3章の6 失われてゆく世界
夕陽の差し込む教室で、僕は弥花里さんと机を挟んで向かい合って座っていた。
四角い空間に斜めに差し込む夕照が、黄色と黒の不思議な陰影を濃くしてゆく。
まるで僕達だけのために作られたかのような、教室。
――ヘビ神さまの「力」を貰い受けることで、僕は男性からは熱烈な愛と支持を受ける。けれど女の子からは縁が遠くなる。
弥花里さんはそう言ったのだ。
「でも……例外はあるのです」
「れ、例外?」
弥花里さんはにこり、といつもの穏やかな笑みを浮かべ、僕の耳元に顔を寄せて囁く。
「神社の巫女である、私です」
弥花里さんの瞳に宿る光が悪戯っぽく瞬いた。
「弥花里さん……?」
息がかかりそうな距離に弥花里さんが顔を寄せてくる。思わず仰け反る僕の背中に、椅子の背もたれがぶつかる。
「私だけが晶くんと居ても平気なのです。二人なら世界だって支配できますよ?」
光の陰影のせいか、その美しい顔に浮かぶ笑みは、邪悪なものにすら見えた。
「あは……は?」
花のように可憐なクラスメイトの口から発せられた言葉に僕は混乱した。
世界? 世界を支配とか言った? そんなの、意味が分からない。
混乱する僕をみて噴き出すように笑う。
「なーんて。冗談なのですよ。うふふ」
「いや……どこら辺までが冗談なの?」
笑えないまま、ぽかんとする僕に弥花里さんがゆっくりと続ける。
「私ね、こんなふうに晶くんと二人でおしゃべりしてみたかったのです」
「ふたりで?」
その言葉に僕の心臓がとくんと脈打つ。
「晶くんって、いつも優菜ちゃんとばかり楽しそうなんですもの」
弥花里さんが上目づかいで僕に拗ねたような視線を送る。
「そ、そりゃま、優菜とは小さい頃から一緒で……幼馴染で友達だし。よく冷やかされたり、からかわれたりもするけどね……」
ぎこちなく口を濁す。うるさくも楽しい優菜との時間は、本当は――とても大切な宝物みたいに心の中でいつも輝いていることに、僕はとっくに気がついてた。
「私は巫女のお仕事とか、委員長とか、毎日たいへんなのです。だからいつも楽しそうな二人を見てるとすごく羨ましくて」
「たしかに弥花里さんてば、いつも忙しそうだよね」
「二人で仲良く帰ったり買い食いをしたり、意識せずに普通におしゃべりしたりとか、そういうのっていいな。って」
この村の大きな神社の娘、弥花里さん。もちろん小学生のころから知ってはいた。
端麗な容姿と眩しいまでの存在感。色白で切れ長の黒目がちの瞳に艶やかな黒髪。男子生徒の多くは高嶺の花を眺めるかのようにように一線を引いて接していて、最初からとても近づける相手ではない、と諦めている感じだった。
高校に入って僕と優菜は、弥花里さんと仲良くなる機会を得た。クラスメイトとして、そしてささやかな、季節限定の同好会活動を通じて。
そして今でも僕は、弥花里さんと目の前でこうして話している。
どこか不思議で掴みどころがないけれど、皆と同じ普通の女の子で、クラスメイトだ。
「べ、別に! 弥花里さんはずっとクラスは一緒なんだし、いつもで話せるじゃないか! 友達だろ? ちがうの?」
僕は冷静を装い、不器用な会話を続ける。
「そうね。だけど私は……、優菜ちゃんになりたいの」
――今、なんて?
聞き返そうとする僕の顔に、名残惜しそうな視線を這わせ、弥花里さんは椅子から立ち上がった。そして、静かに制服のポケットから一枚の『護符』を取り出した。
僕はその「紙切れ」を何故か直視できなかった。首筋が冷たい手で掴まれたみたいに冷たくなって思わず目を背けた。
それは神社で売っているものに似ていたけれど、読めない奇妙な梵字が多く書き込まれている黒い色の護符だった。
「お話できて楽しかったのです。またね、晶くん」
弥花里さんは手の中の護符を一息に破り捨てた。
「何を……?」
次の瞬間、突然どやどやとクラブ帰りの生徒たちが教室になだれ込んで来た。
忘れ物! 今日これからどうする? なんていう声と共に、放課後の弛緩した空気がドッと入り込んでくる。
たった今まで二人でいた教室が、実は何かで封じられていて、それが掻き消えたかのような感覚を覚えた。
「人払いの呪法護符。試作品らしいのですが……八尋お兄様は凄い人なのです」
足元に散らばる紙切れを見下ろし、弥花里さんが陶酔したように呟いた。
――結界!?
