1章の1 僕は可愛い子に「告白」されてしまう
◇
右手の『印』が消えないまま、数日が過ぎたある日の放課後のこと。
僕の下駄箱に、薄桃色の手紙が一通入っていた。
周囲を警戒しながらそっと手に取ってみる。「天乃羽 晶様へ」と、僕宛だ。
裏返してみると丸っこくて可愛い筆跡で「一年、鏡美波」と差出人の名前がしたためられていた。
どうみてもこれは『果たし状』じゃなくて、絶滅危惧の恋文と言うものだ。
「マジか……これ」
思わずごくりと喉を鳴らす。
高校で二度目の六月。
梅雨の晴れ間の傾きかけた午後の黄色い光に混じって、遠くから運動部の掛け声が聞こえている。下駄箱の空気は湿り気を帯びていて、独特の臭気が肺に染みわたる。
湧き上がる甘い予感をごくりと飲み込み、震える指先で封を開け、中から便箋を取り出す。 手触りのいい真っ白くて上質な紙には、僕への想いが切々と綴られていた。
字が綺麗で可愛い。文体が愛らしい。おまけに紙からいい香りまでする!?
これで手紙の主が可愛くないはずがない。
『放課後、四時半に校舎裏の桜の下で待っています』
最後に書き添えられたそんな一文が目にとまり、靴を履きかえ慌てて外に駆け出す。
玄関から転がり出たところで、くるりと校舎を仰ぎ見る。と、正面玄関の真上に据え付けられた時計は、既に午後四時二十分を指していた。
「ぬおっ!?」
五時に優菜と一緒に帰る約束をしていたけれど、今はそれどころじゃない。
……ちょっと逢ってくるだけなら時間的にも問題無いはず……だよね。
これは天から垂らされた蜘蛛の糸なのかもしれない。たとえこれが罠だって、ここで行かなきゃ男じゃない!
僕はうっかりスキップしそうになるのを堪えながら、校舎裏へ向かった。
◇
校舎裏で大きく枝葉を広げた樹齢百年を超える桜は、僕らの通う高校のシンボルで『姥桜』と呼ばれている立派なものだ。
薄紅の花弁が舞い散る季節はとうに過ぎ去って、今は青々とした若葉が風に揺れている。
夕暮れ色がすこし混じりはじめた光が、木の葉を照らしている。
「春は桜がすごく綺麗でしたよね。もうすっかり葉桜ですけど」
手紙の主である鏡美波の澄んだ声が、心地よく耳に響いた。
幼さを少し残す顔立ちの手紙の主は、大きな翡翠色の瞳で僕を眩しそうに見つめている。目にかかるほどの長さの前髪に、柔らかそうで清潔感のあるショートヘアがさらりと風に揺れる。
ひとつ下の一年生、ということで小柄でほっそりとした体つき。僅かに小首をかしげる仕草がまるで子猫のようだ。
一言でいえば……すごく可愛い。
僕達は、手を伸ばせば触れられそうな距離で並んで、青葉を見上げてる。
放課後の校舎裏は、まるで人払いの術でもかけたみたいに人影は見当たらない。
「はは、も、もう六月だしね。夏っぽくて好きだけど」
ぎこちない答えに、自分の声が上ずっていることに気が付く。
美波はそんなキョドり気味な僕を、真剣な面差しで見つめている。その不思議な色合いの瞳と、ほんのり桜色の唇に思わず魅入ってしまう。
そういえば優菜が『告白すると想いが通じる場所らしい』とか言ってたっけ。
確か学校のパワースポットだとかなんとか。
ということは……。
オレンジ色と灰色の混じった雲の下、グラウンドで白球を叩く音が聞こえる。鼓膜の奥でごぅごぅと血流が唸りをあげていて、喉が渇いている事に気が付く。
「あのっ……天乃羽せんぱい!」
「はっ……はい!?」
真剣な声色に思わず姿勢をただす。
小柄な下級生の瞳が真っ直ぐ僕に向けられる。すっと息を吸い込んだかと思うと、桜色の唇がゆっくりとひらく。
「好きです天乃羽せんぱい! ……だから、つ、つき合ってください!」
澄んだソプラノの声色が耳に届いた。
それは一気呵成の告白。
きた――来てしまった。
心の何処かで予想はしていても、直球勝負で言われたその言葉に心が揺れる。
心拍数が急上昇し、足元が地面についているのかもわからない。
本当ならば飛び上るほど嬉しい。
はずなんだけど――。
僕は激しく後悔していた。ここに来るべきじゃなかったのかもしれない。
僕は、浅く唇を噛んで言葉を絞り出す。
「ごめん。つき合うとか……そういうのは無理、かな」
夕暮れ色に染まりはじめた木漏れ日が、下級生の綺麗な顔に影を落とす。
「どうしてですか?」
「ど、どうしって……」
美波の声が僅かに震えていた。視線はこちらを真っ直ぐ捉えたまま。
「足りないものがあるなら、せんぱいの為にがんばります! だから」
すがり付くような瞳に涙が浮かぶ。
