第5話 教主
獅堂が立ち去った後、残されたのは俺と綾小路の二人だけ。もちろん猫の姿など何処にもない。そういえばあの猫は何処へ行ってしまったのだろうか。
気づくと綾小路がもじもじと自らの手をいじりながら俺の方を申し訳なさそうに見ていた。そう言えば先ほど俺は彼女にずいぶんときつく責め立ててしまったのだった。今更二人きりにされては彼女も居心地が悪いことだろう。
彼女への疑念が解けたわけではない。だが今はそれを追求している場合でもない。獅堂との協定が消える可能性もある。いったんその問題については保留にしておく事として、今は俺の方から謝るべきだ。そう思ったのだが、
「五木さん、渚一樹さんというんですね」
意外にも先に声をかけてきたのは綾小路の方だった。正直言っていかにも内気そうな彼女の方から声をかけられるとは思っていなかった。だがここでそれを口にしても空気が悪くなるだけだろう。
「ああ、五木は調査の時だけ使う偽名だから」
「もしかしてカズキは一つの樹でカズキですか?」
「ああ…」
「やっぱり!」
綾小路は自分の予想が当たったことに嬉しそうだが俺としてはあまり楽しい話題ではない。五木という偽名は俺の名前の呼び方を変えたものであり、子供の時から何度も読み間違えられた呼称でもある。せめて「和樹」や「一輝」などにしてくれたら良かったのにと何度も思い名前を付けた親を呪った。おかげで幼少の頃のあだ名は「イツキ」だ。とは言え、このどう見ても温室育ちのお嬢様にそんなことを説明しても通じないかもしれないので適当に相打ちを打っておく。それにせっかく彼女の方から悪くなった空気を改善しようと努めてくれているのだ。ここでそれを拒絶するのはあまりにも大人げない。獅堂に言われたからではないが、やはり女の子を傷つけるのは好きじゃない。
しかし改めて考えてみると綾小路夏音と獅童東という二人はどういった関係なのだろうか。歳は近そうだがタイプがまるで違う。今時の若者といった風の獅童といかにもお嬢様という雰囲気の綾小路。同じ学校に通っているとも思えないし、そもそも仕事でこんなところに来ている人間が普通に学校に通っているのも想像がつかない。アハト関係の仕事には年齢を問わないものもあるが、高校生くらいの若者が関わるような仕事ではない。そもそも俺の経験から言わせればアハトに関わろうとする人間はどこか普通とずれている。今の部署に配属になって一年と経たないがそれでもそう結論づけるほどアハト関係者は常人の枠を逸脱している者が多い。結局彼らの多くはそれ以外の道を見つけられない人種なのだ。この二人もそういった人種なのかもしれない。少なくとも獅童の方は既に普通とは違うと感じられる。あんな眼、普通に生きてきた若者が出来るものではない。
この話はここまでにして、とにかく仕事を進めよう。今俺たちがいるのは怪しげな教団の怪しげな施設で、さらに隠し扉の向こうに隠されていた怪しげな地下室だ。ここに何もないというのはあり得ないだろう。わざわざ隠し部屋など用意しているのだ、ここに何も隠していなければ何処に隠すというのだ。
「とにかく、俺はこのまま奥に進むつもりだが、君も行くのかい?」
「はい、東さんに頼まれましたから」
明らかにここが一番怪しいのだが、そんなところを少女一人に任せてあの少年は一体何処に向かったというのだろうか。ただその質問を彼女にしたところでまともな答えが返ってくるとは思えない。はぐらかされるか本当に何も知らないかだろう。
「では一緒に行こうか」
「はい」
自分の仕事とやらを隠すつもりもないらしい。獅堂の方が本命でこちらにはたいしたものがないと判断して彼女に任せたのかもしれない。積極的にこちらを妨害してこない以上、敵ではないと判断してきたが、果たしてその判断が正しかったのか、未だに迷い続けている。だがここで判断しなければ先には進めないだろう。もう時間はないのだ。
今俺たちがいる隠し部屋は階段がある以外特に何もない殺風景な部屋だ。あるのは奥に続く一つの扉のみ。この先に何があるのか、もしくは誰かと鉢合わせにならないとも限らないが、行くしかないだろう。
