笑顔の訳
五歳の頃から不治の病に侵された少年は、一二回目の誕生日、何もかも真っ白な病室で静かに息を引き取った。
たった一人の愛し子の最後を見届けた母親。
そこにあるべき涙はなかった。
果たして本当にこの子は死んでしまったのだろうか。
雪のような頬はいつになく綺麗で、そしてほんの少しだけ紅葉しているように見える。
母親はそっとそれに触れてみる。
冷たかった。体の内まで貫くほど痛い、筋肉を収縮させるような冷たさだった。
「今まで幾度もこのような場に立ち会いましたがこんな顔をして逝く人なんて初めて見ました」
先生は驚きと感心の声色で言葉を静かにと吐いた。
「ええ、私も初めてです。この子が生きていた時でもこんな顔は見たことありませんでした」
この少年の表情は余りにも不自然だ。死ぬ間際まで身体を蝕まれる苦しさでもがいていたというのに。
決して薬を投与して痛みを和らげた訳でも、お別れが来たからと母親が最上級の愛を囁いた訳でもない。
いや、もしどちらかであったとしても涙一つないのはおかしい。
「…先生、この子は寒くて体が冷えているだけで生きているんじゃないでしょうか」
母は本当にそうではないかと思った。ついさっきまでもがいていた痛みから解放されて、不治の病が治ったのではないだろうか。
そう、今はただ疲れて眠ってしまっただけよ。
母親はほくそ笑みながら少年が剥いでしまった毛布を再びかけ直した。
「ほら、もう寒くないわよ」
そっと、毛布の上からあやすようにお腹を撫でる。
先生は母親の行動を見ていられなくなってしまった。先生自身も少年が死んでしまったのは俄に信じがたかった。しかし、先生は少年が枕のシーツに忍びこませていた一冊のノートの中身を見て確信する。
それは、少年が死んでしまったとうい決定的な証拠とした言いようがない。
少年は半月前から自分が死ぬことを知っていた。
「お母さん」
先生の呼びかけに母親はゆっくりと振り向く。
先生は少年の残したノートのあるページを開き、母親に見せる。
我が子の繊細で綺麗な字が白紙の上で弾んでいる。
黒い分身は今の母親には受け入れ難く、残酷なものでしかなかった。
「はっ、嘘よ。え?そんなはずないじゃない」
母親は口角歪めてそのノートから後ずさる。
「ないわ、認めないわそんなこと!」今度はみるみるうちに頬が赤くなり若干くすんだ目に膜を張る。
先生は目の前にある死を受け止めてもらうのも仕事の内だと母親に強く言った。
「お母さん、これが事実なんです。お子さんは死んだんです。」
「いやぁ、いやよ」
「午後一時四六分。ご愁傷さまです」先生は頭を下げた。
「止めてよ先生、止めて!!!」
それでも先生は頭を上げない。
「晃!晃ぅ!!」
母親は息子に駆け寄った。
どうして。こんなにも血色が良いじゃない。
ほら、こんなにも笑っているじゃない。
こんなにも歯を見せたまま死んでるという人がどこにいるの?
「いやよ、こんなの認めないわ…」
母親はシーツに顔を埋めてとうとう泣き出した。
少年が書いた一つの文。
それは希望に満ちていた。
僕は死んだらどこへ行こう。
宇宙に行って見ようかな、それとも海のそこまで行こうかな。
きっと僕はもうすぐ死ぬ。
速く死んでいろんなところを旅してみたい。
これが少年の笑顔の訳ーーー。