第13話~コルス島の旅路~
船を北西へ進めて3か月、ついにアーシム一行の船はイタリア王国領コルス島に至った。
ここまでの船旅はおおむね穏やかなものだった。食料や物資の補給のためにクレタ島とシチリア島で2、3日滞在し、無理のない航行で到着した。
途中に立ち寄った港でいくつか小さな問題が起こったり、海上で物資を狙う海賊が現れたりといった出来事はあったが、すべて問題なく解決して悠々と航路を進んだ。
海賊が現れた時はアーシムも加勢しようとしたが、一度もその必要はなかった。ギイの見事な統率により使用人たちが一斉にクロスボウを構え、ギイが接近してきた海賊たちに、戦えば双方被害が大きくなるだろうと利害を説いたのだ。賊もわざわざ武装した船を襲うことは避けたいため、ギイの説得に応じて去っていった。
そしてたどり着いたのはコルス島南東の漁村だった。青く澄んだ湾の奥へ進んでいくと、砂浜の近くに小さい集落が存在していた。そこにいた人々は突然現れた船に驚いているようだったが、ギイは特に気にせず、集落から少し離れた岸に接舷させた。
アーシムとギイは船首の近くに立ちながら、甲板で荷物を準備する使用人たちの様子を見ている。この島に用があるのはアーシムだけだが、アーシムが身ひとつで船から降りることにギイが反対したのだ。
使用人たちへ指示を出すギイの後ろから、アーシムが声をかける。
「……何も物資と使用人を譲ってもらわなくても、俺は大丈夫なのだが」
「いえ、これだけは聞いてもらいます。こういった島は閉鎖的な気色の人間が多く、異国の人間がひとりで旅をするのは無謀ですよ。本当ならもっと人員を割いて、食料も武器も持って行ってもらいたいくらいです」
「まあ、お前がそこまで言うなら多少は甘えるが……」
ギイの強い主張にアーシムは引き下がり、ギイの使用人たちの様子を黙って眺めることにした。
元よりアーシムはギイにコルス島へ送ってもらうだけで十分だった。ひとり旅には慣れていて、今は左腕にマヘスも宿っている。また、ロマンス語やゲルマン語(主に神聖ローマ帝国で使われている言語)を完璧に話せるわけではないが、それでも簡単な会話や意思疎通は可能だ。
しかしギイはアーシムに物資を渡して、一部の使用人も同行させることを決して譲らなかった。アーシムの強さは信頼しているが、それでも不安は大きかったのだ。
「いくら島といえども、アーシムさんにとっては慣れない異国の地です。準備するに越したことはないですよ」
ギイはそう念押ししてから、また使用人たちの監督を続けた。
『ずいぶんと信頼されたみたいだな。ギイの心根は複雑に見えるが、お前に対する感謝の念は実直らしい』
アーシムの中でマヘスが語る。アーシムも同感で、今回の船旅でギイという人間をよく知ることができた。
すべて打ち明けてくれたわけではないが、ユダヤの血が混じっているギイの経歴は、一筋縄ではいかない苦難の連続だったという。それでも老獪なギイは身に降りかかる障害を運と策略で切り抜けてきたが、その代わりに信頼できる友人と呼べる人間はひとりもいなかった。
『ヴェネツィアに着いてからもギイはお前に手を貸してくれるだろう。焼き印によって精神が疲弊している点が不安だが、お前が焼き印に傷をつけたおかげで、おそらく焼き印の力に屈することはない』
『別に俺だけの手柄ではない。礼を言うのはこちらだ。お前も力を貸してくれたのだから』
アーシムの言葉にマヘスは少し驚いていた。アーシムが義理堅い人間だとはわかっていたが、ここまで素直に感謝を表す男だとは思ってなかった。
ひとつの体の中にある、ふたつの精神。
今はそのどちらもがわずかな気恥ずかしさから沈黙していた。
