第九話
大切なものは失った後に気づく、といった箴言がある。
やはりそのとおりだった。
「すっからかん……」
財布を逆様にしてみても、ビタ一枚出ない。さすがに十人分の定食を賄ったのだから、当然ともいえる結果。僕の全財産はたちまち底を尽きたと言うわけだ。
僕は体育館の倉庫裏にいた。大きい石段の上に座って、じっとしている。と言うのも、私財を投げ打ったはいいが、まだまだ僕に恨みを持っている奴は大勢いる。僕はそいつらから逃げるために、やむを得ずここに退避してきたのだった。
ここなら、人気もないから大丈夫。
倉庫の壁に背中を預けて、ぼんやりする。頭上には晴れた青空。雨雲はすでにどっかに行っていた。
僕は教室に行ったら男子たちに待ち伏せをくらうんだろうなーとか、それだったら鞄の中にある弁当を食べれないなーとか、作ってくれた葵に悪いことしたなーとか、ひょっとしたら相原は、E定食をただ飯するために僕を利用したんじゃないかなーとか、色々なことを推測、邪推して、野鳥のさえずりに耳を澄ませていた。
そこに僕の仰視を遮る何か。
それは人の形をしていて、女子の制服を着ていた。
「……不知火サン」
「ん。元気ない」
不知火サンは僕の隣に腰を下ろした。
僕は自嘲のようなものを浮かべて、「そう見えるんだ」と言った。
「見える」と不知火サンは僕に悩殺の流し目を向けた。「それと、お腹空いてるの?」
不知火サンは僕がずっとお腹を押さえていることに気づいたらしかった。事実、空腹で死にそうだった。
頷くと、「ちょっと待ってて」と不知火サンはどこかに行ってしまった。
数分後。
「食べて」
不知火サンは僕にカレーパンとアンパンを手渡した。きっと購買部のものだろう。
僕はあわててポケットから財布を出そうとする。けれど、中身が空っぽであることにも気づく。
「その、お金は?」と僕は尋ねる。もしかしてこれは、不知火サンが自腹を切って購入したものなんじゃないかな。
だとしたら、罪悪感。
再び僕の隣に座った不知火サンは不思議そうに首を傾げた。「お金……?」
「何円だった? ごめん、僕今、お金がないんだ。後で必ず払う」
「いいよ。払わなくて。お金なんか、ほしくない」
「ほしくなくても払う。やっぱり金銭関係はしっかり清算すべきだと思うから」と不知火サンの瞳を凝視する。やはり人間関係を破綻させる原因といえば、やっぱりお金だと思う。お金は人を惑わす魔力を持っているから、なるべく早期の解決が望ましい。それは常々思っていることだった。
そんな風に不知火サンを見ていたら、「あんまり見詰められると、恥ずかしい」と言った声に体がかーっとなる。僕は瞬時に目を逸らした。
なんとなくバツが悪い。それを押し隠すように、むしゃむしゃと無遠慮に、パンを食む。不知火サンが買ってきてくれたと言うのに、それを我が物顔で食べる。申し訳が立たない。僕はすぐさま、パンを食べるのを止めた。
一方の不知火サンの呼吸は、徐々に荒くなっていった。熱っぽい視線が僕の体を舐めるように動く。
「……おいしい?」と問いかける。不知火サンはパンと、僕の口元を見ていた。
「うん。けど、ごめんね。不知火サンに、いらぬ負担をかけちゃったみたいだから」
「いい。禊君が幸せそうだから、ワタシは満足」
そこで楚々とした笑みを浮かべる。なるほど、クラスの男子が夢中になるのもよく分かる。
僕は暫時口の動きを止めて、パンの一切れを引きちぎった。それを不知火サンの口元にやる。
不知火サンはちょっと驚いたようだけど、僕の意図を理解してくれたのか、そのパンを手で掴む――のではなく、僕の指ごとくわえ込んだ。一かけらのパンと一緒に、僕の指が不知火サンの唾液で絡まる。
僕は珍妙な悲鳴を上げて、背筋が寒くなった。まるで極寒の地で日射病に罹患しているような感じ。そんな噛み合わない感触と、体の芯から蝕む妖しげな熱。不知火サンの反応がまったく予想外だった僕は、猛烈に変な気分になった。
