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20160829公開
第10章-第4話
マキこと三上万紀は、“わたし”の大切な親友だ。
いや、それ以上と言って良い。
初めて会った時に感じた気持ちは今も忘れていない。
何故なら、兄弟以外で初めて会った同類だった上に、ソフトボールの技術も凄かったから。
そのマキは上機嫌で、わたしの右斜めを走っていた。
時々、下級生に注意する口調からも機嫌の良さが伺えた。
まあ、五打席も勝負してもらえて、全部ホームランを打てば、誰だって機嫌は良くなる。
え、わたし? 一応五打数四安打・・・ 打点は無し。
マキがことごとく走者を還したから仕方ない。
あくまでもわたしは、マキが勝負してもらえない時の最後の切り札なのだから。
マキは、あの夜以降も表面上は変わっていなかった。
多分、実感が湧かない事も原因の一つだろうが、彼女の性質が一番の原因だろう。
マキは時として鈍感と思うほど、ソフトボール以外の事には執着しない。
自分の命さえも、あっさりと割り切ってみせる。
花子に声を掛けた日の1週間前に、自分の余命が1ヶ月だと知ったと本人から聞かされた時の驚きは、言葉に出来ない。
全く、普段と変わらなかったから。
本人はその間、悩んでいたと言っていたが・・・・・
ちらりとマキを見た後で、前を向いた時に、先頭を走っていた1年生の子達がおじさんとぶつかるのを見えた。
運が悪い事に、ぶつかった自転車は、練習試合をした学校からの途中でブレーキが壊れたから仕方なく二人乗りをしていた子達だった。
第10章-第5話
「申し訳有りません! お怪我は無いですか?」
マキが真っ先に飛んで行って、酔っ払いに謝りだした。
こういう時のマキは主将としての仕事をわきまえている。
「ああぁぁぁあ? おけがも何も、身体中が痛いじゃないか! どうしてくれるんだ?」
ろれつが回っていない、粘っこい声が聞こえた。
夜も7時半近い。きっとどこか立ち飲み屋かどこかで、結構飲んだのだろう。典型的な酔っ払いだった(といっても、わたしもそれ程詳しくは無い。家族にここまで酔うほどの者が居ないから)。
なんせ、ネクタイが緩みまくっている。緩めすぎてネックレスの様だ。
「だいたい、我が物顔で道を走りやがって・・・・・・」
何かを言おうとしたのだろうが、言葉が出てこない様だった。
二十秒程して、やっと言葉が出た。
完全に酔っている。
「ど、どんなしつけを、受けてんだ? あ?」
マキがもう一度謝った。
「ええ、仰りたい事は分かります。申し訳ございませんでした。とにかく、お怪我をされていれば、お医者さんにお連れします。大丈夫ですか?」
「だから、身体中が痛いって言ってるだろ? なに聞いてんだ、お前は? 他人の話を聞けってんだ・・・ぁあ?」
酔っ払いにぶつかった二人の1年生が、倒れた時の姿勢からやっと立ち上がった。わたしはその動作で怪我をした様子が無い事を確認していた。
彼女達の目を見れば、下手に起き上がると酔っ払いを刺激すると考えていた様だ。
だが、消し去れない感情が浮かんでいた。
取り返しの付かない失敗をしてしまったという考えが手に取るように分かった。
敬愛するマキに向けられている罵倒の原因は自分達の不注意から発生していた。
なんとか場を取りなそうとマキの加勢に動こうとした時に、二人が酔っ払いに頭を下げた。
「すみませんでした!」
「謝って、すめば、けーさつはいらねーんだよ!」
人生で初めて生で聞いた『死語』だった。
酔っ払いの顔は、『どうだ!? いい事を言っただろ?』という表情が浮かんでいた。
マキの心情を考えると、いたたまれなくなってきた。
彼女が地球上で一番嫌いなもの、それは酔っ払いだったからだ。
第10章-第6話
マキの父親は、もうこの世に居ない。
酔っ払い同士の下らない喧嘩の巻き添えで命を落としたのだ。
その夜、仕事帰りに同僚と飲んだ帰り、マキの父親は酔っ払い同士の喧嘩の仲裁に入ったそうだ。
