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第1話〜砂漠の果て〜

 凍てついた暗夜の砂漠に風が吹きすさぶ。鋭い風が青白く光る砂丘を削り、群青色の星空へ砂塵を巻き上げる。蒼白の月光に透かされた砂は、どこいくあてもなく宙を漂っては消えていく。


 冷たく渇いた白砂の大地は、あらゆる豊かな生命を受けつけない。毒を持つ狡猾な蠍や、矮小な甲殻を持つ小虫が、かろうじて岩陰の隙間に潜んでいるだけだ。虫たちもじっと息を潜めて、険しい夜の寒さをしのいでいるように思える。


 東の方角にある大きな砂丘の影から、人影が姿を現した。かなり大柄な人間の男だ。厚い外套を着込み、顔にも頑丈な布を覆っているが、顎の下には濃く伸びた髭がちらつく。フードの奥の双眸は静かな光を含み、目尻には深い皺が刻まれている。


 長年の旅路に慣れた歩きぶりをしている男は、舞い散る砂塵を物ともせず、悠然とした足取りで砂丘の稜線を渡っていく。多くの砂丘の峰が山脈のように連なり、そこから一歩でも足を滑らせたら、すり鉢の中に滑り落ちるだろう。


 そんな男の行く手を阻むように、激しく吹き荒れる烈風が砂嵐を生み出す。さらに退路を断とうとするかのように、砂に浮かんだ足跡をすぐさま風が散らしてしまう。


 それでも進む男の足に迷いはない。目指すべき場所を定め、確固たる意志を持って突き進んできた者だと分かる。


 男の視線のはるか先には巨大な王族の陵墓が、砂漠の中心でそびえ立っていた。陵墓を構成する石は風に晒されて灰色にくすみ、その陵墓の頂上には三日月が重なっている。


 まるで巨大な台座に埋め込まれた宝剣のようだが、その三日月の寂しげな輝きは、広大な砂漠の中心で光る孤独さをにじませる。それは宝剣といえども持ち主から打ち捨てられた剣に似ている。


 陵墓の壁は月の光を浴びて、その陰影をはっきりさせている。光を受けている側は陵墓の粗い外面が見えるが、影の部分は黒い布で覆ったように真っ暗だ。


 旅人の男が前へ進むにつれて、砂丘の稜線はなだらかな下り坂になり、地面は固さを増して平坦になった。陵墓の周辺は古代人の手によって、いくらかの整地がされていたようだ。風に流されていく砂の下には、確かな石畳の感触がある。


 間近まで男が陵墓に迫った。男が陵墓を見上げると、天まで届くのではと思わせるような陵墓の頂きが、白い三日月を貫いている。砂嵐で陵墓の輪郭は見え隠れしているので、見ようによってはあぐらをかいて居眠る巨人にも見える。


 ここはある意味、孤独で空虚な巨大空間だ。並の者ならば世界中の人間は全て消え去り、生命息づく地は失われ、すでに地上には自分ただひとりだけなのではと思えてくるだろう。


 それでも男は、恐怖も、孤独も無視して陵墓を目指す。長き旅路を進んできた男の全ての目的は、この陵墓に集結している。かつてのエジプト王国の果ての砂漠に眠る秘密、それこそが東の地から訪れたこの男が求めたものなのだ。


 陵墓の壁には年月を経た粗さがあるものの、人が通る出入口らしきものはない。通説でも王族の陵墓の奥は貴重な宝を封じられているという。陵墓の建造を手がけた古代人が、わざわざ後世の人間に盗掘されるために、通用穴を開けるはずがないだろう。


 つまり壁という壁は全て塞がれている。遠目でもその事実が確認できた男は、階段状になっている陵墓の壁面を登り始めた。四角錐に形作られている陵墓を登ることは、人間にとって出来ないことではない。


 しかし今は冷気を帯びた砂塵の烈風が吹き、おぼろげな月光の他には光がない夜闇の中だ。いくら階段状になっているといえども、上がれば上がるほど足を踏み外す危険は増えていく。