「ん」と僕の指を爬虫類のようになめずる不知火サン。パンはとっくに噛み砕かれ、食道を通過している。けれど、一向に咀嚼を止めない。むしろ僕の反応を楽しんでいる節がある。
こんなことしなくちゃよかった、とは思わないけど、爾後控えよう、くらいには思う。不知火サンは僕の想像する女性像とは、いささか乖離しているようだった。
「……不知火サン」
「……ん。さすがにふやけてきたね」
僕の指から口を離した不知火サンは、すっかり唾液まみれになった指を見て、相好を崩した。
「あのねぇ」
「なに?」
「何ってわけじゃないけど……。うーん、説明しづらい」
「……こうしてもらいたかったんじゃないの?」
「それは違うと言える」と断言する。そんなことはない。諸事情から理解の箍が決壊しそうだったけど、それは違うんだ。
そこで不知火サンは、「興奮してたくせに」とからかうように言い放つ。
僕は羞恥心で身を縮こまらせる。なんだか、自己弁護に執着する自分が下卑た存在に感じられた。
「けどね」と不知火サンは僕の手をつかんで、自分の胸に導く。そして、躊躇いなく胸部に手をあてがわせた。「けどね、禊君。ワタシもね、ほら、心臓バクバク。興奮してるのは、ワタシもだよ。だからね、ワタシも禊君と一緒。禊君もね、あんまりワタシを甘やかすと、色々と大変。それにね、そんなに無防備にされると、襲いたくなる。あーんなんかされたら、ワタシ、発情する。発情して、あなたの体をまさぐりたくなる。禊君の口の中に舌をねじ込んで、髪の毛を掴んで、汗を飲み干して、体中を舐め回して、ぎゅってしたい。けど、それはダメ。禊君の意思を無視してるから。ワタシは禊君の体もだけど、禊君の心もほしい。独占したい。全部、ワタシだけのものにしたい。ワタシだけを好きでいてほしい。それと、やっぱり初めては、コンクリートの上よりもベットのほうがいいと思うから。それとも……こういうところでするのが好きなら、ワタシもそれに合わせる。勿論、ワタシもこういうところでするほうが、興奮するよ」
「しないってば」
「なら、ベットの上のほうがいい? あぁ、それと、禊君は前戯くらいなら、こういうところでやっても許せる人? 手を繋ぐとか、チューするとか、他人の前でするの、イヤ? ワタシは禊君以外の人間はどうでもいいから、特に気にしない。けど、禊君はどうかな? 禊君がイヤな思いするなら、ワタシ、我慢するから。だって、強引に自分の想い押し付けるのは、愛とは違うと思うから。そんなの傲慢。ワタシは真剣に、純水に、禊君を愛したいから」
淡々とした口調。不知火サンは神妙な面持ちで、僕の気の抜けた顔を見やった。
さらさらと、葉が風に舞い上がる。
一瞬を切り取ったような静寂。
僕は頭をかいた。その、ものすごく、恥ずかしくなった。そして、幸せな気持ちになる。
形のないものを言葉にすると、とたんに陳腐なものに感じられる。愛情とか友情だとか、そんなものは自分の心の中で現出するものだ。だから、どうしても拙い風になってしまう。
「……僕ね」
「うん」
「……いや、いい。その、不知火サンの気持ちは分かった。僕を好いてることはすごく分かった。嬉しい。なんか、これまでの大変な人生が報われたって感じ」
「お墓参り、行こうね。ワタシも、禊君の天国のお父さん、お母さんに会って、挨拶しなきゃ、だから。勿論、恋人として」
「お盆のときに行こうか。そのときは妹も一緒に」
「……うん」
不知火サンは少し渋い顔になった。苦虫を潰したような表情。
左手が熱い。
どうやら、いつの間にか不知火サンの手が伸びていたようだった。僕の指に複雑に絡む。不知火サンの熱と僕の熱が相互に交換し合って、肌と肌がじんわりと火照った。同時に汗も絡んでいく。渾然一体とした感覚だった。
不知火サンは、手をつないだまま、緩慢な動作で立ち上った。そのまま僕の真正面に移動する。その後、もう片方の手で僕の肩を掴んだ。肩が軋むくらいの強い力。わずかに痛覚が伴う。
