1章の3 もしも君がいなくなったら……
西の空が茜色に染まってゆくと、田んぼを渡る風が、湿り気を帯びた夕暮れのにおいを運んできた。
見回せば山の稜線と青々とした田んぼにぐるりと囲まれた山村の道を、僕と優菜は歩きながら家路についていた。
僕たちの住む綾織村は日本の原風景を絵に描いたようなところで、のどかな山村と言えば聞えはいいけれど、実際はコンビニも何も無い静かで退屈な田舎の村だ。
通学路代わりの農道と白いガードレール、すぐ脇を流れる小川の先は、水を張った水田が山の麓まで続いている。
田んぼの向こうには農家の屋根が幾つか見えて、全てを包むように、とてつもなく鮮やかな空が広がっている。
二つの影が、ひび割れたアスファルトに伸びては縮む。
数歩先を歩く優菜が、道端の草をむしって僕のほうに投げつけてきた。二つに纏めた髪が腕のスイングを追うようにふわりと揺れた。
「別にアキラが何をしようが自由だけどさー」
「自由なら別にあんなに怒らなくてもいいじゃん」
両の頬がまだ痛い。
「帰り、待ってたんだけどな……。探したんだから」
怒ったように眉をまげて、拗ねた供みたいに片頬を膨らませる。
それは学校ではあまり見せない顔だ。子供のころからずっと一緒にいる僕だけが知っている、幼なじみの表情。
「それは……ごめん。忘れてないよ、大丈夫」
僕は少し汗ばんだ鼻の頭をかきながら答えた。
優菜が、ふんと鼻で笑って道路脇の白線をぴょんと飛び越える。
「でさ、アキラはなんで男の子に告られちゃってるわけ?」
優菜が歩きながらカバンをぶらぶらさせて尋ねる。
「それは僕が聞きたいよ……」
問題はそこだ。
ごく凡庸なスペックしか持たない僕は、女の子にきゃーきゃー言われた事なんて無い。
もちろん、羨望の眼で見られるほどスポーツも勉強も秀でちゃいない。
それなのに男子から好きだとか言われるなんて、マジで意味がわからない。
「アキラってさ、結構かわいい顔してるしね。……その筋にウケるのかなぁ」
優菜がぼそりと恐ろしい事を言う。
「や、やめて!? その筋とかウケとか言わないで!」
「うーん? 女の子に相手にされないからって、いやらしい目つきで男子を見るようになったとか?」
「……無い、断じてそれも無いから」
全力で否定しつつ、ここ最近を思い返してみる。
教室でぼんやりと憧れの美人クラス委員長の黒髪を眺めることはあったけれど、男子を眺めるような趣味は無いのだ。
僕は空を仰いだ。
――マジで、どうしてこうなった?
「……アキラ、優しいからかな」
「え?」
思わぬ言葉にどきりとする。
優菜の口もとが緩やかに微笑み、柔らかな視線を向けてくる。
「うん、桜の木にいた男の子とかもさ、そんな趣味がないなら、その場で殴り倒してもおかしくないのにさ。そんな事しなかったでしょ」
「殴らないだろ普通……」
好きだと慕って来てくれた子を邪険になんてできないし、美波、可愛かったし。
「傷付けたくなかったんでしょ?」
「そんなんじゃないよ……多分。はっきりと断れなかっただけ、かな」
「優しいんだよ。でも……度が過ぎると他の誰かを泣かせちゃうかも」
「……う」
僕は言葉に詰まった。
八方美人的な振る舞いはいつか破綻を招くかもしれない、という事なのだろうか。
「でも、アキラはそのままでいいと思うけどね。ま、元気出して」
優菜は僕の顔を覗きこんで微笑む。
なんだよ……。怒ったくせに、一応励ましてくれてるのかな?
「あ、ありがと」
気の効いた返事も見つからず、ただそんなふうに答える。
優菜は眉を少しだけ持ち上げてから、満足げな顔つきでくるりと踵を返す。
軽やかな足取りで歩きだすと、足元の小石を一人ドリブルなんかしている。その脚の動きにあわせてひらりひらりとスカートが躍った。
空はいよいよ夕焼け色に染まってゆく。
僕は通い慣れた道を、優菜と同じ方向に歩いてゆく。
やがて小さな川に掛かる橋を渡っる。夏は蛍が乱舞する綺麗な川で、小さいころは魚を捕ったりして遊んだ場所だ。ここまでくればもうすぐ僕達の家が見えてくる。僕と優菜の家はお隣と……いっても都会の住宅地とは違って、田舎なので敷地だけはやたら広くて、道を挟んで向かい合っている。
橋を渡ると民家がポツポツと建っていて、どこからか夕飯の香りが漂ってくる。
「お腹すいたね……。アイス食べたい」
ボソリと、僕の方をじっと見ながら優菜が呟いた。
――た、たかるつもりか?