「……さん、アーシムさん!」
ギイから声をかけられてアーシムがはっとする。どうやらマヘスと話してから黙ったままでいたせいで、外への意識が散漫になっていたようだ。
「どうしたんですか? ぼうっとしていて」
「ああ、何でもない。この島のどこから調べるか考えていただけだ」
「そうですか……それで、連れていく使用人のことですけど、本当にあいつだけでいいんですか?」
「充分だ。身軽に動くなら、なるべく少数の方が都合良い」
そう言ってアーシムは歩き出す。すでに船と岸の間には橋が架けられていて、岸の方にはギイから譲ってもらった食料や道具そして武器が置かれている。
橋を渡る前にアーシムが振り返る。
船にはギイと彼の使用人たちがいて、全員がアーシムの方を見ていた。
「世話になったな」
一番近くにいたギイにアーシムがそう告げると、ギイは何も言わずに左膝をつき、自らの腰に差していた剣を鞘ごと引き抜いた。
外した剣はアーシムの前に掲げられ、その淀みのない所作は騎士が貴人に対する礼と同じものだった。
「俺はこの剣をあなたに捧げます。これまでの感謝とこれからの信義、それを誓います」
ギイの行動に驚いた使用人も多かったが、みな言葉を発さず固唾を飲んで見守っている。
アーシムも無言で剣を受け取る。ゆるやかに湾曲した片刃の剣で、手にした重みや感触から立派な一振りだとわかる。
まだギイは膝を立てた姿勢のままだった。アーシムはギイの肩に手を置いた。
静かにギイが立ち上がり、顔を上げた。両者の目線が重なって頷き合う。
「この島での調査が終わったら、すぐにヴェネツィアに駆け付ける。それまでの別れだ」
「そうですね。無事に来てくれるように、信じて待ってますよ」
そしてアーシムはギイの肩から手を離して、後ろへ向いて歩き出す。
橋を渡って岸に立つと、ギイの命でひとりの青年がアーシムを追って渡ってきた。
その青年は使用人たちの中では最も若く、小柄でおとなしいハリルだった。
「……えっと、その、よろしくお願いします!」
緊張した様子で挨拶したハリルに、アーシムが優しく応える。
「よろしくな、ハリル。少しの間だが俺とともに動いて手助けしてくれ」
ハリルは再びかしこまって姿勢を正した。それからアーシムはギイのいる船の方に向き直った。
船と岸をつないだ橋が外され、ゆっくりとした動きで船が岸から離れていく。
「また、会いましょう!」
船上でギイが手を振る。アーシムもそれに応じて手を上げた。
「ああ! お前も負けるなよ!」
力強いアーシムの叱咤がギイに届く。ギイが頷いてから手を下ろし、アーシムに背を向けて使用人たちへ声を張り上げた。
「帆を張れ! 出航だ!」
ギイの声とともに船上の使用人たちが動き出す。
『あの小僧、初めて会った時よりも大きな背をしておる』
船に立つギイの背中を見届けるアーシムの中で、マヘスがそう呟いた。
しばらくしてギイの船が湾から出ていって、アーシムのいる岸から見えなくなった。
岸に残ったのはアーシムと、ギイの使用人ハリルのみである。2人のかたわらにはギイが譲ってくれた物資が置かれている。持ち運びやすいような量に抑えられているが、それでも2人で旅をするには充分すぎる量だ。
「よし、さっそく行こうか」
そう言ってアーシムは物資を覆う布の端をきつく縛り、その結び目の下に樫の杖を通して担ぎ上げた。
「よっと……ハリル、どうした?」
荷物を担いだアーシムをハリルが見ていた。なにかを言いたそうにしているが、うまく言葉が出ないようだ。
「アーシムさん、その、」
「なんだ?」
「あの、どうして僕を連れていくことにしたんですか? 恥ずかしながら、僕は旅なんてしたことがありません。荷物運びくらいしかできませんし、足手まといになるのでは……」