普段はそんな事をする様な人間ではなかったらしい。酔ったせいで気が大きくなっていたのだろう。
そして、気が付けば3人とも死亡すると言う信じられない結末を迎えた。幼いマキを残して・・・
勿論、わたしがその現場を目撃したわけでは無い。
全ては花子から聞いた話だ。
彼女はわたしとは比較にならない能力を持っている。
その彼女が万紀を知ろうとした時期に分かった事を後で聞いたのだ。
そう言えば、その直後にマキが珍しく動揺してわたしに相談を持ち掛けていた。
ま、100件ものメールを一時に受ければ、誰でも動揺する筈。
花子から聞いた、万紀の過去に関する話はわたしも知らない事も多かったが、それだけに、一種のカリスマと言っても良いマキがあのように自分に自信を持てない性格になったのかという謎も解き明かした。
彼女は罪の意識を心の奥底に抱えていた。
『自分は生まれてはいけなかった』という思いは、母親が死んだ原因が自分の出産だという事実から始まっていた。
第10章-第7話
マキを生んだ、実の母親もこの世に居ない。
彼女を生んだ時の無理が祟って、持病が悪化した挙句に3年後に死亡していた。
花子の調査でも理由が分らなかったが、マキは何故か、その事を知っていた。
『自分さえ産まなければ、母親は死ななかったのではないか?』という意識は確実に彼女を蝕んでいた。
そんなマキにとって、母親との唯一つの接点がソフトボールだった。
彼女が持つ、唯一つの宝物は1枚の写真だった。
日焼けして、満面の笑顔を浮かべた中学生時代の母親の写真。
そこに映っていた顔は、マキが決して見せる事の無い、屈託の無い笑顔だった。
きっとクラブ活動の最中に撮られたであろう写真に写っていた女子中学生達は、全員がソフトボール部らしきユニフォームを着ていた。
その写真に写っている母親に近付きたいが為に、マキはソフトボールを始めた。
彼女にとって、ソフトボールは球技では無く、母親の魂に近づく為の、祈りにも似た修行そのものであった。
第10章-第8話
「どうしたんですか?」
自転車を押しながらやって来る人影を見た時に、思わず助かったと思ったのは事実だ。
だが、残念ながら、事態は好転しなかった。
「ほっといてくれ。こいつらがぶつかってきたから、しつけをしている最中なんだ。それとも、こいつらを全員逮捕してくれるのか?」
「こんなところで立ち話もなんですから、交番でお伺いしますよ?」
「分らん奴だな。こいつらを逮捕するなら、交番でもどこでも付いて行くぞ。逮捕すると約束しろ」
もう、言っている事が滅茶苦茶だった。
「それは約束出来ません。ですが、交番で詳しくお話しをお伺いすれば、どちらが悪いのかを判断出来ると思いますよ?」
「お前じゃ話にならん。あっちに行っていろ」
街灯の明りの中で、若い警官がちょっと途方に暮れていた。
「だいたい、他人にぶつかっておいて、お前らの謝り方に気持ちがこもってないんだ・・・ 土下座しろ。全員で土下座しろ。それ位は当たり前だろ? おら、早くしろ」
さすがにわたし達の忍耐も限界だった。
門限の時間も近くなっているのに・・・・・
酔っ払いは、わたしが何気無く腕時計を見た瞬間を見逃さなかった。
「おい、人が人生の教訓を教えているのに、何、時計を見てるんだ? 舐めているのか?」
さすがに参った。これは確実に門限を越えそうだ。
「我が名において、高原正宣の人生に介入する事を宣言する。彼の者にあらゆる邪魔を下せ」
わたしの右斜め前に居る花子が『唱え』始めた。
マキの許可も得ずに『力』を使うなんて、余程腹が立っているのだろう。
だが、酔っ払いは、その小さな声に気付いた。
大きな声で怒鳴ると、いきなり花子に殴り掛かった。
わたしはその後に展開された光景を、一生忘れる事は出来ないだろう。
第10章-第9話
マキの動きは滑らかだった。ごく自然に自分の身体を花子の前に持って行っていた。
マキの神気が急激に増大していた。
酔っ払いの大振りな右パンチがマキの左頬に入り、顔が跳ねた。
