第6話 崇拝
その日は雨が降っていたと風間は語った。当たり前のような日々を惰性的に過ごす日々の中、あれは幸運であり不幸であり、悲劇であり運命であったと、風間は言った。
それは一日中雨が降っていて、朝から降り続けた雨は夜になっても止まず、さらに雷も伴ったそれは彼が乗るはずだった帰りの電車を止めてしまった。悪天候で電車が止まることは珍しくない。他の乗客がすぐに別ルートへ移動する中、風間も駅から出てバスに乗り換えた。いつもより時間のかかる帰宅となった。
風間の住んでいたアパートはバス停から少し離れた所にあり、夕食の買い物の必要もあった為最寄りのバス停から一つ前のバス停で降りた。もし買い物に行かなければ、電車が止まって帰宅が遅くならなければ、あの出来事とは遭遇しなかっただろうと感慨しく語る彼の目は悲観に暮れるものではなかった。むしろ恍惚とした、頭の中に蘇る記憶に浸るような、そんな顔だった。
雨は激しくはなかったが弱くもなかった。時間が遅かったこともあり住宅街に彼以外の姿は見あたらなかった。点々と立つ外灯の灯りを頼りに歩く彼の耳には雨の音と水を蹴る自身の足音以外何もしなかった。いつもは外灯に群がっている餓もその日はいなかった。そういえば蝶や蛾は雨の日は飛ばないのだと何処かで聞いたことがあるとぼんやり思い出していた時だった。彼の視界をひらりと何かが横切ったのは。花びらかと思ったが、冬に咲くような花はこの辺りにはない。ならば虫か、こんな雨の日に飛ぶ粋狂な虫がいるのだろうか。不思議に思いその何かを目で追いかけてみた。
それは虫だった。それも雨の日に飛ぶはずがないとついさっき思い当たったものだった。掌に収まる程度の小さな身体を支え四枚の羽で飛び回る。蛾ではない、もっと美しい羽を持った生き物だ。
それは蝶だった。黒い羽は闇夜に紛れてしまえば見つからないかもしれない。しかしまるで夜空に浮かぶ星のような文様を持つそれは美しかった。外灯の下見つけたそれはひらひらと舞うように飛び回ると、再び闇夜に帰って行った。その姿に何故か惹きつけられ、思わず追いかけてしまった。蝶が消えた先は住宅街の中でもさらに暗い、路地裏へと続く細道だった。普段なら危険と感じ近づかないはずなのに、その時だけは何のためらいもなく外灯の灯りすら届かない闇へと消えていった蝶を追いかけていった。
蝶は居た。だがそれは一匹だけではなかった。二匹、三匹。十匹、二十匹。雨の中ダンスをするかのように飛び回る蝶たちは数えるのが面倒な程居た。それは宙を舞うものと地面に横たわる何かに群がるものに分かれていた。蝶に覆い尽くされたそれは最初何なのかすら分からない、黒い物体だった。だが蝶の群れからはみ出たそれは、人の手と同じ形をしていた。自分と同じ生き物だったものがそこに横たわり、蝶に喰われている。それは恐ろしいはずの光景だ。だが何故だろう、そうは思わなかった。蝶はまるで蜜を吸うかのようにそれに群がっている。何十匹という蝶が群がり、黒い花が咲いたかのようにひしめき合っている。
そしてそれを眺めている人間が風間以外に一人居た。きっと風間が来るより前から彼はそこに居たのだろう。だがそんな気配を感じさせないほど、彼はこの風景に溶け込んでいた。
美しかった。異常としか言い様のない空間、そこにありながら、いやだからこそその美しさは際だっていた。光が届かない夜闇の中であっても、彼の美しさは色あせなかった。わずかな光では顔さえも見えない。分かるのは少し変わった体型の若い男性であるということだけ。黒い蝶が飛び交う中、物言わぬ人間を見下ろしている姿はまるでその場を支配する支配者のような風格すらあった。蝶たちは支配者の周囲を称えるように飛び回る。雨に打たれようと、その薄い羽で水をはじき飛ばし、鱗粉のように水滴が飛び散る。風間はなぜか分からないがその光景に魅了され立ち尽くした。青年はしばらく物言わぬ肉体を見下ろし眺めていたが、ふと風間の存在に気づきこちらを振り返った。
初めて眼が合った瞬間、衝撃が走った。初め以上に強烈な電撃のような衝撃が風間の体中を走り巡り、脳から始まった電撃は再び脳へと届き二度目の衝撃を受ける。まるで恋をしたかのようだったと風間は言った。いや、それは今まで体験してきた恋とは違う。誰かに強く惹かれ永遠と眺めていたいと思ったことも、その光景が永遠であれと願うことも、今までもこの先もありはしない。そんな運命的な出会いだったと風間は恍惚とした顔で語った。
