二
私は、イーストエリアのポート・コルネルという町に住む人魚です。
煌めく海の中を漂う日々に少しばかり飽きてしまった、一人の人魚です。
私は、旅に憧れています。
自らの足で様々な場所に赴き、そこにあるものを見て、聞いて、感じたいと望んでいます。
しかし、それは決して叶いません。
私の足は、魚の足です。海中を好きなように泳ぎ回ることはできても、地上を歩くことはできません。
馬車を借りて荷台に転がっても、きっと、どこかの町に辿り着く前に乾いてしまうことでしょう。
だから、私はこの手紙に想いを託します。
この手紙がどこへ行くのか、どなたが受け取るのか。
すべては、私の知るところではありません。
もしかしたら、文字を読めない方が拾うかもしれません。あるいは、誰にも拾われず土に還りかけた頃にようやく拾われるのかもしれません。
ですが、もし、この手紙が誰かに届き、その方が好奇心旺盛であるのならば。
もし、この手紙を拾ったあなたが、私に答えようと思ってくださったのならば。
もし、私を哀れんでくれるのならば。
ぜひ、あなたの住む場所について教えてください。
暑い場所か、寒い場所か、美味しいものは何か、どんなお祭りをするのか……。
どんな事でもいいのです。
どんな理由でもいいのです。
どうか、どうか。
私の心を満たしてください。
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ハルピュイア・ポストの配達員は、それぞれ担当するエリアが決まっている。
ハルはイーストエリア内第三地区の小さな町や村を、ハルの同僚であるハヅキとセンとカレンは三人がかりでイーストエリア城下町を、先輩であるエリンは第四地区にある港町を受け持つ、と言った具合である。
これは、ハルピュイア・ポストが仕事範囲を広げるに伴い、より効率を良くするために試行錯誤していった末にたどり着いた、一つの方策であった。
しかし、もちろん例外はある。
例えば、速達があれば飛行速度の速い配達員が担当外のエリアに飛ぶこともあるし、配達員が何らかの理由で休んでいる時などは、他の配達員が穴埋めをする。
そして、今日はまさにそうした「例外」の起こった日であった。
「エリンさんが風邪を引いたそうなので、ハルさんが代わりに南端の港町に行ってください」
ピーノは宛先別に仕分けされた手紙と配達員のリストを見比べながら、隣に座るハルに言った。
ハルの担当エリアである北方宛の手紙は、今のところ無い。穴埋めに回すには都合が良い。
だが、ハルは整った眉を少しだけ曲げて、「えー」と抗議の声を上げた。
「潮風がべたつくから、あっちはあんまり好きじゃないんだけど……」
「潮風が当たらないルートがあるので、地図を確認しながら行ってください。ポストの確認、忘れないで下さいね」
「……はーい」
ハルの不満は適当に流して、ピーノは引き出しから一枚の地図を取り出して、ハルへと手渡す。
ハルピュイア・ポストのお抱え測量士謹製、季節ごとの風の流れを考慮した、「ハーピーが気持ちよく飛んで目的地に向かう」ための、特製の地図。
とても手間の掛かった、社員でないハーピーにとっても価値のある一枚なのだが、「今度は失くさないでくださいね。次は始末書では済みませんよ」とピーノが釘を刺すほど、ハルはこの地図を失くしている。
「大丈夫だよ。ほら、制服のポケットにもボタン付けてもらったし、今度は失くさない!」
「前回は『畳んでカバンの一番奥に入れておけば失くさない』って言いながら失くしましたよね」
「あれは……そういう事もあるってことで……」
地図紛失の始末書を書くのは何度目ですか、とピーノに冷たい目で見られた記憶を奥底に埋めなおしながら、ハルは「ところで」と露骨に話題をそらしにかかる。
「ピーノ、なんで仕事中はわたしの事わざわざ名前で呼ぶの?家にいる時みたいに『姉さん』って呼べばいいのに」
「前も言いましたよ、鳥頭ですかハルさんは」
「鳥じゃなくてハーピーだもん」
とのハルの言葉に、ピーノは相手をしない。
「仕事場では姉弟じゃなくて同僚だって、きっちり区別したいんですよ」