そして。
「動かないでね」
不知火サンが逆光を背景にして、肉薄していく。それでも、瞳の動きや、唇の照り具合、眉毛の痙攣など、ある程度は感知できる。不知火サンのそれは、小動物を捕食する肉食動物のようだった。
そして。
距離はゼロになった。
唇と唇が重なって、息ができなくなる。不知火サンは押し付けるように、唇を前につき出し、体をより前傾させた。繋いだ手を離して、僕の首に手を回す。そうして僕の体を自分の方にひきつけた。
口蓋が異物の存在を察知する。それは向こうから伸びてきた不知火サンの舌で、僕の口内を探索した。歯並びを確認するように、舌を歯や歯茎に滑らせる。不知火サンは僕に唾液を喉奥に注ぎながら、僕の舌端を捕らえた。同時に、僕の唾液をすすって、自らの体内に吸引して、飲み干した。
肩をつかむ力も、衰えない。肩を挟み潰す勢いで掴む。病的な力強さ。きりきりと骨が嫌な音を立てる。
獲物の体内を蹂躙するように、舌と舌を絡める。僕は腰が抜けそうになった。それくらい、不知火サンの接吻は強力だった。不知火サンは長い時間をかけて、僕の口内をかき乱した。
「……ごめん。押えが利かなかった」
「……その……すごく、情熱的、だった、ね」
一気に体力を持っていかれた僕は、コンクリート製の石段の上で脱力した。満身創痍。口の中はぐちゃぐちゃで、僕のものではない液体が口腔に溢れていた。
僕の前で座り込んだ不知火サンは、唾液をぬぐってから、それを口に含む。「やっぱり、唾液って味、しないんだね」不知火サンはけろりとしている。
理不尽だ、と思った。
一時間目の休み時間のときも、不知火サンとの接吻が余りに強烈だったように思う。そういうのに全然耐性のない僕は、抜け殻のように気を使い切ってしまう。
「禊君って、ファーストキスの相手、誰?」
「うーん、確か……葵だった気がする。小一のときに遊び半分でしたような」
「……そう。ワタシじゃないんだ。すこーし、すこーし、残念。けど、これ以降、あなたとキスする人はワタシだけだから、気にしない」
僕は頬をぽりぽりとかく。そう真っ向から言われると、僕だって羞恥心がある。
そう言う不知火サンは、平生どおり無表情だった。ここ最近、不知火サンを見てきたけど、思いのほか不知火サンは表情を表に出さない人のようだった。「不知火サンって、感情をあまり表に出さない人?」
「禊君が笑えって言えば、笑う。泣けって言えば、泣く。喜べって言ったら、喜ぶよ」
「……やっぱり、意志の疎通は難しい」と僕は渋面を作った。根本的に話の趣旨を違えているような気がする。僕の質問は少し失礼なものだったかもしれないけど。
「そういう禊君も、感情をそれほど表に出さないよ」
「ふーん」となんだか自分の知らない一面を発見したようで、「そうなんだ」とちょっとびっくりする。確かに僕の表情は硬いのかもしれない。
と。
不知火サンは。
「ワタシといるときだけ、感情を表に出していいから。ワタシ以外の人に、嬉しいと思ったり、怒りを覚えたり、悲しいと思ったり、楽しいと思ったりしたら、ダメだよ。無表情でいい。禊君がワタシ以外の人と関わらずに、ずっとワタシとだけ関わって生きてくれたら、ワタシは満足。無理は言わない。やっぱり、禊君も人間だから、一人の人間だけを優先するのは難しい。ワタシもそう思う。ただ、そういう努力はして。ワタシも、可能な限り、禊君を優先するから。禊君も、可能な限り、ワタシを優先して。絶対だよ?」
不知火サンはぞっとするように深い目で僕を注視する。舌なめずりを何度もして、僕の肩を撫でる。
