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かぶりびと

作者: 唾明日塀駄子

あることをきっかけに変わってしまう。そんなことは誰にでも起こりうることだ。だが見た目には分からない人間の内面を誰にでもわかる姿であらわすことができたなら?熊のぬいぐるみに目覚めた主人公のっころのうちとは。

 血色のない皮膚の下に青白い血液の川がうっすらと見える。その川の流れは人並みの体温を保っているのだが、冷たい空気が停留しているこの部屋の中では、冷血動物になってしまったかのように感じられる。もしかしたら死んでしまっているのかしらと、妄想めいた想いが湧き出るが、そんなはずはない。ちゃんと息をして、胸の中では澱みない鼓動の音がしているのだから。でも、身体が生きているからと言って、精神もちゃんと生きているのかと問われたら、即座にそうだと答えることがいまの自分にできるだろうか。それに、これは本当の自分ではない。無理矢理頬をつり上げると、同じように頬をつり上げるし、引きつるように微笑むと同じように引きつりながら微笑んでいる。同じように瞬きをして、同じように目線を動かすが、これはほんとうに自分の顔なのか。違う。ただ洗面台の鏡に投影されている影にしか過ぎない。本当の自分の素顔は、自分では決して見ることのできないものなのだ。


小さな子供がそうであるように、両親から与えられたぬいぐるみが好きだった。身体の中は命の種を持たない綿のかたまりにしか過ぎないのに、生きているほかのともだちよりも、紙の中に閉じ込められた可愛らしい動物よりも、四角く冷たい画面の中にいて触ることの出来ない動き回る何かよりも、抱きしめるとふわふわとやわらかくて自分の体温を感じさせてくれる動かぬ動物がいちばんの大切なともだちだった。とりわけ母親が拙い腕で手作りしてくれた熊のぬいぐるみは、小学生になってもいつまでも側においていたので、ひとり留守宅を守って母の帰りを待つ間も寂しいと思ったことは一度もなかった。中学生になる頃にはぼろぼろにくたびれていく肢体をその都度自分で糸と針で繕って大切にしていたが、高校を卒業して親元を離れ、東京の大学でひとり暮らしをはじめたときにはついに実家に残して行き、いつしか熊のぬいぐるみを抱きしめて暮らした幼子の記憶はどこか胸の引き出しの奥深くに眠らせてしまっていた。大人になった久絵にはもう、魂を持たないともだちは必要ではなくなっていたのだ。

 しかしもっと大人になったいまの久絵はどうなのだ。頭からスッポリと熊の頭をかぶっている。着ぐるみの頭だ。アンティークブラウンとかいうテディベアらしい茶色の毛で包まれた頭は、実際の久絵の頭よりもずっと大きく、久絵自身の顔はどこにも見えない。ごわごわした本物の熊の毛と違い、ふんわりと柔らかい毛並みは光が当たると宝石のように煌めいてつい手を伸ばして触れてみたくなる、そういう上等な毛並みは女子の家にありがちな安物のテディベアとは違う。ほんとうは、全身にまとって熊そのものになってしまいたいくらいなのだが、そこまですると夏場は暑さが際立って我慢出来なくなりそうなので、首から下は普通の衣服のままだ。だから頭と身体がちぐはぐで、漫画のようなアンバランスさだ。

家の中では自分自身でいられる。一人で暮らすというのはそういうことだ。誰かと一緒にいるのは疲れる。その誰かの心が自分の中に侵入してくるように思えるから。心の中に入ってきた誰かは、癌細胞のように増殖し、すこしずつ触手を伸ばして心のみならずからだまで支配しようとする。誰かに支配されて操り人形のように動くのは楽かも知れないが、下手をすると手遅れになってしまう。自分が自分でなくなってしまうかもしれないからだ。あるとき自分ではなくなっている自分に気がついたとき、荒れ果てた広野の真ん中で途方に暮れてしまうことになるかもしれない。だから久絵は自分自身でいられる部屋が好きだ。

また朝が来てしまうと、敷布団の上に張り付いたままで二倍になった重力をはねのけるのに随分時間がかかる。朝なんて来なければいいのに。毎朝同じことを考えるのだが、それがまったく意味をなさないことはわかっている。なんとか身体を敷布団から引き剥がし、ゆらゆら揺れながら洗面の前に立つ。血色の悪い顔にじゃぶじゃぶと水道水をかけて、ようやく息を吹き返す。糖度が増えすぎたバナナの皮を向いて、まったく歯ごたえのない果肉を喉に押し込む。昨日の朝半分残した餡パンの包みを開いてから、食べずにまた元通りに戻した。簡単に化粧をして服を着るのと同じように大事な熊の頭をかぶる。顔は見えないのになぜ化粧をするのか、自分でもわからないが、それが習慣というものだから仕方がない。

熊の頭をした黒いスーツスカートの女がアパートの部屋を出る。鉄板で出来た階段が無造作にかんかんかんと音を鳴らす。これは出陣の太鼓のようなものだ。音も出さずに降りたりしたら、敵に弱みを見せるようなものだ。アパートの前の狭い小道を抜けると、すぐに駅に続く通りに出る。同じ方向には会社勤めの男や学生、OL女性が歩いていく。はじめて熊頭と出くわしたなら、ぎょっと立ちすくんで呆然として、いったい何が歩いているのか、もう一度眼を凝らす。次に頭以外は普通であるその異様で滑稽な姿を振り返りながら追い抜かす。追い抜かしてからもう一度恐る恐る振り向く。こうして最初は道行く人からは奇異の目で見られていたが、毎朝のことであり、次第に誰も振り向かなくなった。久絵は普通に駅のホームに立ち、やって来た通勤電車に乗り、二十分ほどを車内で過ごす。最も込み合う通勤ラッシュの時間よりも少し遅めに乗っているので、うまくすれば座れるくらいの混み具合は、熊頭が紛れるには丁度いいくらいの人口密度だ。たまに小学生が乗合わせると、小さい子ほど無遠慮に凝視して来るのが腹立たしい。子供には遠慮がない。扉のところに立っている久絵の頭をいつまでも見続ける。久絵は熊頭の中で引きつりながら微笑んでいるのだが、むろんそれは子供には見えない。人と思っているのか、熊と思っているのか、ずるずると見続ける。軽く手を振ってやると、ようやく向こうを向いたが、しばらくするとまた振り返って久絵を見る。仕方なくもう一度手を振ってやると、恥ずかしそうに手を振替してまた向こうを向く。そんなことを何度か繰り返しているうちに、面倒になって無視することにした。子供はなんて面倒くさい生き物なのだ。やがて地下鉄に乗り継いで、最寄りの駅に到着する。駅から会社まで五分あまりを歩く。深い紺碧の空だけを見ていると学生時代の夏を思ってしまう。空気がぬるい。

どんな大人になれるのか想像もつかないままに将来への不安を感じていたはずなのだが、いま考えれば親の庇護に甘えてぬるぬると暮らしていたなぁと考える。だがこの空を囲んでいるくすんだ銀色の巨大な躯体は、明るい太陽を照り返しているというのに冷え冷えとした気持ちを暖めてくれそうにはなかった。全面ガラス張りの建物の前を通りながら、鏡面の向こうに自分によく似た熊頭の人間が歩いているのが見える。異形の姿。あなたは何故そんな頭をしているの。それはあなた自身なの。それともほかの誰かなの。

都会にはさまざまな種類の人間がいるので、もはや多くの人は久絵の熊頭を気にも留めない。着ぐるみショーのアルバイトか何かだと思うのだろう。一瞬唖然とした表情を浮かべた人でも、すぐに何も見なかったかのように知らん顔で通り過ぎる。都会では道端に倒れている人がいたとしても、何も見なかったことにして通り過ぎていく世の中だ。熊頭であろうと象頭であろうと、そんなことは誰にも関係ないのだ。そのおかげで久絵は臆することなく上階につながるエレベーターに乗り、勤め先のあるフロアへ向かう。

オフィスはすでに人の気配で満ちている。定時ギリギリに出勤する久絵が扉を開く頃には、大方の従業員はもう自分の仕事に取りかかっている。「おはよう」と声をかけられて、久絵も小さな声で、もごもごと「おはよう」と返すが、熊頭の中で声はさらに半分の音量に絞られる。席につくと何も考えずにPCの電源を入れ、機械がピコと奇妙に鳴いて立ち上がるまでの数分間にデスク周りを整える。PCの横に並んだファイルの傾きを直し、昨日のままデスクに散らばっている書類をまとめてファイルに綴じ込む。ティッシュを一枚抜き出して、デスクの上とPC画面の埃を軽く拭う。PCが立ち上がると、社内メールが入っていないか確認して、夜のうちにサーバに来ているかも知れない新しいデータを探す。各部署から寄せられてくる売上データを集計するのが、いまのところ久絵の主な仕事なのだ。機械を相手に仕事をしている限りは、久絵がどんな姿をしていようが、機械は気にしない。ただ、正確にデータが打ち込まれてさえいればいいのだ。熊頭の中で久絵は思う。いつからこんなことになったのか、自分でもよくは覚えていないが、仕事をはじめた頃はまだ、普通に暮らしていた。


 四年制大学を卒業して、この会社に入った。大学では文学部に所属していたのだが、その頃、文学部に入った女子大生のほとんどが英文科か仏文科を選択した。英語が嫌いだったこともあるが、なんとなくみんなとは違うことをやりたいと思って選んだのが心理学だった。自然科学の一端だと思っていた心理学が文学部にあるというのは不思議な気がしたが、心理学は理系ではなく文系の学問なのだ。心理学は社会心理学とか教育心理学とか、細かいジャンルに分類されるが、久絵が専攻したのは動物実験に基軸を置いた行動心理学だった。古くは有名なロシアの学者パブロフが行った「犬の条件反射」実験を起点とするもので、手っ取り早く言えば動物に何らかの刺激を与えて、その行動の変化を実験的に調べることによって、行動の原理を究明していく学問だ。

