終章(前編) 僕らの新しい世界
◇
あの熱気と騒乱の祭りから一週間が過ぎた。
……暑い。
女子達の夏服の透明感が眩しい。
窓から見える田園風景は、いよいよ緑の濃さを増している。その上では真っ白な入道雲がもりもりと成長していた。
僕の放課後は平穏な時間に戻っていた。
だけど世界は、以前とは少しだけ違っていた。
「晶くん。これ、申請書なのです」
清涼感を感じる澄んだ声に、外をぼんやり眺めていた僕は振り返る。
弥花里さんが笑顔で差し出す一枚の紙には「同好会設立申請書」の文字が見えた。
「ありがとう。……あのさ」
僕がそこまで言いかけると、弥花里さんは腰に手を当てて、ぐいんと背筋を伸ばす。
「わ、私も参加しますのです。参加希望です!」
「ありがとう弥花里さん! 大歓迎だよ!」
「それとですね……クラスの女子で興味持っている子も結構いるのですよ」
「えっ? ……マジで?」
「天乃羽くんの、この前の、こう……アレがカッコ良かったみたいですよ」
弥花里さんが怪しい腰つきで手首をくるくる回す。
「えーと、無手勝流・裏表ね」
「そう、それなのです! あれ、女の子でも出来ちゃいますか?」
「もちろん。力が無くても出来るのが護身術だから。一緒にやりたいな!」
「はいなのです」
と、弥花里さんの顔がほころぶ。
僕たちは同好会をつくろうとしていた。
護身術で自分の身を護り、か弱い女の子も身を守ろう、的な。そんな何か。
顧問は弥花里さんが暇そうにしていた保健体育教師に頼んでくれた。名前貸しだけれど、快く引き受けてくれるあたりが流石、信頼が厚いクラス委員長さんだと感謝する。
僕は申請書に向き合いペンを走らせる。
『護身同好会』
あ、術を入れ忘れた。
「……なんだか物凄く保守的な団体みたいなのです」
「ううっ!」
僕はペンで線を引き直し、上書きする。
『超護身術同好会』
「な、なんで超とか入れたんですか!?」
「なんとなくカッコいいかな、と」
「まぁ……いいですけど」
呆れ顔の弥花里さん。あとは署名を書いてもらうだけだ。
まずは僕。次に弥花里さんが名前を書き込む。その綺麗な指先と横顔に、ちょっと見とれてしまう。字も達筆だなぁ。
これで、僕と弥花里さん、それと優菜も入れて三人確保。
「よっし、あと二人。今日中に捕まえるから」
「え!? 今からですか?」
「アテは有るから任せて! また明日ね、弥花里さん!」
僕は立ち上がり、そう言い残すと申込書片手に教室を飛び出した。
「――また、明日」
弥花里さんが視界の隅で、楽しそうに小さく手を振った。
◇
調理実習室に近づくと、甘い香りが漂っていた。
それはクッキーやケーキのような焼き菓子の甘いバニラエッセンスの香りだ。
『スイーツ同好会』なんていうちょっと頭のネジが緩そうな女子会が占拠していて、男子の接近を拒む結界が張られている。むせかえるような砂糖の焦げた香りに混じり、きゃっきゃうふふと甘い声が漏れる。
不意に、扉が開いた。
「天乃羽せんぱい!?」
「な、美波?、その格好……」
ピンク色の花柄エプロンに頭には白い三角巾。さらりとした前髪が揺れ、翡翠色の瞳が大きく輝く。目の前には……やっぱり女の子にしか見えない美波の姿があった。
「今日は、頼まれて、一緒にクッキー焼いてました」
えへ、とはにかんだ笑みがこぼれる。
「美波は男子なのに女子会フリーパスなのかよ!」
背後の調理室に視線を動かすと、女子連中が一斉に僕を睨みつける。美波くんと何親しげに話してんの、あぁん? な殺気のこもった視線。
僕はすごすごと首を引っ込める。
「これ、焼きたてです! 今から先輩のトコに行こうと思ってたんですよっ」
子猫のように小首を傾げ、可愛らしい包みを両手で差し出す。それはレースの飾りまで着けられた可愛らしいものだ。
「すごい! 手造りクッキー?」
「しかもナイスタイミングで焼き立てですっ」ぴこんっ、と片目をつぶる。
か……可愛い。差し出された包みを僕はだらしなく受け取る。これって傍目からは、いちゃついているように見えちゃうのか?
「そうだ、僕もちょうど美波に用があったんだ。ここには匂いに誘われて来んだけどね」
「天乃羽先輩とボクって、なんていうか……こういう波長、合いますよね」
「お……おぅ、なんでだろ?」
「なんででしょうかねー」
ころころとした愛らしい笑みがこぼれる。なんかもう、美波を家に持ち帰って、ごろごろしたい。あれ? なんか人に言えぬ趣味趣向が追加されてないか?
「そ、それで例の『同好会』の話なんだっけどさ」
「もちろん参加です!」
打てば響くような美波の返答。こういう所は男の子っぽくて小気味よい。
「ありがとう! 参加OKだね」
ボクも強くなりたいんです。とのたまう美波から一筆頂く。字が丸くてかわいい。
「詳細はまた今度、ありがとね! 美波」
「はい! あ……あの、お弁当、今度また作ってもいいですか?」
「そ、そりゃもう嬉しいよ! ……ヒッ!?」
調理実習室から立ち上るドス黒い殺気が一層濃密さを増し、ガターンと椅子が倒れる音が聞こえた。
僕は本気で身の危険を感じ、その場から退散した。
あの一件から数日後、僕の右手の印は消えていた。
それは、シロからもらった「力」男子縁結びの力が消えた事を意味していた。
だけど僕は、人の心や気持ちというものを、軽くみていたのかもしれない。何もわかっちゃいなかったんだ。
誰かを「好きだ」と思う気持ちが、何かの間違いで始まったとしても、ある日突然「はい終了」なんて、簡単に止められるものじゃないってことに。
力を失えばみんなが去って行く……そんなのはすべて杞憂だった。
美波は僕と友達のままで居てくれた。
生きている人間の心は結局、古い呪いや神様よりも、ずっと強いものなんだ。
◇