 男は指先で石段が脆くなっていないか確かめつつ、一段一段を着実に登る。風で外套が激しくはためき、わずかでも力を緩めれば強風に煽られて転げ落ちるだろう。


 やがて男は陵墓の中腹まで登り、そこからは左へ左へとすり足で移動する。石段にしがみついたまま体を横に移動させ、それと同時に手先で何かを探っている。フードの奥にある眼も見開いていて、意識を集中させて壁面を観察している。


 壁面にとりついた状態で左に進んでいった男は、月の光が届かない北側の壁で移動を止めた。その場所は影になっているのでとても暗く、よく目を凝らさなければ自分の指すら見えない。


 そこで男は懐から丸い石皿を取り出した。石の皿の底には星のような形をした紋様が、不気味な赤黒い線で描かれている。星の紋様の中心には目玉を模した絵が据えられている。


「……」


 何重もの布に覆われた口の中で、男は静かに文言を唱え始めた。


 それは北方の国々が使うラテン語でもなく、彼の故郷であるアラビア世界の言語でもない。忍ぶように紡がれるその綴りと発音は、今ある文明が持つ俗物的な風味が一切感じられない。すでに失われたであろう文化が持っていた、超常した存在を讃えるような言語だ。


 静謐な祈りの言葉が届いたのか、男の手の中にあった石の皿が細かく震え始めた。皿の底に描かれた赤い紋章も、震えに共鳴して熱を帯びていき、ついには爛々とした紅の閃光を放った。


 石の皿を壁面に押しつける。陵墓の壁はあらゆるものを拒絶する冷たい四方石の集合体だが、その赤い光の線に照らされた途端に、一部の石段が崩れていった。神秘の力に当てられたためか、石のひとつひとつの粒子が不自然に分離して、まるで役目を終えたかのごとく砂の山に変わり果てた。


 崩れた石段の空いた部分を覗けば、そこは陵墓の内部に通じる抜け穴になっていた。お世辞にも立派な出入口とは言えないが、人間一人が通るには充分な大きさだろう。


 男は暗闇に目を凝らした。細く長い穴が伸びていて、肉眼では底が見えない。幾年も封じられてきた古代の秘密が、この穴の先に潜み続けているのだと男は確信した。


 不思議なことに穴から外気を吸い込む音が一切聞こえない。砂粒を含んだ強風が吹いているにも関わらず、穴の中は完全な沈黙を貫いている。それはこの穴から先が、男が今居る場所とはまるで異なった次元に通じていることを示している。


 肩にかけていた旅の荷物を下ろすと、男はそれを自分の腕の中で抱えた。穴はひどく細いので、背中に荷物があれば引っかかってしまう。穴は真下に伸びているように見えて、わずかに斜め下に傾斜している。落下して大怪我する危険は少ないのは幸いだが、もし一度引っかかってしまえば、穴の中で飢え死ぬしかなくなる。


 男は念入りに荷物を胴体に括りつけた。外套の裾も腰元で結んで、無駄にバタつかないようにしておいた。心身の準備はこれにて整った。あとは己が目指した深淵に飛び込むだけだ。


 一度だけ顔を上げて男は夜空を見納めた。凍りつくような空気は恐ろしいが、その冷気は夜空の輝きを一層際立たせる。荒れ狂う砂塵のはるか上を見つめると、極上のラピスラズリも比べ物にならない星空が広がっている。深青色の天空のドームはどこまでも深く、散りばめられた銀砂の星々で生まれた天の川が、無数の方角へ分かれて浮かぶ。


 これが現世の見納めなのだ。胸の内で男がそう呟く。右足を闇の中に入れた途端、吸い込まれるような感覚を味わった。足の先にべったりとした何かがまとわりつき、男の体を奥へ奥へと導いていく。体全体を穴の中に沈めると、明らかに外と違う空気が漂っていると分かる。


 急勾配を降る男の体は深淵の中心へ吸い込まれ続け、やがて穴の出口に放り出された。体は勢いよく穴の先の広場に転がったが、男は素早く受け身をとったので、衝撃で骨が砕けることは無かった。


 男が降った先も漆黒の空気が広がり、自分の鼻先すら見えない暗黒となっていた。男は腹に括った荷物を下ろして、その袋から松明を取り出した。火付け道具を擦って火種を松明に移すと、油紙を巻いた松明が煌々とした灯りを発した。