不安に満ちているハリルの様子を見て、アーシムはふうと息を吐いて荷物をおろした。
「ハリル、お前を派遣させてほしいとギイに頼んだのは他でもない俺自身だ。何もお前に面倒な雑用を押しつけるためではなく、お前はお前らしく協力してくれればそれで良い。足手まといだとは思わないから安心してくれ」
「ありがとうございます。でも、僕らしくといっても」
「大丈夫だ。お前に手伝ってほしいことは後で教える……まずはここから出発しよう」
再びアーシムが棒に通した荷物を担ぎ、ハリルも残った荷物を持ちあげた。
湾を見渡せる岸から出発したアーシムとハリルは、そのまま湾の奥にある砂浜の方へ向かった。砂浜の近くには集落があり、濃く日焼けした島の人間がいる。
「集落へ向かうんですか?」
「そうだ」
「いきなり襲われたりしませんか? こっちは物資を持ってますし……」
「問題ない、いざとなれば俺が蹴散らす。それに、こういった島は地中海を渡る人間が漂着することもたびたびあるだろう。今さら俺たちに目くじらを立てることはないはずだ」
「異国の人間を嫌っていないということですか」
「慣れていると言った方が正しいかもな。そもそも本土から離れた島や僻地に住む人間は領土意識が低く、自分の国の王の名前すら知らない者がほとんどだ」
会話を続けながら集落へ近づいていくと、集落の方から3人の男が近づいてきた。痩せているが背は高く、手も節くれだっている。集落の中でも若くて強い者たちなのだろう。
男たちがアーシムとハリルの行く手を遮り、緊張した面持ちで立ちはだかった。憎しみは抱いていないが、警戒していることが伺える。
アーシムはアラビア語で挨拶したが、男たちには今ひとつ通じていないようで、ふうとため息をついたアーシムはハリルに目配せした。
後ろにいたハリルが頷き、一歩前に進んだ。
「こんにちは、あなた方はこの島の住人ですね?」
多少の緊張が感じられるが、淀みないロマンス語でハリルは男たちに話しかけた。
男たちは少し驚いてから、声を落として仲間内で話し合い始めた。アーシムも全ては聞き取れなかったが、どうやら男たちはかなり訛りのあるロマンス語を使っているようだ。
「そうだ。そういうおめえらは、どこからやってきた人間だ?」
「その肌、顔つき、サラセン人(中世ヨーロッパでのイスラム教徒の名称)か?」
「武器を持ってやがるな。何しに来た?」
言葉が通じるとわかった3人の男たちが質問を次々と投げてきた。ハリルはその圧に尻込みしそうになっていたが、アーシムがハリルの背中に手を添えた。
「案ずるな、ハリル。こいつらはなんと言っている?」
「僕たちの正体を聞いています。どこの人間で、武器を持って何しに来たんだ、と」
「なるほどな。では、こう伝えてくれ……」
アーシムがハリルに耳打ちする。アーシムに言われた内容にハリルは戸惑っていたが、その指示通りに強く揺るぎない口調で男たちに話し始めた。
「僕たちはヴェネツィアからやってきた者です。我が主人の命令により、この島にあるという流刑者がいる場所を探しています」
ハリルの話に男たちは面食らった顔をしていた。話の内容から明らかに危険な予感がしたのか、わずかに後ずさりした。
さらにハリルが畳みかけるように話を続ける。
「先ほどの船は我が主人の持ち物で、主人はとても力を持ったお方です。そして主人は、とある裏切り者を探しています。僕たちは急いで流刑された裏切り者を探さなければならないのですが、あなたたちは僕たちの邪魔はしませんよね?」
「いや、それは……」
「ええ、わかっています。あなたたちは流刑された罪人ではなく無関係な人だと、僕たちは知っています」