 食事のときにチンとベルを鳴らす。それを何度も繰り返していると、犬はベルの音を聞いただけで涎を垂らす。人間だって同じだ。目の前に食べ物がなくても、匂いや写真や、場合によっては音楽を聴いてさえ食べ物のことを思い出して口の中に唾液が広がる。当たり前のことのような気がするが、パブロフさんはこれに「条件反射」という名前をつけた。行動心理学はもっとおかしなことを考える。唾液のような反射運動ではなく、意識的な行動も随意に「条件付け」が出来るようにしてしまった。

スキナーという人は小さな箱に仕掛けを作って、その中にハトを入れた。ハトが箱の中にある赤いボタンを突くと、餌が出るようになっている。するとハトは餌をもらうためにボタンを押すという仕事を覚えるのだ。本来ボタンと餌はまったく関係がないものなのに、この二つが結びついてハトは“仕事”をさせられる。ボタンと仕事、言い換えると刺激(スティミュラス)反応(レスポンス)というしかめっ面な言葉になるこの現象を、スキナーさんは「学習行動」と名前をつけた。ハトが学習するというのが面白い。ハトが勉強している姿が思い浮かぶではないか。スーツを着たハトが子供に言う。しっかり勉強して、いい会社に入って、幸せな家庭を作りなさい。しっかり赤いボタンを突かなきゃ。ほら、もっとちゃんと学習して。

 久絵が大学で犬やハトを飼っていたのかというと、そうではない。最初は学生を使った奇妙な実験を行なった。先人の実験を参考に独自の実験を考えたのだ。ハトと同じように人間にボタンを押させる実験。

薄暗い部屋の中に小さな豆球がひとつ。その豆球は、赤く光ったらボタンを押すように。青く光ったら何もしない。被験者は赤い光で嬉々としてボタンを押す。すると「ピンポーン」と正解を知らせる音がする。青い光でボタンを押すと、「ブー」という不正解だという罰則音がする。赤い光、青い光。乱れ打ちに点滅して、ボタンを押したり押さなかったり。だが、そのうちに赤い光でボタンを正しく押しているのに罰の音を鳴らす。すると被験者は混乱する。さらに今度は赤でも青でもなく紫の光が点滅する。ボタンを押しても押さなくても、罰則音。被験者はパニックに陥る。久絵は、被験者の正解率やボタンを押すタイムを記録してレポートにした。

単純な作業でも、褒めるのと罰を与えるのとでは、成果が変わる。子供でも褒めて育てよというが、ピンポーンと褒めてやれば、ボタンは順調に押し続けられる。だが罰を与えられると戸惑い、疑問が生じて行動は停止する。ましてわけのわからない事態に陥ると、どうしてよいのかわからなくなってしまう。実験室で起きたことは、そのまま日常にあるような気がした。私は……久絵は思う。ずっと褒めて育てられてきた。中流中級家庭ではあるが、父も母もやさしくて、叱られた記憶などほとんどない。素直ないい子ねぇ。ずっとそう言われ続けて、だから素直でいい子で有り続けてきた。屈折したことも、挫折したこともない。久絵はいつでも素直でいい子だった。

 卒業論文では、人間を使った実験をしたくなかった。手痛い失恋をしたために、人と顔を合わせるのが億劫になっていたからだ。動物相手なら大丈夫。そう思った久絵は、突然マウスと呼ばれる実験用の二十日鼠を用いた実験を申し出た。ゼミの教授は久絵の曖昧な理由に難色を示したが、どうしてもやってみたいという久絵の熱意に負けて承諾した。

実験は、マウスの学習に関するものだった。床が金網になった実験箱にマウスを入れる。電源を入れると弱い電流が流れてびりびり、びりびりと電気ショックが与えられる。マウスは驚いてあたふたするうちに、真ん中に置かれた台の上に逃げる。やがて、マウスはびりっとなるとすぐに台の上に逃避する。電気ショックから逃げる方法を学習したのだ。次に台の上にも金網を敷いて、台の上に逃げてもやっぱりびりびりする状況にする。そこに逃避行動を学習したマウスを入れて電気ショックを与えるとどうなるか。電気から逃げてもやっぱり電気ショック。暴れまわるマウスはそのうち動かなくなり、軽い電流によるショックを甘んじて受け続けるのだ。

もう、どうしようもない。逃げても逃げても逃げられない。前向きに行動を起こせば、きっとなんとかなる。出来ないことなんてない。きっといいことある。そう思うから人は前に向かって進むことができる。だが、どう足掻いても、何をしてもどうにもならないことだってあるかもしれない。いや、そういうことは必ずある。それでも人が生きていかれるのはなぜなのだろう。諦め。諦念。そう、仕方のない事なんだと自分に言い聞かせることによって、次の何かをみつけようと努力する。だが、どれもこれも、何をしても諦めなければならないようなことが続いたとしたら? きっと絶望する。絶望……ヘルプレスネス(helplessness)。電気ショックを受け続けるようになったマウスの状態に、心理学は「学習(lear)された(ned helple)絶望(ssness)」という名前をつけた。

しかし、久絵が箱に入れたマウスは、どれもこれもいつまでもじたばたと暴れ続けた。ある者は飛び上がり、ある者は壁面に飛びついて。見るに耐えられなくなって久絵は遂には電源を切る。三百匹のうち、比較対照群として虐待に近い仕打ちを受けなかった半分のマウスを除き、残り百五十匹のほとんどがじたばたし続け、失神する個体まで現れた。どのマウスも諦めなかったのだ。いや、一匹だけ絶望状態になったマウスがいた。全数が真っ白なマウスなのに、その個体だけは頭頂に黒い毛がシミのように生えていた。諦めたように、絶望したように電流の流れる床の上で動かなくなったマウスを見て、死んだのかと思った。だが、瞼が動き、頭頂の毛がピクピクして、ちゃんと生きているのだった。マウスの真っ赤な目を見ながら、久絵はとても罪深いことをしているような気になった。マウスから見れば自分は神様のようなものだ。この電流を切れるのは自分だけなのだ。赤い目から涙がこぼれたような気がした。久絵は電源を切った。

結果、学習された絶望を信頼出来る数値として確認することは出来なかった。実験は仮説通りにはならず、つまり失敗に終わった。

 卒業論文には「マウスは電気ショックを受け続けても絶望を学習しなかった。どのマウスも諦めずに一生懸命頑張った。絶望しなくても生きていけるのだ、人間もきっと同じ」という文学的で意味不明なものになった。結局、いくら心理学科の学生といえども、素人同然の久絵にきちんと統制された実験手続きがが取れていたのか、電流強度や刺激時間は性格だったのか、その辺りの実験スキルに問題があったのではないかと、久絵は内心思っていた。

一度実験に使用されたマウスは、ほかの実験には転用できない。すでに何らかの要因が刷り込まれてしまっているからだ。ではどうするのかというと、基本的には安楽死させる。かわいそうだがそれが実験動物の定めなのだ。動物愛護の人々から虐待だと責められそうだが、動物実験とはそういうものなのだ。こうした動物のおかげで現在までの科学の進化があるのだ。久絵も、実験に使った三百匹のマウスを、まさか家で飼うわけにもいかず、すべてホルマリン液で安楽死させた上で、ドラム缶に放り込んで焼くという慣習に従った。これが何匹ほどかのマウスなら、こんな無残なことは出来なかっただろうと思うが、三百匹ともなると、何の躊躇もなく行うことが出来たのが自分でも不思議だった。


「久保田くん、ちょっと」

半年ほど前、会社で着ぐるみをかぶるようになって間もない頃のことだ。山野課長に呼ばれて、久絵は席を立った。

「はい、なんでしょう」

課長席の横で頭を傾げている久絵は、茶色い熊の着ぐるみを頭にかぶっている。後ろから見ると、最近の若い女子が冬場になると好んでかぶる、ラビットの毛皮で編んだ帽子でもかぶっているのかとも見えた。

「久保田くん、余計なことかもしれないが、その毛皮の帽子……それは帽子だよな、この季節には暑くはないのか?」

久絵は黙っていた。

「まぁ、いい。この顧客リストのデータを入力してくれないか?」

「わかりました」

久絵はそれだけ言ってデータが記載されたA四サイズの書類束を受け取り、席に戻った。久絵はPCの扱いに慣れており、こういうデータ入力などはお手の物、誰よりも早い手さばきで終えてしまえるのだ。データ入力に関しての彼女の能力は、男女かかわらず社内のみんなから一目置かれている。上司にしてみても、とても重宝しているので、久絵の姿や行動に多少の問題があったとしても、黙認しているのだった。

久絵は熊の着ぐるみをこの春先からかぶりはじめていたのだが、初夏になっても脱ぐことはなく、それどころか、次第にリアルな熊を模したモノに代わっており、気がつけば本物と見間違うような着ぐるみに変わっていた。ただ、このときはまだ顔全体が隠れるような熊頭ではなく、帽子のように頭の上にかぶせて、そこには熊の目鼻があるわけだが、熊の口にあたる部分に久絵の顔が埋まっている、そんな感じの着ぐるみだった。丁度、熊の口から久絵の顔の口だけが見え隠れしていた。だから帽子に見えなくもなかったのだ。

ある日、誰か来客にお茶を入れてくれと言われたが、他の女子社員がみんな自分の仕事で忙しくして動きそうになかったので、久絵が立ち上がった。給湯室で客用の玉露を急須に入れ、温めのお湯を注ぐ。しばらく待ってから、盆の上に載せた三つの有田焼にお茶を注いで応接室に運んだ。応接室の扉を軽くノックして「失礼します」と声をかけ、室内に入った。応接ソファに腰掛けた中山部長と来客二人が商談していたが、久絵がテーブルの上に湯呑を並べていると、若い方の客が「おぉ!」と小さく声を上げた。その声に驚いた上役らしい年上の男も顔をあげ、ゴクリとつばを飲み込むのが久絵にも聞こえた。