扉に耳を当て中の音を聞き取ろうとしたが何も聞こえない。分厚い金属の扉は冷たくそびえ立つだけだった。綾小路を連れ、慎重に扉を開く。鍵は掛かっていなかった。扉は重く身体を扉に密着させたままなるべく音を立てぬようゆっくりと開く。扉を開くと同時に遮断されていた内部の音が漏れ出てくる。水音、そしてカコーンという高く響く音……鹿威し? 地下にしてはあまりに場違いな音に聞き間違いかと疑う俺の耳に再びカコーンと音が響き間違いではないと訴える。さらに扉を開き中をのぞき込むと、そこに広がっていた空間に自分はまだ夢を見ているのかと疑ってしまう。それは綾小路の方も同じで中を覗き呆然と立ち尽くしてしまっている。
扉の向こう、そこに広がっていたのは地下とは思えぬ空間。所々に設置されている柔らかな灯り、薄暗い空間は夜のレストランやバーを思わせる。しかしそこにあるのは夜の世界などではない。高級ホテルの和食レストランを思わせるような薄暗い通路の足下に並ぶのは石畳。よく見れば壁の一部が本棚となっており、そこに分厚いハードカバーの本が綺麗に整頓され並んでいる。そして通路を進んだ先に広がっていたのは地下という空間に設置された日本家屋だった。広さは地上の食堂と同程度だろうか。そこにこぢんまりとした建物、離れという風の日本家屋と小さいながらも和の趣溢れる立派な日本庭園が地下という空間にすっぽりと収まっている。鹿威しはその庭から聞こえているものだった。視界を遮る柵もない庭も、障子の開け放たれた部屋もすべて丸見えだ。そしてそれはあちら側からも同じだったのだろう。しばし任務のことを忘れ呆然としている俺たちにその人物は俺たちを見つけると特別驚いた風もなく歓迎した。
「これはこれは、こんな所までやってくるお客さんは初めてだ。どうぞこちらへ、良ければお茶を如何ですか?」
無断侵入した相手にお茶を勧めてくる和服の男性。開け放たれた和室に一人寛ぐその人物を俺はもちろん知っている。風間封神、常世教団の教主は困惑する俺たちをお構いなしにいそいそと茶の準備を始めていた。
風間封神。常世教団の教主、教団のトップであり信者たちの信仰と信頼を一手に集めるカリスマ。間戸以外の信者の話を聞いても、彼が信者たちから崇拝されていることはよく分かった。常世教団はアハトを信仰する団体のはずだが、どちらかというと風間封神という人物に信仰が集まっている。彼がアハトを信仰し、アハトになることこそ幸福と唱えるからこそ信者たちはアハトを目指す。教団の中心であり彼がいるからこそ常世教団は成り立っていると言っても良い。
講演会で見た彼はいかにも教主らしい白のローブに身を包み、威厳ある姿を見せていた。交流会の中でも彼を何度も見かけたし話も聞いた。それは常に距離があり幹部近づくことも許されなかった。間戸の話では立場に反してとても優しく穏やかな人柄だと聞いている。一信者にも声をかけてくれる気さくなお方だと言っていた。実際交流会中に見た彼の周囲には人が絶えず、時折信者たちに声をかけているのを何度も見ている。宗教団体と言われもっと厳格な雰囲気なのかと想像していたが、少なくとも教主の態度は柔らかく、彼の周りだけでもアットホームな空気があった。
今の彼は和服に身を包み、和室で俺や綾小路と面向かって座り、抹茶をかき混ぜている。最初は離れのようだと思ったその建物は、近くで見れば独立したお茶室であることが分かる。開け放たれた障子の向こうには庭が広がり鹿威しとそこに流れる水の音だけがBGMとなっている。これで虫や鳥の鳴き声がし、空が見えたのなら完全に外と勘違いしそうなほど穏やかな空間だった。いや、ここは正真正銘地下であり、さらには隠し部屋である。何故このような空間が存在するのか。それを問いただす間もなくなぜか俺たちはお茶をごちそうになっている。先に出された菓子は上品な甘さでとてもうまかった。作法などほとんど知らないのだが綾小路は何の躊躇もなくお茶をいただいている。やはり上流階級の生まれなのだろうか。礼儀作法が完璧だ。ただこんな怪しい場所で出された茶を怪しみもせず飲むのはいかがなものか。まあそれは俺もなんだが、なぜかこの男を前にするとそういった疑惑が薄らいでいく。安心するような香りでも発しているのだろうか。なぜかほっとしてしまう。
いやいや、ほっとしている場合じゃない。聞くべきことは山ほどあるのだ。
「結構なお点前で」
「お口に合いましたか」
「はい、とても」
「それは良かった」