「あぁ、なるほど。でも、呼び方を変えるのはともかくとして、外でももうちょっとわたしに優しくしてくれてもいいんじゃない?」
「だから、そういう事をみんなの前で言われるのが嫌だから……あぁ、もう、とにかく配達行ってください。話はおしまい!」
羞恥に赤く染まった顔を手で覆い、もう片方の手で「行った行った」とハルを追い払う。
それはピーノにとっては白旗を揚げたにも等しい行為でもあるのだが、やはりハルには単に「真面目な弟が仕事を優先した」という認識でしかなかった。
配達用カバンを提げたハルがバルコニーへと上がっていく足音を聞き届けてから、ピーノはいつも通りにため息を一つ。
その様子を見て、向かいのデスクに座っていた事務員、ワーウルフ種の女性、サクラがくすりと笑った。
「笑わないでくださいよ」
「あら、ごめんなさいね」
とは言いつつも、サクラは鋭い牙の覗く口元をにやけさせたまま、
「堪らえようとは思ったのだけれど、二人がかわいくて」
と続ける。
「……子ども扱いも、やめてください」
このやり取りも何度目だろう。半ばふてくされたように、ピーノは思う。
ピーノがハルピュイア・ポストに入社したばかりの頃から、サクラには何かと世話になっている。
仕事をテキパキとこなす手際の良さと、ワーウルフ種らしからぬ温和な性格にはピーノも敬意を抱いているが、時折見せるいたずら好きな一面と自称「子ども好き」な部分には、閉口させられている。
同僚たちからの子ども扱いがいつまでも終わらないのもサクラに一因があると、ピーノは考えている。
「まあでも、良いんじゃないかしら。姉弟仲が良いのは素敵なことよ?」
「……それはそうでしょうけど」
当たり障りのない正論で話を畳まれてしまうと、それ以上の展開は望めず、渋々仕事に戻らざるをえない。
僕がこの人に勝てる日は来るのだろうか、とピーノはただ、口をへの字に曲げた。
…………
港町へ向かいながら、ハルは自分たち姉弟の事を考えていた。
ハルとピーノは、双子であり、捨て子であった。
赤ん坊の頃に町の教会に捨てられ、教会の運営している孤児院で育った。故に、どちらが先に産まれたかなど知りようがない。
ハルが姉でピーノが弟という現在の認識は、幼少期にはハルの方が少しだけしっかりしていたから、という理由でできあがったものである。
だが、今の状況を思うと、ピーノがお兄ちゃんだったのではないか、とハルは時折考える。
確かに、飛ぶのは自分の方が得意だ。でも、ピーノの方が頭は良いし、性格もしっかりしている。甘えん坊だったのも、最近ではすっかり直ってきた。それは少し寂しいけれど、ピーノがお兄ちゃんだったとすれば、何も不思議なことではない。
でも。
「……ピーノお兄ちゃん」
口に出してみると、驚くほどしっくり来ない。
どうしても、心の何処かで「あの怖がりで甘えん坊なピーノが」と思ってしまう。
やっぱり、小さい頃から慣れ親しんだ感覚は、そうそう捨てられないらしい。
翼を大きく振り、軌道を調整しつつ、思考を切り替える。
地図に描かれていたルートは、防潮林沿いを飛ぶルートだった。
高くそびえる木々は潮風をせき止めるために植えられた、成長の早い木々である。その陰を飛べば、ハルのような翼の繊細なハーピーでも、潮風に悩まされることはない。
数十年、数百年前に木々を整えた人々に心中で礼を言って、ハルは以前海の街を訪れた時の事を思い出す。
港町自体は嫌いじゃないし、楽しかった思い出はたくさんある。
飛び回る海鳥たちは可愛らしいと思うし、珍しいものはたくさんあるし、あまり海上に姿を現さないマーメイド種を運良く見かけた時に「今日はちょっとだけ良い事があるかも」なんて思えるのも楽しい。
でも、潮風は嫌いだ。
髪はべたつくし、翼は重くなるし、鼻の奥にツンと来る匂いも苦手。
だから、エリンさんには早く風邪を治してもらわないと。海鳥族のエリンさんならともかく、山鳥族のわたしが海沿いを何度も飛んでいたら、翼が塩で固まってしまう。
憂鬱になる理由を並べ立てていると、防潮林の上に突き出している赤い旗が見えた。
町の入り口を示す旗は、緩やかにはためいている。地上近くを飛んでいたハルは、その旗の根本に静かに着地した。