「ああ、驚かせて申し訳ない。この子おかしいでしょ? 私たち社内の人間はもう見慣れているからあれなんですけどね。普通に接しているので、お客さんが驚くかもしれないなんて、もう考えられなくなっていまして」

「……な、なんなのですか? これは」

「何かって……ウチの社員ですけど」

「あ、いや、それはわかりますけれど、どうして」

「さぁ、それは私にも。久保田くん、どうしてなのかね?」

「は? 何が、でしょうか?」

久絵は着ぐるみの中でもごもごと答える。

「何がって、その、帽子だよ」

「帽子……帽子など、かぶっていませんけど?」

「じゃぁ、その、頭の上に乗っかっているのは、いったい何なのだね?」

「これは、私の頭です」

「頭? 君の頭の上に乗っかっているのは、何かと聞いておるのだ」

 こういう叱責というものは、最初は穏やかでも、単純な人間ほど急激に熱くなり、思いもよらぬ剣幕に変貌してしまうものだ。客の手前もあり、黙っている久絵に中山は次第に興奮してつい怒鳴っていた。

「き、君は、会社をなんだと思っている? 少なくとも就業中は、その帽子だか熊だか、なんだかわからないものを、取り給え!」

「……わかりました」

 久絵も胸の奥が急降下するような感じがして固まったがすぐに立ち直り、急に激した部長に小声で答えてから、軽く会釈して部屋を出て行った。久絵が行ってしまったのを見送って、年上の方の客が言った。

「中山さん、いいんですか? 女子社員にあんなきつい言い方をして」

 真っ赤になっていた中山の色がすぅーっと引いていく。

「は? 私、何かまずいこといいましたか?」

「あ、いやぁ、普通のことでしょうけど、最近はセクハラとかパワハラとか言って、何でもかんでも訴えられてしまう世の中ですよ。彼女だって、いまの言葉で傷ついたとか言って、訴えてやる! なんてことがないとは言い切れないのでは?」

「ああ。そういうことですか。それならあの子は大丈夫だと思います。非常に内向的で、訴えるなんて、とてもそんな」

「さぁ、そこが今日びはわからないんですよ。まさかあの人がという人物が犯罪をする世の中ですからね」

「犯罪って。まさか。あの久保田くんは、実直勤勉、とてもいい社員ですよ、あの妙な趣向さえなければですが」

 久絵がたまに社外の人間と出くわすようなことがあると、このようになにかしらひと騒ぎ起きてしまうのだった。それほど熊の着ぐるみはインパクトがあった。いや、着ぐるみそのものにインパクトがあるわけではなく、普通のオフィスの中に着ぐるみを着用した人間がいるということにインパクトがあるわけだ。

 就業中は着ぐるみを取れと言われた久絵は、自席に戻ってしばらく呆然としていた。これは何かわけのわからないものなのか。これは私を守る皮膚なのに。いまや私自身の顔と同じものなのに。久絵はまるで人格を全否定されたような気持ちになって、悔しさに目頭が熱くなってきた。熊の着ぐるみの隙間から、デスクの上にぽたりと涙が落ちる。ダメダメ。こんなことに泣いてちゃダメ。私はこれくらいのことで泣いてしまうような人間ではないはず。奥歯がぎりぎりして顎がガクガク言っているのが聞こえる。いつの間にか奥歯をぎゅうと噛み締めていた。

久絵はあっさりと気持ちを切り替えた。では、帽子みたいに見えなくて、何であるのかがはっきりわかるものならいいんだわ。定時が終わると、さっさと会社を後にした久絵は、以前にも買い物をした着ぐるみ専門の店に駆けつけ、帽子には見えないものを探しはじめた。

 翌日、会社に現れた久絵の頭は、もはや熊そのものだった。本物の熊と見まごうような熊頭を頭からすっぽりとかぶっている。口だけが見えているようなことはなく、もう、久絵の顔はどこからも見えなくなっていた。確かに、これはもはや帽子には見えないだろう。どう見ても熊の頭だ。なん(・・)だ(・)か(・)わけ(・・)の(・)わからない(・・・・・)もの(・・)ではない。中山部長が言った言葉に則した対応だと言えなくもないが、久絵はむしろそんなことよりも、顔の一部が表に出ていたときよりも、もっと深い安堵感を感じていた。顔をいっさい表に晒さないということがこれほど心地よいものだとは、今まで考えてもみなかった。

 熊の頭で出社した久絵に、周囲は驚いたかというと、実はそうではなかった。人は、存外、他人のことなどちゃんと見ていないのだ。とりわけ沢山の人が集まる大手の会社になればなるほど、誰が何をしていようが気にも止めない。というよりは気がつかないのだ。もしかしたら、首なしの人間がいても気がつかないかもしれない。社員の一人がゾンビになっていても、誰かが襲われて噛まれて血を吹き上げながら倒れるまでは気がつかないかもしれない。会社とはおおむねそんなものだ。

 久絵に関しても、最初は隣席の同僚が気づいただけだった。

「久保田さん、どうしたんです? その熊頭」

「あら、おかしい?」

「あ、いや、おかしいっていうか、久保田さんの顔が見えないし」

「顔、見えなきゃだめ?」

「うーん。どうなんだろ。いいんじゃない?」

「よかった。私、今日からこんな感じで会社に来るからね、よろしく!」

 午後になってから、さらに数人の社員が、何だ、あれは? という表情で久絵を見ていたが、まぁ、昨日までの着ぐるみと大きな違いはないかと、黙って仕事に戻った。夕方になってようやく部長が席にやって来た。

「君は、久保田くんかな?」

「はい。そうです」

「あのぅ、私は昨日、君に何か嫌なことを言ったのかな?」

「え? なんでしょうか?」

「ああ、昨日、応接室で帽子などはだめだと言ったことを気にしているのかな?」

「はい。あ、いえ、気にしていません。というか、部長の仰せに従いました。あれは、やはり帽子に見えるようなので、やめました」

「ああ、なるほどそうか。帽子はやめて、今度は熊か」

「あの、これ、帽子じゃ、ないですよね?」

「まぁ、たしかにな。それはもはや帽子とは……言えないわな」

「じゃぁ、オーケーですよね!」

久絵の無邪気な声に、中山は言葉を飲み込んでしまった。

「う、うんまぁ……そうだなぁ、帽子じゃなければ、問題ないのかな」

「ありがとうございます」

「君……大丈夫なのかね?」

大丈夫なのかねと言ったのは、久絵の精神状態が気になったのだ。もしかして、何か深刻な精神病でも患っているのではないだろうか、そう思ったのだ。

「はい! 大丈夫です!」

 久絵は、何も問題を感じていなかったので、大丈夫だと答えた。中山は、この女子社員はもうダメだなと思った。休暇を取らせて病院に行くように薦めるべきか、あるいは懲戒解雇処分にするべきか。だが、こんなことで懲戒解雇に出来るのだろうか。人事部に少し相談するか。中山は頭の中でぐるぐる考えながら、とりあえず様子を見る振りをしておこうと思った。

「ま、しっかり働いてくれ」

 そう言って、中山はその場を離れた。


 熊頭をかぶるようになった久絵は、会社でだけ熊をかぶっているのではない。自宅以外のすべて、どこに行くにも熊頭を脱ぐことはない。友人と会うときも同じスタイルだ。年に何回か、大学時代の同窓生と食事をする。上原珠子は数少ない久絵の友人だ。珠子と会うときにはたいていもう一人の友人、内田美奈子も一緒だ。

「久絵!」

 珠子が声をかけた。久絵は声のする方を振り返って小さく手を振った。顔が見えていない久絵のことがどうしてわかるのかと言えば、この前まで口の中に顔が見える熊の着ぐるみを久絵がかぶっていたのを知っているし、なによりも熊頭などかぶっている人物は、他にはいないからだ。すぐあとに美奈子もやって来て、予約していたイタリアンバルCOVOに入った。三人はたいていいつもこの店に来る。イタリアで修行をして帰って来たというマスターの料理が美味しいし、なにより彼は所帯持ちではあるが、イケメンだからだ。もちろん、ワインも手頃で美味しかった。COVOとはイタリア語で隠れ家という意味だということで、自分たちにピッタリな気がしていた。三人一緒のときはいつも同じテーブル席で、とりとめもなく話をする。たいてい近況報告であるし、だからどうしたという類の話ではない。とにかくお腹の中に溜まっている物を吐き出すだけの会話。相手の話などお互いろくに聞いていないのだった。

「で、どうなの久絵は、最近」

「どうって、別に何も」

「だって頭のお飾りが立派になったじゃない」

「ああ、これね」

 久絵は会社であったことを話し、この熊頭によっていっそう居心地がよくなったと話した。

「ふぅん、そうなの」

 うなずいた珠子も美奈子も、それでその熊頭がいいとか悪いとかと分析するでもなく、ふうんと言ったあとは、それぞれにまた自分の話をはじめた。二人とも久絵の熊頭などよりも、もっと重要な話があるのだった。最近出会った男の話、上司との折り合いが悪い話、新しく配属されてきた嫌味な同僚女、最近別れた彼氏の話、ちょっと気になる後輩イケメン男子のこと。久絵はたいてい聞き役で、聞いてもらいたい話など滅多にないのだった。ストローを熊の口に突っ込んでワインを飲み、熊頭と顔の隙間へ器用にフォークを運びながら、珠子や美奈子の話を聞いた。二人の話は久絵にとって面白いが、自分には当てはまらない話ばかりだった。三人で仕上げのパスタを注文する頃には、赤ワインのボトルが二本空になっており、話もぐだぐだになってきている。こうなると、そろそろ帰る時間が近づいたというサインだ。

