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第4話  交渉


 自分は子供ではないと言っている内は子供だ。そう言ったのは祖父だった。一般的なサラリーマンだった父とは違い優秀な学歴を収めた祖父は大学の教授となり、特に犯罪心理学を専門とし多くの本を出していた。心理学を学ぶ者なら必ず名前を聞いたことがあり、彼の書いた学術書の世話になるのが当然と言われる程、その世界では有名な人物であった。ただ子供には心理学など理解できないし、どんなに高尚な知識や教えもそれを理解する頭がなければ一銭の価値もないのだ。それはどんなに偉い先生を身内に持っていたとしても変わらず、子供の頃は祖父がひどく遠い世界に居る人のように感じられ、少し苦手としていた。祖父は特別子供に優しい人間ではなかった。彼がいつも大学で相手をするのは勉学を仕事とする学生たちであり、義務教育すら終えていない子供を相手にすることなどほとんどない。実際俺は祖父の話の半分も理解できていなかった。子供の為に砕けた言い方をするという努力を祖父はしなかった。専門的な単語の羅列は俺にとっては外国の言葉のように不可解なものであり、さらに人間の心理を研究するという行為自体、理解出来るものではなかった。算数のようにはっきりとした答えが出るわけではない。歴史のように暗記すればいいものでもない。常に変容する人間、そのもっとも不安定な部分を解明するという学問は高尚ではあったが心惹かれるものではなかった。赤ん坊は生まれたばかりの頃僅かな本能と感情を持っているという。それが成長するに従って様々な感情を覚え、学習し、一人の人間として確立する。喜怒哀楽だけで語り尽くせない複雑な人の心。子供だった俺はそれがいかに繊細で予測できないものであると理解していなかった。いや、自分のことだけ考え他人の心も自分のそれと変わらないのだと気づいていなかったのだ。

 子供は残酷だ。罪の意識もなく悪意もない。自分の犯した罪にすら気づかず容易く他人を傷つけ飛び降りようとする背中を意気揚々と押し出す。それを罪とすら感じていない。自ら死ぬのが悪いのだと、弱い奴が悪いのだと。勝手に順位を付けて、自分勝手な価値観を他人に押し付ける。それが善であり正義であると信じれば何も不思議に思わず他人を攻める。

 小学生の時、給食当番だった一人がバランスを崩した拍子におかずが入った鍋をひっくり返してしまった。その中身が小学生の好物であるカレーだったのが不運だった。ひっくり返してしまった少年は熱々のカレーを足に浴び、教室中にカレーの匂いが充満した。たまたま担任が教室を離れていたのが状況を悪くした。子供ばかりの中ですぐ対処できる人間はおらず、鍋が空っぽになるまでカレーは流れ出た。

 クラスメイトたちは事件の発端となった少年を激しく責め立てた。「どうしてくれるんだ」「お前のせいで全部駄目になったじゃないか」「何やってるんだよのろま」ボキャブラリーが足りない中で幼稚な批難の声が教室中から発生した。少年は自らの失敗に驚きクラスメイトたちの罵声に畏縮し泣き出してしまった。だがクラスメイトたちはそれすら許さなかった。少年がどんなに泣いても「泣いてごまかすな」と責め、謝れば「謝って許される問題じゃない」と言い返した。少年はカレーの池の中心に取り残されたままうつむき震えることしか出来なかった。そしてその間少年の火傷は放置されていた。この時すぐにするべきことは少年の足を冷やし保健室に連れて行くことだったはずだ。だがこの時それを行おうとする者は皆無だった。しかもカレーを片付けることすらしなかった。クラスメイトたちからすれば自分がこぼしたわけでもないカレーを自分が拭くなど絶対にお断りだと思ったのだろう。見ていた俺だって自分から片付けようとはしなかった。結局その少年が自分の手で片付けろという話になり、少年は泣きながらカレーを拭いていった。火傷は痛かっただろうし皆の視線が刺さった中、辛くないはずがなかっただろう。だが誰も助けなかった。それが正しいと信じていたからだ。クラス全員が合意していたわけではなかった。ただ既にそうと決められたものにわざわざ異論を唱える勇気のある者は誰一人いなかったのだ。ここで少年を庇えば共犯として裁かれるに決まっている。多くの裁判官の中で一人や二人異論を唱えたところで判決は変わらないのだ。俺もそういった中の一人だった。その時俺は少年を憐れむことはあっても率先して救おうなどとは思わなかったのだ。たとえ過失であってもこれは少年に与えられるべき罰であり自己責任だと思ったのだ。