イーストエリア第四地区の港町、通称「ポート・コルネル」は、商業区である東側と居住区である西側にはっきりと別れている。
まだ海と陸が互いに干渉を控えていた頃、この場所に住んでいた「コルネル」という一人の好奇心旺盛なマーメイドが陸の生物たちと交易をはじめたというのが町の名の由来である。
海と陸の交易という今までになかったチャンスに人は集まり、町を形成し、ついにはその立地を活かして他所のエリアとの船による貿易まで行うようになった。それから更に時は流れ、今ではすっかりイーストエリア最大の港町になっている。
だが、そんな事は一郵便配達員でしかないハルには関係の無い事である。
行き交う荷馬車の邪魔にならないよう、道の端っこに移動し、カバンの中から取り出した手紙の宛先を確認する。
商業区の住所が書かれたものが三十五枚、居住区の住所が書かれたものが八枚。
日頃からハルが担当している村々よりも、人の行き交いが多い港町の方が手紙の数は当然多い。
だが、ハルを愕然とさせたのは、単なる数が理由ではない。
カバンから取り出したポート・コルネルの地図に一度目を走らせてから、目の前に広がる実際の町並みに視線を彷徨わせる。
視界の中で整っているものは、ど真ん中を貫く荷馬車が通るための道だけ。
両脇を固めるのは、増築改築を繰り返した店や倉庫たち。間を縫う細い路地に一歩足を踏み入れれば、そこはもはや迷路の様相を呈している。
配達慣れした者ならばともかく、不慣れなよそ者ならば数度曲がっただけで迷子になるのは必須である。
「おのれ、ピーノめ……」
一切の忠告も無く駆り出した弟に思わず恨み言が漏れるが、仕事は仕事。投げ出すことはできない。
地図を片手に駆けずり回り、住人や通りすがりの船乗りたちに尋ね、商業区宛ての手紙を配り終わった頃には、ハルは既に数百通の手紙を配ったかのような疲労感を抱えていた。
担当エリアを決めて配達員を土地に「慣らす」というのは、こうした事態で時間を浪費しないためである。
慣れない海沿いの空気の中を走り回されて目も回ったが、居住区に集合住宅が多かったことは、救いだった。
八通の手紙の配達も、何も困るような事態は無く順調に進み、日暮れ前にして後はポストを確かめるだけ、という所まで至った。
ポート・コルネルのポストは、居住区と商業区の境にある。
潮風で傷まないようにと塗料を塗られたポストは、派手な黄色の姿で自己主張をしている。
目立つのはありがたいけどこの色はどうなんだろう、と思いながらも、ハルは制服のベルトに結び付けられた鍵でポストを開ける。
そこに入っていた手紙をカバンに移し替えると、ようやく一段落付いた、とポストに寄りかかった。
港町に届く手紙は多いが、港町から出される手紙も多い。便箋を折りたたんだだけのものや封筒に入ったもの、様々な種類の手紙を宛先別に仕分ける作業は想像しただけでうんざりするが、実際にそれを行うのは、ピーノたち事務員である。
ハルの顔に、似合わない悪意ある笑みが浮かぶ。わたしに大変な仕事を回した罰だ、せいぜい苦労するといい。
さて、そろそろ帰ろうかと空を見上げた所で、ハルの目は奇妙なものを捉えた。
泡である。
大きな泡が、空をふよふよと漂っている。しかも、中には何かが入っている。
よく分からないものには触れないほうが良いのではないか、という当たり前の抑止力は、子どもじみた好奇心の前では無力だった。
幾度も翼を羽ばたかせて垂直に飛び上がったハルは、空気の流れで揺れる泡をしばらく観察し、無害であると判断してから、躊躇うことなくつま先でつついた。
ぱちん、と小さな音を立てて割れた泡の中から、ひらひらと紙が舞う。ほとんど直感的に、ハルはそれを手紙だと理解した。
そして、「もしかして誰かが手紙を出そうとして」と考えが行き着いたときには、もう遅かった。
海の方から聞こえた、「あぁっ!」という声に見下ろせば、マーメイド種の少女がハルを見上げ、指差していた。
そこまでされてしまえば、ハルも理解してしまう。自分が、誰かの邪魔をしたことに。
「ご、ごめんなさい!」
謝罪と同時に、大きく旋回しつつ高度を落とし、舞い落ちる一枚の手紙を捕らえる。
そのまま、一度海上まで出てから、マーメイドの少女が腰掛けていた岩場の突端へと着地した。
