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第9話~船上の怪人~

 船室の下で着替え終わったギイは、服を持ってきたハリルに今後の方針を伝えた。


「先ほど言ったように、兵士を殺したことに感づかれたらおしまいだ。だが、慌てすぎても失敗する。合図を出すか否か俺が判断するから、ハリルはそのままガザールたちを接待していてくれ」


「わかりました」


「気を落ち着けて、平然と酒を振る舞うんだ。あとは俺がやっておくから」


 ハリルは何度か深呼吸をしてから、船室を出て行った。


「さてと、俺も気を静めて動かなきゃな」


 返り血がついた服と兵士の死体を床下に残し、跳ね上げ戸を閉じて、さらにギイはその上に荷箱を乗せた。荷箱を移動させなければ、この床の戸に気づく人間はいないだろう。


 ギイは船室にある窓から外の様子をうかがう。船尾の方に人はおらず、ほぼ全ての船員が甲板にいるらしい。見張りを立てている可能性もあるが、わずかな人数ならやり過ごす手はいくらでもある。


 窓を抜けて船室を出た。月には薄い雲がかかり、柔らかい光を投げかけている。幸い晴れ晴れとした空で、夜霧も出ていない。燃える松明で合図を送るには好都合だ。


 すぐにギイは甲板の方に移動する。物陰に隠れて酒宴の様子を確認すると、ほとんどの兵士が酔いつぶれていた。まだ起きている兵士もいるが、それでも泥酔状態には変わらない。


「あの様子なら船が近づいてもまず気づかないだろう。酔いが醒める前に合図を出すほうがいいな」


 今が好機と見たギイは再び船尾に移動し、船室の荷箱から取り出していた松明に火をつけた。


「緊急用の船出の合図……届いてくれよ……」


 燃えた松明を回して、ギイは港にいるアーシムに合図を送った。




 町の港ではアーシムたちがもうひとつの船に乗って待機している。視力に優れた者を見張りに立たせて合図を待っていた時、見張っていた使用人が声を上げた。


「あっ! 来ました! 合図です! 船出の合図が来ましたよ!」


 その声を聞いたアーシムが念押しする。


「本当に合図か? 松明の動きは、間違いなく合図の動きだったか?」


「ええ、間違いなく合図の動きです! さらに逆に4回転していました!」


「逆回転……()()()船を進めろという合図だな。よし、直ちに帆を張れ!全速前進でギイのいる船に近づくぞ!」


 アーシムの号令に使用人たちが大声で応える。今か今かと待ちわびていたギイの使用人たちは、はやる気持ちを必死に抑えながら出港の準備を進めていく。


「アーシムさん、もういつでも出発できます!」


 息を切らして報告してきたのはラティーフだった。


「わかった! あくまでもこれは隠密作戦だ。可能な限り素早く向かうが、決して無用な物音を立てるなよ」


「はい!」


 ラティーフは背を向けて走り出し、使用人たちに指示を伝達しに行った。


 船首のきわに足をかけるアーシムは緊張した面持ちで、はるか遠くにある船を見据える。緊急の合図が来たということは、不測の事態が起こったのかもしれない。ギイのいる船に戦える人間はいないため、最悪の場合、ガザールたちに皆殺しにされるだろう。


『間に合わぬかもしれぬな』


 マヘスの声は暗い。マヘスも考えうる中で最も悪い状況を考えているようだ。


「こればかりは運否天賦うんぷてんぷだ。しかし、ギイのような人間がいれば何とかなるだろう」


『ふっ、ずいぶんと信頼している』


「それもあるが、それだけでは俺は動かない。今は能力の高さを信用していると言ったほうが正しい。やつの知恵と手腕は並の人間より優れ、たとえ不利な状況におちいったとしても、ただで転ぶようなやつではない。可能な限りは生き抜くだろうさ」


『確かにギイならば簡単には死なぬだろう。だが、それと同じく重要な問題は、この作戦が終わった後も航海が続行できる人員と船が残っているかどうかだ』


 そのマヘスの指摘にアーシムは頷いた。


 もしアーシムとギイだけが生き残ったとしても、目的地までたどり着ける余力が残っていなければ意味がない。船も傷つけられず、人員の損害もなく逃げ切れて、初めてこの作戦は真に成功だと言えるのだ。


