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第12話~進むべき道は~

 アーシムは酒瓶をあおってワインを口に含んだ。つんと鼻につく酸味をひと時味わってから喉へ通す。


 その夜に起こったことを話し終えたギイは、体を少々前傾させて、指を組んで木箱に座っている。すでにギイの酒瓶は空になっていて、足元に転がっている。


「狂気じみている。人を捕らえ、背に焼き印を刻み、あまつさえこの世ならざるものを賛美するとは……まさに忌むべき邪教の集団だ」


 アーシムの言葉にギイは頷いた。


「その通りです。あの日ほど運命を呪ったことはありません。焼き印を刻まれた後は元の住居に帰ることが叶いましたが、俺はその組織の監視下に置かれることになりました」


「商いは続けることができたのか」


「ええ。その組織は巧みに世間から隠れてきたので、あからさまに俺の生活を縛ることはしませんでした。代わりに情報収集や資金援助を命じられ、俺は二重生活を強いられることになったのです。わずか3か月間でしたが、あの組織に身を置く不安と恐怖は相当なものでした」


「3か月だと? 何があった」


「先日話した、教皇の命を受けた騎士団による大規模な摘発が始まったんですよ。あの一件があったことで、魔導書の噂や奇怪な事件は収まり、そのドサクサに紛れて俺も組織から抜け出せました。騎士団は強引で危険な集団ですが、良くも悪くも結果を出したのです。もちろん捕まえて流刑に処した者の中には、善良な商人や旅人も大勢いたのでしょうけど……」


「騎士団は少しでも怪しい者を捕らえて、根こそぎ排除したということだったな」


「そうです。しかしそれゆえに魔導書による騒動はすぐに収束しました。かなりの確率で流刑された者の中に、魔導書に関連している人間もいたのだと思います」


「む? それはお前に焼き印をつけた組織の人間ではないのか?」


 ギイを突然さらった組織が元凶だと疑っていたアーシムは、今のギイの言葉に首をひねった。


「確証は持てませんが、俺に焼き印をつけた組織と、魔導書を広めていた者は別々でしょうね。その組織の目的は魔導書を手に入れることでした。俺が命じられた任務も、ヴェネツィアに流通しているであろうくだんの魔導書を探し求めることでしたから」


 魔導書に深く関わっている勢力が2つあると聞いて、アーシムは眉間に皺を寄せた。ギイの言葉を信じられないということではない。魔導書の出どころも謎のまま、さらにそれとは別に魔導書を追う正体不明の組織がいるとなれば、もはやアーシムの独力では手に負えないほど話の規模が大きい。


 さらにはその出来事があってから5年も経っている。流刑された魔導書の元凶が生きている保証もなければ、ギイに焼き印をつけた組織も存続しているか不明だ。すでにコルス島にもヴェネツィアにもその勢力がいない可能性が高い。


 アーシムは心の内でマヘスに語りかける。


『マヘス、俺たちが思っていた以上に過去のヴェネツィアの情勢は混沌としていたようだ』


『そうだな。それに魔導書を追う者が俺たち以外にいたとは驚きだが、ろくな目的ではないのは確かだ。その証拠に、ギイの背中から発せられる魔力の残り香には、邪悪な支配欲がありありと感じ取れる』


『ならばギイは完全に被害者ということか』


『十中八九そうだろう。あのような禍々しい呪印を身体に直接刻む利点はない。神を讃えたいのならば、しかるべき場所に神殿をしつらえ、神の欲する供物を捧げ、その上で祭具を用いて呪印を儀式の場に描く方が良い』


『あの呪印に意味はないと?』


『意味はあるぞ。あの呪印がある限り、ギイの精神は死ぬまで神への恐怖がぬぐえないだろう。神にとっても呪印がある人間のほうが興味の対象だ。焼き印をつけた教団は、手っ取り早く手駒を増やすために施したのだろう。その人間がある日突然恐怖や誘惑に負けて壊れたとしても、また別の人間に呪印を刻めばいいからな』