みかん箱の捨て猫に手を差し伸べることが出来ない気持ち、とでもいうのだろうか? きゅぅと胸が締め付けられる。だけど、ダメなんだ。
逡巡の後、なんとか僕は重い口を開いた。
「だって君ってば、男じゃん……」
「えっ?」
「えっ? じゃないよ! 今気がつきました、みたいな顔しないでよ……」
僕は深いため息をついた。
そうなのだ。手紙は字だけじゃ性別なんてわからない。ましてや『みなみ』なんて可愛い女の子の名前みたいだし。
桜の木の下に佇む可憐な姿が見えた時、僕に向けられた嬉しそうな、照れた様な笑顔に思わず目を奪われた。だけど僕と同じ男子制服を着用している、という時点で答えは一つしか無い。
美波は男の子だった。
そこでくるりと踵を返すほど冷酷にもなれず、僕はえへへ、と間抜けな笑顔で挨拶を交わしてしまったわけで。
「……ダメ、なんですか?」
「ダメっていうか、普通ちょっと……ありえなくないかなぁ……なんて」
「有り得ない……ですか?」
美波の瞳には落胆の色が滲む。僕は困惑する。
「あ! いや、そのね、なんて言うの? 好き、ってのにもいろいろあるし」
目の前にいる美波は確かに可愛い。だが……男だ。
せめて可愛い男の子じゃなく『男の娘』だったら、なんて考えてみたけれど何が違うのか分からなくなってきた。
いやいや、どっちにしろダメだろ……と既にブレそうな自分にツッコミを入れる。
これは何かの間違いで、勘違いであることを願ったけれど疑う余地は無い。
僕に遅い春が来たらしい。
「あの……せんぱい?」
「あ、あぁ? ごめん……」
フリーズしたまま、意識が別次元に跳んでいた。
目の前では美波が涙をうかべ、今にも泣きそうな顔をしている。
「ごめんなさい……迷惑でしたよね」
小さな身体が儚げに揺れる。
美波は本気なんだ、ということはよくわかるし、泣きそうな顔を見ているといたたまれない気持ちになってくる。なんとかならないだろうか?
そうだ! 男同士で付き合うとかは有り得ないけど、普通に『友達』なら何の問題もないんじゃなかろうか?
手をつなぐとか、腕を組んだりとか、その線を越えなければいいだけだし。
うん! これだ! ナイスアイデア僕!
「あのさ、とりあえず友達ってことで、どうかな?」
勤めて明るい感じで提案してみる。
「……ボクは先輩と手をつないだり、腕を組んだりしたいんです」
「そういう事したいのかよ!?」
女の子みたいな顔なのに、そこは男らしく豪胆なのね!?
途端に美波が嗚咽を漏らし、細い肩が揺れる。
「ちょ、ちょっ!?」
これはどう見ても上級生が下級生を校舎裏に呼び出してシメ上げている図だ。
泣きじゃくる美波の両肩に手を添え、おろおろと動揺しながら顔を覗き込む。
「頼むから泣かないでよ、ねっ?」
「……えぐっ、せんぱい~」
突然、驚くほどの俊敏さで美波が僕の胸に飛び込んできた。ここが定位置です、みたいな感じできゅっぽっと収まる。
「ちょ!? こ、こら、おま……だめ」
細身の下級生の身体は思いのほか小さくて暖かい。ふんわりと柔らかくて、おまけにきれいな髪からとってもいい匂いまでする。
美波は、こうしてていいですか? とばかりにぎゅっと制服を掴む。上目づかいの涙目で僕の顔をじぃと見つめる。近くで見ると可愛い……ってこんなの反則だ!
柔らかそうな唇に思わず目が釘付けになる。
よく考えると『可愛くて従順で、子猫みたいな甘えんぼの巨乳さんが好き』という僕の嗜好に前半部分は合致している気もしてきた。
些細な違いなんてどうでもよくね? と本能が囁きだす。
まてまて! いくらなんでも男だぞ。と理性が反論する。
理性と本能が、脳内で高次元バトルを開始して、決着はつきそうもない。
……ま、泣き止むまでは仕方ないよね。
僕は困惑したまま、胸にしがみ付く美波にぎこちなく語りかける。
「み、美波……くん? とりあえず泣かないでよ。ね?」
美波が潤んだ瞳で僕を見上げる。口元をきゅっと軽く噛んでいる。
思わずすりすりと頬擦りしたい衝動がこみ上げてくるけど、ここはマジで自重。
僕はごく自然な感じで、美波の頬を流れる涙を指先でそっと拭き取る。
「もう一度言うけど、今日から友達ってことで……とりあえずどうだろ?」
「せん……ぱい」
ぽっと頬を桜色に染めて、こくりと頷く美波。唇がほころんで目線が絡み合う。
――ごきゅん。
つい生唾を飲み込んだその時、軽やかに駆け寄ってくる女子生徒の姿が視界の隅に映り、警報が脳内でけたたましく鳴り響く。
「アキラ、こんなところで何して…………るぁあアッ――――――――!?」
「げっ!? 優菜!」
<つづく>