ハリルのその言葉に男たちは安堵した様子を見せた。今のハリルが話していることはアーシムが考えた方便だが、男たちを威圧するには充分だった。
「よければ道を尋ねたいのですが、流刑された罪人が集められた場所は、この島のどこにありますか?」
萎縮した男たちはそれ以上ハリルに質問攻めすることなく、言われたとおりに情報を教えてくれた。それからハリルが礼を言い、アーシムがすかさず荷物を解いて、干し肉の塊を男たちに投げ渡した。
干し肉を受け取った男たちは何度も礼を言ってから、足早に集落へ去っていった。
「……うまく聞けたか?」
「はい、聞けました。流刑地はこの島の北西にあるそうです。罪人が島民に危害を加えないよう、内陸の山をいくつも越えた先にあると話してくれました」
「北か。かなり歩くことになりそうだが、あせらず行こうか」
「そうですね」
「それにしても、さすがギイが認めただけはあるな。訛りの強い異国の人間とあれほど流暢に会話ができるとは」
「い、いえ! そんな大それたことじゃありません。言葉を学ぶことが好きなだけで……」
「謙遜するな。俺とギイの見込み通りの働きだ。これからもよろしく頼む」
「はい!」
アーシムとハリルは荷物を持ち直して砂浜をあとにした。砂浜の集落にいる人間が2人の背を見ていたが、それ以上かかわりを持つことが恐ろしいらしく、遠巻きに眺めているだけだった。
それから荷物を担いで歩き続けること2時間。強い日差しが照りつけ、踏みしめられた青葉が匂いたつ。
アーシムはうっすらと汗ばんでいる程度だったが、ハリルの方は疲労困憊だった。肩で息を吐き、獣道に生えた草花をかき分けることすら精一杯といった様子だ。
「おい、大丈夫か?」
「はい……いえ、やっぱり、大丈夫ではないです」
「……休憩するか?」
「そうしたいのは山々ですけど、できれば、拓けた場所で休みたいです」
「うむ、そのほうが良いだろうな。もう少し歩けば平地に出るだろう。それまで辛抱してくれ」
「はい……」
このように休憩を数回繰り返していくうちに夜になった。2人は森の中の拓けた場所で夜を明かすことにした。
空き地の中でアーシムが火を炊き、昼間に仕留めた川魚を焼いた。ギイからもらった食料はまだまだ残っていたが、なるべく自給自足するつもりだ。
「焼けたぞ。少々泥臭いが、塩でごまかせば意外に食える」
アーシムが木の枝に刺した焼き魚をハリルに渡す。ハリルは引きつった顔で魚を眺めるだけで、なかなか食べようとしない。
「魚、ですか……」
「食べられないか?」
「あまり食べたことはありません。塩で干したものをかじったことはありますが」
「市場に流通するものは保存が利くようになっているからな。だが、これもこれで悪くない味だぞ。慣れさえすればな」
そう言ってアーシムが先に魚にかぶりつく。最も肉厚な腹の部分を咀嚼して飲み込んでから、続けて背中に食いついた。
その様子を見てハリルも決心し、思い切って焼き魚を頬張った。はじめは土臭い風味に慣れなかったようだが、新鮮な肉の食感は悪くなかったようで、パリパリと焼けた皮と熱い肉を楽しめるようになった。
「どうだ? 意外に食えるだろう」
「はい、すごく美味しいです。生々しいけど、新鮮で……」
「街で売り買いしているものだけ食べる生活では、これを楽しめる機会がないだろう。旅は疲れるし大変だが、このような趣もある」
アーシムの言葉にハリルが大きく頷き、進んで魚を頬張った。結局ハリルもアーシムと同じく2尾を平らげた。
魚を食べ終わった後はハリルから眠ることになった。
「僕から先に寝てもいいんですか?」
