第14話~悪魔の住む村~
コルス島に上陸して2日目の朝、アーシムとハリルは森から出て、再び海岸線に沿って北へ歩いていた。
薄い雲が空にかかっているおかげで暑くなく、ちょうどいい潮風が体を冷やしてくれる。そのため昨日は慣れない旅に疲れが見えていたハリルだったが、今日は辛い顔を見せずに歩き続けている。
先導するアーシムは自分の右側に広がる海を時々眺めながら進んでいる。曇り空の下で海鳥たちが鳴きながら旋回していて、やがて寂しげな鳴き声の余韻を残して北へ飛び去っていった。
目的地は北西だが、島の中心部は山林が広がっている。暗くなる前に西へ抜け出せるならば問題ないが、森の奥深くで方角を見失えば命に係わる。そのためアーシムは東の海岸線を北に歩き続けてから、山あいを避けて西へ突っ切る予定だ。
しかし歩けども大きく景色が変わることなく、気づけば空は晴れて、太陽も中天に昇っていた。
「そろそろ次の人里に着きたいところですね」
後ろを歩くハリルが話しかけ、アーシムは前を見ながら答えた。
「そうだな。休憩をとりつつ、流刑地の話も聞きたいところだ」
「その流刑地に、主人が探している男がいるんですよね?」
わずかに不安を覗かせたハリルを見て、アーシムは昨日の昼間に聞かせた話を思い返した。
ハリルを含め、ギイの使用人たちは魔術についての知識がない。おとぎ話や伝承などで聞いたことはあっても、アーシムやギイのように、実際に体験した者とは大きく意識が違う。
ゆえにアーシムは魔術や怪物に関する事柄は一切省いて、ギイの頼みでヴェネツィアから流刑された男を見つけるという話だけハリルに伝えた。多少の脚色は必要だったが、ハリルはその話を信じてアーシムに同行してくれている。
「おそらくな。生死は不明だが、その男はギイの大事なものをヴェネツィアで奪ったという。俺にだけ詳細を話してくれたため、お前に全てを教えることはできないが」
「ええ、わかっています。しかし、盗人や人殺しが大勢いる場所に行くのは正直恐ろしいです」
「案じることはない。流刑地に着いたら実際に動くのは俺だけだ。お前は安全な場所にいてもらうから、心配せずついてきてくれ」
アーシムの言葉にハリルは安堵し、それからも流刑地のことに触れず歩き続けた。
2人が空腹を感じ始めた頃、なだらかな丘を下った先に2つの池が広がっていた。池はどちらも海に近く、奥の方の池のほとりには集落が見える。
その集落に活気は感じられないが、遠くからでも人の姿は確認できる。家はどれも古く粗末だが、廃墟というわけではないようだ。
「やった……ようやく人里に着いた」
「ああ、ひとまずは休めそうだ。通訳は任せてもいいか?」
「お安い御用です」
休めるとわかったハリルは幾分か元気を取り戻し、風になびく草原を軽快な足取りで下っていく。アーシムもそれに続いて丘を下り、集落の中へ入った。
川と池が近いこの集落にはいくつかの田畑があり、5頭の牛が放牧されている。決して豊かな生活ではないが、自給自足ができている集落のようだ。
「人は出てきませんね」
「警戒しているのだろう。もしも誰か出てきたら話してくれ」
「わかりました。昨日のように話しますか?」
「いいや、恐れさせる内容は言わなくてもいい。俺が合図を出すから、それに合わせて話してくれ」
「はい、そうします」
ハリルとアーシムが話していると、畑の方から1人の老婆が歩いてきた。背は曲がっているが、それなりに体格は大きい。手は土で汚れ、木製の鋤を握っているので、どうやら農作業を中断してアーシムたちのもとへ来たようだ。
「見ない顔だね。この島に流れ着いたのかい?」
老婆は武器を持つアーシムたちに対して物怖じすることなく、値踏みするような口調で話しかけてきた。
言葉は昨日の島民と同じくロマンス語だったが、いざハリルが何か答えようとした時、老婆の次の言葉を聞いて目を丸くした。