青年は風間を見ても何も言わなかった。風間もまた声をかけられず、一歩も動くことが出来なかった。声をかけてしまえばこの夢のような空間はなくなってしまい青年は消えてしまうように思えたからだ。
雨の音だけが響くその時間がどれだけの長さだったかは分からない。十分以上そうしていたかもしれないし、三分もかかってないのかもしれない。青年は再度物言わぬ骸を見下ろし、また風間を一瞥すると蝶たちを引き連れ闇の奥へと消えていった。蝶は一匹も残らず姿を消し、後には立ち尽くす風間と肉の一切れまでむさぼられた骸が残されているだけだった。
「あの後すぐ警察がやってきて私が会ったのがアハトであるということを知りました。あの日の光景を忘れられなかった私は仕事を辞めアハトの事を片っ端から調べ上げました。それを手伝ってくれる同志が現れ、その活動がやがて今の常世教団となったのです」
風間はすべて語ったとすがすがしい顔で物語を終える。俺は彼の話からいろいろと考察はしたがそれを口に出すことはしなかった。一般人に話して良い領分の話ではないものもあるからだ。
「その後、そのアハトと会ったことは?」
「いえ、残念ながら。教団を立ち上げた後も願わくばと思っているのですが、なかなかうまくはいきません。そもそもアハトに会ったのはあの一度きりなのです」
風間は心底残念そうな顔を浮かべていたが、それは当然のことだ。アハトは予備軍でさえ国の監視下にあり、詳しい情報が漏れぬよう厳重に管理されている。アハトが発現することをすべて予測することは難しいが、国民はすべてアハトになる可能性を調べるための検査が義務づけられている。その検査で陽性とでたものはまだアハトになっていなくとも監視下におかれ、いずれは隔離される。一体誰がアハト予備軍なのかは一般には知れ渡っていない。一部ではそれをネタに差別やいじめ問題なども起こっており問題視されているが、その多くがアハトの実態を知らず人を見下すための建前にしているだけだ。
アハトと関わるべきではない。それが平和に暮らすための鉄則だ。だが、今の世界は非日常と隣り合わせにある。いつ隣人が、家族が、アハトとなるかもしれないのだ。アハトは不幸の元凶だ。幸福の対象などではない。そう口に出してしまいたかったが今は言うべきではないだろう。
「アハトのことを調べるほどに彼らが人智を超えた存在であると確信しました。しかし同時に彼らは我々と密接な関係にある。だからこそ手の届かない存在ではない。私はね、アハトを目指すと同時になぜ彼らは存在するのか、それを考えているのですよ」
「なぜ存在するか?」
「ええ、一体どれだけの昔から存在するのかも分からないアハト。元は人間であり獣であり我々と何一つ変わらない形で生まれてきた彼らがなぜアハトとなるのか。その意味とは何なのか。私は研究者ではありませんし詳しいことは分からないままですが、アハトとなることが人生の幸福、その終着点ではないか。正しい形が彼らではないかと思うようになりました」
「それは」
「もちろん、これは私の持論です。否定していただいても構いません。常世教団はそんな私の理想に賛同してくれる者たちが集まって出来た。彼らの多くは傷つき、絶望し、最後の希望を託してここまでやって来た。ならば彼らの願いを叶える為アハトへ至る道を模索することが私の役目です」
風間は俺たちの視線としっかり合わせそう言い切った。この人はただの盲信した信者でも神を自負する自信過剰な人間とも違う。だからこそ人々は彼らを慕い、教団は大きくなっていったのだろう。信者たちの風間への信仰の理由が分かった気がした。アハトなどろくなものではない。それは間違いない。だが彼らの信仰を否定してしまうことには戸惑ってしまう。子供にサンタクロースなどいないのだと言ってしまうことに似ている。サンタクロースを信じる子供は信じている間は幸せを感じている。年に一度しかないプレゼント、それを与えてくれるサンタの存在は子供にとって幸福の形だ。その幸福な夢は一度否定してしまえば消えてしまい二度と信じることはない幻のようなものだけど。