「その、なんだろうって気になって……ごめんなさい、お手紙だとは思わなくて」
一度は落胆した表情を見せていたマーメイドの少女は、首を横に振った。その動きにつられて、僅かに濡れた桃色の長髪が尻尾のように揺れる。
「いいんです。私も、驚かせちゃってごめんなさい」
マーメイドは美声を持つものが多いが、少女も例に漏れず、澄んで綺麗な声をしていた。
見た目に相応しい、儚く美しく、しかし幼さが強く残る声に、ハルも少しだけ聞き惚れる。
「それに、今までも、誰にも届いてなかったみたいですから。今更一通くらい落ちても……」
「今までも?」
少女の言葉に、ハルは反射的に食いついていた。
「何回も、あの……泡のお手紙を出してたの?」
「はい。えっと、バブルメールって言うんです。昔、マーメイドに流行った遊びらしくて、魔法で作った泡にお手紙を入れて飛ばすんです。それを受け取った誰かがお返事をくれたらいいなって、変な遊びなんですけど……最近は、私くらいしかやってなくって」
「へぇ……全然知らなかった……」
感心しつつ、先程「バブルメール」として飛ばされた中身の便箋に目を落とす。
二つ折りに小さく畳まれた、何の変哲もない便箋。
だが、魔法に包んで飛ばしていたというだけで、それはハルの目には少しだけ特別な物として映った。
「わたし、お仕事で色んな所に手紙を届けてるんだけど、こういう風に届く手紙もあるんだね。なんか、いいなぁ」
それは、魔法の使えないハルらしい素直な感想だったが、それを聞いた少女は、浮かない顔で答える。
「どうなんでしょう。何通も飛ばしたんですけど、今まで一度も返事が来たことがなくって。もしかしたら、誰にも届いてないのかも……その辺で木に引っかかったり海に落ちてたり……」
少女の声は消え入り、表情は暗く、頬に張り付いた髪もどこか憂鬱そうに見えてしまう。
「だ、大丈夫だよ!ほら、知らない人にお返事書くのって緊張するだろうし、ちょっと時間かかってるだけだって!」
というハルの慰めにも、うつむいた顔は上がらない。
「……本当に、そうなんでしょうか」
「そうだよ、きっと!いや、絶対!」
初対面の名も知らない少女に対してであっても、ハルは「この子が悲しむのは嫌だ」という思いを抱いていた。
それは、他ならぬハルの姉らしい部分であり、子どもに好かれる理由でもあるのだが、本人はそんな自分の性質に気付いたことはない。
「そうだ!良い事思いついた!」
少々大仰に、ばさっと音を立てて翼を広げ、半ば強引に少女の視線を引く。
夕日は水平線の彼方に沈みつつある。ちゃんと慰めたいが、時間もない。
「あのね、わたし、ハルピュイア・ポストって言うところで働いてて……」
「知ってます。そのスカーフ、綺麗ですよね」
「うん、そうだよね……じゃなくて、だから、色んなお手紙を見る機会があるの。その中にあなた宛ての手紙があったら、すぐに持ってきてあげる!」
もしも、この場にピーノがいれば、ハルの提案を聞いて言い知れないほど苦々しい表情をしただろうが、少なくともハルは、これを「いい考えだ」と思っていた。
その思いを後押しするように、マーメイドの少女が「本当ですか?」と僅かに声色を明るくする。
「でも、ご迷惑じゃあ……」
「迷惑なんかじゃないよ!大丈夫!」
安請け合いに、根拠の無い励まし。この時のハルは、ピーノが言う所の「姉さんの悪い所」を存分に発揮していた。
だが、少女が「じゃあ、お願いします」と可憐な笑みを浮かべれば、それだけで、ハルは自分の行いは正しいと確信できていた。
「ああっ、もっと色々話したいけど……ごめんね、そろそろ帰らなきゃ!また来るね!」
用事は済んだとばかりにいそいそと飛び立つ用意をはじめたハルに、少女は「あっ」と声を上げる。
「あのっ、名前!サラです!私の名前!」
そう叫んだ頃には、既にハルは高く飛び上がってしまっていた。
夕焼けに身を染めながら頭上で大きく旋回したのは、返事代わりであるのか、単に飛ぶために必要な行為だったのか。海に暮らすマーメイドであるサラには、分からない。
ただ、「ハル・メイリア!」という名乗りとともにひらりひらりと落ちてきた一枚の羽根が、約束の証であるということだけは、理解できた。