だいはちわ
「ふん……ま、貧血だね」
そう言って、メガネをかけた白衣の女性がベッドに寝かされた絆さんに布団をかけ直す。
「そか……」
その言葉を聞いて、安堵の息を漏らすのは要だ。その言葉には、多少の気まずさはあっても、彼女の言葉に対する疑いは一片たりともない。
それもそのはずだった。彼女――この学校の保健室を仕切る女傑、鞠川まどか先生……まどかさんは、医師免許を持ちながら養護教諭に収まる変人であり……そして、絆さんと要の姉弟を長年見てきた二人の姉貴分である。おそらく、要が信頼を寄せる数少ない人物であることには間違いはない。
「しかし……嬢が倒れると言うのも珍しいねぇ。目が悪い以外は、健康すぎるっつっても過言じゃないんだけどね」
そういいながら、パイプ椅子に乱暴に座るまどかさん。机の中から禁煙パイプを取り出して、口にくわえる。
「図書室で倒れてたんだって? ……朝飯でも抜いていたのかい、坊?」
「いや……俺は朝一緒じゃなかったから知らねぇんだ」
「はぁん?」
怪訝そうに眉をひそめるまどかさん。
「するとなんだ、まぁたモヤシ君とこに泊まったのかい?」
モヤシ君、というのは僕のことだ。津嶋家とは長い間家族づきあいをしていただけあって、幼少のころからの津崎流の門下生だったまどかさんとも多少の面識があった。
まあ、いつも道場の片隅で練習風景を眺めていただけの僕を、あまり快くは思っていないようで、モヤシ君、という呼び方は初めて会った時から変わっていない。
「まったく、師匠が町内会の温泉旅行に行っているからって、あまり家を開けるんじゃないよ、坊」
面倒そうにため息をついて、僕の方に視線を移す。ふと、その目が狭まった。
「……ふぅん」
「っ」
その目がまるで玩具を見つけた子供の様な色を帯びて、僕をねめつける。
「あの、何ですか……?」
「ああ、気にしなくていい。……へぇ、なるほど」
背もたれにもたれかかり、今度はにやりと笑う。
「やっとその気になった、ってところかな、モヤシ」
知らず、その言葉に。
「っ……!」
僕は、喉の奥からこみ上げてきたモノを止めることしか、できなかった。
「はは、そう怖い顔で睨むな。あたしがあんたを嫌いな理由は、あんたが一番わかってるだろ。それが消えようとしてんだ、少しぐらい喜んでもいいだろうさね」
「……」
反論は、できなかった。
彼女は絆さんをまるで本当の妹の様に思っている。だから、僕が嫌いなのだ。僕が、絆さんの――
「そこまでにしてやってください、まどかさん」
ぽん、と、僕の頭に掌がのった。
何度もマメをつぶして、治して、また潰して作りあげた、岩の様なごつごつとした掌だ。……一瞬、女性であったにも係わらず、その手を誇りとしていたあの腕白な王女を思い出す。
「こいつだって、色々あるんですよ。だからまあ、長い目で見てやってください」
「は、色々、ねぇ」
先ほどまでの色がすうっと消えて、まどかさんの表情は冷たく鋭利なモノと変わった。
「ま、嬢が悲しまないなら構わないさ。……もう諦めているもんだと思っていたんだがね」
「……」
まどかさんの言葉一つ一つが、胸に突き刺さる。そうして思い起こされていく――僕の、弱さ。僕を僕とたらしめてきた、僕の罪だ。
「……ふん、そういう顔をするって事はまだらしいね。ったく……」
禁煙パイプを揺らしながら、鞠川先生は苛立たしげに頭をかいた。
「モヤシ。あたしはあんたが嫌いだ。……どうして坊があんたを買っているのかもわからない。本人がどう言おうが、あたしはあんたが嬢の隣にいる資格があるとは思えない」
「……」
「今のあんたの身体つきならまあ、嬢を守れるかもしれない。……けど問題は身体的なものじゃない。もっと根本的なものだ。……あたしはね、それを理解していながら改善しようとしない、応えようとしないあんたが嫌いなんだ」
僕を睨みつけながら、まどかさんは一息に言った。
そして僕は……ただそれを、聞いていることしか、できない。
何故か? 簡単だ。事実だからだ。
そしてそれを、僕が絆さんの近くにいる必要がないって理解していながら、それでもみじめにその場所にしがみついている僕に、要と絆さんの好意に甘えている僕に、誰よりも僕自身が侮蔑を抱いているからだ。