「ワタシはね、できることなら、二人で山小屋にこもって、ずっとそこで暮らしたい。世俗から離れて、二人っきりで生活していきたい。けど、財政的に無理。どうしたって食糧の問題だとか、収入の問題がついて回る。それは必定。明白。だから、ワタシと禊君が自立できる年齢と能力を得たら、すぐに結婚。ワタシ、大学いかずに、働いてもいい。禊君も大学に行きたいなら、そう言って。やりくりする。注文があるならそう言って。こなすから。禊君も縛られるの、嫌でしょ? 細心の注意を払うから。だから、なるべくワタシと一緒にいて。ワタシとの時間を重視して。ワタシとだけ一緒にいて。なるべくでいい。そのなるべくの範囲内で、私以外の人間と最低限の関わりで、ワタシとだけ最大限関われるようにしてくれたら、幸福だから。多分それがワタシ最大の幸せ。そうやって、永遠に禊君と暮らすのが最善。こんな風にイチャイチャして、静かに生活できればいいなって思ってる」
「……ふーん。そう」
「やっぱりね、愛は重い方がいいよ。ちょっとくらい行き過ぎてる方が、むしろ人間らしいと思う。ワタシも、ちょっとだけ、ちょっとだけ、自分の変なところを認識してるけど、それほど変に感じたことはないよ。人が人を愛するって、それくらいの意味があると思うから。少しくらい極端でも、それはそれでいいように思う。愛は盲目って言うことわざもある。だから、変な奴とか言って、ワタシを遠ざけないで。メンヘラ女とか、言わないでね。ワタシ、こんなに男の人を好きになったの初めてだから。前まではそんなに男の人に興味なかった。アイドルもジャニーズも、興味なかった。けど、禊君見て変わった。この人がほしい、ワタシだけのものにしたいって思った。それくらい好き。なんか、もの扱いしてごめん。そういうつもりはないから。ワタシはその……この人と一緒にいたら幸せだろうなって、思っただけ。そんな小さな欲求が色々な感情に結びついて、拡大して、膨張して、どうしようもなくなった。恋焦がれてた。……女の人がこんな風に男の人を好きになるって言うのも、おかしな話かな? 変態っぽいよね、ワタシ。ここまでいくと、執着に近いかな。ほかの人だったら、こうはならないんだけどね。きっと禊君はワタシにとって、代えの利かない人になっちゃったんだよ」
不知火サンはふっと笑って、僕の手を再三再四握った。暖かい手。ヒーターの火元のような高温を発している。風邪を引いているわけでもないのに、熱っぽい。
表裏をなして、熟れた果実のような甘い匂い。蠱惑的な香気。それは穏やかな眠気を喚起するような幻妖を感じさせる。
脈動する心臓が放出する柔らかい体温。
食虫植物が発するようなとろりと甘い芳香。
不知火サンは妖花のように深々として、落ち着いていた。それでも、体の節々が小刻みに動いている。それは蠕動する虫のようでもあった。
「……あとね。浮気とか、したらダメだよ。ほかの女の人と会ったりとか、無用なお話をしたりとか、不要なボディタッチとか、ダーメ。ワタシ、許さないよ、そんなこと。勿論、絶対とは言わない。どうしたって無理がある。不可抗力って言うのはあるし、そんなことをしないといけないこともある。それは分かってる。けど、そういうのはなるべく控えて。ワタシも、そう言うことはしないから。だから……覚悟決めてね。ずっとワタシといるって、誓ってね」
不知火サンは体を寄せて、僕の肩にしな垂れかかった。安らかに瞑目して、硬く僕の手を握り締めた。
腰のあたりまである髪が、僕の肌をつっつく。微風にはためく髪は、流麗で艶やかだった。
他を凌駕する美貌。
他を卓絶する歪み。
二律背反のそれを併合させた不知火サンは、何かを欠陥させた美しさを煌かせていた。ひょっとしたら、こういうアンバランスさが異性を魅了するのかもしれない。
理解を超えた造形美は、人の心にダイレクトに衝撃を与える。
不知火彼方と言う人間はまさにそれで、常識や倫理観と言ったもので濾過されない。
生物の持つ無軌道な力。荒々しく猛る感情。暴力的にも思える愛情は、時として強烈なカタルシスを感じさせる。
昼休みの終わりを告げるチャイム。山間まで響く。
「……戻ろっか」
「……うん」
僕と不知火サンは立ち上がる。