風間たちにとってもそれは夢なのかもしれない。生という眠りから覚めるまでしか見ることの出来ない夢。死んでしまえば、アハトになってしまえば二度と見ることの出来ない夢。夢は叶わない内が一番綺麗なのだ。
だからこそ俺がこれから行おうとしていることに罪悪感を感じてしまう。願わくば彼らが純粋な信者であることを祈るばかりだ。
交流会終了まであと一時間、にも関わらずたいした成果は挙げられていない。それはむしろ喜ばしいことのはずだ。何も出てこないということは後ろめたいことが何もないということに他ならない。にも関わらず俺の不安と疑念が晴れることはなかった。 綾小路とはあの後すぐに別れた。彼女は何か考え込んでいるような顔をしていたが、それが何なのかを話すことはなかった。彼女と獅童東という少年の存在がこの教団の疑惑を俺の中で大きくしていることは間違いない。彼らが何者で何の目的で教団を調べているのか。それすら分からないまま調査を終えてしまうことに不安をぬぐいきれない。
教主である風間や信者たちの信仰は本物だろう。アハトという未知の存在に魅了され救いを求める人々。その信仰心は純粋であり邪な思惑は感じられない。その信仰の対象がアハトであるということ以外はむしろ肯定的に捉えても良い。ただ彼らの信仰を肯定できないのは単純に俺個人の価値観だ。だがきっと大きく間違ってはいないはずと確証している。アハトに関わるべきではない。日常を謳歌出来るのならそんなものに縋るべきではない。ただ日常を失ってしまった人々にとってアハトは素晴らしいものに見えてしまうのかもしれない。
とにかくこのままで終わってはいけないと俺の感が言っている。ただこれ以上出来る事が見つからない。やはりもう一度獅童と話をするべきだろうか。だがあれ以来彼の姿は見ていない。もちろん綾小路もだ。他人頼りのような気がするが、それでも彼ら以外にアテはなく、その姿を探してはただ無意味に時間を浪費するだけだった。あの隠し部屋以外に怪しい場所は見つからず、幹部のみが入れるスペースは近づくことも難しかった。
わずかな期待を抱きつつ割り当てられた部屋へと戻った。この後最後のレクリエーションがありそれで交流会は終了となる。もし本当にこの教団に何らかの秘密がありそれが人に害するものであったとすれば、これがそれを止める最後のチャンスとなるかもしれない。そう思えば多少の恥も捨てられる覚悟となる。下手に出ても情報を手に入れなければならない。
だが俺のそんな覚悟もむなしく、機会すら与えられなかった。戻った部屋には誰もおらず、がらんどうの部屋がいつもより広くすら感じられた。人の気配などあるはずもなく、あるのは無個性な家具と主に置いて行かれた荷物だけだった。
「やっぱり駄目か…」
予想していたことではあるがやはりショックは隠せない。ため息と共に漏れ出た落胆の言葉は俺が一人であることをさらに実感させた。これからどうするか、為す術もない俺はごろりとベッドに転がった。木製の天井に刻まれている節目を一つ一つ数えてみるというばかばかしい程無駄な時間つぶしをしている自分自身に我ながら呆れるばかりだ。横になったものだからか急速に眠気が襲いかかってきた。自分で思っていた以上に疲れが肉体・精神共にたまっていたのかもしれない。もうこのまま身を任せて眠ってしまってもいいのではないかとすべてを放棄しようとする自分を使命感が必死に奮い立たせようとする。眠ってはならないと何度も瞬きを繰り返し、身体を起こそうとする。だがその眠気はあらがおうとする意思をすべて押し潰さんというばかりに襲いかかってくる。身体はベッドに縛り付けられたかのように動かず、重いまぶたが光を遮るように落ちていく。
この眠気はさすがに異常ではないかと気づいたときにはもう遅い。ぼやける視界の端で扉が開くのが見えた。数人の人間が部屋に入ってくる気配を感じていたが、もはや指一本動かすことも出来ず、俺の意識は暗闇に引きずり込まれていった。
薄れていく意識の中で、獅童の忠告を思い出す。まったく役には立っていなかったが、それは己のうかつさから来たものだ。
「本当にお前は馬鹿だな」
そう言う獅童の声が聞こえた気がした。まったくだ。