『醜悪だな。形容しがたいほどに』


 そうして少しの間、アーシムは無言のままマヘスと対話していた。


 その無言の間をギイはいぶかしんだようで、アーシムの顔を覗き込んできた。


「どうかしましたか? 考え込んでいるようですけど」


 ギイの呼びかけにアーシムは手をかざして答えた。


「ああ、心配ない。少し考えすぎて目まいがしただけだ。酒も入ってるしな」


「そうですか……」


「一旦、外に出ないか? 酔い覚ましに風に当たろう」


 アーシムが立ち上がって外へ促す。ギイはまだ何か言いたげだったが、しぶしぶと立ち上がってアーシムの後をついてきた。


 扉を開けて船室を出ると、薄い灰色の雲が空に広がっていた。ほのかに暖かい日差しとともに潮風の香りが顔の横を過ぎていく。


 甲板にいるギイの使用人たちは食事をしている者もいれば、操船の準備を進めている者もいる。船はゆるやかに北上しているが、まだ進路は確定していない。


 今日より取るべき進路はギイの一存によって決まる。この船の持ち主であり、使用人たちを雇っている長だ。


 しかしギイはまだ進路を指示しておらず、そのことに使用人たちは不自然さを感じながらも、ひたむきに作業を進めている。日ごろからギイの命令を真面目に聞き、それを実行しているのだろう。


 先に外に出たアーシムは、ギイに何も言わず船室の脇にある縄はしごを登った。ギイは縄はしごの前で少し立ち止まったが、すぐにアーシムを追って登ってきた。


 登った先は船室の真上で、物見台にも荷物置き場にもなる場所だ。今は雨風に濡れても構わない木箱が少々あるのみで、アーシムとギイ以外に人はいない。下の甲板にいる使用人たちの動きも見渡せる。


 アーシムはその中心に立って北の空を見上げている。ギイもかたわらに立って同じ方向を見る。


「ギイ、お前の言いたい条件はなんとなくわかっている」


 ぽつりとそう呟いたアーシムの顔をギイが見る。アーシムの横顔は険しく、威圧感すらある風貌だ。だがギイは恐れを感じない。その外見の裏には情があり、人としてあるべきものが残っている。


「お前は助けが欲しかったのだろう。取引などない、純粋な助力がな」


 その言葉にギイは何か言葉を返すことはできなかった。幼子をさとすような口ぶりにかすかな反感を覚えたが、アーシムの言葉はギイの心情を当てていた。


「ガザールの企みをかわすためにヴェネツィアへ戻ることを決めたが、それはお前が望んだ機会ではなかった。お前がアラビアの文化圏に逃げてきたのも、医療と魔術の両面で焼き印を治療する方法を探すため……そうして準備を整え、しかるべき時にヴェネツィアに戻るつもりだった。違うか?」


「……ええ、その通りです」


「うむ。だが、こうなってしまったからには有力な味方が欲しかった。魔導書の撲滅に協力的で、なおかつ荒事に長けた者が必要だった。ヴェネツィアに戻っても安全は保証されないため、完全な再起を遂げるためには俺の協力が不可欠なのだろう」


「そうです。俺にはやるべきことが多い。ヴェネツィアで商売の基盤を確立させ、使用人たちも養なわなければならない。再びあの組織に捕まるわけにはいかないし、俺の精神が焼き印に飲まれてしまっても駄目なんです」


 そしてギイはアーシムの両肩をつかみ、縋るような目でアーシムに訴える。


「アーシムさん、このまま俺とヴェネツィアに同行してください。魔導書の出どころでありながら、医術と薬学が進歩したアラビアから離れてしまったなら、ヴェネツィアで焼き印をどうにかしなければなりません。俺は焼き印を刻んだ組織を見つけ出し、組織から焼き印の呪縛を解く方法を聞き出したい。この印を背負ったまま生きるということは、不治の病を抱えているようなものです」


 切実な願いを受けたアーシムはギイの目を見る。そこに混じりけはなく、心からアーシムの協力を切望している。


 しかしアーシムの本来の目的は魔導書アル・アジフを滅ぼすことである。


 ギイに焼き印をつけた組織を追ってヴェネツィアに向かうよりも、かつてヴェネツィアで魔導書を流通させた張本人が流されたコルス島へ行く方が先決だ。


『この条件、いや、頼み事をお前は飲むのか?』


 マヘスがアーシムに問うが、アーシムは即座に答えられなかった。


 おそらくマヘスはアーシムがどのように選択しても不満を言わないだろう。だがアーシムは、ギイの条件をそっくり受け入れることが最善だとは思えない。


『わかっているだろうが、今のギイならばお前が要求を突っぱねても強く言えないはずだ。お前は酒場で一度、そしてガザール隊を沈める作戦でもう一度、ギイの命を助けた。さらには昨晩、大勢の使用人たちを救ったからな。ヴェネツィア行きを拒否してコルス島へ向かうことも可能だろう』