「サラセン人、にしては雰囲気が違うね」
その言葉は流暢なアラビア語で、アーシムとハリルが最も聞きなれた言語だった。
「あんた、アラビアの言葉で話せるのか」
アーシムがそう聞くと、老婆はふっと笑った。
「この島に長く住んでいれば、嫌でも別の国の言葉を覚えるもんさ。アラブの兵士が来たこともあれば、イタリア王国の兵士が来たこともある。そうして小競り合いがたびたびある島さ」
「そうか。時に人を探しているのだが、数年前にイタリア王国の本土から流された者たちがいる場所について教えてくれるか」
すぐにアーシムが要件を切り出す。老婆は流刑地のことは知っているようだが、少々わざとらしく首を傾げて答えた。
「知らないねえ」
「本当か?」
さらにアーシムが問うが、老婆は堂々とした口ぶりで「知らないもんは知らないよ」と言い、続けてアーシムにこう言い放った。
「大体、なんでそんなことを教えなきゃいけないんだい。島の外から来た得体の知れない人間に、人殺しもいる流刑地のことを教えると思うかい?」
強い語気で言い返した老婆にハリルは気圧されて一歩下がり、アーシムも黙った。
『ずいぶんと肝が据わった老婆だな』
今のやり取りを見ていたマヘスがそう呟いた。
アーシムもそれは同感だったが、目の前にいる老婆は、ただ肝が据わった排他的な老婆には見えない。アーシムとハリルがどのような人間なのか、それを見定める役目を持っているように見える。
「突然尋ねて失礼だった。邪魔であればすぐに立ち去ろう」
「ふん、礼儀は知っているようだね。来な、せっかくの客を追い出すことはしないさ」
老婆は顎をしゃくってアーシムたちを促し、先頭に立って歩き始めた。
その案内の通り歩いていくと、アーシムたちは池のそばに建つ家に着いた。古びているが造りは頑丈で、集落にある他の家よりも若干大きい。
家に入ると老婆はテーブルを指で示した。その通りにアーシムとハリルはテーブルの近くにあったイスに座り、老婆は家の奥へ入っていった。
「それなりにしっかりとした家ですね」
家の内装、置かれている家具などを見て、ハリルはそう言った。
「確かにな。しかし、家の造りは古いが家具や物はどれも新しい」
アーシムの言う通り、壁や梁こそ黒ずんでいるものの、家の中にあるものは作られた物ばかりで、木目にも汚れがほとんどなく、初々しい白さが映えている。
「そう、最近越してきたばかりさ。本土から船も来ない集落だが、老人が家具を作って住むには充分な場所さね」
奥から器を持って出てきた老婆が言った。耳も良いようで、今のアーシムたちの会話が聞こえていたらしい。
「さあ、飲みな。エールだ」
老婆が2人分の器に注いだのはエールだった。薄く泡立った液面の奥に、茶色に濁ったエールが見える。
アーシムが先に器を持ち、エールを飲んでいく。アーシムが飲み切るとハリルも器をあおって飲んだ。強い苦みとかすかな甘さが泡とともに口に広がり、乾いた2人の喉を潤した。
「いい飲みっぷりだ」
ニッと老婆が唇を歪めて笑った。
「私はベルって呼んでくれ。あんたらは?」
「俺はアーシム。そしてこいつはハリルだ」
「アーシムとハリルね。あんたら、どうしてこの島の流刑者を追っている?」
先ほどよりもベルの態度は柔らかくなっていたが、アーシムたちの正体を目利きすることに変わりはない。おそらくベルはこの集落のまとめ役なのだろう。
ハリルはどこから説明しようか考えていたが、それよりも先にアーシムが話し始めた。
「訳あって仔細は話せないが、その流刑者は俺と懇意にしているヴェネツィア商人のとある宝物を盗んだ。それを取り返すために俺たちがやってきたのだ」
「ふうん、流刑者に盗まれた宝ねえ」
ベルは自らの器にもエールを注いで、ぐいっと器を傾けて飲み干した。