「久絵、似合ってるわよ、その熊ちゃん」

 タクシーの中から珠子と美奈子が言った。

 久絵はしばらく同じその熊をかぶっていたが、まもなくもっとクオリティの高いものにバージョンアップした。より高品質な毛質の、ボディまでもがセットになった熊の頭をネットストアで見つけたのだ。少々値は張るが、身体の一部と同じようなものだから背に腹はかえられない。到着したダンボール箱から出て来たそれは、想像以上にちゃんとしたものだった。これをボディまで身につけると、もはや人間とはわからないかもしれない。その姿で森林を歩いていたら、猟師に撃たれてしまうかもしれない。それに安物の着ぐるみとは違い、内側に制汗繊維があしらわれていて、通気性がよく、着心地も抜群だった。これなら頭だけじゃなく、全身で使ってもいいかな。久絵はそう思った。


 久絵は、はじめて着ぐるみをかぶるようになったときから、いつも自問自答を繰り返していた。自分はどうしてこんなものをかぶっているのだろう、どうしてこれをかぶらないと不安で仕方がないのだろう。いつもこの相反する二つの疑問を持ち続けていた。別に熊になりたいわけではない。犬でも猫でもいいのだが、人間の身体よりも大きい存在である熊がいちばん妥当な気がした。ただそれだけのことだ。もちろん、子供時分から熊のぬいぐるみが大好きだったということも理由の一つではあるのだが。

そもそも、皮膚を露出していると、裸を見られているような気がして恥ずかしかった。以前からブラウスは長袖しか着ないし、以前はサングラスやマスクを愛用して肌や顔を隠していた。そのうち、サングラスとマスクでは悪人に見えるのではないかと気がついて、ツバ付きのキャップを目深にかぶるようになった。そのうちに偶然流行りだしたラビットの毛皮の帽子が実に気持ちにフィットした。試しにと思って買ってみたパーティ用のマスクがさらによかった。こうして次第に頭にかぶるものへとエスカレートしていったのだが、少しずつ変わっていく限りは、周りも、本人さえもあまりその変化に気がつかない。気づいたときにはすっかり熊になっていたというわけだ。人は毎日少しずつ変化していく。生物的に言っても、身体の皮膚や細胞は毎日新しものへと入れ替わっているのだという。また、少しずつの変化は、意外と他人からは認識されにくい。昨日と今日ではほとんど違いがわからなくても五年、十年、二十年という長い時間を置いて見比べてみてはじめて、変化していることが認められる。身体の変化もあるが、精神の変化によって姿が変わっていくこともある。極めて地味な性格の女性が、ある日メイクアップに目覚めて、そのメイクが少しずつ濃く派手になっていったとして、毎日少しずつの変化なら周囲は気がつかないだろう。久絵の熊頭もそんな感じ。毎日少しずつの変化があって、みんなが気づいたときには以前の久絵がどうだったかなど誰も覚えていないのだった。

久絵は「どうしてそんなものかぶるのか?」と聞かれても答える術がない。自分でもよくわからないのだ。ただ、安心出来る、心地がいい。それしか答えを持たない。出来れば熊頭の姿で生まれて来たかった、そう思うくらいなのである。

 ところが、一方では、自分はどうも他の人とは違うような気もする。熊頭をつけて暮らしているなんて奇妙だ。もちろんそう気がついている。わかってはいるけれども、ここから逃れられないのだ。だから、逆に不安になったりもする。私は異常なのだろうか。私は病気なのだろうか。そう思ったときに、もし、生まれつき熊頭をかぶっていたのだとすれば、これが生まれたままの自然な姿だったなら、そんな風に思わなかったろうにと考えてしまうのだ。

 生まれたときから男なら男、女なら女であることに不思議を感じないように、生まれたときから熊頭をかぶっているならば、そこにはなんの不思議もないわけで、誰に聞かれても「生まれつきよ」という答えさえすればいいのだ。だけど。久絵は思う。生まれつき熊頭をかぶっていたわけではないけれども、これをかぶるべき身体として生まれてきたのだと思えば同じことではないのか。たとえば生まれつき手や足が欠損してしまっている赤ん坊が、成長してから義手や義足を付けるように、ほんとうは熊頭で生まれるはずだったのに、そうではなかった。だから、いま成長してから義手や義足と同じように熊頭が必要なのだと。

 これは実にいいアイデアだと久絵は思った。アイデアというか、これが真実のような気がした。だって、事実、いまの久絵は熊頭なしでは生活出来ないのだから。たぶん、これを取り上げられたら、皮を剥がれた因幡の白兎と同じようにたいへんなことになるに違いない。もっとも、たいへんなことといっても、熊頭をかぶりはじめる前の久絵に戻るだけなのだが。


 かつて久絵にもボーイフレンドがいた。まだ熊頭をかぶるようになるずっと以前の話だ。最初の男は、大学時代に久絵が参加していたサークルにいた上級生だ。名前を井原真守といい、上手にギターを弾いた。久絵が入っていたサークルは、シンガー・ソング・サークルで、昔で言うフォークソング・クラブみたいなものだ。似たようなサークルで、歌声倶楽部というのがあったが、これはなんだか歌声喫茶みたいな名前が古臭くて恥ずかしい。なんとなく英文字の名称が格好よい気がしたので、久絵はシンガー・ソング・サークルを選んだ。

 久絵自身は、決して歌が上手いわけではない。上手くはないが、好きなのだ。シンガー・ソングというくらいだから、サークル内の強者は、自分で作詞作曲をしたオリジナル曲を中心に歌っていた。久絵も、たまには落書き程度の詩を書くことがなくもなかったのだが、人前に晒せるほどの自信などとてもなかった。まして作曲出来る人なんて、信じられない存在だった。真守は作詞も作曲も出来る強者メンバーのひとりだった。ただ巧みだといえるかどうか、それほど器用なわけではなく、ストレートで朴訥な詩を書き、歌った。彼は、流行歌のように美しいメロディとか、恥ずかしいようなラブソングを作る人ではなかったので、みんなから認められていたかというと、そのあたりは複雑だ。なかなかいいという人もいたが、あんなのは歌じゃない、ただのお経みたいなものだと揶揄するメンバーもいたという感じだ。久絵はしかし、真守が歌う曲は魂に響くような気がして好きだった。

 まだ子供のような無邪気さを残していた久絵は、なんの衒いもなくいつも真守にくっついていた。真守の歌をもっと聞きたい、真守の詩をもっと感じたい。そう思う一念で、真守が歌うときにはいつでも観客席にいた。しばらくすると、その存在に気づいた真守も、久絵を意識するようになった。二人がお茶をしたり、キャンパスの芝生で仲良く弁当を食べたりするようになるまでには、さほど時間を要さなかった。

 大学というところを「大人の幼稚園」だと評した人がいたが、何か目的を持って真剣に学業に取り組んでいる学生でない限りは、当たらずとも遠からずの表現のように思う。ほとんどの学生は、出欠を取る授業にだけは出て、そうではない講義は単位が取れるだけの最低限度の勉強をする外は、授業に出る時間をサークル活動やアルバイトに費やしているというのが常だった。女子学生の場合は、それでもまだ真面目に授業に出ているものなのだが、遊び相手が出来てしまうと、やはり学問はおろそかになっていく。ましてや真守のように歌とギターのためだけに大学に来ているような男とつるんでしまっては、久絵の大学生活も、そのほとんどが真守と過ごすだけの時間となってしまった。

「今度さぁ、早稲山大学のサークルとジョイント・ライブがあるんだけれど、一緒に出ない?」

 真守は大したことではないという口ぶりで誘ってきたのだが、久絵にとってはとんでもない誘いだった。

「ええー? そんなの無理よ。私、歌えるわけないわ」

「歌えないって、じゃ、何のためにウチのサークルに入ったのさ?」

「さぁ、歌いたいから」

「だろ? じゃ、一緒に歌おうぜ」

「でも、私……」

「大丈夫だって。俺が歌うバックで、ちょっとだけハモってくれたらいいだけだから」

 真守の強引な誘いを、やっぱり無理だと断ってから、なんとなく二人は気まずくなっていった。真守の方はそうでもなかったのかもしれないが、久絵は断ったということに何となく負い目を感じたし、それ以上にどうしてそんなことになるのという出来事が起きたのだ。久絵に断られた真守は、別の女子サークルメンバーに声をかけ、デュオ・ユニットを組んで練習をはじめたのだ。本番が近づくにつれて、二人が会う時間は少なくなり、真守はデュオの練習に熱心になっていった。ステージの上で知らない人の前に立って歌うなど想像もできず、だから断ったのだが、真守と過ごす時間が失われるとは考えてもみなかった。ジョイント・ライブまでの一カ月間、遂に久絵の存在は真守の中から消えてしまったのではないかと思われた。それほど冷たい態度で練習場から追い出されるようになったのだ。

 ジョイント・ライブは早稲山大学の学生会館で土曜日の午後に行われた。フットサルが行なえるかどうかくらいの広さの学生会館ホールにみっちりとパイプ椅子が並べられ、学生たちがそろそろ集まりはじめている。小さなステージにはいくつものスポットライトが当てられている。ステージ奥の緞帳には「早稲山大学シンギング・サークル&慶和大学シンガー・ソング・サークル・ジョイント」と書かれた手づくりの白い幕が貼り付けられている。早稲山大学から三組、慶和大学からも三組のバンドが交互に数曲ずつ歌うというプログラム進行で、真守は四番手の出演だった。久絵は複雑な気持ちで客席にいた。真守とデュオを組む女の子が仲良さそうにステージの袖でスタンバイしていた。一瞬、真守がこちらを見たような気がした。小さく手を振ったが、真守は気づかなかったのか、またステージに視線を戻した。いよいよ出番がやってきた。

 真守の一曲目。「えんじん類」という不思議な歌が語られるようにソロで歌い出され、熱唱のうちに終わる。拍手、MC。

「次もぼくのオリジナル曲で“ひとごころ、ふたごころ“という歌です。同じサークルの美希ちゃんがサポートしてくれます」

真守の合図を待って美希が舞台袖からステージのセンター左に配置されているキーボードのところまで歩いていき、椅子に座ってから少しマイクの位置を調節している。可愛らしいシフォンスカートが揺れて、大丈夫よという視線が真守に送られる。真守はギターを弾きはじめ、歌がはじまる。美希は、しばらくは黙ってキーボードを弾いていたが、サビがはじまるとマイクに向かって歌いはじめた。透明感のある歌声。久絵にはとても真似の出来そうにないようなハーモニー。

