3章の4 豊糧(ホウリョウ)八分家
「豊糧……八分家?」
初めて聞く言葉だった。
「長い年月のうち豊糧の血筋は、多くの分家筋に分かれたのだ。鶯崎家はその一つ。この村で陰陽師に近い役割を拝領している家系だ」
「そ、そんなものがあるのかよ?」
僕は半信半疑で鶯崎の上気した顔を伺う。確かにこのあたりは古い土地柄で、いろんな伝承や因縁めいた話を聞い事はある。けれど分家の話は初耳だった。
「隠れ屋号のようなものさ。知る者は少ないだろう。蛇神を封印した尼と、救われた男との間に生まれた子が、豊糧一族の始まりだからな」
「あ、確かに昔話じゃ、添い遂げたとかあったよね?」
つまり、再婚したのか。
「一度は呪われた男と法力を宿していた尼の間に子供が生まれたのだ。超常の力があっても不思議じゃない。事実、その子孫である豊糧家はそういう力があるのだ」
――弥花里さん家って、そんなにすごい家柄だったのか。
俄かには信じがたい話だけれど、弥花里さんの不思議な魅力やカリスマ的な人望もそう聞くとなんとなく頷ける気がした。
「だがな、現在、本家で一番の実力者は、八尋という男だ。この学校の三年生だが、こいつには気をつけたほうがいい」
――八尋?
「つまり、弥花里さんのお兄さんってことだろ? 一体なんで?」
「分家筋では有名だ。三百年も前から村の祭儀で密かに執り行ってきた呪法を、ここ数年で急速に解析し、体系化しているらしい。研究熱心なのは良いことだがな」
「何かを……企んでるとか?」
「それはわからん。だが、縁結びや厄除けも元を辿れば呪法と呼ばれる陰陽の術に通じている。やろうと思えば利用価値は幾らでもある。天乃羽アキラ、お前もな」
「僕……?」
鶯崎の言った意味がよくわからなかった。この男子モテの力と縁結びを、一体何に使うっていうんだ?
「私の家に来れば古い文献もある。お前にだけこっそりみせてやってもいいが?」
興味はあった。だけど、鶯崎の瞳が怪しい光を宿していて不穏なものを感じる。
「い、いいよ、遠慮しておく」
なんだか身の危険を感じなくもない。いろいろな意味で。
「そうか……残念だな。何か知りたくなったらまたここに来るといい」
でも、蛇神の力が本当だとするなら、
「この力を解除する、つまり解く方法ははあるの?」
僕は率直に鶯崎に尋ねた。この様子なら間違いなく何かを知っているはずだ。
「……方法は、無いわけではない」
「本当!? あるなら教えてよ!」
「それは……」
鶯崎が顔を赤らめて、もじもじと身をよじりはじめる。やっぱり嫌な予感がする。
「それは……?」
「想いを寄せる異性との、キ…………キスだ」
「こ、古典的な!?」
お姫様の呪いを解くと言えば、王子様とのキスと相場は決まっている。
確かにそれは古典的な解決策だけど、あながち間違いではないかもしれない。
鶯崎が腰掛けていた椅子から立ち上がった。ふわりと黄金色の髪を揺らし、頬を桜色に染めて、僕を妙に熱っぽく見つめながらこちらに歩み寄ってくる。
「天乃羽アキラがどうしても、解きたいというのなら――私は、構わない」
鶯崎がすっと目を閉じる。艶やかな唇を僅かに突き出す。
「たった今、異性とのキスっていったよね!?」
「私を……異性だと思えば大丈夫だ」
「大丈夫な訳あるか!」
迫ってくる鶯崎の両肩を手で押さえ、接近を阻止する。中身は男なので力が強い。ぐいぐいと顔が近づいて、事もあろうにふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
横では塚井麻子が今度こそという顔で、ローアングルからカメラを構えている。絶対シャッターチャンスなんか来ないからな。
「タ、タイム! ちょっとまて! あ、あのさ、もし、僕の力が消えたら、鶯崎はどうなるのさ? 元の普通の男子生徒に戻るのかよ?」
「……それはわからん」
鶯崎の接近が止まり、瞳の光が僅かばかり陰る。
「だったら、僕がこのままのほうが、お前にとって都合がいいんじゃないの?」
「では聞くが、天乃羽アキラは今のままで幸せなのか?」
「僕が……?」
