6章の6 君と僕と世界の半分と
「晶くん。私は、あなたが好きなのです」
「え、えっ?」
い、今なんて? 僕は上ずった声を漏らした。
弥花里さんが僕を――好き?
嘘……だろ? だって彼女はクラスで一番の人気者で美人で、頭もよくって……それなのに、僕を、好き?
「私がお兄ちゃんの計画に協力したのは……ずっと晶くんの傍にいられるかもって、そんなふうに考えたからなのです」
「そ、そんな、それじゃ……」
――操られていただけじゃ、なかったの?
瞳の中に翳りを宿した弥花里さんの吐露が続く。
その表情はいつもの自信に満ち溢れるクラス委員長のものじゃなかった。戸惑いと哀しみと弱さを伴った、普通の女の子の顔だった。
「特別な血筋の私なら力を得たままの晶くんだって、ずっとずっと一緒に居てあげられるのです!」
「弥花里……さん」
「宿った力が晶くんに染みついてしまえば、一生男の人からしか愛されません。女の人と結ばれることは無いのです。優菜ちゃんだって……例外じゃないのです。その力はそういうものなのです。だけど……私だけは違うのです」
僕は頭が真っ白になっていた。弥花里さんが僕を好きで……このままの僕でいい、と?
「私だけが、この世界でただ一人……特別で、晶くんを好きなままでいられるのです」
「世界で……一人」
僕は定まらない視線を足元に落とした。
「晶くんが望むなら、そう……、世界の半分だって二人だけのものにしちゃえるのです。それが……特別な私たちに許された力なのですから」
特別、私達、そして、世界の半分。
その言葉に、鶯崎の言っていた『天乃羽晶の世界帝国』の妄言を思い出す。今の状況を受け入れてしまえば、このまま僕がうんと言えば、すべてが手に入ってしまうということなのだ。
巨乳で美人のクラス委員長、新しい友人達、そして、世界の半分を占める男達の絶対的な忠誠を。
それは、有史以来誰もが成し得なかった世界帝国へと至ることの出来る道だ。抗い難いほどに甘く、それは心を揺さぶってくる。
しかもそれは……。たったひとり。ただ一人、優菜を諦めるだけでいい、ということ。
「私はただ……晶くんと一緒に居たい。並んで歩きたい、それだけなんです。晶君と同じシロの夢を見た時、これはきっと運命なんだって。そう思ったのです」
弥花里さんがきゅっと唇を噛みしめる。
残り火が、静かに彼女の美しい輪郭と瞳を赤銅色に照らしていた。
暗い空に火の粉が螺旋を描きながら昇って行く。
僕に注がれる弥花里さんの強い視線、それは苦痛に耐えているかのような哀しみの色と、これから起こる事への期待、そして未来への希望に満ちていた。
「選べって……言うの?」
僕は言葉を失った。
これはまるで魔王が最後に囁く「悪魔の取引」だ。
世界の半分をくれてやるから、ちっぽけな宝物を投げ捨てろ、と。
どちからを選べば、それ以外のすべてを失う。
それはつまり――
弥花里さんと多くの友達に囲まれながら世界の中心へと歩んでゆく道か。
優菜と二人、他愛もない会話を交わしていた懐かしい日常か。
天秤に掛けられているのは、たった一人の幼馴染と世界の半分という、あまりにも馬鹿げた、比べるべくも無いものだ。
「お願い。わたしと……来てほしいのです」
巫女装束の少女の黒髪が揺れ、頬を涙が伝う。
弥花里さんは精一杯の笑みを浮かべ、白く綺麗な手を差し出した。
僕は黙って彼女を見つめ返す。
その時――止まっていた風が吹き抜けて、火の粉が闇に溶けた。
「おまたせ! アキラ」
風が軽やかな声を運んできた。
それは聞き間違えるはずも無い、聞き慣れた声だ。
振り返ると「どうかな?」と、新しい浴衣を着た優菜が少し恥ずかしそうにくるりと回って見せた。
「……そうだね。迷う事なんて」
何もないんだ。
「きゃ!?」
「っと!」
案の定、慣れない下駄によろめく優菜の手を、僕はしっかりとつかんだ。
それは意外なほどに小さく柔らかな指先だった。
--僕がここまで来た理由。
手を伸ばして掴んだ先、選択に、迷いなんて何も無かった。
「えへへ……アキラ、ありがと! なんだか下駄が履き慣れなくて」
「どういたしまして」
僕はふぅ、と溜息を小さくついて、ぎこちない笑顔で優菜にしっかりと手を添えた。
「あ、あのさ、変じゃない? かな」
そわそわとした素振りで頬を赤らめる優菜をあらためて眺める。浴衣は落ち着いた紺色の生地に鮮やかな菖蒲の柄があしらわれていて、ストレートに下ろしていた髪は、一つに結い上げてあった。細い首筋やうなじがその、いい感じで……
「おっ、大人っぽくて……うん、似合ってるよ?」
すごく可愛いし。と、僕は一寸言いかけて、代わりにぎこちなく微笑みをかえした。
「……お似合いなのですよ。優菜ちゃん」
弥花里さんが静かに、どこか寂しそうな声色で囁いた。
「みかりん、ありがと! お母さんてば無理しちゃってさ、わっ!」
優菜がまた躓く。
「……下駄、無理なんじゃない?」
手は握っていたからセーフだったけど、これじゃまともに歩けない。
「無理じゃないっ! これでお祭り見に行くの! お腹すいたし、たこ焼きたべたいっ!」
駄々をこねはじめる優菜を、僕はため息交じりになだめにかかる。
「って、ここから下までずっと石段なんだよ?」
「アキラが……ちゃんと、その」
優菜がもじもじとうつむく。
「天乃羽くん。優菜ちゃんの手をしっかり握って、離しちゃだめなのですよ!」
弥花里さんが、いつものクラス委員長の口調でビシリと僕に言いつけた。
「あ……」
気が付くと、優菜が頬を桜色に染めていた。
簡単な事だった。この手を離さなければいい。ただ、それだけのことなんだ。
――この温もりを、僕はもう絶対に離さない。
「みかりんも、行こうよ!」
優菜が明るく誘ったけれど、弥花里さんは静かに首を横に振った。
「まだ祭殿の後片付けがあるのです。……おにいちゃんも心配ですし」
弥花里さんはそういうと、赤い鳥居の下で立ち止まり僕達に静かに手を振った。儚げな姿がそのまま消えてしまいそうにさえ見えた。
そこはきっと異界と現界を隔てる境界なのだろう。
けれど僕は踵を返す。もう、決めたんだ。
「行こう優菜、みんなが……待ってる!」
僕は優菜の手を握ったまま、ゆっくりと石段を下り始めた。
◇