 結局担任が帰ってくるまで少年は泣きべそをかきながら拭き掃除を続けていた。担任は状況を説明されたが本当の意味で深刻さを理解していなかった。少年は自らの弁護をする勇気もなくクラスメイトたちの一方的な説明に口出しすることすらなかった。担任は少年を保健室に連れて行き残ったカレーはクラスメイトたちに片付けさせた。その日の給食は他のクラスにカレーを分けて貰いなんとかなったが、それによって一つのクラスで起こった事件が学校中に伝わることとなった。担任を含め大人たちは子供の残酷さを理解していなかったが為にさらなる悲劇は必然的に起きた。

 翌日、火傷を片足に負った少年が登校すると教室中の人間が彼を無視した。さらに彼が近づくとこそこそカレー臭いと言って少年をじろじろにらみつけた。少年の席には消臭剤や芳香剤が置かれていた。トイレにでも置けば良い香りと和んだかもしれないが、この場に於いてそれは少年を断罪する材料でしかなかった。以降、少年は孤立し彼が触れたものはまるでばい菌が付いたかのように扱われた。机は一人だけ離して置かれ、体育の時間はあからさまに嫌な顔をされた。ひどい者は消臭スプレーを少年に吹きかけた。

 さらに少年にとって不幸なことに、担任を含め鈍感な大人たちはこの悪質ないじめに気づいていなかったのだ。少年がはやし立てられているのを見ても遊びの延長と誤解された。グループ活動で一人残される彼に自分から仲間にしてくれるよう頼めと指導した。元々気の弱い人間であった彼が大人に助けを求めることなど出来るはずもなく、それがさらにいじめを助長させた。

 俺を含め多くの人間はいじめに荷担しなかった。だが無関係ではなかった。積極的に彼へのいじめを行っていたのは一部だけであったが、学校中で少年を汚いものと見る習慣が広まっていた。おそらく多くの子供はその意味も原因すらろくに考えていなかっただろうが、周りに合わせる内に少年が汚いもので悪いものであるという認識が成されていった。最初は断罪のつもりであった最初のクラスメイトたちも、次第に少年をいじめることに快感を覚え始めていった。いくら責めても誰にも文句は言われない。正当化された暴力というものは人にとてつもない快感を与えるのだ。俺たち見ているだけの人間たちもそれをいじめとは認識していなかった。少年が責められるのは当然のことであり、そんなたいしたことはしていないだろうと軽く考えていたのだ。実際少年へのいじめに肉体的な暴力は行われなかった。持ち物が紛失することもなかった。だからたいしたことではない、そんなひどいものではない。そんなことで泣く奴が弱いのだ。この程度いじめには入らない。それが俺たちの認識だった。

 そのいじめはある日唐突に終わりを告げた。いじめの主犯格の一人だった少女が階段から転落した、突き落とされたのだ。犯人はあのいじめられていた少年だった。少女はすぐに救急車で運ばれたが頭の打ち所が悪く数日間意識不明の状態となった。数日後目を覚ました時には後遺症が残り、両目の視力を失っていた。少年は警察に捕まりそこですべてのことを話した。今まで自分に行われてきた仕打ち、少女を中心とする数名が行ってきたいじめの数々、それを傍観し許容していた俺たちその他大勢。何も気づいてくれなかった大人たち。今まで黙っていたことが嘘かのように少年は洗いざらい動機を語った。少年の意外な復讐に俺たちは唖然とした。いじめの当事者たちはそれまで何の反抗もしてこなかった彼の逆襲に憤り、自分勝手に弁論した。「あの程度で人を突き落とす方がおかしい」「あれはいじめと呼べるものではなかった」「そもそも最初に悪かったのはあちらの方だ」親たちも自分の子供を守るために必死に弁護したが世間はそれを突き放した。ニュースや新聞でいじめから始まった復讐劇が華々しく一面を彩り、マスコミはおもしろおかしく加害者である子供たちやその周囲のプライベートを土足で踏み荒らした。世間の同情が完全に少年の方へ向き、彼の味方となったのである。ここまで来てしまえば少女の親も少年側を責めることは出来ず、むしろ責められる側となってしまった。それはもちろん学校側にも及んだ。そもそも一年近くいじめの存在に気づかなかったこと自体がおかしい。特に担任は気づくべきだった。後で聞いた話によると学校側はいじめについてまったく認識していなかったわけではなかったらしい。ただ不確定な事実故に慎重に対処したと言い訳をしていたが、実際には何もしていなかったのだ。結局自己保身の為にいじめを放置していたのだ。これは叩かれても事項自得というものだ。