「俺はコルス島、ギイと使用人たちはヴェネツィアにまで向かうのだ……こんな地中海のど真ん中で死にかけるようでは、どの目的地にもたどり着けず死ぬだろう」




 合図を送り終えたギイは使用人に松明を渡してから、布をかぶって船尾側の甲板に座り込んでいた。


「主人! ずっとこんなところにいては見つかります! 船首側の甲板には、ガザールたちがいるんですよ?」


 そばにいる使用人は小声で必死に「危険だ」と呼びかけたが、ギイは首を横に振って動こうとしなかった。


「もうすでに合図は出した。船首側で飲んだくれている阿呆どもは、後ろから近づいてきている船には気づかないはずだ。悪い偶然が重なれば気づかれるかもしれないが、肝心な時に船室に隠れていたら逃げ遅れる」


「で、でも、近づいてきた船に逃げるつもりだと思われたら、この場で真っ先に殺されてしまいます」


「危険なのはガザールたちと同じ船に乗っている俺たちだけじゃない。俺たちを迎えに来るやつらだって、ガザール隊が船に飛び移ってきたら斬り殺されるだろう。そうなった時に、誰が危険を知らせる役目を果たすんだ?」


 ギイの言葉に使用人の男はハッとした顔をした。男の瞳を見つめるギイの視線には、覚悟を決めた人間の熱が灯っていた。


「心配するなよ。その役目を担うのはあくまでも俺だ」


「な、それって……」


「元はといえば俺がガザールに目をつけられたことが発端だ。外国の街に逃げる羽目になった手前、なるべくお前たちには死んでほしくないんだ」


 その言葉に胸を打たれた使用人は、目元を赤くなったのを顔を背けて隠した。


「わかりました。でしたらもう何も言いません。僕もアーシムさんの船が到着するまで動じることなく、ガザールたちが目覚めないか見張ってやります」


 そう言い残して使用人は足早に去っていく。


 遠くなっていくその使用人の背中を見届けて、ギイは満足げに嘆息した。


「……案の定、あいつが一番に不安がると思ったよ。まあ、あれだけ頼もしいことを言ってやれば、土壇場でガザール側に寝返ることもないだろう」


 ギイは自分が雇っている使用人の性格、経歴などを網羅している。


 今の使用人の男は非常に臆病で、どこか自分の責任から逃げようとする節が以前に見受けられた。


 基本的に使用人のことを信用しているギイだが、極限の場面で表す人間の本性もあなどれない。そして日ごろ働いている姿を見ていると、その極限状態に負けそうになる人間を容易に絞り込める。


 金と知恵、そして行動力という実利的な要素で人は信用するが、圧倒的な感情の揺さぶりの前では、論理的な安心や信用も揺るがされてしまう。


 だからこそ、ギイはあえて精神的な安堵感を与える温かい言葉を投げかけた。


 ギイも生死の瀬戸際になれば、今の使用人を()()()()()()は簡単にできている。そして命を投げ出して守るつもりはなくても、言葉だけでも優しくしてやれば、この作戦を邪魔する確率は減るだろう。