「ああ、いいぞ。少し俺はその辺を歩いてくるから、ゆっくりしててくれ」
「交代で眠るということですよね?」
「そうだ。時間が来たら起こす。あと、もし何か危険が迫っていたら大声で知らせるから、その時はすぐ起きてくれよ」
「はい、わかりました」
ハリルは荷物の中にあった外套を丸めて枕にして、すぐに寝息をたて始めた。今日の疲労が相当たまっていたのだろう。
焚き火の近くで眠っているハリルを見て、アーシムは静かに立ち上がってその場から離れた。
木と木の間を通って進み、今日の魚を獲った渓流に着いた。手ごろな岩に腰を掛けてから、ゆっくりと息をついて夜空を見上げた。半分欠けた明るい月が、雲にさえぎられることなく浮かんでいる。
「ようやく、この島に着いたな」
座った体勢でアーシムが呟く。誰もいない空間へ発した声は、アーシムに宿る戦神マヘスに届く。
『それでもまだ始まったばかりだ。ヴェネツィアで魔導書を広めた者がこの島にいるのか、そしてその人間がアル・アジフにかかわりがあるのか調べなければならん』
「5年も前に流刑されたのなら生死さえ怪しいところだが……生きているなら気を引き締めてかからねばな」
『無論だ。その人間、あるいは組織が魔導書にかかわりがあると仮定して、もしも強力な魔術師がいたら危険だ。悪しき存在を信奉する魔術師は狡知に長け、また残虐なものだぞ』
「わかった。心してかかろう」
そこでアーシムは左手を掲げた。掲げた手の指の隙間から月光がこぼれて、アーシムの瞳に届く。
『どうした?』
左手に宿るマヘスが尋ねる。
「以前、お前が言っていたことを思い出した。地下遺跡で俺に初めて憑依した時に『特別な力に守られている』と言っていたよな」
『うむ、確かに言ったぞ』
「あの時はよく分からなかったが、今ならなんとなく分かる気がする。船の上でガザールを仕留めた時も、お前の力の一部が俺に憑依していただろう?」
『そうだ。あの戦いで死なれては困るから、お前に了解を得る前に力を貸し与えておいた。また理性を失う危険性もあったが、死なないことを優先させた』
「ああ、そして結局、その時の俺は理性を失わなかった。はじめは憑依に慣れたのかと思ったが、今は違うと言い切れる」
掲げた手を静かに握る。マヘスが宿る左手は光の粒子で構成されているが、ただ無機質な光を発しているわけではない。それはアーシムの拍動に合わせて小さく鳴動し、細かい光の濃淡が見て取れる。それはまるで本物の筋繊維や節々の皺に似ている。
明らかにマヘスの存在のみで構成されているのではない。マヘスの神性とアーシムの精神、マヘスの力とアーシムの生命が融和しているのが、この左腕なのだ。
その融和により、アーシムの感覚も日に日に変化していった。第六感が研ぎ澄まされ、次第に霊的なものを感知できるようになり、ある確信に至ったという。
「お前に憑依されてから、俺の中には特別なものが入り込んでいたということに、ようやく気がついた。幼い頃から流浪の旅を続けていたが、ある時を境に『それ』が入り込んだのだろう」
『それ、とはどういうことだ? 聞かせてくれ』
マヘスの問いにアーシムは左手を下ろしてから、語り始めた。
「……俺が七つか八つの頃まで、俺は父と旅をしていた。父も長く旅人だったようで、頑丈に生き抜く力があり、様々な知識に富んでいた男だった」
いつの間にかアーシムは目を閉じていた。幼かった日々の記憶、父と過ごした思い出を想起している。
「過酷な旅だったが俺は幸せだった。寡黙だが、優しい父とともに旅することは素晴らしい日々だった。その幸せは長く続かなかったがな」
『何があった?』
