一
青空を翔ける感覚は、ハル・メイリアが好きなものの一つである。
琥珀色の両翼で風を捉えて、軽く羽ばたく。それだけで、わたしはどこまでも飛んでいけるかも、なんて事まで考えてしまうほど気持ちよく空を飛べる。
大地を力強く駆けるハウンド種や、水中を優雅に泳ぎ回るマーメイド種に憧れを抱いたことが無いとは言わない。しかし、それでも、自分が空を飛べるハーピー種である事に微かな優越感を抱いているのは、確かであった。
暖かい風に春の訪れを感じながら、ハルは再び翼を翻す。肩から提げたカバンは落ちないように制服にボタンで留められており、首に巻いたスカーフだけが慌ただしくはためき続ける。
全国に支部を置く「ハルピュイア・ポスト」の配達員の証でもあるスカーフは、花から抽出された染料により、鮮やかな赤に染められている。その理由は「青と白が大半を占める空において、少しでも配達員が目立つように」という物なのだが、それとは関係なく、ハルはこの赤いスカーフはおしゃれだと気に入っていた。
そして、今日もまた、ハルの担当配達エリアの一つ、とある小さな町に住む子どもたちが、赤いスカーフを巻いたハルを見て、わいわいと広場に集まりつつあった。
「お手紙のおねえちゃんだ!」
真っ先に声を上げたのは、全身をふわふわとした毛皮で覆われた、ラビット種の少年だった。
頭の上に伸びた二本の耳は、遠くから聞こえる風切り音を誰よりも早く聞きつけてゆらゆらと揺れている。
彼が指差した事で、遊んでいた友人たち、ネコマタ種の少女やレトリバー種の少年も、皆一様にハルを見上げる。
「ほらほら、どいてくれないと降りられないよ!」
「お手紙だ、お手紙だ」と着地地点周辺に集まり始めた子どもたちを、ハルは徐々に高度を落としつつたしなめる。
その声はどこか楽しげで、群がってこられる事もまんざらではないという気配が見えた。
着陸場所を確保するために一度は距離を取った子どもたちは、ハルが着地して軽く翼を振ると、再びわっと群がってゆく。
わたしのお手紙は、ぼくのお手紙は、と自分宛ての、あるいは自分の家族宛ての手紙を求める声に、広場周辺に軒を構える民家や店からも何事かと大人たちが顔を出した。そして、「ああ、ハルちゃんか」と、ある者は出て来て、ある者は引っ込んでいく。
たちまち、広場は旅芸人でも来たかと見紛うばかりの賑わいを見せ始めた。
「はいはい、ちょっと待ってね。えっと……これは、パン屋のサリーさん宛で、これが、服屋さんの……」
本来ならば手紙を渡すためには家々を訪ねる必要があるのだが、すっかり「お手紙のおねえちゃん」として慕われるようになったハルの場合、彼女が宛先を口にするだけで、ほとんどの手紙は本人のもとへ渡っていく。
実際に、今日の配達物である八通の手紙も、ハルは広場から動くことなく全て配り終えてしまった。
「……これで、今日はおしまいかな」
肩から斜めに下げていた配達用カバンの中身がペンとメモ帳だけになっていることを確かめて、ハルはつぶやく。
それはほとんど無意識に出た、自分が配達を終えたと再確認するためだけの言葉でしかなかったが、未だ周囲を取り囲む子どもたちには、少々違う意味合いを伴って届いていた。
「じゃあ、遊ぼ!」
「そうだよ、お姉ちゃんも一緒に遊ぼう!」
「え、ええ?待って、帰って報告しなきゃ……」
ハルピュイア・ポストの配達員たちは、手紙を届ければそのまま直帰できるわけではない。配達が完了しましたという報告までおこなって、ようやくその日の仕事は終わりだと認められる。
だが、子どもたちにそんな事情が分かるはずもなく、「お手紙を配り終わった」は「お仕事もおしまい」であり、「つまりは一緒に遊べる」という結論に至る。
そして、ハルの事を知る大人たちも、助け舟を出しはしない。
「……分かった。じゃあ、ちょっとだけね?」
そう言ってカバンを背負い直すハルを、微笑ましく見るだけである。
ボール遊びにはじまり、鬼ごっこ、かくれんぼを経て、ようやく満足した子どもたちからハルが解放された頃には、既に時は日暮れを迎えようとしていた。
子どもたちに手を振り返す時間すら惜しみ、落ちていく日を追いかけるように、ハルは空を翔ける。
ばさ、と大きく翼を羽ばたかせると、琥珀色の羽が一本抜け落ち、ひらひらと後に残された。その羽を視界の端に捉え、「次の休みには翼用のオイルでも買いに行こうか」と考えながらも、ハルは速度を上げ続ける。
耳に入るものは自らが立てる風切り音のみであり、目に入るものは自分が通る空の道だけ。地上の街道を急ぐ荷馬車の御者がハルの影にぎょっとして見上げたことなど、気にも留めない。
「子どもたちと遊んでいたら遅れました」などと言えば、生真面目な事務員から白い目を向けられるのは間違いない。
推奨されている飛行ルートから外れ、鬱蒼とした森の上に大きく舞い上がる。近付く夜を恐れていち早く巣に戻ろうとしていた鳥たちが、自分たちよりも遥かに大きな翼の影に驚き、文句を言うかのように一斉に飛び立った。
「ああっ、ごめんね!急いでるの!」
翼を持つものとしての仲間意識から、ハルは謝罪を口にしたものの、ただの鳥にハーピーの言葉が通じるはずもない。無論、驚かされたことに鳥たちが不満を口にしたというのも、ハルの想像である。