ひとはぁ、こころぉ、ひとごころ~

 ふたりのこころぉ、ふたごころぉ

 おまえと俺とのぉ、ふたごころぅぉ~

 二人の歌が終わる。さわさわと拍手が静かに広がる。真守ひとりだけの歌とは違い、とてもやさしい可愛らしいハーモニーがみんなの気持ちをとらえたようだ。すぐに次の曲がはじまる。真守が奏でるアルペジオとキーボードのリフが絡んで切ない雰囲気を創り出す。「花言葉」という真守のオリジナル曲は、いくつかの花にまつわる言葉が次々と繰り出されていく。真守が花言葉を歌っているその背景で、花の名前がハーモニーをつけて歌われるという、バロック音楽のカノンにも似た複雑な構成である。

忘れないで、私のことを

~ワースレーナーグーサ

情熱込めて、あなたに

~あかーいバーラー

それは熱愛でしょうか

~カーネーションー

美しいのはあなたのこころ

~さーぁーくーらー

 繰り返されるメロディに聴衆がどんどん引き込まれていく間に、美希が苦しそうな表情を見せる。真守がギターを弾きながら心配そうに美希の顔を見る。美希は微笑みながら頷いて歌を続ける。歌が終わる。真守は、親指を美希の方に突き出して、ナイスの合図を送った。悲しいくらいにぴったりと息が合ったサウンドが完全に消え去るまで、会場は物音ひとつしなかった。みんなが心から酔いしれていた。アマチュアながら、誰もが認める美しいハーモニーを携えたデュオ・ユニットが誕生した瞬間だった。

 その年の夏、蓼科高原でサークルの合宿があった。久絵は、あのライブ以来真守と会っていない。合宿に参加すればまた真守と話が出来るに違いないと考えていたのだが、風邪をこじらせてしまい、それが悪化して気管支喘息になり、ついに緊急入院という大ごとになってしまった。久絵が一週間入院して血中酸素量を回復させている間に、真守は仲間たちとともに蓼科高原に出かけてしまい、久絵はひとり寂しく療養生活を送った。親には心配かけまいと思って連絡はしなかった。  

十日後、点滴と酸素吸入によって咳もほとんどなくなり、血中酸素もほぼ平常時にまで回復出来たという診たてで、久絵はようやく一人暮らしのアパートに戻れた。当時の久絵はまだ携帯電話を持っておらず、真守からは何の連絡もなかった。翌月曜日に大学に行ってみると、合宿が終わった後のサークルに出ている者はまばらで、真守の所在を教えてくれる者もいない。みんな、夏休みで帰省してしまったのだ。真守の実家にまで電話をする勇気はなかった。仕方なく久絵も実家に戻り、学期がはじまるのを待った。

 九月になり、授業がはじまると、みんなそれぞれ田舎から帰って来て、サークルの仲間も練習を再開させていた。真守の姿を探す久絵。そしてキャンパスの木陰でギターを弾きながら歌合わせをしている真守をついに見つけた。だが新たな歌の練習をしている真守と美希の間には、もはや八分休符すら挟めないような濃厚な空気が滞留していた。久絵の恋が夏とともに終わった。


 大学を卒業した久絵は、オフィス向けのコンピュータシステムを提供する会社に入社した。いまでこそビジネス・ソリューションを掲げたシステム企業は多いが、その草分けともいえる老舗の会社だ。そこで久絵は総合職として採用された。文系なのにコンピュータなんて出来るのかと思われそうだが、こういう企業は文系を採用する部署もあるのだ。オペレーターやシステム開発者でない限り、営業や企画は文理関係なく行なえる。心理学科卒業というのも少しくらいは功を奏したのかもわからないが。

 久絵の名刺に書かれていた肩書きは、システム・エンジニアという名称。エンジニアとはいうが、技術者ではない。いわゆるプロダクト・マネージャーという職種だ。顧客の要望を聞き出し、それを社内の技術者に渡してソリューションの進行管理を行う。そして納品までを見届けるという、つまり営業職と同じだ。こういう仕事に興味があったわけではないのだが、なんとなくこれからの新しい仕事のような気がして就職希望のエントリーをしてみたところ、難なく入れてしまったのだ。

「コンピュータなんて、私に出来るのかしら?」

 そう不安に思わなくもなかったが、文系からやって来ている女子のほとんどは同じ気持ちだった。一年もすればいろいろ知識も身についてくるに違いない、そう思って前向きに頑張った。卒論を書くときにも、大学のコンピュータを使って実験結果の解析をしたし、あながち無縁ではなかったではないか、そう自分に言い聞かせもした。だが、卒論の解析をしたのは久絵ではなく、院生である先輩研究生であり、久絵は結果を受け取っただけだった。とはいえ、多少なりともそういうものに関わりはしたのだ、というささやかな経験を糧に、久絵はコンピュータ知識の習得にも前向きに取り組んだ。文学部といえども、数学は嫌いではなかったし、事実かつては大学受験も数学で受けたのだ。

 だが、所詮、久絵の頭脳もそこ止まり。かろうじてC言語の入口までは学んでみたものの、難しくてわからない。わかないけれども無理やり頭に詰め込む。システム・エンジニアは、敢えてそのようなプログラミング言語を覚える必要はなかったのだが、根が真面目な久絵は、少しでも知っておきたかったのだ。だが、その真面目さに却って苦しむことになった。コンピュータ業界は、ハードもソフトも刻一刻と新しくなる。C言語はどこまでいってもベースにはあるが、さらに進化したC++や、JAVA、オブジェクティブCと、どんどん新たな言語が生まれてくる。OSだってそうだ。マシン毎にOSが異なるし、そこに使われる言語も変わる。もう、ついて行けない。ついて行けないと悩みはじめたのに呼応するように、システム・エンジニアという職種そのものにも影がさしてきた。もはや、プログラム能力のないシステム・エンジニアなど、意味がないのではないかという風潮が業界に生まれはじめたのだ。久絵ひとりが悩む必要はどこにもなかったのだが、なんとなく自分が社会の非適合者になってしまったような気がして、気持ちがすぐれぬ日々が続いた。自分に自信が持てなくなった。なぜこのような不向きな業界に来てしまったのだろうかと思い悩んだ。

 張り切って仕事をしようと考えていた組織の中で、惨めな自分を見つけてしまったら、もう、そこに居場所を失ってしまう。失態をしでかしたわけでも、会社に迷惑をかけたわけでもない。だが、プログラミングを知らないシステム・エンジニアの仕事は確実に減っていた。では社内で別の仕事を探せばいいのだが、久絵はそこまで器用ではない。やがて久絵は労働意欲を失い、ただ事務的に出勤退社を繰り返す日々が続いた。

 会社の中に居場所がないと感じた人間は、いったいどのような日々を過ごすのだろう。それでも一生懸命に自分なりに仕事を作る? それが出来れば会社にとって素晴らしい従業員だ。だが、なかなかそうはならない。窓際に席を移して、働いている振りをして一日が終わるのを安穏と待つ? そういう高年齢社員はすでにたくさんいる。そうした彼らはやがて優遇退職と名付けられた制度でリストラされていった。このどちらでもないとすれば、悶々とした気持ちをひた隠しにして、日々与えられた僅かな仕事に一日がかりでゆっくりと取り組むしかない。久絵はこうした二年間をなんとか過ごした。総合職として張り切って入社したはずの久絵は、八年目にして社のお荷物になっている自分を感じていた。

 この頃からである。久絵が出来るだけ人から隠れていたいと思うようになったのは。オフィスにいても、誰ともほとんど話をしない。自分のデスクに隠れるように座り続け、ひっそりと数少ない仕事をこなす。出来れば外にも出たくない。もっとも、担当の得意先が減っているから、出向いて行くこともめっきり減ったのだが。ふと目を上げると、誰かが久絵を見ているような気がする。慌てて視線を下げてから、うつむき加減に周りを見回す。実際には誰も久絵のことなど見てはいない。

 一日中、誰とも口をきかないまま退社するという日々が続いた。得意先である担当クライアントそのものが減っているわけであり、新たな仕事が発生することはなかった。ほかの者から仕事の手伝いを頼まれたり、誰かが雑用依頼の声を掛けてきたりしたときには、多少表情を和らげて受け答えはするものの、それ以外はPCに向かって黙々と作業をしている振りをしていればいいのだから、自ら誰かと会話をせねばならないことは一切なかったのだ。久絵は学生時代から実家を離れて未だに一人暮らしであるから、家に帰っても言葉を交わす相手はいない。それは久絵には苦痛でもなんでもなかった。むしろ、自分一人の時間を自由に過ごしているという感覚が快適であった。

 人間は社会的動物だといわれている。つまり、周囲とコミュニケーションを取りながら、共に生きていく種族なのだ。ではコミュニケーションを断った人間がどうなるのかというと、よほど強い精神力を持つ人間なら別だろうが、多くの人間はどこか調子がおかしくなる。結局久絵も知らないうちに気分変調症になっていたのだろう。

 PCに向かって仕事をしているだけなのに、急に涙がこぼれはじめる。なんら悲しいことがあったわけでも、昔の辛い記憶が甦ったわけでもないのに。オフィスのデスクで涙を流しているというのは、なんとも妙な感じだ。周囲にわからぬように涙を拭き、洟をかむ。それでも止まらないので、そっとトイレに行く。便座に腰掛けて、なんで涙が溢れるのだろうと考えてみる。どこにも理由は見つからない。あ、いや、ひとつだけ思い当たることはある。そのことは思い出したくない記憶だし、心のどこかに封印しているのだが、ふと悔しい思い出として蘇ることがある。だが、いまはそれが理由ではないはずだった。