 穴を滑り降りた先は直線の廊下となっていた。廊下の幅は人間5人分といったところで、小さな荷車程度ならすれ違えるほどの広さだ。天井の高さは長身の男が片腕を伸ばせば、指先の爪がわずかに天井に触れるほどだ。


 この廊下はかなりの距離まで伸びているようで、穴を降った時間から察するに、この場所は陵墓のはるか地下に位置するのだろう。


 廊下の石壁は炎の灯りでほのかに白く見える。天井も床も強固な石が敷きつめられているため、王宮の地下回廊と同じほどの建築技術を用いて造られた場所だと推測できる。この秘匿された階層を造った古代人の文明は、男が考えていたものよりも進んでいた。


 灯りを手にした男は真っ直ぐ先に伸びている暗闇の一本道を、慎重な足取りで進み始めた。音こそ男の靴音しか響かないが、周囲から押し寄せる闇の圧迫感は男の鋭敏な警戒心を刺激する。


 しばらく廊下を進むと下り階段が見えてきた。階段の勾配は緩やかだが、これもまた長い階段であるため降りきった先は確認できない。男は自分が巨大な怪物の口腔の奥へ進んでいく、か細い獲物になった感覚を味わった。


 長い階段を降りていくにつれて、男の周りに漂う空気の重さが増してきた。それと同時に男のことを忌み嫌うかのごとく、わずかに空気が振動する。


 やはり、と男は思った。この先には人が目にしてはいけない領域が広がっているのだ。実際に亡霊や悪魔が現れたわけでも、声を聞いたわけでもないが、この得体の知れない圧迫感は尋常の世界にはないものだ。むしろ本物の亡霊を目の当たりにするよりも、この空気の方がより寒々しく感じられ、肌も根源的な恐怖により粟立ってくる。


 階段を降りきると扉に突き当たった。中央に薄らと線が入っている石の門だ。門には古代人が刻んだ紋様が左右対称に刻まれ、門の構造は左右に横開きになるようだと分かる。


 男は門に刻まれた紋章をじっくりと見た。何かの植物をモチーフにしたものなのか、様々な曲線が折り混じって形作られた茎と、その傍らから生まれる若葉が数枚見える。


 だが単に植物を模した紋章ではないのも確かだ。一見すると生い茂った植物の集合体に思える紋章も、細部に目を凝らせば何匹ものクサリヘビが植物の一部となっている。ヘビ同士が複雑に絡み合って植物を作り出し、本能のまま喰い合いながらまぐわっているように見える。


 フードの奥で男の眉が険しく中央に寄る。瞳は嫌悪と恐怖を抱いている。


 男がこの紋章を見る限り、この石門の先には古代人が秘匿した邪な教えの拠点が、今なお存在しているに違いないと考えた。その教えは世俗の者が耳にして耐え切れるものではなく、この世の中では忌むべき冒涜的な知識だ。


 それでも男に後退はない。腰に下げていた小袋から石灰を固めた棒を取り出すと、扉の紋様の上に新たな紋様を描き始めた。扉を封じている邪悪な効力を真っ向から上書きして、自分の望む進路を拓くためだ。


「……」


 またも男は奇妙な文言を唱えた。


 その言葉に込められた祈りが男の描いた魔法陣に共鳴し、閉ざされていた石の扉に段々と亀裂が走る。クサリヘビを模した不浄な紋様が震えて崩れていき、まるで焼きごてを当てられた受刑者のように苦しんで見える。


 扉が完全に崩壊して砂が散らばると、扉の先に広がる闇の中から烈風が襲いかかって砂を巻き上げた。


 咄嗟に腕を上げて男は砂から顔を守った。この闇の先にある何かが男の侵入を嫌っているのだろう。砂が散っていった後でさらに気を引き締め直して、男は松明の光を掲げて闇の空間に侵入した。


 松明の揺らめく炎の輝きは闇を切り裂いて空間の全容を照らし出す。


「……!」


 顔を上げて周囲を見渡した男は驚愕した。


 扉の先の空間は男の想像を超えて広大だった。天井は陵墓の高さに匹敵し、面積も小さな町が丸々と入ってしまうほどだ。


 さらには扉を開く前では聞こえなかった、滝が流れるような水の音が男の鼓膜を打ってくる。


 男が立つ通路は空間の中央で一直線に伸びている橋だ。左右に道や足場は無く、橋の下には深い闇が広がっているばかりで、落ちれば命は助からないだろう。


 滝の音は四方から聞こえているため、にわかには信じがたいことだが、古代人が開拓した潤沢な水路がこの空間に設けられているに違いない。その流れる水は橋の下にたどり着いた後、また何らかの水路を経て、さらなる深淵へ流れ着くのかもしれない。


