第八話
僕と相原は二組に所属している。二年二組の教室は二棟の二階にあるので、ペンキのはげた階段を上らなければならない。
今日は朝のゼミがない。だからか、廊下には弛緩したような空気が漂っていた。
それは教室も同様で、前の方から入室した僕たちは、自分の机へと向かった。
と。
「おはよう」
いきなり左腕を掴まれた僕は、ブラックホールに吸い込まれるように腕を引っ張られた。
同時に柔らかい感触。
僕は椅子に座っていた不知火サンに抱きしめられた。うなじの辺りに手を回され、おでこ同士がぶつかる。目の前には凄艶な美貌があった。
椅子に座っている不知火サンは、じーっと僕を見る。距離が近いので、額にかかる髪の毛や、嬋娟な花唇が見えた。
「……おはようは?」
「……おはよう」
「…………」
「…………」
妙な雰囲気に耐えられなくなった僕は、視線を泳がせた。横目で相原の姿を視認する。その相原は笑いをかみ殺しながら、僕に背を向けていた。そのままどこかに行ってしまう。
と。
僕の両頬を手で挟んだ不知火サンは、僕の視線を元の位置に戻した。再び不知火サンの顔が見える。
「……ほかの人間を見ないで」
「……うん」
「……よろしい」
不知火サンは僕を解放した。引っ張られた拍子に机にぶつけた腰をさする。間抜けな僕。
椅子に腰掛けた状態で、机に突っ伏す。不知火サンはその体勢のまま、もの欲しそうに首を上げて、僕に上目遣いを向けた。
「……何?」
「そういえば、あなたとまだキスを済ませてないなと思って」
「……いいよ、しなくて」
「……一時間目の授業、なんだっけ?」
「生物か物理」
「二時間目は?」
「古典」
「生物準備室って、よくよく考えたら先生いないよね?」
「どうかな。いるようには見えないけど」
「あそこでしようね」
「何を?」
そこで不知火サンは、自らの唇に人差し指を当てた。唾液の粘る音と共に、舌なめずりをする。つばを飲み込んだからか、不知火サンの喉が小さく隆起した。
「ワタシね、性欲強いから、ちょっとしたら頭が真っ白になって、紅花君の服を強引に脱がすことがあるかもしれない。そのときはストップかけて。勿論、できる限りの自粛はする。けど、理性が本能に勝てないときもあるから」
「…………」
「自分の席に着かないの?」
「……そうだね」
僕は不知火サンの助言どおり、自分の席があるところに向かった。
そこで気づく。
僕たちを遠巻きに見る男子の異様な雰囲気に。
「きっ、貴様ぁーっ! こ、殺してやる……! 天誅ぅ! 天誅ぅ!」
「これはいかがなものであろうか、我が高潔たる同志たちよ。永遠の純潔を誓ったものとして、こやつの罪はいかほどに値するか……」
「わたくしめは、即刻死刑を求刑したい所存……! これは紛れもない大罪! 万死……これは万死なのです!」
「激しく同意……! これは歴史まれに見る重罪である! 秋霜烈日、志操堅固の理念の下、こやつに断罪の鉄槌を下す……! それこそ正義!」
「極刑以外に選択肢などない。速やかに刑に処すべきであろう。事実、それを臨むものは大勢いる。当然の処置である」
「もはや一刻の猶予もない! 後数分もすれば、噂を耳にした同志たちがこの教室にあふれ出ることは自明の理……! そうなれば一切の収集はつかない! よって、被告の異端審問を火急に実施……! そして、公明正大な神の慈悲を持って、この男には断頭台の露となってもらう! それしかありえない……!」
「と言うことだ。被告人、紅花禊。我が同志の百花斉放、談論風発の議論の結果、貴様には大いなる慈愛と恩寵を持って、死罪に処すことが決定した。異論は?」
「異論の何もあるか! こんなのメチャクチャだ! 僕に人権はないのか!」
昼休み。
僕の在籍する二年二組は、騒然たる様相を呈していた。
僕の席は窓際の一番後ろにある。本来ならば、そこで僕は教科書を出し入れしたり、ぼーっと窓の光景を見たりする。だけど、今回の場合、そうはいかなかった。
僕は炯々と目が光らせた男たちに、拘束され、苛烈な集中砲火にあっているところだった。
周囲には百八十度男子がいる。どいつもこいつも目をギラギラさせて、親の仇のように僕を睨みつける。両腕を一人の男子に押さえられた僕に、抵抗の余地はない。また、抗弁の余地もない。四面楚歌。僕は孤島のように孤立していた。
「そもそもボクがおまえたちに何かしたのか? だったら、謝る。謝るから僕を解放してほしいんだけど」
「貴様が謝罪の文句を口にしたところで、我々の怒りは収まるところを知らない。例え貴様が土下座しようとも、それくらいでは許されることのない罪を貴様は犯したのだから」
