第10話~背中の焼き印・前~
眠るアーシムのまぶたの上をそよ風が撫でていった。ひやりとした感触にアーシムのまぶたが震え、それからゆっくりと開いていく。
目を開けると船の縁と空が見えた。赤みを帯びた朝焼けの太陽の色が、わずかな夜の気配を残した深青色の空を染めつつある。切れ切れに浮かぶ雲は赤い朝日の光を浴びて、揺らめく海面に陰影を映し出す。
凪いだ風が心地良い。空気は乾いているが、冷たく澄んだ潮の香りはいい寝覚めをもたらしてくれる。
横向きに寝ていた体を起こし、腕を大きく上げてあくびをした。
目覚めたアーシムが辺りを見渡す。船室の外で寝たので、体は風で少し冷えていた。起きて間もないが頭は冴えていて、水平線の向こうに見える鳥の影もはっきり見えている。
「いい朝だな」
アーシムは立ち上がり、船室の影から甲板へ出た。
甲板へ出ると夜明けの太陽が水平線から顔を出していた。わずかな太陽の温もりが頬に届き、冷えた体が徐々に熱を取り戻していく。
そこかしこでギイの使用人は眠っている。雇い主であるギイや古株の使用人は船室で寝るが、まだ若い使用人はこうして甲板で雑魚寝せざるをえない。
アーシムは静かに歩いて、船首の傍らに立った。
「もう起きているだろう」
ひとりでに囁いたアーシムに反応する人間はいない。その声に答えるのは、アーシムの中に宿っているマヘスだけだ。
『起きているぞ。ゆうべはご苦労だったな』
思いがけない労いの言葉にアーシムは驚く。
「急に優しいことを言うとは、どういう風の吹き回しだ?」
『そのまま受け取れば良いものを……深い意味はない。昨夜のお前はよく戦った。船が衝突してしまっても、あの時のお前は、作戦通りに綱を投げておれば充分だったのだ。しかしお前は安全な方法を捨てて、ガザール隊の中で暴れ、結果として大勢の使用人を救った』
「助けられるものなら助けたほうが良いからな。それに、ガザールのような執着の強い人間は直接始末したほうが今後のためだろう?」
『思いあがるなよ。ギイと使用人たちを助けられた結果を労ったに過ぎない。俺が浅く憑依してなければガザールを殺せなかっただろう』
「それも、そうだな」
『そもそもお前の命はお前だけのものではない。居候させてもらっているため分はわきまえるが、いざとなれば俺がお前を止めることもある。共倒れは避けたいからな。それを肝に銘じておけ』
「わかっている。神であるお前の助力があることは強みだが、それにかまけて殺されることはない。己が人の身であることは忘れていないぞ」
かすかな声で話し合うアーシムの後ろから人が近づいてきた。
振り向けばギイが歩いてきていた。朝日のまぶしさに目を細め、紫色のローブが潮風を受けて揺れている。
「おはようございます、アーシムさん」
「……おはよう」
笑顔で挨拶したギイに固さはない。昨夜のアーシムの姿を目撃しても緊張していないようで、逆にアーシムのほうが少々堅苦しい様子で挨拶を返した。
「いい天気になりましたね。これならほぼ予定通り到着できそうですよ」
「そうか。ぶつかったところは問題なかったのか」
「ええ、多少の凹みはありましたが問題ありません。風向きも良好で、昨晩の作戦で脱落した人間もいない。アーシムさんの働きのおかげです」
「大したことではない。俺はコルス島へ向かうという目的があるから、船を動かす人員を失いたくなかっただけだ」
「意思はそうでしょう。ですが、俺のかけがえない手足と同義である使用人を全員守ってくれましたから」
それ以上アーシムは何も言わず、ギイも黙って海を眺めていた。
並んで甲板に立つアーシムとギイは、それぞれ別の想いで海へ目を向けている。アーシムはまだ見ぬ地方に広がっているかもしれないアル・アジフに、ギイは自分が生きてきた中で最も隆盛を誇れた都市に想いを馳せている。
「今日でどこまで船を進めるつもりだ?」
「食料と水に余裕がありますから、あまり無理せず北上します。イタリア王国の南岸まではまだまだ日数がかかりますが……」
「ならば、今後の方針を決めないといけないだろう」
アーシムのその言葉にギイは頷いた。
「わかりました。では、船室で朝食をとりながら話しましょう」
ギイはくるりと背を向けて歩き出し、アーシムもそれに続いて船室へ向かった。
昨日沈めた船と比べて、この船の船室は狭い。それでも船の質はこちらのほうが上等で、狭くても明らかに居心地がいい造りだ。
船室の中にいる大半の使用人たちは起床していて、それぞれ身支度を進めている。
「みんな、支度が済んだら船室から出ていってくれ。少しアーシムさんと込み入った話があるから」
使用人たちは快く聞き入れ、ギイの命じるまま身支度を手早く済ませて退出していった。静まった船室の中は薄暗く、光源は早朝の日光が差す小窓のみだ。