僕は思わぬ問いに面食らった。考えたことも無かったけれど、自分は何が幸せで、どうしたいと思っているのだろう? 不意に、優菜の笑顔が浮かんだ。
「真の愛は相手を思いやることだ。お前はこの『呪い』を解きたいのだろう? 私の唇だろうと心臓だろうと、それで解けるというのなら、喜んで差し出すまでだ」
鶯崎ソラは強い決意を帯びた眼で真剣に言葉を紡ぐ。
「そ、そんなこと言うなよ……」
自分を犠牲にしても構わない、と真顔で言われて、胸がきゅっと締め付けられた。
誰かの為に自分を捨てるという事は、簡単に口にできることじゃないはずだ。
「天乃羽アキラが望むならば協力しよう。私は……ここに居る。だから、必要ならばまた来てほしい。私は待っている。この図書館で」
「……わかったよ。」
僕は静かに頷いた。
「そうか……そうしてくれると、嬉しい」
鶯崎ソラから邪な気は消失していた。すっ、と細い指先が鍵を差し出した。後ろでは塚井麻子が中指を立てて、二度と来るな、と無言でアピールしている。
僕は鍵を受け取ると扉を開け、図書館を後にした。
教室へと向かう渡り廊下の窓から見えたグラウンドでは、サッカー部員たちが駆け回っていて、夕日に照らされて長い影を落としている。優菜を見つけることはできなかったけれど、そろそろ練習時間も終わりだろう。
山の上に見える豊糧神社からは、相変わらず雅楽の音が聞こえていた。それはどこか哀しげな音色で、毎年聞いていたはずの旋律とは少し違っている気がした。
◇
「天乃羽くん、少し、いいかな?」
教室に戻った僕を出迎えたのは、笑顔の弥花里さんだった。
優菜はまだサッカー部から戻っていないみたいだ。放課後の教室にはクラスメイトが数人の残っていたけれど、いつの間にか一人、また一人と去っていった。
最後の一人が教室から居なくなると、教室は静寂に包まれた。
教室に残るのは僕と、目の前で緩やかに微笑む弥花里さんだけだ。窓から射しこむ山吹色の光が、黒髪のクラス委員長の綺麗な顔を染めている。
前髪を留めている赤いヘアピンを手で直しながら、弥花里さんが口を開いた。
「……男の人から告白されるのは、どんな気持ちですか?」
「な、なんでそれを!?」
「やっぱり、嬉しいものなのですか?」
深く澄んだ黒い瞳で僕を捉えたまま、僅かに首を傾げる。
豊糧神社の娘さんでクラス委員長、という立ち位置から考えても、学校や村中に情報網を持っているのかもしれない。抵抗は無意味か。と、半ば諦め気味に重い口を開く。
「やっぱり同性だし、好きとか言われるのは、正直ちょっと辛いかな」
「昼間の一年生はなんだかいい雰囲気でしたし……てっきり」
まじまじと僕を見つめて、興味深げに身を寄せてくるその距離感が妙に近い。
「てっきり?」
「天乃羽くんとその……良い仲なのかなと。身を挺して守っていましたし」
「ちっ! 違います」
「ちがうのですか?」
弥花里さんが意外そうに目を丸くした。なんだか、僕が男の子好きとか思いこんでいるんじゃないか? そりゃま美波の手作り弁当は食べたけどさ。一応、友達として。
「友達! あくまで友達。そこ勘違いしないで欲しいんですけど」
「ふぅん……」
「って、なんでそんな残念そうなの」
「やっぱり、天乃羽くんは優菜ちゃん一筋なのですね?」
瞳に暗い影が宿ったように見えた。
「ゆ! 優菜とはそんなんじゃ……ないけど、その、昔からの馴染みというか」
「いつも一緒に居るのに、お付き合いしているわけじゃないのですよね? 女の子に興味が無い……とか?」
弥花里さんが眉根を寄せて、すこし意地悪っぽく言う。あまり見たことのない表情に、僕は少しドキリとする。だけど、美波と優菜の事を、微妙に勘違いしている。
「興味はありますってば。女の子とか、大きい胸とか大好きだし……って!」
猛烈に頭の悪そうな事を、事もあろうにクラス委員長の前で力説してしまった。
弥花里さんが可笑しそうに口元を緩め、目を細めた。
「実は、うちの神社の神様が、晶くんを気に入ったみたいなのです」
その声色はどこか暗く、そして楽しそうだった。
<つづく>