凄い。
全員が呆然としている。
いや、本当に凄い。たまたま角度が良かったせいで見えたが、マキは殴られる寸前で右手を左頬の前に入れていた。
あれでは衝撃はかなり軽減されただろう。
彼女はわざと顔面で受け止めた様に見せ掛けたのだ。
その結果の効果は絶大だった。
弾かれた様に若い警官が酔っ払いに組み付いた。
「あんた、自分が何をしたのか、分っているのか? 傷害事件を起こしたんだぞ!」
マキの神気が更に増大していた。
わたしと花子を除くみんながマキを取り囲んだ。
花子を見た。
彼女の視線が険しくなっていた。
もう一度、マキに視線を戻す。
ほんのわずかな時間でマキの神気は更に増えていた。
笑顔でわたしを見ながら、彼女は言った。
「久美、門限の時間だよ(^^)」
そして、彼女の姿が見えなくなった・・・・・
第10章-第10話
その場に居た全員が反応出来なかった。
いや、事態そのものを認識しきれなかった・・・と、いうべきだろう。
目の前に居る人間が、一瞬で消えると言う現象は、人類(いや生物そのものか?)の歴史でもなかった筈だ。反応が出来なくても、おかしくは無い。
冷静に考える事も出来ず、本当に消えたかも確認せず、呆然とするしか無いというのは、どこか『変』だと感じている自分がわたしの中に居た。
永遠とも言える時間が経った後で、花子がぽつりと呟いた。
「周囲には居ない」
彼女がそう言うならば、少なくとも半径1キロにはマキを認識している者が居ないという事だ。
「感じない? 神気が集まっているわ」
『何が? どこに?』
やっと、頭が働きだした。
とんでもない事に気付いたと同時に、わたしは叫んでいた。
「みんな、下がって。そこは危険よ!」
見える範囲全ての地面全てに、極々微かな神気を感じる。
そして、マキが消えた地点にどんどん吸い寄せられていく。
こんな事は初めてだ。
自然とみんながわたし達二人の周りに集まってきた。
「田中先輩、何が起こっているんですか?」
酔っ払いにぶつかった自転車の荷台に乗っていた子が質問してきた。
『もし、この場に邑井が居たら、どうなっていただろう?』
ふと、関係無い事が頭に浮かぶが、自然と言葉が出ていた。
「分らない。分らないけど、とにかく、もう少し離れていた方がよさそう」
普段なら、もっと優しい口調でしゃべって上げられるが、わたしも余裕が無かった。
わたしの言葉に反応するように、全員が後ろに下がった時に、神気の流れが一気に速まった。
わたしのケイタイがいきなり鳴った。全員が短い悲鳴を上げた。
恥ずかしながら、わたしもだった。
慌てて出る。
『何が起こっているんですか? 地面全体、神気が流れているのを知っているんでしょ? 何か知っているんでしょ?』
邑井まりこだ。
『ケイタイの番号を教えたっけ?』
また、思考が脱線する。
「そっちも? そう・・・ マキが目の前で消えたの。ええ、そう、目の前でね。どうやら、とんでもない事が起こりそうよ。え? あなたのところからは遠いわよ」
花子が視線をマキが消えたところに据えたまま、訊いてきた。
「来るって?」
「ええ。父親に送ってもらうって」
「そう・・・ 間に合いそうも無いけどね」
花子が再び訊いてきた。
「どうする? マキの母親に連絡する?」
わたしはちょっと考えてから答えた。
「わたしから連絡するわ。でも、花子、あなたは冷静ね」
「初めて会った時から、何か起こると思っていたから」
わたしはマキの母親の電話番号を呼び出しながら、思わず呟いた。
「あなたが居てくれて助かったわ。ありがとう」
「それは、こっちのセリフよ。もし私一人なら、取り乱していたわ」
マキの母親は電話口の向こうで息を飲んだ後で、静かに訊いてきた。
「どこなの?」
遠くでパトカーが鳴らすサイレンの音がこだました。
それまで人類が築いてきた『世界』が揺らいだ夜が、始まったばかりだった。
貴重なお時間をこの様な粗作に割いて頂き、誠に有難う御座います m(_ _)m