「さて、椅子もないので適当なところに座ってください」
ギイは船室の奥にある木箱に腰を下ろし、アーシムもその近くの木箱に座った。
「ギイ、早速だが聞かせてくれ。俺がコルス島まで送ってもらうためには、お前の出す条件を聞かなければならない。俺はガザール隊を倒すことに手を貸したが、こうして船に乗せてもらっている立場上、相応の条件を飲む必要がある」
「そうですね……」
「もちろん承服できない要件ならば、コルス島行きは諦める。だが、それもこれもこの船の長であるお前が出す条件を聞いてからだ」
まっすぐ向かい合うアーシムの目を見ていると、ギイは少し不思議な気分になってきた。前々から思っていたがアーシムという旅人は珍しい気質だ。敵に対しては容赦なく攻撃を仕掛けるが、世話になった人間には素直に向き合う男だ。
良くも悪くも芯が通っており、中途半端なことを滅多にしない。今まで多くの狡猾な人間と腹芸をしてきたギイにとって、アーシムのような人間は中々やりずらいところがある。
ギイは息を吐いた。真剣に何かを考えているようで、アーシムもギイを急かさず次の言葉を待った。
「……ひとつ、見ていただきたいものがあります。そして、それを口外しないでいただきたい」
その言葉には重みがあった。アーシムが無言でうなずくと、ギイは背を向けて装束の裾をたくし上げた。
薄暗い船室の中でギイの背中があらわになっていく。肌は白くなめらかだが、その背の中心からわずか左には、どす黒い印が存在していた。
その印は、中央の小さい点から3本の歪曲した線が外へ伸びている。線はそれぞれ不規則に伸びていて、印は全体的にいびつな三角形を呈している。
アーシムはこの形状の印に見覚えはなかったが、その印は皮膚に強く焼きつけて刻まれたものだとわかった。
「これが、俺が人に隠していた焼き印です。見覚えはありますか?」
アーシムはよく観察したが、この印は初めて見たものだった。心の中でマヘスに問いかけても見覚えがないようで、アーシムは静かに首を振った。
「そうですか」
ギイはそこで服の裾を下ろして、再びアーシムのほうへ向き直った。
「この焼き印はヴェネツィアにいた頃につけられたものです。けっして尋常の人には見せられない、忌むべき焼き印です」
「誰に、何のためにつけられた焼き印なのだ?」
「どこかの国から流れてきた異端の教団につけられました。ヴェネツィアで魔導書の噂が流れ始めた時、俺は同業者に騙されて、その教団の一員にされそうになったんです。この焼き印は教団が崇拝する神を賛美し、神との交信を図るものらしいです」
「過激な集団だな。だが、お前が騙されたとはどういうことだ?」
「事の発端から話せば、長くなりますが……」
「話してみろ。一から十まで聞くつもりだ」
「はい……5年前、ヴェネツィアで魔導書の風評が広まったのは先日話した通りです。噂が流れた時、ヴェネツィアの商人たちは教会側からの取り締まりが始まることを危惧していました。元よりヴェネツィアは自由交易都市です。今までも怪しげな商売を行う外国人や、奇抜な文化を売りにした民族も出稼ぎに来ていて、それもそれでなんとなく受け入れられていましたが……」
「だが、本物の魔導書が出回っているとなれば話は別ということか」
「そうです。ヴェネツィアもイタリア王国の一都市ですし、これまでもたびたび教会側から圧力をかけられていました。もしも危険な魔導書が本当に出回っているとなれば、教会陣営からここぞとばかりに取り締まりが実行されます。ヴェネツィアの教会も、都市の中での権勢を強めたいと狙っているのです。ですので正体不明の魔導書の噂は、自由に金を稼ぎたい商人たちにとって致命的でした」
「しかし、噂だけならばいずれ消えるものだ。誰かが悪意を持って流したとしても都市全体の治安を揺るがすものではないと思うが」
「噂だけならば俺たち商人の力だけで沈静化できたはずです。でも、その噂が広がり始めてから奇怪な事件が急激に増えました。裏通りでは娼婦が惨殺され、知恵のある役人や商人が突然物狂いになり、海からやってきた商船は風もないのに沈没し……例を挙げればキリがないほどです」
そこでギイは一呼吸おいて、天井を仰いだ。かつての自分が受けた苦難が胸に去来しているようで、複雑な想いが張り詰めた顔だった。
「ある日、ヴェネツィアで有力な商人たちが密かに会合を開きました。もちろん議題は魔導書についてです。名も知れぬ魔導書は本当に存在するのか、魔導書はいつ、誰の手でこの都市に入ってきたのか、最近起きている異常な事件の数々は魔導書による恐ろしい影響のせいなのか。そしてこの一連の騒動を収束させるにはどうしたら良いか。その会合は紛糾し、何度かにわたって開かれましたが、決定的な意見は出ることはありませんでした」
「その会合にギイも参加したのか?」