 三年前。システム・エンジニア職に暗い影が差しはじめる少し前。久絵はまだバリバリ働いて、得意先であるクライアントを飛び回っていた。同業者が集まる交流パーティでライバル会社の男と知り合った。久絵よりも三歳年上でイケメンのシステム・エンジニアだった。最初はライバル会社であるということもあって、緊張して話をしていたが、話上手な彼の言葉についつい乗せられて、気が付けばデートの約束をさせられていた。その日はそれぞれに同僚たちとの二次会があったので、お開きと同時に別れた。

 一週間後の金曜日、久絵は定時きっかりに仕事を片付け、待ち合わせ場所に出向いた。学生時代以来のデートである。どうして急にこんなことになってしまったのかしら? 久絵はそう思うが、しかしまんざらでもない。彼、加島裕二は、井原真守と少し似ているような気がした。久絵はまだあの学生時代の苦い失恋を忘れられないでいるのだろうか? そんなことはない。ただ、加島の横顔がどこかで見たことがあるような気がしただけだ。でも話をしてみると、真守とはまったく違っていた。自作自演で歌う真守は、どこかフェミニストな印象があったが、加島はどちらかというと体育会系で、骨太な感じがした。

「久保田さん! こっち」

 加島は先に待っていた。

「ぼくは、居酒屋系が好きなのだけど、そういうのでもいい?」

「ええ、私も和風は好きよ」

 久絵は加島の後ろについて行き、若者が集まる居酒屋チェーン店の前を素通りして、路地を二回くらい折れたところにある古くて狭い店に連れていかれた。

「へぇ。加島さん、こんな場所、よく知っていますね」

「へへ、ぼくは別に通ぶるつもりはないけどさ、ほんとうに美味しいものを出してくれる、なのにお値段お手頃っていうのが、好きなんだ」

 九州の地名を看板に掲げたその店は、八人も座ったら満席というほど狭くて、戦前からあったのではないかと思うくらいに古びた店だった。オープンになった板場にいるのは、七十は越えているだろうと思われるお爺さんで、軽口も言わずに包丁を動かしていた

 久絵はお刺身が好きだ。好きだというより、肉より魚の方が健康や美容にいいと信じていた。それに、日本酒もさらっとした飲み口のものなら好きだった。酒飲みというほどは飲めないが、調子がよければ四合くらいは飲んでしまう。ただし、それだけ日本酒を飲んでしまったら、たいてい酩酊してしまう。さすがに記憶を失ったことは一度しかないが、眠ってしまうことは何度かあった。

 初デートだというのに、この意外な店の選択と、料理の美味しさ、そして加島の饒舌な話しぶりにすっかり調子に乗ってしまった。加島にそういうつもりがあったのかどうかはわからないが、気がつくと、久絵は見知らぬホテルの一室で、加島の腕にしがみついて眠っていた。

 まだ会って二度目だというのに、それもまだよく知らない相手なのに、こんなことをしてしまうとは。久絵は「そういう軽い女だと思われたくない」などと考えるようなことすら知らない、このうえなくうぶな二十六歳だった。

 久絵と加島は、それから毎週のように会った。会うたびに話すことと言えば、お互いの思い出話が半分。残りの半分は、同業者であるからだが、仕事の話になった。加島は久絵の顧客の話を聞きたがった。久絵が頑張っている姿が目に浮かぶからだと言った。久絵は、自分が嬉々として取り組んでいる大手企業のシステム開発プロジェクトの話をした。その内容に自信があったし、加島には自分の働きぶりを知ってもらいたかった。久絵の仕事話に、加島はいちいち頷きながら褒めたたえ、ときには意見を付け加え、アドバイスすらした。久絵は加島の褒め言葉にまた自信を新たにし、アドバイスもまっすぐに受け止めた。

 加島と知り合って半年くらいは週末デートを楽しんだ。休日に会うことも増えた。そのうち、加島が言った。

「あのさ、ぼくも来年は三十歳になる。そろそろ結婚を考えたいと思ってるんだけど。久絵はどうだい?」

 これはプロポーズなの? 久絵はまだわからないと答えた。なにしろ、就職してまだ四年とちょっと。まだまだ働きたいと思っていたから。加島はふぅんと返事をしてしばらく考えていたが、いや、すぐにというわけでもないんだが、とポツリと言った。

 それから忙しい日が続いた。久絵が担当するクライアントが、自社全体のシステム構築を提案して欲しいと言ってきたのだ。とても重要な案件なので、複数のシステム会社からの提案を受けるという。折しも加島の方も仕事が重なって来たということで、週末デートはしばらくお預けとなった。提案が終わるまでの二ヶ月の間に、一度も会わなかったということはないのだが、ランチで会うとか、食事だけして帰るとか、密度が少し薄くなっていた。

「どう? 裕二の方も、仕事落ち着いた?」

「うん、まぁな。久絵は大きいの、終わったんだろ?」

今日も会えないと言うので、夜、久絵は自宅から電話をかけた。

「あれが決まったら、また忙しくなりそう」

「そうか。ぼくの方は、今日、獲得した仕事があって、また忙しくなるんだ。それに……」

「それに、なあに?」

「今度会ったときに、話そうと思っていたんだが……」

「なによ」

「しばらく、会うのをよそう、ぼくたち」

「どういうこと?」

「……言いにくいのだけど……」

「……誰か好きになった?」

「う、うん、まあそういうことだ」

 またしても久絵の恋愛は半年余りで終わった。いつも、といっても恋愛経験はたった二回だけど、ブランクが空いたあと、ダメになるのが久絵の恋だった。こういうとき、泣くのだろうか。喚くのだろうか。普通の女はどうしているのだろう。久絵は案外クールなのだ。涙も出ないし、口惜しいとも思わない。連続ドラマが最終回を迎えたときのように、ああ、終わったんだ、そう思うだけ。もう一回、もう一回だけ、再放送して! と泣き喚いたりしないのだ。しないというか、そういうことは出来ない質なのだ。ただ、しばらくしてから澱のように身体の底の方に何かが溜まっていくような気がする。まだ二回だから澱の量は少ないが、この先同じようなことが繰り返されたら、この澱はやがて溢れてくるのかもしれない。アルコールなら蒸発するが、澱はどうにもならない。壜の底にこびりついて、こびりついた上にまた澱が溜まって、それはついに身体の毛孔という孔から吹き出すのかもしれない。でもそれは、いますぐにではない。

 翌朝、会社に出たら、部課長はすでに会議室で緊急会議中だった。久絵は後から呼び出された。会議を終えたばかりの山野課長が言った。

「久保田、こないだの案件な、君はよく頑張ったと思うが、他社に取られた」

「え?」

 そんなはずはない。久絵が四年間世話になってきたクライアントだし、競合だと言っても、半ばウチに決めていると聞いていた。しかし、驚いたことに、今回獲得したのは新規入札のシステム開発会社で、しかもそれは加島が所属する会社だった。しばらくしてから聞かされるのだが、担当のシステム・エンジニアは加島だった。

 産業スパイ。久絵の頭に最初に浮かんだ言葉だ。いやそんなはずはない。偶然だ。最初からお互いに競合会社であることはわかっていた。こういうことだって有り得たはずだ。現に、加島が担当していた仕事は、うちでも別の担当が扱っていた。たまたまこういうめぐり合わせになってしまっただけだ。だが、一方では疑う気持ちもぽこぽこと浮かび上がってくる。久絵は、クライアントの強みや弱み、ありとあらゆることを加島に話した。あれは加島の誘導だっただろうか。私は自社の秘密やプロジェクトの中味まで話しただろうか。思い出せない。思い出せないが、久絵がかなりの部分を加島に話したことには間違いない。体中の血液がすべて背筋伝って胃袋の下に流れ落ちる。水分を失った前頭の毛細血管が乾きに喘ぎはじめる。恋人と同じクライアントの担当になってしまったから別れたのだろうか。それとももう役割が終わったからなのだろうか。

 噂というものは生き物だ。どこでどのように湧いて出るのかわからないが、社内のそこここで、信じられないような噂が囁かれるようになった。久保田久絵がライバル会社の男にかどわかされて、自社の秘密をリークした。久保田が自社プロジェクトのシステム・エンジニアなのに、ライバル会社に秘密を売り渡した。久保田は、自社を売った男に、振られた。

 まもなく、加島が婚約したことを風の噂に聞いた。相手は、仕事を新規獲得したクライアントの社長令嬢だった。一方で久絵は、メインクライアントを失い、雪崩のように他の担当クライアントも外されていき、閑職へと追いやられた。これが久絵の二回目の恋愛の一部始終だ。


 頭の回転が早く、要領も悪くない久絵は、これまで仕事でミスを犯したことは一度もない。クライアントのオーダーを的確に捉え、システム開発チームを上手くコントロールしてクライアントが求めるものに最も則したシステムを構築させる。実務においてもA型気質と言われる几帳面さで、的確にこなし、出来上がったものを二度見直すという入念さ。だから社内でも久絵の仕事は完璧だと、その点では一目置かれていた。ところがあの噂が収まりかけた頃、部長室に呼ばれた。

「久保田くん、君が担当する仕事は早くて丁寧だとみんなから評判だよ」

「はぁ。ありがとうございます」

「……なのだがね、こないだのは、残念だった。いろいろ噂が立っているが、気にするな。丁度、いまいろいろ仕事が減ってきていて、君も困っているだろう」

「いえ、いろいろ、ご迷惑をおかけします」

「それで……今度の人事なんだが、いま担当してもらっているクライアントを外れてもらって、社内の仕事に専念してもらいたいんだ」

そして久絵は総合職から事務職に職種替えとなった。

 事務職とは、要するに総合職のサポート係だ。得意先管理や営業売上管理、在庫管理などはまだ仕事らしい仕事だが、社内の文具管理やコピー機の用紙管理となると、単なる雑用だ。総合職に燃やしたような意欲など、欠片も生まれない。だが、久絵はすでにそういう仕事を受け入れる身体になってしまっていたのかもしれない。プライドもモチベーションも、とっくに霧散してしまっていた。