「……ぷはっ。それで、それを証明する物は?」
「ハリル、外套の襟を見せてやれ。証明になるかどうか分からんが……襟にその商人の看板印があるから、まずはそれを見てくれ」
アーシムに言われて、ハリルは自分の外套の襟をベルに見せた。確かに襟の内側にはギイの店の看板印が留められている。
それは錫を加工してできた記章で、弓を上から覆う手を模した紋章だ。武力を人の理性が押さえつけるという意味で、商売に身を捧げたギイが直属の使用人にだけ与える物だ。
「なるほどねえ、その商人の印かどうかは知る由もないけど、その記章が容易にこしらえるものではないのは確かだ。あんたらがただの旅人や盗賊ではない証明にはなるね」
「そう言ってくれて何よりだ。さて、俺たちはすでに他の島民に流刑地の場所は聞けたのだが、それ以外は何も知らない。もし何か知っていることがあれば、答えられる範囲で教えてほしい。その礼もするつもりだ」
アーシムの頼みを聞いて、ベルは顎に手を当てて考えてから口を開いた。
「なら、こうしよう。この集落は池と海に近いが、釣り竿が少ない。今の季節はまだ良いが、食料の少ない冬になれば死活問題だ。そこで、あんたたちが立派な釣り竿を何本か作ってくれると約束するなら、流刑された者たちについて、私が知っていることを隠さず話そう」
「釣り竿作りか。良いだろう、容易いことだ」
「二つ返事とはね。くくっ、気に入った」
アーシムが条件を飲むと、ベルは再びエールを器に注いで一口飲み、話し始めた。
「ーーーこの島はたびたび島流しに遭う罪人がいてね。そういった人間は本土にいた時と同じく盗みを働いたりして、たいていは島民に排斥されて野たれ死ぬのさ。だが、たまには島民に仲間入りして住み着く人間もいる。もちろんそこで大人しく余生を過ごせばいいが、それでも悪質なやつはまれにいる」
ベルは淀みないアラビア語で話す。アーシムとハリルは真剣に耳を傾けている。
「5年前、いつもと違って大勢の人間がこの島に流刑されてきた。本土の国のお偉い方々の話はよく分からんが、なんでも大きな街で悪さをした人間ばかりと言うじゃないか。当然、島の人間は恐ろしいと感じたが、その流刑者たちは島の北西にある半島に閉じ込められた。本土の兵士たちが半島を覆う柵を幾重にもこしらえて、牢獄が完成したのさ」
アーシムたちはその話を昨日の島民に聞いたばかりだ。このコルス島の北西に流刑者は押し込められ、容易に逃げ出すことはできないようになっているという。
「逃げ出そうと試みる人間は多かったみたいだ。もちろんそんな狭っ苦しい場所で死ぬより、逃げた方がいいからね。しかし大半はすぐ死んだ。島民だって馬鹿じゃない。逃げ出した人間が死に物狂いで略奪するつもりなら、こちらから脱走した流刑者を追い立てようと腹を決めて、殺し回ったんだよ」
話を聞いたアーシムとハリルは緊張を覚えた。この島の人間は予想以上にしたたかで、被害に遭う前に、逃げた流刑者を先に殺すことをいとわないらしい。島の南東部の島民が流刑者に出会わなかったのも、島の北側に住む人間が流刑者を狩り続けた結果なのかもしれない。
「だが、島民全てが殺気立っていたわけじゃない。私の知る限りでは3人くらいの流刑者が島民と打ち解け、今では何事もなく島の人間として生きているらしいね」
「では、島民となって生き残った者たちが、何かただならぬことを起こしたのか?」
アーシムが問うと、ベルはかすかに口角を上げた。
「少し違うね。一度は島民の仲間入りを果たしたが、ある村を混乱に陥れてから死んだやつが1人だけいたのさ。そいつは他の流刑者とは全く違い、根っからの悪人だったということだ」
「そんな人が……?」
驚くハリルにベルが頷く。
「ああ。そして私も数年前にその村から逃げてきた。島の北東にその村があり、それなりに栄えていた漁村だったけど、今は見る影もないよ。なにせ、悪魔が住む村なんて言われてからずいぶん人も減って、すっかり寂れてしまったからね」