 俺たち見ているだけの者たちは当事者たちほど非難されたわけではなかったが、それでも学校を包囲するマスコミ関係者たちからの取材攻撃に辟易する日々が続いた。内心少年を罵倒している者もいただろうが、それを口に出すことは許されなかった。こうして少年の復讐は完全に完成されたのだ。

 ただこの時、多くの子供がそれでも自分が悪であったと認めることはなかった。彼らは悪意なく少年を傷つけていた。それがたとえ肉体的ではなかったとしても、少年が受けた痛みを加害者が理解することはなかった。それが子供故の残酷さであり幼稚さであったのだろう。俺自身、自分が罪人であるなどと一度も考えなかった。俺は何もしなかった。なのに何故罪人の扱いを受けなければならないのか。憤りすら感じた。大人になってからそれがどんなに愚かな価値観であったと理解したが、理解したところで少年の傷はなかったことにならないし、少女の目も治らない。

 俺はこの一件で変わったことはなかった。何も学習していなかった。もしこの時点で俺が自らの過ちに気づけていたのなら、もう少し大人になれていたのなら、あの事件は起こらなかったんじゃないかと後悔した。ただ、その話を聞いた祖父は言った。

「大人になったって過ちは犯す。そしてそれを理解しないのは年齢だけが理由じゃない」

 では何が原因なのかと聞くと、祖父ははっきりと答えた。

「人間だからだ」




 幼い頃の記憶、後悔ばかり残り修正しようのない現実。それは時として忘れた頃に忘れることを許さないとばかりに夢に現れる。ただしそれは走馬燈ではない。まだ俺の心臓は動いているし、脳みそもばりばり働いている。だからじわじわと痛む頬の傷は夢ではないと分かる。というか痛いのは頬だけでなく身体全体だ。そういえば階段から落ちたんだな。いや、突き落とされたのか、誰かに。過去から現実に意識をシフトしていく。今俺がいるのは小学校ではなく常世教団の施設、俺は小学生ではなく成人男性であるはずだ。頭が回復してくればまずは目を開き現状を把握する。するとそこには意外な人物の顔が俺をのぞき込んでいた。

「あの…大丈夫ですか?」

 目を開いた俺に控えめな態度で聞いてくるその人物を俺は知っている。

「ああ、大丈夫です」

 そう言いながらも俺はゆっくりと身体を起こし怪我の程度を確認する。痛みはあるがおそらく骨は折れてない。頭も僅かに血が滲み出ているが特に気分が悪いということはない。でかいたんこぶは出来ていたが。見上げれば十段以上ある階段が俺の前にあり、その一番上には当然俺が入ってきた隠し扉がある。あそこから落ちてよくこの程度で済んだなと自分の頑丈さと幸運に我ながら感心する。たんこぶと全身の打撲以外特に目立った傷はないのだから。もちろん後で病院には行くべきなのかもしれないが、今はそれどころではない。

 周りを見渡してみると灯りも点いていない地下は殺風景な空間となっていた。階上から届く光によって視界に困ることはない。その部屋はステンレス製の棚で埋め尽くされていた。倉庫かもしれない。そして改めて少女の方を向く。俺を心配そうに見つめる彼女に怪しいところはないと言いたいところだが、場所が場所だ。疑うべきなのだろう。

「君、ええと…」

「夏音です。綾小路夏音」

「夏音さんか、綺麗な名前だな。俺は五木だ」

 潜入調査中故本名は明かさない。この五木という名前も調査の為に用意した偽名であり、俺の本名の一部をもじったものだ。名前を褒められた少女は照れくさそうに笑った。小さな花が咲くような、そんなささやかでしかし可憐な姿だった。だがそれに見とれている場合ではない。