 そして最も信じがたいのは、この地下空間のあらゆる壁に禍々しい壁画が描かれ、また精巧かつ生々しい巨大な怪物の石像が、規則性を持って空間の至るところに建立されていることだ。


 その邪悪さを一言で表すことは不可能だ。それは過酷な旅を経験した男の神経すら容易に蝕む。


 右の壁には章魚に似た頭部を持つ巨竜が描かれ、荒々しいかぎ爪と幾百の触手で人々を海へと引きずり込み、無力な人間は海に向かって嘆き拝む。


 正面の壁は顔が真っ黒に塗り潰された二本足の怪物の壁画で、怪物は陵墓の影に隠れた月に向かって吼え、その頭頂部から伸びた一本の触手は輝かしい太陽を握り潰している。


 左の壁画は天空から舞い降りた歪な宝玉の集合体に人々が祈りを捧げている。その宝玉のような何かに近づいた人間の体は、触手を生やした醜悪な生物に成り果てている。


 それらの異端の壁画の出来映えは恐ろしいほどの迫真性を訴え、これを描いた者たちが抱いた、狂いきった信仰心の息づかいが感じられる。


 さらに異形の石像については直接的な恐怖が刺激される。


 両腕を広げて牙を剥く醜悪な魚人の石像、章魚の頭をした巨竜人の石像、数多の触手に覆われた人間の石像……そして先ほどの扉の紋様にあったクサリヘビのような蛇竜の石像も、男が立つ橋の左右に列を作って並んでいる。


 これほどの規模を誇る神殿は世界でも類を見ないだろう。この陵墓自体が歴史の闇に隠された忌むべきものだが、これらの異形の神々を崇拝していた古代エジプト人の熱意は、まさに政治や文化を変えるほどの激しいものだったと伺える。


 そしてその元凶は今もどこかに潜んでいるのだ。


 男は正面の壁に描かれている怪物の絵を睨んだ。感情をあまり表に出さない男が見せた強い怒りだった。


「月に吼える魔獣……」


 旅人の男はその怪物の正体をわずかに知っている。


 この男はすでに滅んだ東の王国で生まれたが、その生涯は波乱に満ちている。幼いときから旅を続けて大陸諸国を渡り続け、災害や戦争も経験してきた。旅を始めて何十年経ったか男自身の記憶も正確ではない。


 そのような過酷な旅の途中で偶然出会った、とある「予言者」が壁画の魔獣のことについて言及していたのだ。


 曰く、それは神々の代弁者である。人の血肉を貪り、魂を辱め、やがては破滅をもたらす邪神の意思を汲んで、あらゆる地で暗躍する使者だと。


 その使者には顔がない。決まった姿を持たず、性別も、種属も、全く不確かな存在なのだとヴードゥーの予言者は語っていた。


 だが男は予言者に話を聞く以前から、その使者のことを知っていた。数々の怪異に見舞われて四苦八苦した旅の途中で、その使者の気まぐれな悪意が怪異の根源なのだと感づいていたのだ。


 かの使者は冷酷残忍を極め、もしも人間と同じような唇があったなら、その唇の端を喜悦に歪ませ、人の不幸を眺めて微笑む卑劣さを持っている。


 顔を隅から隅まで塗り潰された怪物の絵画は、その残酷な無貌の使者と深く関連があるに違いない。


 男は蛇竜を模した石像が左右に並ぶ石橋を渡り、その正面にある顔の無い怪物の壁画に向かっていく。


 絡みつくような邪気が空気を重くさせている。背筋が凍るのは気のせいではなく、この巨大な万魔殿に祀られた邪神たちの威光が、今もなお男の精神を締めつけるのだ。


 橋を渡りきると顔のない怪物の壁画が立ちはだかり、男の進路はここで途切れていた。橋の途中に分かれ道や他の足場はなかった。この大空間に点在する石像と壁画を、たいした橋も台も足場も使わずこしらえた古代人の技術も気になるところだが、男にとって最も重要なことは次に進む道を見つけることだ。