「……まどかさん」
敵意すら含んだ要の声が、うつむいた僕の耳朶を打つ。きっとそれは、まどかさんに対してのモノなのかと思う。だけど今は、今の僕には、ただ僕を責めているようにしか聞こえなかった。
はぁ、と、まどかさんのため息が聞こえてくる。
「わかってるさね、坊。もうこれ以上は言わないさ」
「……なら、いいんですが」
「やれやれ、歪な関係だね、あんたらも」
「まどかさん……!」
ふん、とまどかさんが鼻を鳴らす。
「さて、じゃ、あたしは職員会議があるから、嬢のこと任せたよ、坊」
「職員会議? こんな時間からですか?」
訝しげに要が言った。
確かに、もうそろそろ朝のショートホームルームの時間だ。こんな時間から職員会議を開くなんて、どう考えてもおかしかった。
「ああ、そうなんだよ、まったくねぇ」
やれやれとため息を吐いて、まどかさんが言う。
「何でも昨夜、うちの学生が繁華街で倒れているところを発見されたらしくてね。その事実確認やらなんやらで今の今まで会議が遅れたのさ。一時間目は自習になるらしいから、あんたらはここにいてもいいよ。あたしから山形に言っとく」
「え、あ、ああ、助かります」
要が礼を言うと、まどかさんは肩をすくめて立ち上がった。
「ったく、夜に出歩くのはいいが、他人に迷惑かけんなっつー話だよ、まったく。……あんたらも気を付けなよ。特に要。師匠もぼやいていたよ? 最近夜遅くまで繁華街にいるそうじゃないか。あんたを迎えに行くなんて、御免だからね」
「う、うす」
要の返事を聞いて、そのまま保健室から出て行くまどかさん。
まさか昨晩そうなりかけました等とも言えずに、僕らはその後ろ姿を見送った。
「……あっぶねー」
扉が閉まってから一拍置いて、要が大きく息を吐き出した。
「……うん」
僕も、思わずうなずく。
「ったく、相変わらず辛辣だな、おい。ま、なんだ……総司、気にするなよ」
「ああ、ありがとう」
無理やり、笑顔を作る。向こうで、笑顔を作るのはやり慣れてしまっていたから……あんまり、不自然ではないはずだった。
「……はぁ」
要が今度は、疲れたようにため息をつく。
「頼むぜ、おい……」
そうして、がりがりと頭をかきむしる。
そのまましばらく、お互い無言だった。壁に掛けられた時計の音だけが、妙に耳に響いてくる。
そんな空気に耐えきれなくなったのか、要がゆっくりと口を開いた。
「……なあ、職員会議の原因ってやっぱり、アイツなのか」
「藤間、だっけ?」
「藤代だ」
間髪いれずに要が訂正した。
「そだっけ?」
「お前なぁ……」
何か言いたげに呆れた表情の要が僕を見るが、それもほんの少しの間だった。
すぐに表情を引き締める。
「一応聞いておくが……無事、なんだな?」
別段、このあたりは一晩外で過ごしたって凍死するような気候ではないし、正直救急車を呼んでやるほどの義理もない。僕も要も、身体的にそこまでダメージが残るほどの攻撃もしていなかったので、えっと……あの藤代他五人を多少目につきやすいところまで運んだ後、そのまま放置して帰ってきたのだった。
「たぶん、だけど。でも、向こうでは殆ど後遺症もなかったはずだよ」
「……そか。じゃ、後は姉ちゃんの事だな」
要が、カーテンに遮られたベッドに視線を移す。その向こう側ではまだ絆さんが寝息を立てているはずだった。
「まどかさんは貧血だっつってたが……勿論そんなはずもないよな?」
「……うん。あの図書室が『核』だった」
「『核』?」
「えっと……『浸食』の種みたいなものが植え付けられた場所、かな。それが発芽した場所。そこから栄養を取り込んで、成長していくんだけど……」
「その場所にいた姉ちゃんが、それに巻き込まれたってことか。つまり姉ちゃんは『番人』になったってことか?」
要が血相を変える。しかし、僕は小さく首を横に振った。
「ソレはない。一応、ちゃんとチェックしたから」
それを聞いて、要がほぅ、と安堵の機を漏らす。
「そか……じゃあ、姉ちゃんはどうして?」