「インドよりはるか東にいた時のこと、俺は森の中で熱病に罹った。得体の知れぬ虫に刺されたか、気候にやられたか分からないが、俺は三日三晩もの間に死の淵をさまよった。父は動けない俺を担ぎながら森をかき分け、崖をよじ登り、山奥にあるとある寺院にたどり着いたのだ」
病に罹って朦朧とした記憶の中でも、アーシムは父親の温もりと頼もしさを鮮明に覚えている。動けない自分の体を背負って険しい山に挑み、あの屈強な父親が疲労の極致に達していたことも記憶している。
「その寺院には3人の老僧がいた。子どもだった俺と大して背が変わらず、装束から覗く手と顔には凄まじく深い皺が刻まれ、想像を超えて高齢であることがわかった。その老僧たちと俺の父親がしばらく話し合った後、老僧は祭壇のある部屋の中心に俺を寝かせ、儀式を始めた」
アーシムの話を聞いたマヘスの感情が、アーシムの心に伝わってくる。世界の東の果てにあった寺院で行われた儀式、その謎めいた内容を知りたがっているようだ。
しかしアーシムにも仔細はわからない。ただひとつ言えることは、それは死の淵に立たされたアーシムと、アーシムを愛する父親に残された最後の希望だったのだろう。
「怪しげな香の匂いが部屋に充満し、俺を囲んで座る老僧たちは、奇妙な文言を一心不乱に唱えていた。その儀式に使われていた言語は、これまで旅してきた国々でも一度も耳にしたことがないが、少なくとも衰弱しきった俺を救うつもりの儀式だった」
『その儀式を受け、お前は助かったのか』
「いいや、違う。儀式は夜通し続いたが、俺の体は復調しなかった。ついに手段がなくなり力尽きたのか、ひとり、またひとりと老僧が意識を失って倒れた。最後に残った老僧も呪文を唱えることをやめて、部屋から出ていった。儀式をかたわらで見守っていた父が泣き崩れている姿が見えた」
『……なんと』
「儀式が中断されて、どれほど時間が経ったか分からない。部屋で仰向けに寝た俺の手を、近くまで寄ってきた父が優しく握ってくれていた。俺も自分の死を覚悟した時、部屋から去っていった老僧が戻ってきた。裸足の足は泥と血にまみれ、肩には白い雪が厚く積もっていて、ぜえぜえと荒く白い息を吐いていた」
アーシムはそこで一呼吸置いた。死にかけた自分を救い、そしてこれからの幸せな旅が送れなくなった時の出来事なのだ。
「老僧は俺と父の前に膝をつくと、懐から黒い球を取り出した。香をかき消すほど強い薬膳の臭いが漂い、その球が何らかの『丸薬』であることはわかった」
朗読するような口ぶりに熱が帯びる。死線を越えた先に待ち受けていた悲劇を振り返り、アーシムの手に力が籠っていく。
「老僧は丸薬を父に渡し、神妙な顔で『この手しかない』と言った。俺はまだ理解していなかったが、父は覚悟を決めたようで、俺にその丸薬を飲ませた。俺は一瞬ためらったが、父の真剣な眼差しを見て、それを素直に飲み込んだのだ」
『それで、どうなったのだ?』
「その丸薬が功を奏したようで、すぐには病の毒気は抜けなかったが、俺は少しずつ回復していった。しかし、その代償も大きかった。俺の飲んだ丸薬は間違いなく忌まわしいもので、俺が復調すると同時に、その寺院に天災が降りかかった」
『天災だと? 丸薬と一体なんの関係がある』
「俺の感覚で理解したことだ。実際の証拠はない。だがそれでも、その丸薬を飲んだことによって運命が変わった……吹雪の中にも関わらず寺院に落雷が何度も降り注ぎ、軒下にいた老僧が焼け、寺院は燃えて崩れた。父と俺は急いで山を下りたが、その後も図ったかのように凶事が襲い掛かった」
アーシムはその時の恐ろしい記憶を思い浮かべ、いぶかしむマヘスに必死で語る。