「その、おまえたちの言う罪ってなんだよ? まずそれが分からない」
その言葉に絶句した男たちは、たちまち怒り心頭、肩を震わせる。すさまじい怒気と悪意が膨張した。
「ふ、ふははははははは! そうか、そう言うことなのか! 聞いたか諸君! この男はいまだ、自らの過失、罪科について一切の理解を示してはいない! 諸君はこれをどう解釈する? 傲慢か、嘲笑か、それとも生来のバカなのか……。どちらにしろ、これは我々に対する挑戦であると認識する……!」
「そのとおり! もう我慢できん! こいつを一発殴らせろ!」
「この指が……! この指が、彼方ちゃんの穢れなき肉体に触れたのか……!」
「落ち着け! 落ち着くんだ! 眼前の小事に惑わされるな! 重要なのは、紅花のアホがあの、清純で俺たちのアイドル、彼方ちゃんと身の程を知らずに肌と肌とを触れ合ったことにこそあるのだ……!」
踏み込みの効いたボディーブロウを何発もくらい、指と言う指を舐めるように触られ、すっかり満身創痍になった僕は、すっかりグロッキーになってしまった。
薄ぼんやりとする意識の中、そう言うことなのか、と了解。と同時に、ふつふつと怒りが湧いた。しかしそれは、多大な痛みと度重なる暴言によって、理不尽に沈静化された。
「……僕は……その」
「なんだ! まだ言い逃れするのか! 我々は確かに見たぞ! 貴様と彼方ちゃんが楽しそうに会話を交わし、抱き合っていたところを……! どうしてそんなにおいしい想いができる……! 我々はそのことに憤怒しているのだ!」
「あっ、あれは……ほら、欧米式の挨拶だよ。アメリカは解放的な国だろ。だから、ああやってお互いの体を触れ合わせるんだよ。それが一般的なんだよ」
「なら、一時間目、貴様と彼方ちゃんはどこに行っていた? 妙にこそこそしていただろうが……! どうせ、逢瀬でも重ねていたのだろう!」
うっと言葉に詰まる。それを思い出した僕は、かーっと体が熱くなった。
一時間目の休み時間。
不知火サンに手を引かれた僕は、誰もいない生物実験室に連れてこられて、接吻した。
その後のことはよく覚えていない。多分、ずっと放心状態だったんじゃないかな。
「それは、その……!」
「もういい。もういいんだ、紅花。おまえはもうすぐ天国に行くんだからな」
そのやけに優しい言葉に、明確な死の危険を感じた僕は、じたばたとあがく。けど、どうしようもない。僕は俎上の魚だった。
と。
「まぁ、待てって」
海を二つに割るモーゼのごとく、一人の男が割って入る。
相原庵だった。
……おまえって奴は!
かねてからこの世に神様なんていないと思っていた僕は、その考えを改めざるをえなかった。
「おまえらよぉー、そんなにむごいことすんなって。もっと穏便に、冷静にいかなくちゃダメだろうがよぉ、冷静さを欠いたらもう終わりなんだぜぇ、ここが戦場だったらてめーらがよぉ、全員ただの屍に成り下がってたぜぇー」
この相原と言う男は、意外に男子の支持が厚い。周囲の男子も手を止めて、相原に意識を向けている。
その中のリーダー格の二年二組委員長、末長クンが、相原の前に立つ。サッカー部の副キャプテンでもある末長クンは、華奢な割りに肩幅が広い。相原と対峙すると、それっぽい雰囲気が出る。
「相原。おまえ、俺たちの邪魔をするのか? だったら、いくらおまえといえども……容赦はしない」
「いやな、委員長。オレはおまえらの邪魔をしに来たわけじゃねーんだ。そこんとこははっきりしとかなくちゃなぁ。そして、宣言しよう。ここにいるすばらしき紳士たちに、一つ、提案がある……オレから一つの提案があるがなぁ」
「提案、だと?」
「そうだ。なぁ、ちょっと頭ひねりゃ分かるだろがよぉー。こう言うのはな、半端な体罰だとか、生半可な精神攻撃じゃ意味ねーんだよ。やるならもっと、過激に二度と立ち直れないようにしないと。だろ?」
そこで相原は、酷薄な笑みを浮かべる。
一方の僕は、完全に置き去り。と言うより、予想外の展開に呆然としていた。
「って、相原! おまえ、何様のつもりだ!」
「何様も何も、オレ様、庵様だろうよ。それよりも感謝しな、紅花。おまえは選択できるんだぜぇ、それだけ未来も増えるってことだ。ここにいる男子全員に食堂のE定食を奢るか、ここにいる男子全員にフルボッコ、徹底的に人としての尊厳を奪われるのか。さぁ、おまえはどっちを選ぶのさぁ、紅花禊の手腕が問われるところだなぁ、ここは……この局面はよぉー」
「…………」