「先生……私は、鬱病でしょうか?」

 事務職に転属となってから一年後。重い腰を持ち上げて訪ねた診療内科の医師は、鬱病だとは言わなかった。

「ちょっと、気持ちが低空飛行になっているのでしょう。お薬を飲んでみましょう」

「お薬……ですか?」

「うん、薬を飲むというのも、いい方法なんですよ。試しに飲んでみて、必要なければ、止めたらいい」

 気持ちが楽になるのなら、軽めの薬だというし、飲んでみよう。久絵はそう思った。デプロメールという軽い抗鬱剤を飲みはじめた最初の頃は、なんとなく気持ちが軽くなったような気がした。だが、それでも突然涙が溢れ出るということは度々あった。悲しくもないのに。私の涙腺、壊れちゃったのかな? 久絵は思ったが、だからどうしなきゃならないかはわからない。こんな中途半端な情緒不安定じゃなくって、思いっきり狂ってしまうとか、胃潰瘍になってしまうとか、いっそ会社を休まなければならない状態になってしまったらいいのに。そう思った。こうして二年間同じ薬を飲み続けた。

 ふと大学一年生のときの情景が頭に浮かんだ。大講堂での一般講義に出ている学生の中に、とても奇妙な女学生がいた。彼女は、髪を長く伸ばしていたのだが、前髪が異様に長いのだ。前髪が長いという言い方は間違っているのかもしれない。後ろに下ろすはずの長い髪を、前に下ろしているのだ。つまり、長い髪で顔を隠しているということだ。一時話題になったあの恐怖映画の恐ろしい女と同じように。一般課程の間に何度も彼女を見かけたが、幸か不幸か知り合いになる機会はなく、遠巻きに見かけるだけだった。

彼女はなぜあのように顔を隠していたのだろう。顔がとてつもなく醜いのだろうか。口が耳まで避けているなどという馬鹿なことはあるまいが、大きな火傷を負ってしまったとか、大きな痣があるとか、何かしら人に見られたくない瑕疵があるのだろうか。あるいは、私と同じ? 他人から隠れていたかったの?

久絵は、この頃、人がいるところではひどく落ち着かない。誰もいない場所で、一人になりたい。いつもそう思うのだ。もう長い間、会社でも家でも、一言も口を開かない日常を送っている。寂しいなんて感じたこともない。家で、一人で過ごしているのがいちばん心地いい。自室で引き篭っていたい。だけど、働かなければ食べていけない。誰も他人がいない職場など、自分の周りにはない。重篤な鬱病にかかったら、仕事にも出向けないというが、自分は嫌々ながらも会社には出向けている。ということは、自分は鬱病ではないのだな。医師もそうは言わなかったし。薬なんかただの気休めだった。どうでもいいけど、事務所で突然涙がこぼれてしまうのだけはなんとかしなきゃあね。久絵はオフィスで目隠しに出来そうなサングラスをひとつ購入した。花粉症を偽るために、マスクも一応、用意した。だが、そんなものではもはや久絵の心は安堵出来なかった。この空虚な場所で、自分が自分でいられるように。その思いを突き詰めていくうちに、気がつけば熊の頭をかぶっていた。


目をつぶると真っ暗だ。ただ目をつぶるだけなら、普通は瞼の裏に通う赤い血脈がうっすらと見えるのだが、ここにいると、ほんとうに真っ暗になる。それからそっと瞼を開けると、小さな部屋の中にいて、目の前の小さな窓から外界を覗き見ることが出来る。私は、私だけの、薄い、しかし安全な壁で囲まれていて、ここにい居さえすれば、何が起きても大丈夫。これは私だけのシェルターだ。外界を遠ざけてくれる、外界と私をきちんと隔ててくれるシェルターだ。落ち着いた呼吸が聞こえる。自分自身が息をする音。私が生きていると示してくれる音。じんわりと顔の周りがあたたかくなる。私自身の息のぬくもり。もう、これで私はぶれない。私は私の居場所をようやく見つけたのだ。

はじめて頭につけた着ぐるみは、思いのほか心地よく、想像すら出来なかった安堵を久絵にもたらしてくれた。久絵が求めていたのはこれだった。これが自分自身の姿だ。この日、久絵は熊の着ぐるみをつけた“かぶり(・・・)す(・)と(・)”になった。

 それから半年の間に久絵の着ぐるみはどんどん進化し、部長からパワハラまがいのきつい注意を受けたあの翌日、完全に熊頭になった。熊頭はその後もリアルに変化してもはや久絵の皮膚の一部となった。血液こそ流れていないが、気の流れは肉体とリンクしている。いまこれを剥がされたら、顔じゅうから血液が吹き出すに違いない。


 いまなお久絵は持ち前の処理能力で、依頼された作業などあっという間に終えてしまう。そうでなくても作業量は少ないので、就業時間内のかなりの時間が余ってしまう。その間でも仕事をしているポーズは必要だ。PCの前で、熊頭の久絵はどうしようかと考えた挙句、結局、調査と称してインターネット・サーフィンで時間を消費する。すると、毎日決まって訪れるサイトが自然と固まってくる。そのうちのひとつが、出会い系のサイトだった。出会い系というと、いかがわしいイメージがついてきそうだが、援助交際や不倫などとは違う、真面目な出会い系サイトもある。久絵が見ているのも、そういう結婚相手を探す真面目な人々が集まるサイトだ。

 ピュア・ウイルというサイトは、男女がそれぞれに自分のプロフィールと希望する相手のタイプや年齢を偽りなく登録する。ネット上の名前は“熊絵”というハンドル名でもOKだ。しばらく放置すると、希望に近い相手からメッセージが届く。あとはメールでやりとりをして、その気になれば実際に会うのは自由、そういう仕組みになっている。男性は会費を払うようだが、女性には費用がかからない。顔写真を登録するかどうかは、それぞれ随意ということになっている。もちろん、久絵は素顔などは登録しない。代わりに熊頭の写真を登録した。他にも、漫画のキャラクターを顔写真として登録しているような人もいるので、それでもまったく問題ない。

 数日後、三通のメールが届いた。


[はじめまして。真といいます。小さな会社を経営しています。よろしければ、ご返事ください。小林真]

[こんにちは、私は歯科技工士です。私と友達になったら、健康な歯を手に入れて、いま以上に美人さんになれますよ。山田明彦]

[お初です。今度、俺の車でドライブしませんか? あっと、順番が違うね、自己紹介しないと。俺は車が大好きな三十二歳、自営業です。自営業って、八百屋とかじゃないよ。会社やってる。よかったら、メールください。日下部聡太]


 さらに翌日には五通、翌週には二通。三十二通目でメールは一旦止まった。久絵は、こんなにたくさん反応があるとは思っていなかったので、来るメールすべてに、どぎまぎしながら目を通した。こういうメールは会社で見るわけにはいかないと思ったので、帰宅してから読んだ。年齢とメールの内容で判断して、幾人かには断りのメールを入れたが、十五人とはそのままメールでのやりとりを続けた。


[こんにちは、真さん。熊絵です。メールありがとうございました。私は、こういうサイトに登録したのははじめてなので、何をどうしたらいいものやら、少々戸惑っています。少しずつメールでやり取りさせて頂けたら嬉しいです]

[熊絵さん、メールありがとう。もちろん、そうしましょう。少しずつ知り合っていけたらいいですね。実はぼくも初登録ですので、熊絵さんと同じですね。いつまでも独身でいるぼくに、姉が薦めてくれたのがこのサイトなんだ。なんだか照れくさくって、何を書いたらいいのやら。次回は、ぼくの仕事の内容を話すね]


 久絵はこんな調子で、十五人の相手とメールでやりとりをはじめた。インターネットサイトをブラウザで見るのとは違い、メールのやり取りだと、普通のメーラーが使えるので、会社でも臆面なく読み書きが出来た。見た目は業務メールと少しも違わないから。一ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎると、そろそろ何人かの男から「そろそろ会ってみたい」とメールに書いて寄こした。だが、久絵は無視し、あるいはのらりくらりと何らかの理由をつけてはかわし続けた。もともと久絵は結婚相手が欲しかったわけではないから。なんとなく時間つぶしと気持ちのぶつけ先として続けていただけだ。半年もすると、十五人のうちの十人が次第に返事を寄こさなくなり、ほとんど自然消滅状態になった。残る五人とは、なんとなくメールし続けた。その都度書いてくる「面会希望」に謝絶し続けても、なお諦めない忍耐の五人だった。

 デザイン事務所経営の真、四十歳。車好きの聡太、三十二歳。システム会社勤務の健一、三十三歳。起業家の彰、二十七歳。ファッションブランド自営業の准一、三十五歳。それぞれに魅力的に見えた。とりわけ、同業者らしい健一に興味を覚えた。しかし、以前の二の舞は踏まないように、久絵は充分に気をつけていた。それに、久絵はまだ結婚したいとは考えていなかったので、五人とは真面目にやり取りしてはいるが、常に一定の距離を置くように心がけ、直接会うことも憚った。


[健一です。確かに、いまの業界ではシステム・エンジニアは辛いことになってますね。ぼくは電子工学部を出てプログラマーを目指したから、順調なんだけどね。それでも朝令暮改みたいにして進化していくテクノロジーには、ついていくのは大変なんだよ。知っているとは思うけど]


 同業者の健一は、こんな風にして業界の悩みを共有出来るし、久絵の悩みもお見通しだったから、なんでも話がしやすく、それに気が楽だった。この人は加島のような嘘つきじゃなさそうだし、なにしろ技術者なんだから、真面目な人に違いない。久絵はこの人になら実際に会えるかもしれないなと考えはじめていた。


[熊絵ちゃん、プロフィールの写真見たよ。結構、色黒なんだね。でも目はつぶらで、その代わり鼻も黒くて……って、あれはテディベアだよね。熊が好きなんだね? 知ってる? テディ好きな人は、寂しがりやだけど、芯が強いんだって。これ、熊占い]

[健一さんは、物知りなんですね。プログラマーだっていうから、世間の狭いパソコンオタクかと思ってました(失礼)。もっといろいろ教えてくださいな]

[いいえ、はっきり言ってぼくはPCオタクだと思うよ(汗)。でなければ、こんなディテールな仕事、やってられないよ。なんだけど、好奇心が旺盛だから、ほかにもいろいろオタクしてるんだ。アニメオタクとか、ゲームオタクとか……あっと、これじゃまるっきりホンモノのオタクだな(笑)熊絵ちゃんはどうなの?]