 どこかに隠された道があるに違いない。そもそもこの神殿自体が歴史から秘匿されたものなのだ。この邪悪な崇拝が蔓延していた時代の王の権勢は凄まじいもので、人肉屍食も横行していたほどだったが、暴虐の王政は長く続かず、ついには反乱が勃発して暗黒王朝は崩壊したという。


 つまりこの神殿は邪な信徒たちの最後の隠れ家であり、尋常の方法では奥へ辿り着けない構造になっている。


 もう一度、男は自分が歩んできた橋を注意深く観察した。


 橋の左右に落下を防止する柵や壁はなく、橋の下を覗いても、はるか下で黒く深い水が流れている。蛇竜の石造は橋を挟んで左右にそれぞれ20体並んでいる。


 男はその石像に目をつけた。石像の一部に縄をくくりつけ、縄が届く限りまでなら、橋の下まで降りて探索できる。もしかすれば縄が伸びきる手前で水面に到着するかもしれない。


 背負っていた袋から縄を取り出し、輪を結んでから蛇竜の石像へ投げつける。輪は狙い通り蛇竜の首に引っかかった。


 2度、男は縄を強く引いて首の強度を確かめてから、このまま体重をかけて降りても大丈夫だと判断した。


 蛇竜の石像に脚をかけながら男は慎重に降りていく。いくら下を覗いても真っ黒な闇ばかり広がっていて、いまだ水底には異形の下僕が潜んでいる可能性がある。今この瞬間にも、水面から魔手を伸ばして男の脚につかみかかることもあり得る。


 綱を掴んで降りていくほど恐怖は増していく。この陵墓の中は一種の異界であり、どんな怪物が潜んでいても不思議ではない。


 男の手の中で汗がにじみ、綱を掴む自分の手すら頼りないものに見えてくる。再び男は綱を握り直して石像の下へ降りていった。


 綱が届く限界まで降りると、ちょうど橋の真下に別の橋を発見した。その橋はこの空間の至る所へいけるように複雑に分岐しているが、黒ずんだ石で造られていて、上から見ただけでは橋があると認識できないだろう。


 水面に近いせいかぬらぬらと濡れているが、そうそう崩れるものではないと男は考えて、橋へ軽々と飛び移った。


 橋に着地した男は酷い悪臭を感じた。


 原因は橋を濡らしている何かだ。見た限りではただの水だと思っていたが、異常なまでに粘つき、すえた生臭さが漂う。


 ついさっきまで怪物の寝床だったのかと思えるほど、この橋は不気味で不潔な粘液を帯びている。


 フードの奥で男は顔をしかめる。臭いだけなら平気だったが、この不可解な粘液質の何かがあるということは、すぐ近くに悪辣な生命体が存在していたということなのだ。


 危険はさらに大きくなったが、男は勇気を持って橋を進み始めた。


 上にあった橋と違い、今歩いている橋は空間の至るところへ分岐している。そしてすぐ下は水面となっていて、この空間の最下層にある唯一の連絡通路だと考えられる。


 古代の邪教徒たちが、どのようにしてこの最下層の橋にたどり着いて利用していたか知らないが、この隠された連絡橋を発見したということは、男の目指すものもいよいよ目前に違いない。


 まるで迷路のごとく通路は分岐しているが、長い年月を経たせいで破損している部分が多い。通行できる通路の先だけを探索していけば、そう長い時間をかけずに最深部へ到達できるだろう。


 不明な粘液で覆われた連絡通路を男は進む。口元に巻いていた布を鼻先まで引き上げて悪臭を我慢し、うかつに足を滑らせて落下しないように足下へ注意を払う。


 神殿内に流れる滝の音は相変わらず激しく、凄まじい量の水が流れ込んできているのが分かる。なんらかの排水路があるおかげで、神殿内が水で満ちることはないのだろうが、それでもいつ水位が上がるかと男が気に病むのも無理はない。


 時折、通路の脇にある様々な邪神像のそばを歩く。邪神像の足下も細かな装飾が施されている。大抵は禍々しい触手や不気味な幽鬼の顔が彫られていて、中には苦悶を浮かべる人間を踏みつけている表現をした石像もある。


