4章の1 古き「縁(えにし)」と、解呪の方法
ふらつく足取りでなんとか家についた時、太陽は山の向こうに沈みかけていた。
気味の悪い紫色の残照が辺りを照らしている。
隣にある優菜の家の窓に明かりが灯っているのが見えた。家に帰ったのは間違いないみたいだ。僕は少しほっとした。
――明日になればきっと……いつもの調子だよね。
そう自分に言い聞かせ、自分の家の玄関に転がり込んだ。
台所で水をかぶがぶと飲み干して、寒々しい色合いの白色蛍光灯が灯る台所に腰を下ろして、僕はようやく一息ついた。
天井を見上げながら帰り際の出来事を反芻する。
優菜の態度の急変の理由がわからなかった。僕は、何か黒い影のように徐々に這い寄ってくる気配を感じ始めていた。
その中心に見え隠れするのは、八尋という名と、あの黒い御守り袋だ。
「……さっきの、あれって……神社の御守りだよな」
優菜のカバンにぶら下げられた豊糧神社の厄除けの御守を思い出すと、頭が締め付けられるような嫌な感覚が蘇り、手に脂汗が滲んでくる。思わず頭を振る。
御守りはお正月の初詣で売っているし、村の人間なら普通に持っているものだ。
ただ一つ違うとすれば、見たことのないような黒い色だった事。それを目にした途端、優菜に近づいてはいけないような、強い拒絶の気配が心に流れ込んできた。
厄除けのお守りの効果。それは――厄や妖魔を退けること。
つまり僕を……退けた?
「まるで僕が、厄みたいじゃないか……」
ごくり、と溜飲する。蛇神様の力を授かったのなら、そして、それが本当なら、厄と反対のモノじゃないの?
僕の周りで男子モテ以外の何かか起こり始めている、そんな嫌な予感がした。
暗がりに何かが潜んでいるような、子供じみた不安さえ湧き上がってくる。
時計を見ると夜の七時近い。
「そういえば……腹へったな……」テーブルに突っ伏して省エネモードに移行する。
けれど、親父が帰ってきたのはそのすぐ後だった。
「うぃーっス! いまかえったぞぉ!」
スタン=ハンセンのような叫びと共に玄関が豪快に開いた。
家の中の黒いモヤを瞬時に打ち払うような、豪快な声に僕は年甲斐もなく安堵する。
「お、おかえり、おそかったね。……メシは?」
大きな筋肉質の背中を向けて、親父は冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出すと一気に飲み干した。そして買ってきた弁当を二つ、でん、とテーブルに置いた。
「ぶは~、悪いな、豊糧神社祭の準備と今年の役回り、『四聖』の準備で忙しいんだわ。今年は何だか特別なんだとよ」
そんなことを溜息交じりにぶつぶつ言っている。
僕は今その神社のおかげで、えらい目に合ってるんだけど……。
昨日は優菜の家で夕飯をごちそうになった事を告げると「今度お礼しなきゃな」と言いながら弁当をもそもそと食い始めた。
親父が『プロテイン』を取り出してご飯にサラサラと振りかけた。
「アキラもかけるか?」
「いらないよ! ……使い方間違ってるだろ」
僕は半目で睨みながらミックスフライ弁当を口に詰め込む。なんだか食べているうちに、少し元気を取り戻してきた感じがした。
隆々とした肉体にタンクトップ姿。親父は『月刊・コマンドサンボ』『週刊・ブラジリアン柔術』なんていう雑詩を袋から取り出して読み始めた。古武術とはまるで無関係だけど格闘技マニアだから仕方ない。
僕は意を決し、最近の出来事をぽつぽつと話してみた。
主に夢の事と印の事だ。美波と鶯崎の愛の告白はいろいろ面倒なのでカット。
年頃の高校生が親父に悩みを打ち明けるなんて、結構な覚悟の上でのことなのだ。
親父はしばらく僕の話を聞いていたけれど、コップに注いだビールを一気に空にしたかと思うと俺のターン、とばかりに目を輝かせた。
「アキラ……権現様から『印』を貰った、だと?」
普段は真面目に筋トレに励み物事は肉体言語で解決しようとする親父。だけど、頭の中まで筋肉かと言えばそうでもなく、地元の歴史や伝承を勉強していたりもする。
「信じて……くれるのかよ?」
「そりゃ、もちろんだ」
親父が大仰に笑顔を浮かべて軽い調子で肯定する。拍子抜けするほどあっさりと。
「昔話の事を調べたのなら、改めて説明はしないぞ。だがな、そういう事ってのは、この世に確かにある物なんだ」
まるで何かを知っているみたいな口ぶりだった。僕は親父の話に耳を傾ける。
「蛇の神様は本来、水を司る神様だ。豊富な水は肥沃な土地を作り、大いなる実りを約束する豊穣の神という位置づけだ。豊糧の名もそこから来ているわけだ」
僕はふぅんと頷きながら、冷たくなり始めたお弁当の残りを口に押し込む。
「それとな、うちの名字『天乃羽』は、蛇の力を宿す矢、という伝承が元なんだとさ」
「え、初耳だけど。ま、まさか八分家?」
驚きのあまり、思わず口を突いて出たその言葉に、親父が俄かに表情を険しくする。
「何処で聞いた?」
「いや、いろいろあって。教えてもらったんだけど」
「……まぁいい。別に隠してたわけじゃないしな。何代も前に分家した、遠い血筋だ」
僕は初めて聞く自分の名字の由来に身震いがした。
何百年も前、豊糧と名乗る社の守り手と祖先が同じなのだ。あの弥花里さんとも何処かで繋がっている。そう考えると不思議な感じが湧き上がる。
イトコのイトコのまたイトコぐらいかもしれないけれど他人とは違う、ほんの少しだけ繋がっている感覚とでも言おうか。
「豊糧家とは遠い遠い親せき筋になるんだろうな。そのせいで因縁を引き受けやすい血筋なのかもしれん。無関係ってわけでもないんだからな」
「だから、同じ夢を見たり……力を貰ったりしたのか」
因縁という言葉は妙な説得力があった。
「分家筋で言えば、隣の矢筒家もそうだぞ」
「隣って……優菜の家もそうなの!?」
僕は思わず大声で聞き返していた。心臓が激しく暴れる。
「まぁ心配するな。100年以上前の江戸の末期とかそういう大昔の分家だ。今は完全に『他人』も同然さだからよ。……結婚とかも心配ないぞ?」
親父が二本目のビールを飲み干しながらむふん、と意味ありげな笑みを浮かべた。
「そ、そんな事何も聞いてないじゃんか!」
顔が火照るのを感じながら口をとがらせる。
優菜とどこかで繋がっている。考えてみれば不思議なくらい息が合う事もあるし、何処か似たところがあるのかもしれない。そうと考えると、喪失感で寒々しかった心の奥で、小さな暖かい欠片を見つけた気がした。
ん……? ていうことは。鶯崎とも遠い遠い親戚なのか! あの女装エリートと?