お花でも飛んでそうな和やかな雰囲気の二人の邪魔をするのは少々申し訳ないのだが、このままでは話が進みそうにないので無理矢理通させてもらう。俺はゴホンと一度咳払いをして二人の会話を遮る。
「失礼。風間教主、いろいろ聞きたいことがあるのですが」
「もっと気楽に呼んでいただいて結構ですよ。ここに居るときは教主ではなく一人の人間として過ごしているときなのですから」
とても一組織のトップとは思えない腰の低さに毒気が抜かれてしまう。本当にこの人物が教主で間違いないのだろうか。
「では風間さん、まずこの部屋は何なのですか?」
まずはそこだ。怪しげな教団の施設にある隠し部屋なのだからさぞや重要なものや危険なものが隠されていると思いきや、あったのは地下とは思えない憩いの空間だった。風間はたいして気にもせず俺の問いに答えた。
「ここは私の隠れ家、まあプライベート空間ですよ。教主という立場上、なかなか自分の為に使う時間や場所がなくてね、幹部にお願いしてこういった場所を用意してもらったんですよ。最初はこんなたいそうなものを用意してくれるとは思っていなかったので驚いたのですが、わざわざ用意してくれたものです、活用しない方が悪いでしょう。それに私はここで過ごす時間がとても気に入っていますしね」
教主が普段どのような仕事をしているのか分かっていない。交流会中も常に人前に姿を現しているわけではない。だが信者の前では教主としての立場がありなかなか一人の人間としてのプライベートな時間が過ごせないのかもしれない。教主としては充分過ぎるほど気さくで人当たりの良い彼だが、それでも個人としては不十分なのかもしれない。どうしても教主という立場が信者や他の人間との間に距離を作ってしまう。信者たちは皆彼を信望、信仰し神同然といった扱いだ。彼の存在あってこその教団と言っても良い。だからこそ弱っている姿や平凡な振る舞いは見せられないのだろう。どんな組織に於いてもトップは下の人間にはない権限や利益がある一方、捨てなければならない部分も存在する。それは常世教団に於いてもきっと同じことなのだろう。
しかしならば何故ここに潜り込んできた我々を彼は追い出そうとしないのだろうか。邪険に扱うどころか彼は我々を歓迎すらしている。
「勝手に入ってきたのは悪かったと思っています。しかしならば何故我々を歓迎してくださるのですか?」
「ここには私以外、訪れる人間はほとんど居ません。こうしてお茶を点ててもそれを飲んでくれる人間は居ないのです。私の立てた茶をおいしいと言ってくれる方がいるのなら誰であれ歓迎すべきでしょう」
「ここの事を他の信者に話すと思わないのですか?」
「話したところで私の立場が悪くなるわけではないでしょう。少なくとも私は後ろめたいものなどありませんから」
確かに彼を信頼する信者たちがこの隠れ家を見ても風間に対する印象が悪くなることはないだろう。あくまでここは彼がプライベートな時間を過ごす為の場所だ。何か隠し事をしているわけではない。
「ただその場合私個人の時間は失われてしまうかもしれません。私自身は何も後ろめたいところなどないのですが、他の幹部はそう受け取ってはくれません。イメージが大切なのだと言っていました」
教団のトップである教主はただの凡人であってはならない。信仰の対象である彼は常に常人よりも遠く離れた存在でなければならないのだ。それを意識しているのは彼自身よりもそれを支える幹部たちなのだろう。
「私は自分も教団の一信者であり修行中の身と感じています。あくまで私が信仰するのはアハトであり、そこに至るための道を模索するのが常世教団なのです。信者たちが私を慕ってくれるのはありがたいのですが、教団の教義を考えれば少し複雑な気持ちです」
風間は少し寂しげな表情でそう言った。彼自身はアハトを信仰し、それを目指している。だが他の信者たちは風間がアハトを信仰するからこそそれに習っているに過ぎない。
「もちろん本当の意味でアハトを信仰している方もいらっしゃいます。ですが信者の大半がアハトというよりも私自身を慕って集まっていると言っていい。うぬぼれではなく実際問題なのです」