「河を渡ろうとすれば前触れなく豪雨が降り、鉄砲水が橋を砕いた。馬車で森を抜けようとすれば馬が走ることを突然やめて、どこからともなく広がった山火事に見舞われた。俺と父が逃げる間も、なぜか馬はその場から動かず焼け死んだ。まるで神が死の運命に逆らった人間を罰するかのように、な」
『……それだけ聞けば悪い偶然が重なっただけに思える。が、これは実際に体験したお前にしかわからない領域だ。その不運が立て続けに起きた末に、その後どうなったのだ?』
アーシムはゆっくりと瞼を開け、マヘスのいる左手に視線を送る。悲しみを湛えた、暗く沈んだ瞳だ。
「最後は最も尊い者を失うことで終わる。父の死……俺が死にかけた時と同じ熱病に罹り、あらゆる手を尽くした末に、やせ衰えて息を引き取った。俺が死ぬ運命を、父が代わりに引き受けてしまった。俺のせいで、父は死んだんだ」
愛する者との別離。それは誰にでも起こりうることだが、その運命の見送り方は千差万別だ。思い出と充足感を抱いて別れることもあれば、どうにもならない悔恨を抱いて別れることもある。
幼いアーシムは自分の運命を呪ったのだろう。薬を飲んで助かったことに安堵した自分を、何度も何度も責め立てたのだろう。
あの時、素直に死を受け入れていれば。薬を渡された時の不穏な予感を気にかけていれば、と。
「だが、そこで完全に終わったわけではないと、お前の言葉がきっかけでようやく気づいた。俺の中にはいまだあの丸薬の力が残っていて、これまでずっと、俺を魔に引きずり込もうとしていた。父の死で凶事に見舞われることはなくなったが、旅の途中でこの世ならざる出来事に巻き込まれることが増えた。エジプトの陵墓でお前に出会うまでの間も、俺はずっと魔にかかわった旅をしていたからだ」
『それが、お前の中にある不思議な耐性の原因だというのか。俺の憑依に理性を失わないよう、お前に取り憑いているということか』
「おそらく俺を助けるためではなく、後から取り憑いてきたお前に抵抗したのだろう。アーシム・アルハザードを支配するのは自分だ、とな」
全てを話し終えたアーシムが、うつむいた顔を上げて夜空を見上げた。
すでにアーシムは壮年に達している。しかし、ひとりで旅を続けている間は星空を眺め、幼い時の記憶に想いを馳せていた。少年から青年になり、そして今の歳になるまでの間も、大きく温かい父の姿を空に思い浮かべていた。
少し経ってマヘスが声をかけてきた。
『丸薬の形を借りたそれが、俺とお前にどう影響すると思っている?』
「今後、どうなるかはわからない。丸薬の形をした何かが影響を強めるのか、それとも次第に姿を消すのか……しかし確実に言えることはある。俺と父の命運を手玉に転がすものなら、それは神であるお前に劣らない素養があるということだ」
『俺に同等と見るか。面白い、ならばいずれその正体を暴いてやろう。そう遠くないうちに、お前の中に潜む何かをあぶり出す』
「わかった。俺も思い出したことがあれば伝えよう。それを解き明かす手掛かりになれば幸いだ」
そう言ってアーシムは立ち上がり、腰を伸ばしてから焚き火の方へ戻った。
今もハリルは眠っている。野宿に慣れていない様子だったが、寝心地の悪さよりも疲れの方が強いのだろう。アーシムが新しい木を焚き火に加え、木が割れてパチパチと音を立てても、まったく身じろぎすることなく眠りについている。
『いつ交代するのだ?』
「月が西の空へ深く傾いてから起こす。俺の眠りは夜明けの数時間で充分だからな」
アーシムは焚き火を前にして座った。自分が眠る時間になるまで炎をおぼろげに見つめ、自分の中に残っている謎の丸薬について思索していた。
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