 論理的な信用も、精神的な信頼も、どちらもギイにとっては生き抜くための知恵のひとつに過ぎない。


「あとはここで待つだけだ。風向きは良好、合図も無事に伝わっていたらしい」


 船尾側の甲板に座るギイの視線の先には、こちらの船に急速に向かってくる船が見える。さらにその船を指揮しているアーシムの姿も、おぼろげながら視認できる。


「波も穏やか……あとは静かに横につけて、綱を投げ渡してもらえば……!」


 目前まで迫った申し分ない成功に高ぶり、ギイが思わず立ち上がった。


 その直後、強烈な突風が吹きつけた。


「くっ?!」


 突如として南側から吹いた風により、ギイは体勢を崩して膝をついた。


 しかし問題はそこではない。帆を張って進んでいる小さな船がこれほどの風を受けてしまえば、この後に起きる事態はすぐに想像できる。


「まずいっ! ぶつかる!!」


 速度を落とせず迫ってくる船を見て、ギイの目が一瞬だけ絶望に染まる。


 ギイは膝をついたまま床に手をついた。次の瞬間に訪れる衝撃に備えるためだ。


 固い木材同士がぶつかり合った音が響き、それと同時に内臓すら震えるほどの衝撃が走る。どちらの船もすさまじく揺れ動き、船の間には乱流となった波がざあざあと絡み合う。


「くそっ、今ので間違いなくガザールたちは目覚めたはずだ。こうなれば俺だけでも!」


 よろめきながらもギイは立ち上がると、荷箱の影に隠していた鉤縄を取り出した。


 しかし揺れは収まらず、鉤縄を振りかぶろうにも体勢が整わない。そうしている間にも、船首側の甲板が騒がしくなってきた。


「ちっ、こんなところで……っ!」


 非情なギイといえど、使用人の命が惜しくないわけではない。再びヴェネツィアで一旗揚げるには人手が必要だ。それ以前に、自分が手塩にかけて指導した人間が、ガザールたちに全員殺されてしまうのも我慢ならない。


 今とるべき最適な行動は自分だけが逃げるべきか、否か。そういった思考がいくつも脳内で駆け回る中、船尾側に船がぶつかったことに気づいた兵が、ふらつきながらもギイの方に走ってきた。


 ギイにこの状況を説明できる余裕はない。海で船がぶつかってきたとなれば十中八九は敵国の軍船か何かだと考え、ギイが外国の船を手引きしたと見られてもおかしくない状況だ。


 兵はわずかに戸惑っていたものの、すぐに顔を怒気で真っ赤に染め上げ、剣を抜いて突撃してきた。


 ナイフしか持たないギイになすすべはなく、苦し紛れに身をかがめようとした。


「ーーーぉぉおおっ!!」


 ギイは頭上から怒号が降ってきたと思いきや、短剣を握ったアーシムが兵士の真上に落下してきた。


 人と人がぶつかる音とともに、兵士とアーシムの体が転げ回る。凄まじい勢いで転がった両者だったが、起き上がったのはアーシムのみで、兵士の背中には深々と短剣が突き刺さっていた。


「くそ、腰を痛めるかと思ったぞ。無茶なことをするものではないな」


 冗談を言いながら近づいてくるアーシムに、さすがのギイも驚きで硬直していた。


「なんで飛び移ってきたんですか? 作戦通りなら救出用の綱を投げ渡して、この船から素早く離れるのが安全でしょう」


「当初はそのつもりだったが、こうやって強風のせいでぶつかってしまった以上、そのやり方では大勢死ぬかもしれん。ならば俺が顔を隠して騒ぎを起こせば、ガザールたちもお前たちに構わなくなる」