ミカリさんの顔に夕陽が黒い影を落とす。
僕はぞっとした。そして、背後に見え隠れする「八尋」という存在を感じずにはいられなかった。
けれど弥花里さんは、何事も無かったようにクラスの女子たちと会話を交わしながら、教室から出て行ってしまった。
扉をくぐる直前、意味ありげな視線を僕に向けて、軽く手を振って。
「じゃぁ、またねアキラくん」
◇
弥花里さんとの不思議な邂逅を終えた僕は、クラブ見学を終えた優菜と合流し、家路に着こうとしていた。
赤みがかった夕陽が照らすシューボックスの蓋を開ける。
「わ! また手紙!?」
けれど無警戒に開けたシューボックスには計五通の手紙が入っていた。足元に落ちた手紙に書かれた字はどれもゴツくて逞しい。
手に持ったまま「はは……」と乾いた笑いが浮かぶ。
裏に書いてある名前も「○○ 爽太」とかどうみても男子の物だ。ハートのシールで封がしてあるけれど、今度ばかりは開いて読む気はしない。僕はカバンに手紙の束を押しこんだ。
字が可愛くて見た目も可愛い美波は反則だよね、と今更ながら思う。
「けど……このままじゃ、いろいろマズイよな」
「…………」
優菜は靴のつま先をコンクリートむき出しの地面でとんとんと整えながら、何も答えなかった。
弥花里さんが去ったあと、僕は教室で優菜を待っていた。だけど、サッカー部から居室に戻った優菜は、虚ろな顔で、何故か一言も口をきいてくれなかった。
今日は本当にいろいろなことがあったなと鼻から溜息を逃す。
昼間の美波と鬼頭先輩との騒動に、優菜と美波の手作りお弁当対決。驚きの女装エリート鶯崎との接近遭遇。そして……弥花里さんとの不思議な二人きりの会話。
何故か機嫌の悪そうな優菜の横顔を伺う。急にどうしたんだろう?
あ、そうだ。とりあえずお弁当のお礼が筋だろうか? なんて考えていると、
「じゃぁね」
「え?」
優菜が冷たく抑揚のない言葉を発して、すたすたと学校の玄関を出て行こうとした。
なんで……? 放課後に教室で待っていてと言ったのは優菜じゃないか?
疑問符と同時に出かかった言葉を、僕は思わず飲み込む。
何かが変だった。
優菜が……よく見えない? 届かない。いや、何かが邪魔をしている。
違和感の正体に僕は気がついた。優菜の鞄には、見慣れない黒い『御守り』がぶら下がっていたからだ。
それは豊糧神社で売っている厄除けの御守りにそっくりだったけれど、まるで周囲の光をすべて吸い込んでいるみたいな黒い色をしていた。
それを認識した途端――頭から氷水をかけられたみたいな悪寒に全身がすくんだ。
今朝一緒に登校した時は気が付かなかった。いや、違う。朝はそんな物を持っていなかった。僕は強ばる全身を奮い立たせ、不快な感覚に抗う。
「ゆう……そ、それ何?」
やっとの事で絞り出した声は、自分でも驚く程かすれていた。
優菜が玄関の扉のところで足を止め、ゆっくりと振り返る。その瞳は虚ろで虹彩のない焦点の合わない目線をしていた。
「これ? サッカー部の先輩がくれたの。八尋さんは……すごい人なんだよ」
優菜が虚ろな視線で御守りを眺めながら、指に絡ませる。僕は直視できなかった。
――八尋!
その名は、弥花里さんが誇らしげに口にしていた彼女の兄の名前だ。
つまり。弥花里さんの兄貴が優菜の言う『サッカー部の先輩』なのか!?
視界がぐわん、と揺らいだ。辛うじて下駄箱に寄りかかり身体を支える。
じわっと冷たい汗が噴き出す。まるで僕を拒絶するかのような強烈な不快感、違和感が、その御守りから噴き出しているみたいだった。
――なんだよ、これ?
口の中がカラカラに乾き、胃の中が逆流するような感覚が押し寄せる。
優菜は僕の様子をまるで気に止める風もなく、再び歩きだした。
「ぅ……ま」
――まってよ、優菜……ッ!
だけどそれは声にはならなかった。
強張った足が動かない。狭窄した視界の先で、見慣れた背中が遠くなる。
思考が停止し、周囲の景色がホワイトアウトする。自分が荒い息を吐きながら片膝をついている事に、そこでようやく気が付いた。
何が起こったのかわからなかった。けれど一つだけはっきりと判ることがあった。
苦しさの正体は、心にぽっかりと穴が開いた喪失感だった。
僕はただ脂汗を垂らし、人気の無い玄関にうずくまるばかりだった。
(3章 了)
【さくしゃより】
本作は「序 破 急」でいうなれば
1章2章が「序」、3章4章が「破」、5章6章が「急」となります
物語りも折り返し地点です。今しばらくお付き合いくださいませ。。