「まぁ、おまえの意向はこの場において反映されない。だろ? 初めから選択肢なんてなかったんだよなぁ、悪かったなぁ、さっき未来があるとか言ってよぉ……早くも嘘になっちまった。おまえの生殺与奪の権限は、こいつらが握ってるんだ」と相原は勘気の解けない男子生徒たちを見やる。
次いで、末長クンに鵜の目鷹の目を向けた。
そして。
「いくら憤懣やるかたないおまえらといえども、あの幻、数ヶ月に一度のE定食を交換条件にだされちゃぁ、妥協せざるを得ないと思うんだが。オレはあのE定食にそれだけの価値を見出しているっつーことだ。中にはE定食を食したことのない不幸な奴もいるだろう。そこでオレは一つの解決策を提起する。悪い話じゃないはずだぜぇ、オレの提案は蜂蜜のかかったリンゴみてーに魅力的で香ばしいからよぉー。末長もよぉー、E定食、一度は食ってみたいだろ、そういう欲求はあってしかり、あって当然のもんだろぉ、オレには分かんだよ、人が何をなしたいか、何を望んでいるか、その最善がよぉー。これでどうにか、こいつを許してやってくれないか?」と今度は僕を指差した。
末長クンは長い間熟考していた。唇を固く結んで、虚空に視軸を合わせる。ほかの男子生徒も、難しい顔をしていた。
やがて。
「……分かった。その条件、呑もう。それでいいな、みんな?」
不承不承頷く男たち。舵取り役の末長クンの意志が固まった今、異議申し立てをする奴はいなかった。やはり、末長クン率いるグループは結束が固いらしかった。
「ただな、相原。それには一つ、致命的な欠陥があることを忘れてはならない」
「欠陥……だと?」
「おまえも承知のとおり、E定食は学食の中でもひときわ異彩を放つ定食。何せ、俺たち生徒は定期的にそれを食うことができないのだから。その点、おまえの提案した妥協案は、一考に価する。値するが、それはすなわち、いかにしてE定食を確保するのかどうか、と言った問題点を抱える失策でもある。もう昼休みはすでにして十分程度の時間が過ぎている。確かE定食は一日限定三十食と聞くじゃないか。それではとっくに完売しているころだろう。勿論おまえは優れた情報網を持ってはいる。それは認めよう。だが残念。おまえが俺たちに献策した案は、前提条件から破綻している……!」
末長クンの論理的な舌鋒。それは、相原の上げた策の矛盾を指摘するものだった。
「ふふ、破綻などしていなんだな」と相原はポケットから小さな紙切れを取り出す。「おまえらには想像もつかないだろうなぁ、頭の片隅にも浮かばないよなぁー。あのE定食に食券が存在するなんてな」
末長クンは大きく目を見開く。「ば、バカな! E定食に食券などと言う埒外な代物があるはずがない。それはまやかしだ! 俺はE定食に食券があると言う話なんぞ、聞いたことがない」
「それがあるんだよ、末長ぁー。これはな、オレが水面下で食堂のおばちゃんに交渉に交渉を重ねた賜物なんだよ。本来ならば存在しえない、幻の食券。オレはそれを秘密裏に十枚、用意した。ちょうど紅花を除く男子、全員分ある。これで分かっただろ。おまえらはこれを受け取るしかないってことがよぉー」
末長クンは僕と相原の持つ食券を見比べた。きっとその両方を天秤にかけているのだろう。
それがどっちに傾くのか。
どちらにしても、僕はひどい目にしか遭わない。とことん肉体的、精神的に痛い目を見るか、財布の中を空っぽにさせられるか。僕にはそのどちらかしかない。しかし、通院代を考慮すれば、後者の方がまだましかもしれない。けど、それはそれでイヤだ。もう、板ばさみって奴じゃないか。
「……そうだな。俺たちも一時の感情に振り舞わされるだけじゃダメだ。どうせこんな銀髪男なんぞ、後何日かすれば、愛想をつかされる。幻滅されて、失望されて、あっという間に破局。目に見えている。だから、俺たちは相原の策に乗るべきだと思う。どうせならポジティブに行こう。紳士たるもの、他人の幸せばかり羨んでも仕方がない。紅花とか言うキザったらしい名前の男なんか忘れて、今宵は楽しもうじゃないか」
その言葉を合図に、一堂が沸いた。そうだそうだと、激しい歓声。
「とまぁ、そう言うことになった。おまえには悪いことをしたな。て言うか、さっさと彼方ちゃんと別れろよ。おまえは顔だけはいいんだから、もっと別の女を作りやがれ、コンチクショウが!」
あのねぇ、と反論したくなったが、口を閉ざす。話は悪くない方向に進んでいる。少なくとも刃傷沙汰にはならない。ここで耐え忍べばいいのだ。ここで耐え忍んだら、相原の奴を心残りのないよう張り倒してやる。
僕はそう固く誓って、財布の中のお金を全て失ったとさ。