「今月、おこずかいが残り少なくてさ……はは」
「じゃ、エスキモーのピノでいいよ」
「なにが『じゃ』だよ!? おこずかいが残り少ないって言ってるだろ?」
「……明日はクラスの女の子達の間で、アキラのBL属性について大盛り上がり、かぁ」
優菜が残念そうに遠い目をする。
「うぁああ!? わかったよ! わかりました!」
「やっぱり優しいね」
「ぐぬぬ……」
結局、この辺で唯一の商店『田中商店』で買い食いをさせられるハメになる。
僕らの村にはコンビニなんて最先端な店は無い。田中商店は『元気ハツラツ』の古びた金属製プレートがぶら下げてあるような店だ。
引き戸をガラガラと開けて店の中に入る。中は埃臭く、六畳一間ぐらいの薄暗い空間に所狭しと駄菓子や日用雑貨、雑誌なんかが並べてある。その他には洗剤、ゴム長靴、草刈り釜、食塩にレトルトカレー……とコンビニ顔負けのカオスな品ぞろえが自慢の店だ。
「こんちはー」
「おばちゃんいるー?」
間の抜けた子供みたいな二人の声が、薄暗い店の奥に吸い込まれてゆく。
店のおばちゃんは店舗兼家の奥で夕食を作っているらしく、辺りには夕ご飯のいい匂いが漂っていて、なかなか出てこなかい。そもそも夕飯の香りの発信源はここだったようだし、なんだかまんまと引き寄せられた気がしないでもない。
「あんれ、アキラとユーちゃん、今帰りけぇ? 買い食いして大丈夫け?」
「大丈夫でーす!」
優菜が元気に答える。ちなみに幼稚園の頃『初めてのお遣い』をしたのはこの店だ。
僕を見ると二言目には「ちっけぇ頃は、二人して手っこ繋いで買いに来てたじゃなぁ」と必ず始まる。通算で五万回ぐらい聞かされた気がする。
僕は仕方なしに曖昧な愛想笑いを返す。
優菜は百万回言われても嫌じゃないようで、毎回同じような世間話をしている。
口止め料代わりのアイスを一箱と、発売日から二日遅れで入荷した少年誌、それに薄塩味のポテチを買う。これは僕の帰宅後の、ささやかな楽しみにしよう。
夕日に照らされた店先の、古びたベンチに二人で腰かける。
僕は隣で美味しそうにアイスを頬張る優菜を恨めしそうに眺めた。
スーパーカブに跨ったじいさんがのんびりと通り過ぎ、白ヘルを被った部活帰りの女子中学生二人組がチャリを漕いで家路を急いで通り過ぎてゆく。
優菜が僕の視線に気がついて「しょうがないな。ほれっ」と、一粒くれた。
……美味しい。
「っていうかこれ、元々僕のものだろ!」
夕日を見ながら空の財布を覗いたら、ちょっと泣きたくなった。
優しすぎると誰かが泣く――なんて上手い事言うよね。
「ごちそうさまでした」
「そりゃ、よかったね」
食べ終わると、優菜は何かを考えているように黙り込んだ。
薄暮の色が徐々に風景を染めてゆく。
「……あのね」
「なに?」
優菜がベンチに座ったまま手元の空になったアイスの箱に視線を落としている。
もう一個食べたい、とか言わないよな?
「もし、もしも、だけど」
「アイスならもう買わないぞ……」
「ちがっ! 違うよ……そのね」
「どうしたの? 言いたいことがあるならはっきり言いいなよ」
僕はベンチに腰かけたまま、優菜の横顔を伺う。夕日を受けた瞳と髪が赤銅色に染まっている。唇を軽く噛んで、何かを考えているようだった。
「――もし、私が居なくなったら、晶はどうする?」
「居なく……なる?」
「うん。急にどこかに消えちゃったりしたら」
唐突で思いもしなかった問いかけに僕は戸惑う。
息苦しさを覚えて、初めて僕は心臓がきゅっと締め付けられている事に気がついた。
優菜は僕の瞳を見つめている。そこにはいつもの輝くような色は無くて、ただ不安げな淡い光がかすかに揺れている。
優菜がもし、目の前から突然いなくなったら?
いつも傍に居ることが当たり前で、それを疑う事すらしなかった事に気がつく。胃の中に鉛でも入ったったかのように寒くて冷たい感覚に、胸の奥がざわめいた。
「そんなの……探すに決まってるじゃん」
ぐっと拳を固くして、短く言いきる。
「そ、そっか」
優菜の瞳が光を取り戻す。少しほっとした顔で、唇が優しく弧を描く。
「てか、なんだよそれ? 引越しでもするの?」
「違うよ、ただね、その。なんとなく」
僕は空になったアイスの箱を優菜の手から奪いとって、丸めてゴミ箱に投げ入れた。
「アホな事言ってないで帰ろ」
「……うん」
辺りは薄暗さを増して、いよいよカエルの合唱がうるさい。
僕たちは店先のベンチから立ち上がって歩き出した。
<つづく…>