撃から逃れたのだ。
「まず殺す方を優先したか。良いだろう!」
アーシムが再び剣を構える。マヘスも余計な思考を止め、悪魔を倒すことを優先することにした。
『右前だ! 大きく振れ!』
大まかな位置を読み取れるマヘスを信じ、満身の力を込めてアーシムが剣を叩きつける。
申し分ない勢いの攻撃だったが、悪魔もその剣から逃れ、禍々しい殺意を匂わせながらのしかかってくる。
『再び上からだ!』
アーシムも大急ぎで飛び退き、悪魔の荒々しい爪を避ける。悪魔もアーシムの肉体を確実に切り裂きたいようだ。爪は先ほどよりも深く床をえぐって、風穴を空けた。
「ちぃっ! ここまで動くとは……」
本来ならば刀身に悪魔の姿を映し、確実な位置を把握して斬りかかりたい。
だが、アーシムとマヘスの予想をはるかに上回る俊敏さで、悪魔は爪を振り回して迫ってくる。刀身を掲げて映そうとしても、その前に悪魔がかぎ爪を伸ばしてくるのだ。
「一旦、距離を……っ!」
何度目かの悪魔の爪をかわした勢いを利用して、アーシムは大きく後ろへ飛んだ。
着地しようとした瞬間、足元の床が消えた。
「なっ!?」
アーシムが着地しようとした場所は、最初に悪魔が爪痕をつけた床だった。穴が空くほどの爪痕ではなかったが、人間が乗れば簡単に崩れるほど脆くなっていた。
思わぬ悪魔の策にはまったアーシムは、そのまま1階の部屋に落下した。
「がはっ!」
背中と後頭部をしたたかにぶつけ、アーシムの視界が揺らぐ。
『目を覚ませ! 来ているぞ!!』
白黒と点滅する世界の中で、マヘスの叫びが聞こえる。
アーシムにとどめを刺そうとする悪魔が、かぎ爪を躍らせて迫る。
「……ぐ、ぐぅっ!」
かぎ爪に切り裂かれる直前で体をひねり、すんでのところで難を逃れた。悪魔の爪はアーシムとともに落下した木材を断ち、教会の石床も薄く削った。
立ち上がったアーシムがふらつきながら壁らしき所に手をついた。しかしそこは壁ではなく扉で、支えを失ったアーシムの体が再び転がる。
「くっ、ここは……」
落下した場所は何らかの小部屋だった。そして今は、それよりも広い場所に出た。落ちた拍子にランタンと剣を見失ったアーシムは、何も見えない暗闇の中にいる。
急いで周囲にある物に触れて、そこでアーシムは自分がいる場所に気づいた。
「聖書台と長椅子、ここは礼拝堂か。マヘス! やつはどこだ!」
『目の前だ!足元へ迫っている!』
「ッ?! ちぃっ!」
避けても間に合わないと悟ったアーシムは、ほとんど反射的に左手を足元へ叩きつけた。わずかに悪魔の爪の先が左手刀に接触し、アーシムも悪魔も互いに傷を負う。
『やつが少し離れたぞ! 今のうちに灯りと剣を……』
マヘスが悪魔の位置を伝えて、アーシムに落とした物を取り戻すように促す。
しかしアーシムは口笛を吹いた。外で待っているフィッチに助けを求める合図だ。
アーシムの左手に宿るマヘスは、そのアーシムの行動を苦々しく思った。
もちろんここまで苦戦するとは思わず、想定を超えて危険な状況に陥っている。そのような状況で無駄に命を散らすのは蛮勇で、必要な時に助力を乞うのは定石だ。
しかしながらマヘスは戦神であり、アーシムの知勇にも期待していた。人間が呼び出した1匹の異界の生物と戦って撤退するという事実に、己とアーシムのふがいなさを噛み締めた。
強い衝撃とともに外への扉が開く。口笛を聴いたフィッチが蹴って開けたのだ。
「アーシムさん! 大丈夫ですか!?」
外に立つフィッチの視線と、アーシムの視線がぶつかる。
即座にアーシムがフィッチのもとへ駆け出す。月明かりを背負ったフィッチのもとへ行けば、少なくとも暗闇の恐怖からは解放される。
脱兎のごとく走ったアーシムの後ろには悪魔がいる。姿が見えない悪魔だが、マヘスはさらに迫ってくる悪魔の気配を感じ取っている。
転がるような勢いでアーシムは外へ脱出し、フィッチの目の前でぜいぜいと息を吐いて上体を倒した。
「斧を、貸してくれ」
荒い息を吐くアーシムに言われるがまま、フィッチは手斧を渡す。
うつむき気味のアーシムが顔を上げながら、フィッチの肩に手を置く。今にも倒れそうなほど憔悴したアーシムの姿を見て、フィッチの顔に絶望が漂い始める。
「動くな、頼む……」
ゆっくりと体を起こしたアーシムが、フィッチの顔を間近で見る。
動かないフィッチはアーシムの瞳を見て、違和感を覚えた。アーシムの瞳はフィッチの瞳と合っているのに、アーシムの視線は別のものを追っている。
アーシムは、フィッチの瞳に映った悪魔を追っていた。
「ーーーそこだぁあっ!!」
右後方から迫っていた悪魔に向かって、アーシムが斧で薙ぎ払う。
斧の分厚い刃は悪魔の中心へ突き刺さった。悪魔は凄まじい悲鳴を上げて悶えるが、その一撃では終わらない。
アーシムは手斧をそのまま地面に叩きつけ、自分の足元に悪魔を押さえつける。透明な悪魔は暴れるが、アーシムの左腕がゆっくりと振り上がっていく。
「じぇりゃああああーーっ!」
渾身の左手刀が悪魔に振り下ろされ、透明な肉体は真っ二つに断ち切られた。
断末魔を上げることすらできない一撃だった。裂かれた悪魔の肉体は徐々に透明度が薄れて、ピンク色の生々しい肉体があらわになる。しかしその肉体も、すぐに赤黒い光を散らばせながら霧散していった。
一瞬の決着に唖然としたフィッチは、がくりと力が抜けて尻もちをついた。
アーシムも痛みと疲れに耐え切れず、その場で膝をついて息を吐いた。
『今回ばかりは感服したぞ。瞳に反射した悪魔を捉えるとはな』
悪魔を討ち取ったアーシムに、マヘスが称賛を送る。
疲れたから後にしてくれと心の中で笑うアーシムだったが、さめざめと泣くフィッチを見て、フィッチの背中を叩いて笑った。
「アーシム、さん、俺はっ……うぅ……!」
フィッチの顔はかつての険しさがほぐれ、少年のような大粒の涙をこぼす。
無理して話さなくてもいいとアーシムが声をかけても、フィッチは泣きじゃくりながら、何度もありがとうと呟いた。
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