「綾小路さん、階段の上に誰か居ませんでしたか?」

「え? いえ、私上から降りてきましたけど、誰もいませんでしたよ」

「そうですか…」

 ここで彼女の言葉を百パーセント信じていいものか迷うところだ。本当は見たのかもしれないし、彼女に突き落とされた可能性だってある。彼女を信じる要素が足りないし、何よりあの少年の連れだ。それだけでも怪しむべきなのだろうが、どうしても決めてかかる事は出来ない。もしもという場合もある。まだ結論を急ぐべきではないだろう。

「ところで綾小路さんはどうして此処に?」

「あ、えっと、私大きな物音がしたのでどうしたのかなって見に来たら扉が開いてて、覗いたら渚さんが倒れていたので」

「いや、それもなんだが、どうして綾小路さんがこの建物に? 確か入会はしていなかったはずだが」

 少年の方はあの場で入会手続きを済ませていたが、彼女は出来ないと言っていた。そして少年とは何度も顔を合わせたが彼女とはあの講演会以来一度も会っていない。信者以外立ち入りが禁止されているこの場所に、何故彼女は居るのか。

 俺の質問に綾小路はいっそう焦ったかのようにたどたどしく説明しようとする。

「えっと、私、東さんについてきて…」

「ここは信者以外入れないはずだ。それに昨日から今日まで君の姿はなかったはずだ。どうやって此処に? 何の為に?」

 俺の質問攻めに彼女はおろおろとするばかりだ。言い訳すら思いつかない様子だ。どう考えても彼女は疑わしい存在だ。それが俺にとってなのか教団にとってなのかはわからないが。だが彼女はあまりにも頼りない。困惑している様子は演技とは思えない。だが状況が彼女の存在を正当化することが出来ない。どうしたものか。あたふたとする彼女を前に考えていると、

「女を攻めるなんて、最近のおまわりはずいぶん礼儀がなってないんだな」

 この二日で聞き慣れた声が階上から降ってきた。その声に夏音は救い手が来たとばかりに顔を輝かせた。

「東さん!」

「お前もこんなところで何をしている。仕事はしてるのか」

 階段を降りてきた少年は少女に優しい言葉一つかけず、むしろ怠慢を責めた。どちらが女性に優しくないのだと言いたいところだが、先ほど彼が言った言葉はとても無視出来るものではない。

「君、何故俺のことを知っている」

 質問の矛先を向けてきた俺に少年はやれやれと馬鹿にするかのようにため息をついた。

「阿呆だなお前は。ここはしらばっくれるべきところだろ。自分から認めてどうするんだ、無能」

 そう言われ俺は自分のうかつさに今更ながら後悔する。昔からお前は嘘がつけないと言われていたがこんなところでそれを証明するとは、本当に潜入調査には向いていないと番匠の笑い声が聞こえてくる。

 今更訂正しても遅い。だがここでくじけるわけにはいかない。

「俺を警察だと言うなら君は何だ。仕事と言ったが君も教団のことを調べてるんじゃないのか?」

 これはカマをかけている。当たる確率は半分程度だろう。だがどちらかと言えばこちらではないかと俺の勘と推理が示している。もし彼が教団の人間なら俺を警察と分かった時点で追い出すべきだ。もちろんそれは教団が黒である場合だ。だがこういった組織は警察などからの干渉をひどく嫌う。後ろめたいところがなくとも警察関係者とは関わりたくないはずだ。ましてやアハト専門の部署の人間なら尚更だ。アハトを信仰する教団がアハトがらみの犯罪を扱う人間を入団させようとは思わないはずだ。絶対に裏があるに決まっている。彼は初日、いや講演会の時点で俺の正体に気づいていた。その上で関わるなと言ってきた。俺を泳がすのが目的なら何も言わずにいる方が良いに決まっている。だからこちらの線はうすいと思う。

 ならもう一つの可能性は何か。それは俺と同じ目的。教団への潜入調査だ。これだけ注目を浴びている教団だ。それを調べようとする人間がいてもおかしくない。アハトへの批判は決して少なくない。アハトという理由だけで迫害されるものは多い。現政権下では何の罪もないアハトへの一方的な差別は禁じられているが、それでも彼らが監視下にありその多くが隔離施設に収容されている。さらに何か一つでも問題を起こせばすぐに処分されてもおかしくない。決して人間と同等の価値観で見られることはないのだ。実際アハトやそれを巡る事件が後を絶たないからこそ、俺たちのような人間が存在する。それは国が用意したものだけなく、個人でもアハトを対象にした仕事をしている者もいる。もちろんアハトを利用する者も。だからこそアハトは監視対象であり保護対象でもあるのだ。