 それらの彫刻の保存状態はきわめて良好で、通路の劣化とは比べ物にならない。長らく人の手が入っていない場所で、このように劣化の差異があるということは、これらの邪悪な怪物を模した石像にも邪神の魂が宿ったゆえの必然か、それとも石像を創り上げた信徒たちの歪んだ崇拝の感情による奇跡なのか。


 男が下層の通路を見つけてから一時間経った。


 最終的に男が辿り着いたのは神殿の入り口から遠く離れた、神殿内北西の壁画の前だった。


 その壁画は他の壁画と比べて異質だった。描かれた絵は当然ながら異教の邪神といえるものだが、それは怪物じみた姿ではなく、抽象的な輪郭をした輝く天体だ。


 恒星のごとく輝く天体は完全な円形ではない。強い熱量を表して描かれているものの、その輪郭は歪み、ねじれ、身もだえしながら踊り狂っているように見える。


 異質な点はもう一つある。その踊る天体の周囲に人々は描かれていない。他の壁画は何らかの民や信徒が喰われ、拝み、おぞましい支配者の威光にひれ伏している。しかしその天体のそばには、あの顔のない破滅の使者が控えているだけだ。


 ただの神官では、そこらの神性では、謁見することすら不可能な存在なのだろうか。


 あらゆる偽りの顔を持つ無貌の使者が、その輝く「何か」に対して遠慮を抱き、まるで側仕えする従者のように描かれているのだ。


 これまで幾度となく怪異に触れて旅をしてきた男といえども、最も不可解としか見れない絵が目の前にある。


 ゆえにこの壁画の先こそ、この神殿のさらなる深奥へ行く道なのだろう。ましてや他に探索できる箇所もない。


 男は懐から蛇のようにうねったナイフを取り出す。そのナイフの刃には東方の破戒僧が刻んだ呪印があり、その呪印の効力を帯びたナイフは、男が所有する道具の中で最も恐ろしい魔力を秘めている。


 意を決して男は壁画にナイフを突き立てた。


 ナイフの刃は冷たく硬い石壁に沈み、カタカタとした奇怪な振動が男の手に伝わる。


 やがて振動が収まると男はナイフを引き抜いた。ナイフの刃はタールのように溶け落ちていたが、石壁もナイフで突いた穴を中心にして、放射状にひび割れていく。


 ついに壁は崩れた。男の目の前には新たな道が現れた。人間一人だけしか通ることができない、細く暗い隠し通路だった。


 キュウゥゥーーーゥ……


 そして通路の奥から虫が唸るような音が微かに響く。


「ようやく……これで……」


 目深に被ったフードの中の瞼がすぼむ。魔境をめぐり続けざるをえなかった男の目的、その元凶がそこに眠っていると男は確信して前進する。


 ただ一歩、旅人の男が通路に踏み入った瞬間に異変は起こった。


 あれほど激しい水流を轟かせていた滝の音が消えたのだ。それだけではない。夢幻の中に入り込んだかのように、一切の物音が響かなくなった。


 男が後ろを振り向くと入り口は塞がれていた。音もなく無機質で分厚い石壁が現れていて、どれだけ叩いて仕掛けを調べても、その壁ははるか昔から存在していたかのように傲然と立ちふさがっている。


 奇怪な力で帰り道を奪われた男だったが、それに恐怖を覚えて取り乱すことはなかった。むしろこの程度であれば想定の内、本来であれば信徒でもない人間がここまで侵入しただけでも奇跡に近いといえる。


 たとえ滅びた異教の神殿といえども、たとえ打ち捨てられた狂信者の根城といえども、そこには絶対的な悪意が幾年経ても棲みついている。どれほど使用人が去っても主の威光は座し続けるのだから。


 それを覚悟して男はここまでたどり着いた。いまさら退路を塞がれた程度では恐れず、さらにこの神殿の奥に眠る邪宝に迫ってやるという決意が固まった。


 発見した通路ははじめ無機質な一本道に見えたが、進んでいけば両側の壁には墨で塗られた黒い半獣人の石像が羅列していた。


 その獣人の石像は先ほどの大広間で見た邪神像たちとは趣が違う。大広間にある壁画や石像は明らかに異端の神を表しているが、黒い獣人の石像は古代エジプト文明でも知れ渡っていた神々に似通っている。