「ですが……」


「間もなくそっちの船から綱が投げ込まれる。それに掴まってすぐに逃げろ」


 ギイは呆気にとられていたが、アーシムは目もくれずに船首側の甲板へ走り出した。


『相手は大人数だ。下手を打って囲まれたら一巻の終わりだぞ』


「酔ったハイエナの集団なぞ、獅子がおどり出れば混乱するに違いない。お前こそ、俺と心中したくなかったら必死で援護しろよ!」


『これほど傲慢な人間も珍しい……雑兵ぞうひょうごときに後れを取るなよ!』


 アーシムはまず襟で口元を隠す。それから腰に下げていた曲刀を抜きはらい、突然の揺れに慌てていた兵士を二人斬り殺す。


 前触れなく現れた侵入者に兵士たちは驚いたが、その硬直を見逃さず、アーシムは懐から取り出したチャクラムを集団の中心に投げつけた。


 初めてチャクラムを投げたアーシムだったが、運よく兵士の顔を切り裂いた。チャクラムに顔を切られた兵士は絶叫して転げた。


「ぐぉおおおおっ!!」


「うわわぁっ?!」


 最初に殺した兵士の剣を拾い、雄たけびを上げながら手近にいた兵士に二刀流で襲いかかる。


 一度は剣を受け止めた兵士だったが、さらに攻めかかる剣にはかなわず、二本の剣で胴体を串刺しにされた。


『右だ!』


 内なるマヘスの叫びにアーシムが反応する。刺した剣を抜いている暇はなく、酔ったまま斬りかかってきた兵士の喉を左手で鷲づかみした。


『があっ!』


 つかんだ左手の力にマヘスの力が上乗せされる。ただでさえ力強いアーシムの膂力りょりょくが膨れ上がり、兵士の喉は無造作に握りつぶされた。


 むろんマヘスが宿る左手は布を巻きつけて隠しているが、そこから発揮される力は出し惜しみしない。多少化け物じみた戦いを見せても、どうせこの兵士たちはこの海の藻屑となる定めだ。


 喉をつぶされた兵士はその場で魚のようにもがく。その兵士の剣を奪って振りかぶり、さらに咆哮して甲板の中心に突撃する。


 正体不明の敵が暴れまわるというものは非常に恐ろしく、熟練した兵士であっても戦意を失って後ずさった。


 剣を構えた状態で甲板の中心に立つアーシム。威嚇する獣のごとく首をひねり、周囲にいる兵士たちににらみをきかせていく。


 その兵士たちの奥から、ようやく隊長ガザールが前に出てきた。


「貴様、何者だ!」


 剣の切っ先を向けて怒鳴るガザールだが、その顔は酒により紅潮し、目の焦点も完全に合ってるとは言い難い。


 名を問われたアーシムは顔を隠したままだ。それゆえにギイの使用人たちまでもが、顔を隠したアーシムの正体を理解しきれていないようで、この場の凄惨な緊迫感で動けなくなっている。


『どうする? せっかく隙を作ったのに、逃げる好機をいっしている使用人がほとんどだ』


 構えるアーシムの意識の中で、マヘスがそのことを指摘する。


 そこでアーシムは剣の構えを解いた。囲まれた状況でいきなり剣を下ろしたことで、その場にいた全員の理解が追いつかず呆然とする。


 平常の様子でアーシムがしゃがみ、酒盛りの中心にあった松明を手に取った。燃えていない松明に火をつけて、ゆっくりと立ち上がる。


 ガザールたちはそれぞれ武器を構えていたが、襲いかかるよりもアーシムの動きを注視している。この謎の敵はなんの意図をもって、どんな行動をとるのか、固唾を飲んで観察している。


 燃える松明をアーシムが掲げる。何をするのかとガザールたちは一斉に身構えたが、アーシムは一定のリズムで松明を振り回し始めた。


「な、なんの真似だ……?」


 ある兵士がアーシムの不可解な行動に疑問を口にした。


 その直後に船の外側から太い縄が何本も飛んできた。飛来してきた縄は甲板にまで届き、縄が伸びてきた方向を見ると、船尾側にぶつかった船が船首側まで回り込んできていた。


 弾かれたように使用人たちが走り出す。まだ戸惑いが残っている兵士たちは使用人を捕らえようとするが、おのおのが兵士の手をかいくぐって縄に飛びついた。


「案ずるな! そのまま飛べ!」


 松明でもうひとつの船に合図を送っていたアーシムは、救出用の縄をつかんだ使用人たちに向かって叫んだ。


 その言葉通りに使用人は一斉に飛び降りる。縄につかまった状態で海に飛び込むことで、片方の船に乗っている者たちに引き上げられた。松明による無言の合図は、逃げ遅れた使用人たちにも伝わっていたようだ。


「おっ、おのれぇ!!」


 ようやく襲撃者が明確にギイの味方だと理解し、ガザールをはじめとした兵士たちが血走った目で斬りかかってきた。


 アーシムはすぐさまきびすを返して走り出す。船室の右側へ走り抜けていき、それに続いて兵士たちが追いかけてくる。


 一度に大人数が船の片側に移動したことで、途端に船が大きく傾いて沈んでいく。


 沈没を始めた船に兵士たちは恐慌状態となった。ある者は悲鳴を上げながら海へ落ちていき、ある者は船の一部にしがみついて苦悶する。


 ギイの細工を知らない兵士たちは船が沈む原因が分からず、落ちないようにするだけで精いっぱいだ。


 だがアーシムは冷静にマストにしがみつき、必死にもがく兵士たちを眺めている。


 船どうしがぶつかった衝撃で、すでに油紙の栓は抜けているはずだとアーシムは推測していた。だからこそ、兵士たちが自分を追いかければ船の重心は傾き、ひそかに浸水が進んでいる船ならば、重心さえ崩せば沈没するだろうと見越していたのだ。