僕はあまりの衝撃に頭の中か真っ白になり、しばらくフリーズする。
「晶からみて爺さんの代にこの場所に越してきたんだ。それまでは隣町で道場をやってたんだがな。その時は矢筒家は無かったんだぞ」
「え? 優菜の家と大昔から隣じゃなかったの?」
「俺が小学生のころだったかな。今から三十年近く前だ。矢筒家が隣に越してきたんだ。それで詩織さんも転校してきたわけなんだが……」
親父がどこか照れた様な顔でビールをごくごくと飲む。
「詩織……って、優菜の母さん? 転校生だったんだ?」
「ある朝な、田中商店の所でパンを咥えた詩織さんとぶつかってな。それが初めての出会いだったんだが、聞くと転校初日で、俺の家の隣に越してきた娘だったんだよ」
ベタすぎるだろ! と僕は笑う。
「ま、いろいろあったんだがよ、それはまたの話だ。兎に角、後で知ったのはどちらの家も豊糧の遠い遠い分家筋だったって事なんだ。他県や隣町に何世代前に出て行っても、何の因果か、結局は元の村に戻ってきちまってたってことだからな」
僕は唖然としつつも「縁」というものを感じずには居られなかった。
「だから蛇神様には人同士を繋ぐ力、縁結びの力ってもんが確かに有るんだ」
「じゃぁ……この印を、力を消す方法なんて無いのか」
鶯崎は「ある」と言っていた。弥花里さんは「無い」言っていたけれど。
「実は過去に一度、そういう力を蛇神様に力を返したって話があるぞ」
親父がビールをコップすれすれまで注ぎながら、すこし明るい声で言った。
「あ、あるの? 一体どうやって?」
「俺の知る限り二つ(・・)ある」
親父はまるで秘密基地の場所を教える子供のような表情で、指を二本立てる。
「一つ、尼の力の宿った聖剣を使い、蛇神の力を封じる」
「まて!? 聖剣で封じるとか、ラノベやゲームじゃないんだからあり得ないだろ!?」
僕は口をへの字にして睨む。現代によみがえった蛇神を相手に、ごく普通の高校生が聖剣で戦うとか、そういうのは余所でやってほしい。
「昔はそれで封じた奴がいたらしいぞ?」
「昔っていつだよ……」
僕は呆れたように訝しげな視線を送る。
「壮絶な戦いの伝承が子孫の手で本になっていてだな『蛇神封印伝・旅立ち編』『蛇神封印伝・死闘篇』そして仲間達との後日談をスピンアウトで描いた『蛇神封印伝・外伝』まであるからな」
「それ図書館で見たぞ! 明らかに創作じゃないか!」もう既に胡散臭い。
「ちなみに、最新作『真・蛇神封印伝Ⅱ』も最近出たらしいな」
「もういいよ……で? もうひとつは?」
「二つ目。十七歳の誕生日を迎えるまでに、恋焦がれる『異性』と接吻をする」
びしっと僕を指さす。
――それって鶯崎が『実践』しようとしたやつじゃないか。だけど、時間制限の話は初耳だ。って!
「十七歳の誕生日って……、あと三日後じゃないか!」
思わず椅子から立ち上がる。今日は水曜日の六月二七日で、僕の誕生日は三日後の六月三十日の土曜日。つまり豊糧神社の祭りの日だ。カレンダーを見つめ呆然とする。
「十七歳までに女の子とちゅ~が出来れば、その力は解除される。だって縁結びは成就した事になるんだからな。だがもし……出来なかった場合は」
「……場合は?」
親父が眉間に皺をよせ険しい顔をする。一瞬の静寂。水道の蛇口から滴る水音が響く。
「一生男にしかモテないらしい。ぶははは! こりゃ厳しいな、オイ?」
「ハードモード過ぎるだろ!?」
「まぁ別に死んだりしないんだし、大丈夫だろ」
「親父……それ、本気で言ってるのか?」僕は睨みつける。
「まぁまぁ。だがな、キスで解除できる、ってのは本当の話だぞ」
「何で言い切れるのさ」
僕は親父に訝しげな視線を送る。親父はフッと遠い目をして
「だって、俺が昔それ、やったからな」
「え? えぇえええ――――――――――――――――――ッ!?」
僕は驚愕の叫びをあげた。親父も昔、僕と同じような事を経験したっていうのか。
(つづく!)