「ええ。俺も手広く商売をやっていたので、その商人たちの会合に出席することになりました。まだ若い俺に発言する機会は少なく、方針が固まらない会合に出るのは正直言って億劫でした。そして、あんなことになるなら無理を言ってでも会合に出席せず、別の都市に逃げるべきだったと今でも思ってます」
「何があったんだ?」
「会合に参加した商人の中で、エモンという男がいました。俺と年齢が近く、それなりに親しい間柄でした。3度目の会合が終わった夜、エモンも会合の内容について不満を漏らしたんです」
「お前と同じく、実のない会合に辟易していたということか」
「はい。俺も同じ考えを述べると、エモンも表情を明るくして同意しました。さらにエモンは魔導書に対する調査を独自にやっていたようで、俺にその調査の記録を見せてきました」
「調査記録、か。どのような内容だ」
「エモンは正体不明の魔導書を探るために、ヴェネツィアで起きた怪事件から調べていました。連続する殺人の共通点、船が沈没した原因、物狂いになった人間の前兆などの情報を、小さな紙の束に記していたんです」
「……そのエモンというやつは、そんな重要な情報をギイだけに打ち明けたのか?」
「俺もその点を問いました。エモン曰く『これまで自分の得た情報は、仕事仲間と協力せず単独で調べたものだ。だから、俺だけが声を上げても商人たちを動かせない』ということでした。エモンは自分だけが成果をあげたと言っても、状況は覆らないと言ったのです」
「そこで協力者として白羽の矢が立ったのが、お前ということだな」
「そういうことです。エモンは自分と考えが近く、思慮深く、下手にがめつくない、信頼できる人間を探していました。エモンの調査に俺が協力することで、考えが凝り固まった商人たちを掌握できる可能性が高くなり、このような魔導書による騒動など簡単に治められる……エモンはその考えを俺にぶつけ、協力を要請してきました」
再びギイは話を止めた。すくっと立ち上がって歩き出し、近くの木箱の中を漁ってワインを2本取り出した。
アーシムはワインを受け取り栓を開けた。冷えていないワインのむわっとした香りが鼻腔を突き抜けてゆき、口に含めば濃厚な酸味と苦みが口の中に広がる。
酒を飲むことで口の動きを無理やり活発にして、ギイは深刻な過去を話しやすくするつもりなのだろうか。アーシムより多く酒を口に含むと、一息に飲み干した。
「その夜、そのまま俺はエモンの家に行きました。2人で調査するならばよく話し合って情報を共有しなければならないとエモンが提案し、俺はそれに乗ったのです」
話を続けるギイの手先がかすかに震えている。恐ろしさか、悔しさか、それはアーシムにも計り知れない。
「エモンの家で話を進めていくうちに、強烈な酩酊感に襲われました。卓上に出された酒か食事か、いずれかに強い薬が仕込まれていたのでしょう」
「突然そのような手を使うとは……」
「ええ、自分もわけがわからないまま椅子から転げ落ちました。揺れる視界の中でエモンが人を呼び、その部屋に現れた者たちに指示を出していました。別の建物へ運ばれたことはかろうじて覚えていますが、詳しい場所まではわかりません。意識がはっきりしてきた時、俺は見知らぬ部屋で椅子に縛り付けられ、フードで顔を隠した人間たちに取り囲まれていたのです」
さらにギイが酒をあおる。少しばかり頬に赤みが差し、眼光にも力が入ってくる。
「その部屋にエモンはいませんでした。全員が顔を隠していましたが、話す言語はどれも耳にしたことがない言語です。明らかにヴェネツィアの外からやってきた者たちだとわかりました。はじめは抵抗しようとしましたが、すぐに近くにいた男が俺の頬を叩き、俺はいったん騒ぐことをやめました。俺がおとなしくなると、ひとりの人間が目の前まで近づいてきて、顔を隠していたフードを上げたのです」
当時の状況を語るギイは真剣そのもので、アーシムも体を少々前傾させて聞き入っている。魔導書をめぐって動いていた時に謎の集団に監禁されたという出来事、それは魔導書による一連の騒動を解き明かす肝になる部分だ。
「そいつは痩せた頬に髯が生えている壮年の男でした。目つきは鋭く、しかし感情の起伏は読み取りにくく、まるで残酷な猛禽類のような恐ろしい男です。その男はロマンス語(ラテン語を起源とした言語。ヨーロッパで広く使われた)で俺に話しかけてきたのです……」
昇る太陽が地平線から離れ、赤みが抜けた白い陽光が船室に差してくる。ギイの陶器のような肌は光を受けてより白く輝いているが、その瞳に湛えた悔恨の情念は暗く滾っている。
正体不明の組織にさらわれた忌まわしいギイの過去。その話はさらに深みへ進んでいくのだったーーー
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