悪魔という単語を聞いて、アーシムが反応する。
『おい、マヘス』
心の中でマヘスに語り掛けると、マヘスもすぐに返事した。
『ああ、聞こえていたぞ。これは早々に糸口が見つかったかもしれぬ』
すぐにアーシムはその村に現れた男についてベルに質問した。
「その村に住み着こうとした男は、もう死んでいるのだろう? なぜ村に悪魔が住んでいるなどと言われているのだ」
問われたベルの顔が険しくなった。眉根に皺を寄せ、器に注いだエールの液面をじっと見つめて黙っている。
しばらくしてベルは器のエールを一気にあおり、空になった器を静かに置いてから、ようやく口を開いた。
「へっ、私としたことが、久しぶりに酔って愚痴をこぼしちまったね。しかも悪魔なんて言葉を漏らすなんて、いよいよ耄碌が始まったか」
「あの、言いたくないことなら、無理に言わなくても、」
酔いが回ってきたベルを、ハリルがなだめようとした。しかしベルは手を振ってハリルを制した。
「良いんだ。せっかくだ、少し昔話をしよう……ある村に1人の老人がやってきた。みすぼらしい格好をしていて、手は縄で縛られている。老人は村人たちに物乞いをしたが、相手にされなかった。縄で縛られているのは罪人の証で、島の北西には流刑地があるのはみんな知っていたからね。わざわざ逃げた罪人に自分たちの飯を分け与えてやるもんか、と村人は言った」
話すベルの目線は胡乱なものだったが、目の奥には力がある。酩酊していても、当時起こった出来事を真剣に話そうとしているのだろう。
「村人は老人に教会で恵んでもらえと言った。教会には異国の血が混じった心優しい夫婦がいる。その夫婦はお人よしだから、飯と寝床を分け与えてくれるだろうと村人は教えたのさ。老人は言われたとおりに村の外れにある教会へ向かい、牧師夫婦に手厚く保護された」
ベルの語りはおとぎ話を話すようだった。しかしそれは架空のものではなく、実際にこの村で起きた出来事だ。
「その老人は牧師夫婦の慈しみに感謝し、その教会で下働きするようになった。朝早くから草を刈り、薪を集め、次第に村人からも村の一員として認められるようになっていった……ここまでは、よく聞く穏やかな良い話だろう?」
「そうだな。飢えた老人に聖職者が施しを与え、その老人の罪を人々が許す。まさに型どおりの美談だ」
「そうさ。だが、話はここからだ。老人が住み着いてしばらく経ってから、村の至る所で痩せこけた小動物の死体が出るようになった。冬が近くなったせいで、山で食べるものが無くなったのかどうか知らないが、朝になれば必ず数匹の野ウサギや野キツネが、村の道に転がっていた。たいていの村の人間は、労せず毛皮を剥ぎ取れると喜んだけど、中には漠然とした恐怖を覚える者もいた。私もその1人だった」
「ウサギやキツネが飢えて死んでいたと? どれも冬を越せる動物だったはずだ」
「別の原因があったのさ。寒さや飢えなどではない、何かが起こったということさね。そしてついに動物に限らず、痩せこけて枯れ果てた人間の死体が見つかった。そいつは村に住んでいる農夫で、たった一晩のうちに骨と皮だけになって死んでいた。その前の日まで、すこぶる元気だった大の男がね」
突然痩せこけて死ぬ現象を思い浮かべたせいか、ハリルは自分の手の中が汗ばんでいることに気づいた。得体の知れない恐怖を紛らわせるためにエールをあおり、酔う感覚に逃げようとした。
さらにベルは話を続ける。
「この出来事があって、人々は血を吸う悪魔や亡霊の仕業だと怯えた。夜はひたすら家に閉じこもって、みんな必死で生き残ろうとした……そんな時、1人の少年が家の窓からふと夜空を眺めた際に、怪しい影が空を飛んで教会の屋根へ入っていく光景を見たと騒いだ」