 少年たちがどういった目的で教団に潜り込んだとしてもおかしくない。俺と同じ目的か、それともアハトを利用しようとしているのか、教団に敵意を持った者なのか。その目的によって敵となるか味方になるかが変わってくる。俺は少年の返答を待った。少年はしばし考え込み、やがてふーと息を吐く。

「確かに俺は教団のことを調べてる。教団の人間ではない。だがそれ以上は言えない、俺も仕事なんでね。ただそちらが俺の邪魔をしないと言うなら敵にはならないさ」

「俺の事は知っているくせに自分のことは話さないのか」

「俺があんたの事情を知っているのは俺個人の事情だ。俺がお前の身元を知っているからといって、俺のことを話す義務はない。信用ならないのはお互い様だろ」

 確かにその通りだ。たとえ目的が同じであっても、その理由によっては敵となり得るのだ。そして俺が彼の事情を知らないことに対し説明する義務が彼にはない。ならばやはりこのまま平行線で有り続けるのだろうか。だが既に今日は二日目。今日の夕方にはここを発つ。もうあと何時間も残っていない。次の機会に託そうかと考えていたが、次の機会がやってくる保証はない。その前に何か大きな事件が起こってしまうかもしれないし、俺の正体が暴かれる危険だってある。やはり時間はない。少年たちは俺よりも情報を得ている。もし敵ではないと言うなら、是非とも協力願いたい。俺個人の感情は置いておいて。

「君がどういった事情でここにいるか、今は聞かないでおく。ただこちらの事情を知っていると言うのなら協力してもらえないだろうか」

「俺が警察に協力するような善意ある市民に見えるか?」

「…いや」

「はっ正直だな」

 つい本音が出てしまったが、今更取り消せないし嘘はつけない。ここでいくらごまかしても相手の信頼を失うだけだ。俺一人で今日中に調査を終えることは難しい。だが彼らの力を借りればそれも可能になるかもしれないのだ。ならば多少の賭けに出ることは悪いことではないはず。もちろん彼らが敵となればその時点で終わってしまうわけだが。

「すまない、だが俺も大分困っている。このままでは何も進展がないまま終わることになるだろう。そうなれば後で後悔することになるかもしれない」

 もしこの後教団が黒であると判断されれば、教団が何か大きな事件を起こせば、きっと俺は激しく後悔する。あの時調査が済んでいれば止めることが出来たのにと自分を責め続けるだろう。そうなってからでは遅い。だからこそ今出来る限りのことをしておきたいのだ。その為なら俺の損得や感情など後回しだ。

 正面から少年と向き合い互いにその目を逸らさない時間が続く。少年は俺を観察するかのように見つめ、俺は訴えるように少年から視線を離さない。

 しばらく見つめ合い、少年が大きく息を吐き視線を逸らした。

「分かった分かった、あんたの気持ちはよく分かった。だが、俺は協力しない」

「何故だ」

「俺にとってメリットがほとんどない。それと俺はそもそも警察があまり好きじゃない。ただ、」

「ただ?」

「あんたが俺の邪魔をしないと言うなら俺もあんたの邪魔はしない」

 つまり密告などはしない。協力はしないが妨害もしない。そういう意味だ。

「焦ってるのは分かるが会ったばかりの人間にいきなり協力を申し出るのはリスクが高いぞ。これからも仕事を続けるつもりなら覚えておけ」

 そう言って少年は再び階段を上っていく。

「夏音、そこちゃんと調べておけよ」

「あ、はい!」

「それとあんた」

 さっきから失礼な言い方が多いな。どう見てもこちらが年上なんだが。

「何だ」

「協力申し出るならまず名前くらい名乗るんだな。相手が自分の事情を知ってるかどうか以前に、自己紹介は基本だろ」

 まさかこの不作法な少年から社交辞令を教わるとは思わなかった。だが一理ある。

(なぎさ)一樹(かずき)だ」

 俺は偽名でなく本名を言う。もう既に交渉は破綻していているがそれでもこれが誠意であると考えて。

「ふうん、俺は獅堂東だ。じゃあな、イツキさん」

 俺は彼に偽名を名乗った覚えはない。俺の事情を知っているのなら当然名前も知っていたのだろう。その上でわざわざ間違えた呼び方をするのが最後まで腹の立つガキだと俺の頭にインプットされた。




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