『このまま待つつもりはないのだろう』


「ああ、ギイのいる船に乗り込まれたら面倒だからな。悪いがここで死んでもらう」


 ほとんど真横になったマストに登り、傾いた船のマストの上で武器を取り出す。


 アーシムが背中から取り出したのはクロスボウだ。ギイの船から拝借した新品の射撃兵器で、すでにつるは引き絞られた状態だ。


 無機質な発射音とともに矢が飛んでいく。まずは船体にしがみついていた兵士の背中に突き刺さり、兵士の体は暗い海へ沈んでいった。


 膝をついた体勢で次々とアーシムは兵士を狙撃する。ギイの自慢の武器は精度に優れ、なおも船体にしがみつく兵士たちに命中し、波間でもがく兵士の頭すらも寸分の狂いなく穿うがつ。


 船に上がろうとしても、海へ逃げ込もうとしても、アーシムの放つ矢で射殺いころされる。まさに地獄絵図が繰り広げられている時、一筋の矢がアーシムの頬をかすめていった。


 矢が飛んできた方向にアーシムが顔を向けると、船室の壁に登っていたガザールが弓を構えていた。とっさに船室の壁を足場とすることで難を逃れたのだろう。


「貴様、ギイのそばにいたやつだな」


 弓矢をつがえながらガザールが問う。アーシムもクロスボウを持っているが、次の矢を取り出すことなく静止している。


「答えないか……まあいい。もはや部隊は壊滅、俺の野望も終わりだが、お前とギイだけは必ず殺してやる」


 怒りを孕んだガザールの声は低い。強固な殺意に染まり、どんな言葉を投げかけたとしても即座に矢を放つだろう。


「動けば射る。絶対に逃がさんぞ……!!」


 矢を引き絞るガザールと、膝立ちのままのアーシムの視線が交錯する。不安定な足場に立つ両者の距離はおよそ5m強。弓矢ならば一瞬で突き刺さる至近距離だ。


 まさに矢を放たんとした刹那、ガザールに目がけてアーシムが飛びかかってきた。


「なっ?!」


 ひとかけらも想定していない状況にガザールの思考が白く染まる。


 放たれた矢は宙に飛んだアーシムのそばを通り過ぎ、振り上げたアーシムの左手が横薙ぎにガザールの脇腹をえぐり取った。


「……がっ…か、はあっ……?!」


 灼けつくような激痛が走り、温かい血が足元に流れて広がっていく。うずくまるガザールは自らの左わき腹を手で押さえるが、くりぬかれた部分から流れ落ちる血液は止まらない。


 悶えるほど灼熱の痛みを感じているのに、流れる血液に比例して体中はどんどん冷えて寒くなっていく。子どものようにうずくまるガザールは、自身の体にのしかかる死の気配に震えた。


「いぃ、やだ、死にた…く…」


 人が息絶える直前に絞り出す吐息とともに、ガザールは震え声で死の恐怖を口にして、やがて動かなくなった。


 傾いて沈む船にアーシムは立つ。ぬるりとした血の感触を左手に感じながら、ギイたちのいる船の方へ顔を向けた。


『俺と一体になってガザールを引き裂いた姿、見られただろうな』


 マヘスの声にアーシムは苦笑いした。


「今日を生き延びることができたなら、それでいい。今後ギイたちが俺をどう見るかは知らないが、これで俺はコルス島へ行けるからな」


 自嘲気味に笑うアーシムのもとへ、ギイたちが避難した船から救出用の縄が投げ込まれた。


 縄をつかんで海へ飛び込み、沈みゆく船を眺め終えると、驚くほどの静寂が訪れた。幾多の戦を経た地中海にとって、今宵の戦いは些末さまつなことであったようだ。船と兵士たちを容易く呑み込み、そこには冷たい暗黒の海が広がるのみだった。

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