語るベルと聞き入るアーシムの目線がぶつかる。アーシムはベルが話す『悪魔』について、一言半句も聞き漏らさぬようにしている。
「はじめは恐怖心から少年の気が触れたのかと村人たちは思ったが、真夜中に教会へ逃げ込む影を見たと話す人間が次々に現れた。ついに村人たちは教会へ大挙して押しかけ、牧師夫婦が雇った老人を村から追い出せと叫んだ」
「なるほどな。こういった時、他所の人間が最も疑われやすい。閉鎖的な村ならば特にそうだろう。それで、その老人は村から追い出されたのか」
アーシムの言葉にベルは首を振った。
「牧師夫婦はいきなり追い出すことを毅然と拒否したのさ。その老人が悪魔と関わっているのかどうか、それを証明しなければ追い出せないとね」
「ふむ、筋は通っている」
「ああ。だけど、恐怖に染まった人間に道徳は通用しない。老人を追い出すために教会へ怒鳴り込んできた村人のうち、特に血の気の多い男衆が教会の中へ強引に押し入った。その老人が屋根裏部屋を借りて寝泊まりしていることは周知のことだったから、男たちは怒号をあげて教会の奥へ入っていった」
「あんたもその場にいたのか?」
「子どもを除いた村人が総出して教会へ行ったのさ。私も流れ者の老人が怪しいと思っていた。その老人の正体が人を殺す悪魔で、そいつさえ追い出せば、空飛ぶ悪魔がいなくなると本気で思っていたからね」
「そうか。それで、男たちは老人をどうしたのだ?」
話の結末に触れる所で、ベルはためらいを見せた。乾いた唇が小さく震え、得も言われぬ恐れが見て取れる。
「大丈夫か?」
「大丈夫さ……鍬や斧を持った男たちが奥へ入っていき、牧師夫妻も慌ててそれに続いていった。私たちは男たちが老人を引きずり出してくる姿を待っていたが、帰ってきたのは半分の人数に減った男たちだけで、みな一様に恐慌した様子で逃げ帰ってきた」
ベルが器にエールを注ごうとした。しかしその手はかたかたと震えていて、まともに器に注ぐことすらできなかった。
「今でも、あの光景は忘れないよ。男たちが赤子のように泣きながら走ってきて、教会の入り口に固まっていた私たちの方へ飛び込んできた。ただごとじゃない様子を感じたのも束の間、血が、降ってきたんだよ」
血の気が引いたベルの顔は、乾いた羊皮紙を張ったように見える。生気のない、陰鬱な無機質さがある。
「教会の天井から、血が流れてきた。木の板を張った天井の至る所から、真っ赤な血が滝のように流れ落ちて、その血が私たちのいるところまで押し寄せ……」
あまりに現実を越えた話だった。しかしベルの抱く恐怖は本物だ。その時に見た凄惨な光景を、克明に記憶しているのが伺える。
「あれは誰の血だったのか、今でも分からない。けど、それ以来、教会は村人たちの手で固く閉ざされたままだ。人が悪魔に殺されることはなくなったが、村の人間は今なお教会の中に悪魔が閉じ込められていると信じている」
「それゆえ、悪魔が住む村ということか」
「そういうことだよ。そんな話が広まった村は廃れていくのが末さ。まだ住んでいる人間はいるらしいが、いずれ誰もいなくなるだろう」
話を終えて疲れたベルは肩を落として、ふうと息を吐いた。
今の話をすっかり信じたハリルは膝に手を当てて、顔をうつむかせて怯えている。まだ少年のハリルには受け止めきれない恐怖だった。
アーシムも黙っていたが、恐怖を抱いたわけではない。その村に巣くう悪魔と老人の正体に考えを巡らせていた。
そこでマヘスがアーシムに話しかけてきた。
『この老婆、ベルと言ったか。予想を超えて有益なことを話してくれた。血を吸う悪魔という話は実に興味深い』
『やはりヴェネツィアから流刑された魔術師が、その老人で、悪魔の正体ということか?』