それは俺も感じていた。信者たちのほとんどがアハトではなく風間を信仰している。盲信していると言ってもいい。風間が言うからそれに間違いはないという理由からアハトを信仰しているに過ぎない。そして彼らが求めているのはアハトではなくアハトになることにより得られる死の恐怖から解放された世界だ。アハトがすばらしいからという理由ではない。彼らの求めるものは楽園であり逃げ道だ。もちろんそれも信仰の形なのかもしれない。死後の世界を信じ死後の安寧を求め宗教を求める者はいるだろう。だが俺にはそれがなんだかおかしなものに感じてしまう。常世教団はアハトを求めるのではなくアハトになることを求めている宗教だ。その理由は確かに生への執着や死への恐怖からの解放なのだろう。それは講演会でも風間が語っていたことだ。彼らにとってアハトは信仰すべき神ではなく、目標に過ぎない。しかしそれは違うのだと風間は言う。
「アハトになることを目指す。それは教団の目標であり教義である。それは間違いではないのです。しかし私自身はそれと少し異なるのです」
「それはどういった風に?」
「私にとってアハトは理想です。幸福の象徴であり神の領域に近づくことと言ってもいい。人間を超えた存在、生にも死にも縛られない彼らは神々しく崇拝すべき存在なのです。信仰の対象であると同時に人生の目標でもある。彼らは人間を超越した存在ではあるが神自身ではない。だからこそ我々でも手が届く存在である。私はアハトになりたい、それは幸福になるのと同時に人間を超えた存在となることです」
少しおこがましいですねと風間は笑った。
「人間は死から逃げられない。すべての人がいずれ来る死におびえ、喪失を恐れる。どんな覚悟も欲望もあっさりと踏みつぶしてしまうのが死です。だがすべての人がアハトとなることが出来たのなら、そういった恐怖から解放される。失うことも傷つくこともなく、すべての人が幸せとなれる。そう信じているからこそ私は常世教団を作ったのです」
風間の理想はひどく綺麗で美しすぎた。故にまるで砂糖を飲み込んだかのような胸焼けが起こる。生も死もないアハト、確かにそれは死の恐怖から逃れられるすばらしい存在に見えるかもしれない。だがその先に未来はあるのだろうか。死を失うことは同時に生を失う。彼はそれを知っているのだろうか。そのことを問いかけようとしたその時だった。
「一つ、よろしいですか?」
それまで俺の横で黙って話を聞くだけだった綾小路が突然口を開いた。風間は嫌な顔一つせず促した。
「教主様の目標がアハトになることは分かりました。けれど幸福になることが本当に目的ですか?」
「と、言うと?」
「アハトがそんな都合の良い存在であれば皆アハトを目指しています。それだけではないから忌み嫌われるんです。それは聡明な教主様なら充分理解しているはず。ただアハトになるだけで幸福になれるとは限らない。貴方にとってアハトは信仰の対象でもある。それは何故ですか?」
あくまで風間本人にとってアハトは目標である信仰の対象でもある。何故彼はそれが神々しく見えたのか。
綾小路の問いかけに風間は少し考えるように、いや何かを思い出そうとしているかに見えた。だがすぐにその答えは返ってきた。
「確かにアハトを信仰するのは私個人の考えです。もちろん理由はあります。以前、私はアハトに会ったことがあるのです」
俺たちは少し驚いた。アハト自体が特別珍しいものではないが、そのほとんどが国の管理下にある。一般人が目にするような機会はなかなかない。彼はただ情報などからだけでアハトを語っているのはない。はっきりとアハトに触れ、その上で信仰しているのだ。
「私が初めてアハトに会ったのは私が教団を作る一年ほど前のことです。当時私はとある企業に勤める会社員でした。その頃の私は特別秀でたものもなく、何かに生き甲斐を感じていたわけでもなく、ただ惰性的に人生を送るだけのつまらない人間でした。恋人を作っても長続きせず、没頭する趣味や仕事も見つからない。友人はいても、心の底から信じられるような友人は一人もいませんでした。本気で愛することも出来ず、ただ同じ事が続くだけの毎日、それを不毛と感じながらも何かを成そうとする努力もせず、ただあるがままの平穏を享受する日々でした。それはきっと一つの幸福な人生であったのでしょう。何も起こらないのが一番だと言う人もいました。それは間違っていません。ですが私はもうあの何事も起こらない退屈な日々に戻る気にはなれません。あの日、私の平穏は崩されたのです」