1章の4 聖剣・『獲苦棲過璃刃亜(えくすかりばあ)』
――また明日ね!
優菜が手を振って家に入るのを見届けてから、僕は自分の家に向かった。
家が隣、とはいうけれど、都会みたいにきれいに並んでいるわけじゃない。互いの家は村外れの集落にある。
木立に囲まれた家の敷地は広くて、日当たりのいいところは畑にしたり、果樹を植えたりと自由奔放に使っている感じだ。
二軒の家の間を曖昧に雑多な木々や畑なんかが隔てている。
平屋の築数十年のボロ屋敷だけれど、親父が道場もやっているので、畳二十畳ほどの練習場があって、一見すると公民館のようにも見える。
僕は扉引き戸に手をかけた。鍵を開けて薄暗い玄関に足を踏み入れる。
――それにしても優菜はどうして、あんなこと言ったのだろう?
隣同士の僕と優菜の家は先祖代々の縁があった、みたいな事を昔、聞いた。
『同じ年の同じ月に生まれた子供達。豊糧 権現様の導きだべな』
と死んだおばあちゃんが言っていた事を不意に思い出す。
「ごんげん……?」
その響きが僕の心をざわりと粟立てる。
後ろを振り返ったとき、どぅっ……と重く湿った風がいよいよ夕闇を運んできた。
◇
玄関の上には『天乃羽古武術(健康)道場』という木の看板が掲げてある。
「……親父、帰ってないのかよ」
親父は道場兼自宅で古武術の師範を生業としている。もちろんそれだけじゃ食べていけないので、大学でクラブの雇われコーチなんかもやっていて結構不在がちだ。
中学に入るまで、僕と優菜は他の生徒に混じって半ば強制的にその伝統武術を教えこまれた。
古武術とはいっても、マンガの主人公のように一子相伝の必殺暗殺武術が使える……なんて事は全然なくて、いわゆる合気道式の護身術の流れを汲むもので、専守防衛に特化したものなのだ。
道場に通う生徒さん達も近所の小学生やお年寄りたちばかりで、エアロビとか健康体操と大差ない。道場前には『腰痛が良くなった!』『便秘が治った!』『痩せた!』という門下生の喜びの声が張り付けてある。胡散臭いったらありゃしない。
台所にいくと食卓テーブルの上に、親父の書置きを見つけた。『晶へ。今日は村祭りの準備で遅くなる』と書いてあった。
「晩飯どうしよう……」
今日は親父が夕飯当番だったはずだけど。
優菜の母さんの詩織さんは「夕飯ならいいつでも御馳走するぜ!」と言ってくれるけれど、あまり甘えるわけにもいかない。今日は買い置きのカップラーメンでも食べようかな。
僕は母さんの仏壇に手を合わせてから、道場脇の廊下の突き当たりにある自分の部屋に入った。
襖で仕切られた六畳一間の和室は、安物のベットと、粗末な勉強机と本棚が置いてあるだけのごく普通の部屋だ。雑誌と服が適当に脱ぎ散らかっている。
火の気のない部屋の空気はどこかうすら寒い。窓からは夕日の残照が山の向こうに消えかけていて、まばらな家々に灯った明かりが見えた。
とりあえず宿題の数学をやろうとノートを開く。因数定理を眺めていると、どうしたって放課後の心ときめく甘いアバンチュールが頭に浮かんでくる。
美波、ちょっと可愛かったな。
――って、いかんいかん!
煩悩を振り払うようにぶんぶんと頭を振る。考えるべきは、原因と対策だ。
そもそも、学校で美波と接点なんて無かったはずなんだ。
小さな高校なので、廊下ですれ違ったり目が合ったりすることぐらいはあったかもしれないけれど、それだけで好きになるとか考えられない。ましてや告白だ。
まさか……同性を引き付けるフェロモンでも出てるとか?
くんくんと嗅いでみたけれど汗臭いだけだった。
その時、僕のボロ家の玄関の引き戸がカラカラと開く音がした。
親父が帰ってくるにしてはまだ早い。道場の生徒が来る時間でもない。
鍵を開けていても空き巣や泥棒が来るはずもないわけで、回覧板でも来たのかな、くらいに考えて気にしなかった。
とたとた……と廊下を歩む足音が僕の部屋の前で止まり、古い床板が軋む。
「……?」
しゅたん! と部屋の襖が何の遠慮なく開けられた。
そこにはつい先刻、別れの言葉を交わしたばかりの優菜が制服姿のまま立っていた。
その顔は無表情で、何かに憑りつかれたかのようで……
「おなかすいた」
「…………」
僕は何も見なかっし、聞かなかったことにして勉強机に向き直った。
因数定理とか考えた学者ってどんな奴だよ、絶対友達いない奴だよな?
頭を抱えてノートにシャーペンを滑らせる僕の後ろで、ぱりーん、と菓子の袋を開ける音が豪快に響いた。
「うす塩味なの? コンソメ味がいいんだけどなぁ」
シャクシャク、ポリポリ。雑誌をめくりながらポテチを貪る音が僕の部屋に響く。
「新連載『転校生は熟女ろりっ☆』とか誰徳なのよこれw」
ビキッと僕のシャーペンの芯が折れ、ノート中心の谷まで放物線を描いた。
そろそろ田舎なら何でもアリ、みたいな風習につっ込むべきだろうか?
