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唯一、安心して過ごすことのできる自室の中。
僕はもう、埃にまみれた薄暗いロッカールームの中には居ない。
それなのに、僕の心に光が差すことはなく、それどころか得体の知れない真っ黒い影に飲み込まれていくような感覚だった。
観月と泉の会話だけが残響のように繰り返し鳴り響き、足下さえ見えない暗やみの中では、今自分がどこに立っているのかさえ分からなくさせた。
誰でも良いから、僕をここから引き上げて欲しい。手を差しのべて欲しい。こっちだよ、と、ただ笑いかけてくれるだけでも良い。
けれど、唯一の支えだと思っていた友人は本当の友人ではなかった。泉はただ、観月と僕の関係を探るために近づいたに過ぎなくて、僕を助けてくれる人など最初から一人もいなかった。
その紛れも無い事実は、まるで僕を出口の見えない闇の底に突き落とす為に用意して待っていたようで、 僕はそれにまんまと飛び込んでいった愚かな人間に過ぎない。
観月に目をつけられた時点で味方など一人もできるわけないと、泉が僕の心の支えなんかじゃないと、最初から思っていれば落ちた闇の底はここまで深くなかったのに。
けれど何をどう思ったところで、この事態が変わることはない。
結局観月が僕を嫌い虐める理由を知ることが出来なかった以上、部屋の隅でこうして膝を抱えて座っているだけでは何も変わらないことだけは、愚かな僕にも分かっていた。
とにかく行動を起こさなければ、この底から抜け出すことはできない。そう思っているからこそ、結局今日も僕はいつものように学校へ行く為に奮闘するしかなかった。
けれど僕に待っていたのは、まるで昨日に戻ってしまったかのように同じ風景だった。
毎日僕を悩ましていた観月の取り巻きたちは、昨日に続いて全く僕への接触がなくなり、奴らと同じ空間にいる事を忘れてしまうほど落ち着いた時間が流れていく。
あれほど毎日ぞんざいに扱かわれてきたのが嘘のように静かな彼らは、昨日と同様少しホッとするけれど、やっぱり気味が悪いと思うのも昨日と変わらず僕が抱く気持ちだった。
溜まった不信感を吐き出すようにため息をつき、一人廊下を歩く。
(このまま何もなければ良いけどなぁ…)
そんな事を心内で呟く僕の姿は、まるで肩にどっしりと背後霊が憑いているみたいに濃い影を落としていて、放課後のひっそりとした廊下にお似合いだった。
「あ、おい!立花!」
けれどその時、ひっそりとした空間には似付かない大きな声で、誰かが僕を呼んだ。
慌てて後ろを振り向けば、見覚えのある顔が少し不機嫌な表情をして歩いてくるのが見えた。
そしてその人物は一人分の間隔をあけ僕の目の前で止まると、思わず息を止めた僕に構わず、ずいと鍵を差し出してくる。
「この鍵さ、職員室に届けておいて」
少しハスキーなその声の持ち主は、僕に嫌がらせをする観月の取り巻きたちの一人だった。
その中でも特に彼は観月の近くにいる印象で、いつも少し不機嫌そうな表情と喧嘩慣れしてそうな筋肉の付いた身体は、僕にとって怖さを増長させる人物でもあった。
「あ……わ、分かった」
閉まる喉をなんとか絞りだして鍵を受け取ると、彼はまた来た道へ戻るのか直ぐに後ろへ引き返してしまう。
「あ、」
けれど思い出したように声を上げ立ち止まったかと思えば、廊下に靴が擦れる音と共に彼は再び僕の方へ引き返してくる。
「あとさ、返す時、俺が帰ったことも言っといて」
「………」
「よろしく」
「う、ん……」
(何で僕…………)
結局また良いように扱われるのか、なんて思ったことは心の中に秘めておこう。
話は終わり今度こそ帰ると思っていたのに、目の前の男は不機嫌そうに寄っていた眉を少し上げると、「ちょっと待て」と再び歩き出そうとした僕の足を止めた。
「お前、俺の名前分かってる?」
「…あ、、」
さっさと続きを言わなければならないのに、僕はそれ以上言葉にする事が出来なかった。
確かに僕は、目の前いる彼の名前を知らなかったのだ。
口を噤んでしまった僕に、彼は脱力したように小さくため息を吐く。
「だよな、ぜってぇ分かってねぇと思った。
そんなので、どうやって俺が帰ったこと先生に言うつもりだったんだよ」
「…ごめん」
「松永は帰ったって言っておけよ」
「うん」
いつも不機嫌な顔して観月の隣にいたのは、松永という人だったのか。
僕は今更ながらに彼の名前を覚えようと、深く頷いてみせた。