 今でこそエジプトはイスラームの王朝に征服されているが、古代エジプトの土着神話はひっそりと語り継がれている。そして男は旅の過程で古きエジプトの神々を知っていた。


 古代エジプトの神は様々な形をとり、年代や地域が変われば神の立場も特徴も変わる柔軟さを持っている。隼の頭をもった太陽神、ジャッカルの頭をした死者の神、雌獅子の頭の女神など、動物と物質と自然現象が神に結び付けられている。


 男が黒い獣人の石像を見て、真っ先に思い浮かんだのは「セト」と呼ばれる神だった。


 セトは太陽神などを守護する神でありながら、兄のオシリスを殺害した悪神として伝えられることもある。


 時代によって善神にも悪神にもなり、まさに多面性の先駆けを象徴する神だ。


 エジプト神話と異教の邪神崇拝が結びつくとは思えないが、この石像を見る限りでは、なんらかの関わりがあるのかもしれない。


 通路の奥を進めば進むほど空気はねばつき、旅人に対する圧迫感が増す。怪物の消化器官の中を進むような感覚を覚えつつ、ついに男はひとつの部屋に辿り着いた。


 それは部屋ではなく、異様なもうひとつの世界だった。


 あれほどしつこかった侵入者を拒む気配が、信徒ではない者に対する憎悪めいた空気感が、完全にかき消えている。


 先ほどのような音が遮断された時とは違い、次元そのものが別の場所になったような感覚だった。


 足下を見れば銀河の星々が流れ、見上げれば暗黒の空間に嵐が吹き荒れる。次々と景色が移り変わる様は夢幻の如く。まぶたが瞬きするたびに、旅人を取り巻く世界は水底にも、漂空にも、樹海にも早変わりする。


 自分は立っているのか、座っているのか、沈んでいるのか、浮き上がっているのか、飛んでいるのか、それすらも曖昧な世界に旅人は放り投げられた。


「……ッ!!」


 今までとは比べ物にならない規模の幻妖のひとときは、旅人の強靱な精神すら薄氷のように砕く。


 しかし旅人の男には奥の手があった。前後不覚の闇に投げ出されている最中に、奥歯に仕込んでいた劇薬を噛み潰して意識を覚醒させた。


 気つけ用として用意していた劇薬の効果は凄まじく、胃液は逆流し、歯茎も舌も痛烈な痺れに襲われるが、頭を振ってまぶたを開けると、そこは1本の石柱があるだけの小部屋になっていた。


 再び辺りを見渡しても景色が変わることはなかった。男の持つランタンの火が小さな部屋の壁を照らし、背後の壁には男自身の影が伸びる。


 部屋の中心には柱が立つ。その柱の丈は短く、男の胸元辺りまでしかない。


 柱に装飾はなく、無造作に設えたものだと分かる。


 先ほどの神殿にあったような邪神像や壁画などとは違い、信徒や神官による手が入っていない。


 男は柱に近づいた。柱の上面は斜めから切り落とされたようになっていて、その面には親指の太さほどの穴が空いていた。


 慎重に罠がないか確認してから、男はその微細な穴の中を覗き込んだ。


 覗き込んだ先は「あの世界」だった。


 この部屋に入った時に体験した、あの異常な光景の世界だ。小さな穴の中にあったのは細い管などではなく、人智も及ばぬ秘境が封じ込められていた。


 しかしその世界は、再び男の感覚に襲いかかって幻惑させるつもりはないようだ。


 男が顔を上げて穴から目を逸らせば、特に異常なく辺りは小部屋のままになっている。


 穴を覗き込めば不可思議な世界が刻々と時を刻んで存在しているが、そこから視線を外せば、また現実の時間も個別に時を経ているのだ。


 そこで男は、現在の自分が存在する場所は2つの世界の狭間だと理解する。2つの大河のちょうど間にある中洲に取り残されたような感覚だ。


 そしてこの柱の穴の中にある異界は、別の意味を持つものだと男は確信した。


 この異界こそ、男が長年かけて追い求めてきた究極の邪宝ーーー魔典アル・アジフに違いない、と。

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