「……優菜」
「ほぇぁ?」
「あのさ、ここは僕の部屋だよね?」
「んー? だね」
今更何よ、とでも言いたげに、部屋の主である僕には目をくれず、口にポテチを頬張りながら手元の少年誌をめくる。
「そんで、それはさっき買った今週号だ!」
「いいじゃん別に。減るもんじゃないでしょ」
「そっちのポテチは減ってるだろっ!?」
僕はおもわず椅子から立ち上がって指さし叫んだ。
優菜は僕の寝床の上に寝そべって足をパタパタさせている。
口にくわえた二枚のポテチを動かしながら不満げに口を突き出している。布団の上にはポテチのカスが散らかっている。
「だってこれ、さっきアイス買った店で買ってたの見たし?」
「見たし? じゃないよ! どっちも僕のもんだ! 少なくともポテチは返せっ!」
半分以下に減ったであろうポテチを奪い返そうと襲いかかる――もちろんそれ以外の意味はない。
「アキラのBL! ケチ!」
とんでもない悪態をつきながら残りを一気に口に流し込もうとする無法者の上に圧し掛かり、犯人を一気に制圧する。
「黙れこの! って……ほとんど空じゃないか!?」
アイスを奢らされた上にポテチまで……ギギギ、どうしてくれようか?
「優菜! おまえどんな教育受けてんだよ、親の顔が見たいよ!」
「もぐもぐ。いつも見てるでしょ?」
「うっ……そりゃそうだけどさ。って、さっき家に帰ったんじゃなかったのかよ!?」
「だってお母さんまだ帰って来ないし、家が暗かったから……」
「は……ぁ?」
「おかーさんないとゴハンも無いんだよ? お腹すいたし」
「子供か! うちだって今日は同じ境遇なんだよ!」
僕の布団に押さえつけられたままの優菜が子供のようにぷぃ、と拗ねる。
その頬には綺麗な髪が幾本か張り付いていて、細い首筋とうなじが目に入る。意外と柔らかい腕から、ほんわりとした温もりが伝わってきた。
思わず流れる気まずい沈黙。目線が絡み合う。
「アキラ……」
「う、うんっ!?」
ごきゅり。
今日二度目の生唾を飲み下した時、すっぱーん! と部屋の襖が豪快に開いた。
「ユウナ~居るのかぁ? 帰ったぞ~」
勢いよく開けられた襖が反対側に衝突し、木にぶつかる固い音が部屋に響く。
「あ! お母さんおかえりっ」
「おかっ!?」
「アキラ、おま…………なに、してんだ?」
そこに立っていたのは優菜母、矢筒詩織さんだった。
綺麗な顔を包む、柔らかくウェーブのかかった茶髪に、真っ赤な口紅。優菜とは違って胸は大きいし、なんていうか大人だ。熟女趣味のない僕から見てもスタイルがいい。
保険のセールスレディの仕事をしていて、いつも小豆色の派手なスーツを着用、『通常の三倍の契約成功率を誇る』保険業界のいわばエースらしい。
そんな詩織さんの整った顔が、みるみる鬼の形相に変わっていく。
実の娘が押し倒され、くんずほぐれつな状況を見れば……それは当然かもしれない。
背筋を冷たいものが走る。
飛び散ったポテチのカスと放り投げられた雑誌が『いきなり押し倒した』感を見事なまでに演出していて……、それはもう弁解の余地なんて無い気がする。
「あ、あの、親父なら今日は用事があって留守で……」
「ほほぅ……? なるほど家には一人、というわけか」
「ええまぁ、は、はは」
この状況で何を言ってるんだ僕は!?
思わずひきつった笑いをこぼす。
「アキラ。お前を息子と同じと信頼していたが。これは若さゆえの……過ちか?」
「ちょっ!? ちがっ! 違う! 何もしてないっていうかこれはそのあの」
僕はそこでようやく優菜からバッと飛び退いた。
そういえば今日の放課後、優菜にも同じような弁解をしたよね、とデジャブする。
「『獲苦棲過璃刃亜』取ってくるから、そこ動くなよ? お前の煩悩まみれの魂をこれから浄化してやるから……な?」
静かにそういうと優菜母は般若のような笑顔で、ゆらりと玄関の方へと消えていった。
「アキラ、逃げたほうがいいよっ!」
「うぁああああああ!?」
エクスカリバーというのは優菜母が若い頃から愛用している釘バットの愛称だ。
『獲苦棲過璃刃亜』と謎の呪文が刻まれていて、黒ずんだシミのようなものがベッタリと付いていたりする。優菜の家の玄関先にはそんな禍々しい獲物が置かれているので、訪問販売や怪しげな勧誘がチャイムを鳴らしたことは一度もないらしい。ある意味究極の厄除けアイテムだろう。
僕はその後、『聖剣』を振り回す優菜母に追いかけられながら、近所を全力でマラソンするハメになった。
「またんかいゴラァ! 煩悩退散じゃ!」
「だから誤解だって……ぅぁああああ!」
ゲコゲコと蛙の合唱が響く田んぼのあぜ道をひたすら逃げる。
時折背後でブンッと空気を切り裂く音がかすめて、生きた心地なんかしない。
今日はどうしてこんな目にばっかりあうんだ?
◇