 言われずともアーシムは重々理解していた。ギイは一時的に利害が一致した人間に過ぎず、そこまでの条件を飲む義理はない。


『ギイは元から俺をヴェネツィアまで同行させたかった。それが船に乗せた条件だったのだな』


『ああ。あくまでもお前のコルス島行きは、ヴェネツィアで事が片付いた後の報酬だったのだろう。船に乗せてしまえばお前も拒否しづらく、いかにもやり手の商人らしいやり口だ。しかしお前に対する借りも大きくなりすぎてしまった。商人にとって貸し借りで釣り合いがとれないのは痛手だろうな……』


 アーシムはそこでマヘスとの対話を打ち切った。考えている目線が同じだと確認できればそれで充分であり、あとはアーシムの出方次第で決まることだ。


 肩に置かれたギイの手に、アーシムは自分の手を重ねた。


「ギイ、ひとつ言っておくが俺にも目的がある」


「……はい」


「アル・アジフを見つけ出して破壊すること。そしてその手掛かりが最も得られるのは、現状コルス島以外にない」


 その言葉を聞いたギイはあからさまにうなだれることはなかった。静かにアーシムの目を見据えながら、ゆっくりと諦めを抱いて手を離していく。


 そこでアーシムがギイの手を追ってつかむ。はっとしたギイに構わずアーシムは言葉を続ける。


「だが、俺はヴェネツィアに行く。先にコルス島へ向かうことは変わらないが、お前を手助けした上で、ヴェネツィアにいた組織を滅ぼすことも重要だ」


 ギイの手をつかんだアーシムはギイの体を後ろ向きにさせる。何をするのかまだ把握していないギイは戸惑いの表情を見せるが、アーシムは左腕の包帯を解いて、マヘスが宿る左腕をさらけ出した。


『己の目的も追いつつ、この場でギイの身も助けるか。ふん、やはりお前は難儀な性格をしている』


 マヘスの声が聞こえるが、アーシムの決意は固まっている。


「お前の背負う呪縛と、その重荷を俺が引き継ごう。ギイ、呪印を出せ!」


 小さくも鋭い声にギイが反応する。言われるがまま背中を出して、皮膚に深く焼きついた呪印をあらわにする。


 アーシムが左手の爪を振り下ろし、呪印を深々と引き裂いた。マヘスの力が呪印にこびりついた邪悪な気配を断ち、ギイの焼き印には4本筋の爪痕が刻まれた。


 爪で裂かれたギイに痛みはない。マヘスの爪は焼き印に秘められた力だけを引き裂き、ギイは驚きとともに身が軽くなった感覚を覚えた。


「アーシムさん、今のは一体……」


 服を正して振り返ったギイの目の前に、光で形作られたアーシムの左腕があった。初めて見るアーシムの左腕にギイは唖然としていたが、当のアーシムはマヘスの警句を聞いていた。


『アーシムよ。わかっていると思うが、これでギイの痛みをすべて取り除いたことにはならんぞ。それに今のはギイの精神に語りかけていた神にとって、宣戦布告に等しい行為だ』


『わかっている。だからこそ良いんだ。これで矛先は俺にも向くだろう。少なくとも俺がコルス島に向かっている間、ギイの精神がすべて食い尽くされることはない。ひとりでヴェネツィアに戻っても十分やっていけるはずだ』


 何も言わずにアーシムは包帯を巻いた。ギイは詳しいわけを聞きたがったが、アーシムはそれを伝えることを避けた。


「俺はコルス島に行く。ギイ、どうか俺の頼みを聞いてくれ」


 それだけを告げてアーシムはその場を去った。残されたギイはまだ何か言いたげだったが、ひとりになってから背中に腕を回して焼き印に触れた。


 醜い焼き印の輪郭をなぞれば、今なおあの夜の恐怖がよみがえる。


 だが、その焼き印の中心には荒々しい爪痕が刻まれた。すでに焼き印による呪縛は驚くほど薄らいでいて、その感覚を知ることでギイはアーシムの意思を汲んだ。


「また、助けられてしまったな」


 船の上でそう呟いたギイは空を見上げた。青空の中を海鳥うみどりが自由に飛んでいく。


 ギイは前に踏み出して甲板が見渡せる位置に立った。船室の上にいるギイに何人かの使用人が気づき、その手を止めた。


「みんな! 北西に舵を切れ!」


 雲の切れ間から太陽が現れ、声を張り上げたギイの顔に光が差す。


「目指すはコルス島! さあ、進め!」


 その声に応じて使用人たちが動き出す。互いに指示を出し合い、活発に働いて船の進路を変えていく。


 晴れ始めた空の下で船が帆を張り、南風を真っ向から受けて進む。そして穏やかな海の波を砕きながら、さらに速度を上げていくのだった。

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