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そんな従順な僕の姿に取りあえずは怒っていないらしく、松永は不機嫌な表情を緩ませると、ただただ呆れているという視線を僕へ向けた。
「お前って何も言わないし弱っちい奴だと思ってたけど、意外と能天気なのな。
普通は虐めてくるクラスメイトの名前くらい把握するんじゃねぇの?」
そのハスキーな声に少しばかり人を馬鹿にするような色が入っていて、僕は伏せていた目を思わず恨めしげに目の前の男にぶつけた。
「…観月は知ってるし、能天気でもないと思うけど…」
「いや?その様子じゃあ、パシリから解放されたことにも気づいてねぇだろ」
「解、報…?」
「ああ」
「え、僕って解放されたの…?」
「そうだよ」
面倒臭そうに答える松永の事など、もはや気にする間も無かった。それよりも「解放」という言葉に僕の全てが持っていかれたかと思うほど、一瞬頭の中が真っ白になった。
松永の言う、解放。それは紛れもなくイジメからの解放で、奴らからお金を巻き上げられる事もなく、リンチと言う名の暴力もなく、奴らの視線に怯える事なく僕が僕でいられる普通の生活を送れるようになることだ。
ついこないだには頬に傷を負わされたけれど、確かに昨日今日は奴らからの呼び出しもなかった。
松永の言う通り、僕は本当に解放されたのかもしれない。
そう思ったら徐々に方の荷が降りていくようで、天敵とも言える松永と対峙して強張っていた全身も少し楽になっていった。
「まぁ、観月の気まぐれかもしれねぇから、あんまり喜ばない方がお前の為だけどな」
「気まぐれ………」
「お前、何をしたら観月にそんな目をつけられるわけ?派手に動くタイプにも見えねぇのに」
上から降ってくる訝しそうな声に、僕は押し黙るしかなかった。
そんなの、僕が聞きたいくらいだ。
本当に観月が気まぐれを起こすような人間なのかは分からない。
観月の取り巻き達にお金を巻き上げられたり虐められる僕を、淡々と冷めた眼差しで見つめる観月しか僕はずっと知らなかった。けれど昨日の放課後、僕に近づく泉を問いただす観月のあの行動はただの傍観者には見えなくて、やっぱり彼は僕に対して根強い嫌悪感があるのだと思う。
「……どうしたら、良いのかな…」
誰に言うわけでもなく思わずそう呟く僕に、松永は「さぁな」と他人事の如くばっさりと切る。
「俺は観月と高校からの付き合いだけど、A組の泉とは割と古い付き合いだって聞くぜ? 泉に相談した方が早いんじゃねぇの」
「あ、いや……それはちょっと…」
「……この前俺と観月がいない時にクラスの奴らから殴られたんだろ。あいつら馬鹿だから、加減が分かってねぇのにそういうことするんだよ」
そう言う松永の視線は僕の頬の傷に向けられていた。
「まぁ、お前からしてみれば俺もあいつらと変わりねぇと思うけど」
その無愛想に聞こえるハスキーな声で、少しばかり自嘲めいたことを言う。決して僕を労わるような装いではなかったけれど、観月の隣でいつも不機嫌そうに僕を使い回す男には今は見えなかった。
観月と泉、松永、そして観月に取り巻く奴らからの虐め。ずっと僕の目の前にあったことが、少しずつ形を変えていくのを僕は感じ始めていた。