森を越えれば、すぐに一つの町が見える。
既にほとんどが店仕舞いを終えている市場の露店や、窓から明かりが漏れている民家を通り過ぎ、ハルが目指すのは、町の奥にひっそりと佇むレンガ造りの建物。
遠目にも目立つ、凸状のその建物こそが、ハルの所属する「ハルピュイア・ポスト」のイーストエリア支部事務所である。
急げ急げと自分を急かしつつ、ハルは一度大きく上昇してそこが無人であると確かめてから、事務所のバルコニー兼配達員発着場に急降下する。
翼を畳み、一本の槍のごとく、風の抵抗を最小限におさえる。括った青い髪が乱れるのも、気にしてはいられない。自身の動体視力を信じ、身を翻すのは寸前まで待つ。どうしてただの配達の報告だけでこんなにギリギリの速さ比べを、という冷静な疑問が脳裏によぎるが、よぎった勢いそのままに思考の外へと放り出す。
このままでは茶色いレンガの床に突き刺さるのではないか、という所で、ばっ、と音を立てて翼を開く。背丈よりも幅のある翼いっぱいに抵抗を受けると、ハヤブサもかくやといった速度はあっという間に緩み、両足をレンガに付ける頃には、数歩勢い余って歩く程度の減速に成功していた。
だが、着地に成功したからと言って、そこで終わりではない。
バルコニーを駆け抜け、木の押し戸を勢い良く開き、建物内へと突入し、下階への階段は思い切って飛び降りる……が、勢い任せの行動を立て続けにしていた報いは、そのタイミングでやってきた。
飛び降りたハルと、通路に出てきた少年が「あっ」と声をあげたのは、ほぼ同時だった。
「それで、子どもたちと遊んでいたら帰りが遅くなった、と」
「……はい」
事務所にある自分のデスクに戻ったハルの双子の弟、ピーノ・メイリアは、椅子に座って縮こまっているハルに対して、小さくため息を付いた。額には、つい先程姉と衝突事故を起こした痕が赤く残っている。首から提げた紙の社員証は、ピーノが「ハルピュイア・ポスト」の事務員だという証である。
ピーノとハルは顔立ちや翼の色合いこそそっくりだが、その性格は対照的だった
それは、昔から奔放であった姉と、ブレーキ役を務めてきた弟という関係性によって培われた性格であるのだが、原因であるハルは「どうして双子なのにこんなに違うのだろう」と首をかしげるばかりで、自らを省みることはない。
ピーノもそれを知っているために、「自分の姉はこういう人なのだ」と半ば諦めている部分がある。
「姉さん……じゃなくて、ハルさんが子どもに好かれるのは知ってるから、まあ仕方ない部分もあるでしょう。断って子どもたちを悲しませたくないというのは姉さんの悪い所でもあるけど良い所でもありますし、僕も、そこについて色々言うのは既に飽きましたし。でも、所内で階段を飛び降りないでください。僕だったからまだしも、所長にでもぶつかってたら今頃大目玉ですよ」
「……はい」
ピーノのまだ幼さすら残る顔立ちで、どれだけ機嫌を損ねた表情を作ろうとも、そこには威圧感など欠片も存在しない。事実、まだ事務所内に残っている同僚たちは、ハルに対する小言を連ねるピーノに対して少しも腹を立てたりはせず、「ああ、またやってるな」くらいにしか思っていない。
だが、一応は姉であるハルにとっては、弟に叱られるという状態はこの上ない情けなさを感じさせていた。
しょんぼりと視線を落とし、心なしか琥珀色の翼もくすんでいるように見える。
「うん、そう、うん、わたしが悪かったから、ほら、わたしもそろそろ反省したし、報告も済んだからこの辺で許してあげても……」
「それは自分で言うセリフじゃなくて、助け舟を出す人のセリフだと思いますよ」
「じゃあほら、今日の晩御飯、ピーノの好きなかぼちゃシチューにしてあげるから……」
「えっ本当に!?……じゃなくて、そういう事を言うのは、仕事中はやめてください」
好きな食べ物に釣られるという失態を誤魔化すために、ピーノはわざとらしい咳払いを一つ。しかし、迫力のない可愛らしい咳払いは、職場の同僚たちがくすくすと笑うのを止めるには至らなかった。思いつきの適当な反撃が上手く行ったと理解したハルも、気を取り直して「牛乳あったかなあ」と自宅の台所に思いを馳せてしまっている。
すっかり自分のペースを失ってしまったピーノは「とにかく」と少しだけ語調を強めてはみるものの、それもやはり効果は無い。
「報告が終わったなら帰りましょう。僕はもう今日の仕事終わってるので」
「ピーノ、そんなにシチューが楽しみなんだ?」
「違います!」
双子の微妙にすれ違うやり取りに、同僚たちは顔を背けて笑いをこらえる。しかも、それに気付いているのはピーノだけで、ハルはと言えば「じゃあ着替えてこよう」と何ら気にすることなく更衣室へと去っていくだけ。
後に残されたピーノは、姉が本来感じるはずだった羞恥の分まで、大きなため息を一つ。ちらと同僚たちを盗み見れば、向けられている視線は明らかに微笑ましいなあとでも言いたげな温かみに満ちている。それがまた、ピーノを悩ませる。
ピーノ・メイリア、15歳。思春期真っ只中である彼の目下の悩みは、「いつまで経っても同僚たちが自分を大人扱いしてくれない」というものであった。