[健一様。お元気ですか? 実は、なかなかお話し出来ないことがあって、健一さんには是非お話ししたいなーとは思っているけれど、それを話したら、嫌われちゃうかも。だから、まだお話し出来ないなーなんて]

[熊絵さま、何ですか、秘密って。なんだか怖いなぁ。もしかして、実は熊絵さんは八十歳のおばあちゃんです、なんつうことだったりして(笑)。でも大丈夫ですよ。ぼくは老け専もいけますから(笑)まぁ、ぼくに話してみようって気になったら、いつでも教えてください。無理なさらずに]


 山野課長に呼びつけられた。役員会議室に来るようにということだった。久絵が会議室に行くと、中山部長と山野課長が応接セットに座って待っていた。課長が久絵に座るように言い、次に部長が口を開いた。

「久保田君、だったよね? その後順調に働いているか?」

「は、はい……」

「事務職に配置転換してどのくらいだったかな?」

「はい、二年と少しになります」

「そうか。システム・エンジニアとは職務が違うだろうから、いろいろと不満があるのではないのかな?」

「……」

「ところで、少し言いにくいのだが……人事からクレームがあってね」

「クレーム?」

「うん、そうだ。君のその勤務態度についてなんだが」

「勤務態度って……」

 山野が口を挟んだ。

「あ、いや、久保田くん、君の仕事ぶりは素晴らしいし、遅刻とかもないし、そ、そういう勤務態度のことではぁなくてぇ……」

「山野君! ちょっと黙って給え」

「は……」

「そう、そうじゃなくて、その帽子……いや、その、熊の頭のことなんだがね」

「また、ですか?」

「私はね、そんなことはなにも問題ないだろうと、人事には言っておるんだが……人事が言うにはね、会社の服務規定の第三条二十項にある“泥酔、賭博、その他これに類する行為により社内の風紀を乱さない”というのとね」

「泥酔、賭博、ですか? 私はそんなの……」

「まぁ、聞き給え。むしろこっちだな、うん。同じ第二条三一項の“勤務時間中の服装は特に端正を保つように心がけ、華美または異様な風態をするなど、勤務にふさわしくない衣服は着用しない”とある、これに違反していると言うのだよ。人事の奴がね」

「……」

「いや、あはは。私はね、そんなもの何が悪いんだと言ってやったんだがね」

「……で、どうすればいいのですか?」

「つまりだなぁ、もっと、こう……そう、普通の姿に戻るか……」

「戻るか?」

「……戻るか、だなぁ、それが出来ないのなら、退職願いを出してもらうか……」

「部長! それはちょっと」

「山野君は黙ってなさい!」

「……部長……私は……これを取ったら……死んでしまうかもしれません」

「な、な、何? 死ぬ? わっはっはっはっは! 久保田君も大げさだなぁ。そんなもの外したからって死んだりなんか……」

「死んだりなんか……するんです。私、このクーマは私の皮膚と同じなんです」

「そんな馬鹿な!」

 中山は腰を浮かして、久絵の頭に手を伸ばし、熊頭を脱がそうとした。山野が慌てて中山の腕を押さえて、それを阻止した。山野に腕を掴まれてバランスを失う中山。応接テーブルの上に落ちそうになって中山が山野の上着を掴む。二人のオジサンが下手なステップを踏んでいるような形になった。ようやく元通りに腰掛けた中山の耳元に口を近づけて、山野が小声で耳打ちをした。

「部長! そんなことしたら、訴えられかねませんよ」

 気を取り直した中山が軽く咳払いをしてから言った。

「と、とにかくだなぁ、よく考えてみ給え。明日、もう一度話をしよう」

 会議室を出た久絵は、ほんとうに死んでしまいそうだった。この私の大事な安息場所が奪われる。これを外して生きていかれるのだろうか? 久絵にとって、それはもはや無理な相談のように思えた。久絵は席に戻り、しばらく何もしないでいたが、やがて、のそのそと自分のデスク周りの片付けをはじめた。

 人事が久絵にクレームをつけたという話は、あっという間に社内に広まった。社内に熊の頭をつけた女子社員がいる? はじめて知ったものもいた。久保田という女子社員は、ライバル会社の男に騙されて、得意先を失い、身体を弄ばれて捨てられた。久保田という女子社員は、総合職を首になってから頭がおかしくなって、熊の姿をして出社するようになった。久保田という女子社員は、熊のコスプレで会社に来て、夜な夜な歌舞伎町で身体を売っている。尾ひれにハヒレどころではない。噂というものは、本人の好むと好まざるに関係なくひとり歩きするばかりか、より面白おかしい方向に転がっていく。だが、誰一人として本人に事実を確かめようとはしない、それが噂というものなのだ。

 久絵は、社内の全員から指を差されているような痛みを感じながら、早々にオフィスを後にした。


[健一さん、私は……どうやら会社をクビになりそうです。何も悪いことなんてしていないのに。理由は……健一さんには話していないことだから、わかってはもらえないわね]

[熊絵さん、諦めるな。何があったのか詳しくはわからないが、企業というものはそんな簡単に従業員をクビになんて出来ないぞ。そんなことされたら、逆に訴えることだって出来るに決まっている]


 ありがとう、健一さん。でも、私。この熊頭を外すことは出来ない。だから、やはり会社を辞めるしかないみたい。

 翌朝、久絵は普段より少し遅れてのろのろと出社した。会社はいつも通りに、既にみんなが忙しそうに働いていた。だが、なんとなく様子がおかしい。昨日とは違うような気がする。久絵は昨日の今日のことなので、脇目も振らずに自席に向い、習慣でPCを立ち上げた。久絵のデスク周りの私物は、いつでも持ち帰れるように、既に昨日のうちにまとめておいた。PCを立ち上げながら、久絵は思った。これで最後なのかもしれない。この作業をするのも。完全に立ち上がった液晶画面を茫然と眺めながら、課長が呼びに来るのを待っていた。すると、久絵のデスク横に立つ影があった。

 誰? うつむき加減に画面を眺めていた久絵は人の気配だけは感じたが、まだ目には入らない。着ぐるみをかぶっている久絵は、首を大きく回さないと、真横に立つ人物が視野に入らないのだ。

「誰?」

 久絵は顔全体を左に回し向けながら尋ねた。

「ぼくだよ」

「誰?」

久絵の目にまず入ってきたのは、グレーのスーツ姿。顔を、視線を上げていく。清潔そうな白いシャツの胸元に、品のいい紺のネクタイ。そしてその上には、熊。熊の頭があった。

「ぼくだよ、熊絵ちゃん」

「く、熊絵ちゃん?」

「健一だ」

 ピュア・ウイルでメールをしていた相手の一人、健一が熊をかぶった姿でそこにいた。一瞬、久絵は混乱した。どうして健一がここにいるの? 

「ぼくは、知っていたんだよ。熊絵がぼくと同じ会社の人間だって。それに熊絵の本名が久保田久絵だってことも」

 健一は、同じ会社の技術部の人間だった。フロアが違うから同じ社内でも出会うことはないのだが、それでも健一の存在に気がつかなかったなんて、私はどれほど鈍感なんだろう、久絵は思った。

「ほ、ほんとうなんですか?」

「ほんとうさ。ぼくは君の味方だ」

「でも、私。もうこの会社を」

「この会社を? どうするんだい?」

「辞めないと」

「どうして辞めるのさ」

「だって、この熊の頭をつけていては」

「熊絵、いや久保田さん、立ち上がってごらん。そして周りを見てごらん」

 久絵は促されるままにおずおずと立ち上がる。そしてゆっくりと社内を見回した。いつもと同じ会社。いつもと同じ社内の風景。いつもと同じ従業員……ではなかった。コピー機の前で書類を複写している女子従業員。隅っこのテーブルで打ち合わせをしている三人の男性。みんな久絵と同じような熊の頭だ。真っ黒い熊頭もいる。頭頂部が薄くなった熊頭もいる。白い毛が混じっているのも。ずらりとフロアを埋め尽くすデスクに張り付いているほとんど全員が熊の頭をかぶっている。これは幻覚だろうか。それとも頭がおかしくなったのだろうか?

「どうして?」

 久絵は知らなかった。みんな久絵と変わらないのだということを。熊頭の中に息を潜めて隠れているのは自分だけだと思っていた。だが、それは違うらしい。誰もがみんな何かをかぶって生きている。己の素顔を隠すため、自らの中に篭るため、他者から逃れるため、誰でもない存在になるため……理由は様々だ。そういえば、部長も課長も、目には見えないが社名の入った熊頭をかぶっていたのかもしれなかった。

 どうして? と尋ねられて、健一が答えた。

「さあてね。でも、みんな何かに隠れてるんだ。これが世の中のスタンダードなんだ。……とすると? もはや“異様な風態”って誰のことだ? ってことになるよね」

 私だけじゃなかった。みんな何かのかぶりびと。私は恥じることはない。誰がなんと言おうが、胸を張って言ってやろう。これが私だ。私は、生まれついてのかぶりびとなんだと。

                               了

最近になって「フランク」という被り物を点けた主人公の映画が来ましたが、これは二年以上前に書いたものですので、フランクを参考にしたものではありません。むしろスターウォーズのダースベイダーにインスパイアされたというべきなのです。

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