「たぶん……当てられたんだと思う」
「当てられた?」
「うん。至近距離で『浸食』が始まって……それに、当てられたんだ。普通の人には、あまり身体に良いものじゃないから」
「……それは、姉ちゃんは大丈夫なのか?」
また、僕は首を横に振る。
「それも、たぶん。向こうの人は大なり小なり抵抗力があったから……でも、こっちの人にそれがあるかわからない。昨日のあいつらはちょっとはあったっぽいから、きっと絆さんにもあるんだと思うけど……」
専門家じゃない以上、これ以上の判断はできかねた。
「そっかぁ……」
どうしたものか、と要が呟く。こっちでは魔法も奇跡も使えない以上、『闇』に当てられた人間の治療法なんて存在しない。
あえて言うなら対処療法程度だけど……。
「対処療法?」
「うん。……太陽に当てる、ってぐらいだけど」
そういうと、要がばっと窓の方に顔を向けた。しかしすぐに、その表情が曇る。
……まるで、今日の天気の様に。
「太陽、出てねぇな」
「うん……」
お互いに渋い顔を作って、肩を落としてしまう。
「それ以外にないのか?」
「ない。……少なくとも、僕は知らない」
「……だよなぁ。……じゃあ、今は……」
「信じるしかない、かな」
……少なくとも、こればかりは。
そうして、互いに妙な表情を作っている時だった。
「ん……」
遮られたカーテンの向こうから、小さな声が聞こえてきたのは。
「ッ」
すぐさま反応して、しかし声を押しとどめる。要も、人差し指を口元に当てていた。
ただの寝言かもしれないのだ。大声を出して、起こすわけにはいかなかった。
しかし、
「ここは……保健室、か?」
無言の緊張も、聞こえてきた声によって解かれた。
「姉ちゃん!」
「絆さん!」
まず要が動いて、一拍遅れて僕も動く。要の丸太のような腕がカーテンを勢い良く開けて、その中で上半身を起こしたところの絆さんが目に入った。
「要? ……それに、総司君も、か」
驚きに目を開けて、そしてようやく自分が置かれている状態に気付いたらしい、少しだけ頬を赤く染めて、僕たちを睨んできた。
「女性の寝起きを、そうまじまじと見るものではないよ、二人とも。少しだけカーテンを閉めてくれないかな。私にだって、女の子なんだ」
「っ、と、わ、悪い」
慌てて、要がまたカーテンを締め直す。
その奥から、くすくすという笑い声が聞こえてきた。
「心配してくれているのは嬉しいけどね、それじゃあまだいい人はできそうにないな、要。早くこの姉を安心させてくれよ」
「うっ、うるせぇよ姉ちゃん! そ、それよりも、大丈夫なのか!?」
要が顔を真っ赤にして叫ぶ。
カーテンの奥からはまだ忍び笑いの様な声が聞こえてくる。ただ鈴が転がるようなそれも、すぐに消えて、やがて肩をすくめるかのような気配が伝わってきた。
「さあ、ね。私自身戸惑っているよ。何せ、産まれてきて十八年で、貧血で倒れるなんて初めてのことだ。だからまあ、何とも言えないなぁ」
「そんな他人事みたいに言うなって、ったく……」
疲れたように、だけど安堵の色をにじませて、要が椅子に腰かける。要の巨体に椅子が悲鳴を上げた。
「そんなつもりはないのだけど」
また小さく笑って、絆さんはカーテンをめくって、僕たちの前に顔を出した。その姿は何ら昨日のものと変わりなくて、僕は知らずにじんでいた視界をうつむいて隠す。
「まあ、そうして心配してくれるなら、偶にこういうこともいいじゃないか」
「冗談はやめてくれ。心臓に悪い」
「そうかい?」
笑顔をくつくつという意地の悪いそれに変えて、絆さんは要を見、そして僕へと視線を移した。
「君も、心配してくれたのかな?」
「とっ、当然だよ」
「ふふ、そこは詰まらせずにお願いしたかったな」
そうして、絆さんは優しげな笑みを浮かべる。それだけで、僕の胸を締め付けていたモノは解かれていき――そして、また別のモノが僕を苛む。
「うん……ありがとう、総司君。やっぱり君は――」
やめてくれ。やめてくれ。
誰かが、叫んでいる。いや、わかっている。ソレは他の誰でもなく――
「――私が期待している通りの、総司君だよ」
――僕が、ずっと叫んでいるのだ。