『現地で調べなければ分からんが、おそらくそうだろう。それにしても、大人しく流刑されるはずがないとは思っていたが、まさかここまで尻尾を出していたとは……俺の言った通り、今も昔も魔術師というものは人々に災いを起こすらしい』
『ああ。だが、これは好都合だ。その村の者たちには悪いが、悪魔を教会に閉じ込めてくれたなら探す手間も省ける』
アーシムはゆっくりと席を立ち、窓辺から昼下がりの太陽を見た。
「今から竿作りに取り掛かれば、4、5本は作れるな。明日の朝にはその村へ出立できる」
窓の方を向いて呟いたアーシムに、ベルとハリルはぎょっとした目を向ける。
「ベル、作業に必要な道具はあるか?」
「あ、ああ。家の裏に置いてある」
「そうか。ありがとう」
アーシムはそう言い置いて家を出た。すぐにハリルがアーシムを追いかけ、家の裏に回ったところでアーシムに声をかける。
「アーシムさん、今の話を聞いていましたか?」
怯えた表情で問いかけるハリルに対して、アーシムはいつもと変わらない穏やかな声で返す。
「聞いていたよ。悪魔が出るらしいな」
「出るらしいって、その、怖くないんですか?」
「そうだな。だが、先ほどの悪魔になった老人が、ギイが追っている流刑者の可能性もある。ならば行くしかないだろう」
「でも、血を吸われて殺されるかも……」
ハリルの顔は青ざめている。動物も人間も見境なく食い殺す怪物の姿を思い浮かべてしまっているのだろう。
「大丈夫だ」
アーシムがハリルの肩に左手を添える。
「それに、当初の約束通り、流刑地を含め危険な地へ行くのは俺だ」
「え?」
「そもそも、お前は充分役割を果たしてくれた。島に着いた時、全く言語が通じない人間ばかりだったら困ると思って、ギイに頼んでお前に同行してもらった。だが、先ほどのベルのように話せる人間がまだいるというなら、少しは俺が単独で動いても問題ない」
「ですが、アーシムさんの身に何かあっては……」
ハリルは雇い主のギイに深い忠誠を抱いている。また、コルス島までの船旅で、ギイとアーシムは盟友と言っていいほどの関係となっていた。そんなアーシムをみすみす危険な場所に行かせて何かが起こっては、ハリルはギイに向ける顔が無くなってしまう。
しかしアーシムの意志も固い。これからのギイにとって必要な若い部下を、死地に向かわせるつもりはない。
そして、ここからはアーシムとマヘスが本来の目的を果たすために動くのだ。
「俺の心配はしなくていい。明日の朝までは竿作りを手伝うから、俺が出発したら少しの間、ここで待っていてくれ」
「……わかりました」
まだ懸念が晴れないハリルだったが、さらにアーシムは服の裾から袋を取り出して、ハリルに手渡した。ギイが前もってアーシムに渡した路銀だ。
「もしも俺がひと月経っても戻らなかったら、別の港を探して、この金でヴェネツィアに向かって良い。俺の身に何かあっても、お前だけでもギイのもとへ帰るんだ」
「そんな! こんなもの受け取れません」
「元々は俺の金じゃない。お前とギイが働いて得た金銭だ。さあ、日が落ちる前に釣り竿を作っておこう」
遠慮するハリルに路銀を譲り、アーシムはベルから頼まれた釣り竿作りに取り掛かった。ハリルもアーシムの作業を手伝い、それから日暮れまで釣り竿を作り続けた。
アーシムとハリルはベルの家で寝床を用意してもらい、条件より多く釣り竿を作った礼として、集落の人間が獲ってきた鳥と魚のシチューをいただいた。
久しぶりに手の込んだ料理を振る舞ってもらい、満腹になったアーシムとハリルだったが、食事の間もハリルはどこか浮かない顔をしていた。悪魔の住む村にアーシムだけ向かわせることを、まだ気にかけてくれているようだ。
アーシムはその気持ちに感謝しつつも、明日から単独で行動するための準備を進めるのだった。
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