第七話
午前四時半。早朝。雨模様。
鼻をさすのは湿気た雨のにおいだった。今にも朝雨が降りそうな気配。
僕は煙っぽい地面を蹴って、一軒一軒、家のポストに顔を近づける。腰周りの袋から朝刊を取り出して、ポストに投函。新聞が雨に濡れないように気を配る。
やがて、ポツポツと雨粒が落ちる。糸のような小糠雨。肩や腕を濡らす。
ここら辺の地形は頭に入っている。中学校に入ると同時に始めた新聞配達。ほぼ毎日のように草薙市の住宅地を奔放している僕は、体力だけは自信があったりする。四、五キロジョギングしているのと変わらないから、それなりに筋肉もついているのでは、とひそかに思う。
寝ぼけ眼の視界がさらに劣悪になる中、本日最後となる朝刊をポストに入れた。
脱力感が襲う。
残り少ない体力を振り絞り、我が家へと方向転換。三キロ強はあるであろう道のりを、僕は駆け走る。
と。
鳴き声。
それは、前方から聞こえた。
……犬。
雑種だろうか。湿気て濡れてしまったダンボールの中にちょこんとお座りをしている。二匹。両方とも小柄。おそらく子供なのだろう。
ダンボールには、「拾ってください」と油性ペンで書かれていた。
僕が近づくと、その子犬たちははかない声で鳴いた。かげりのない眼で僕を見詰める。その姿は僕の心に哀愁感のようなものを誘った。
あぁ、と思う。そのかわいらしくも、あどけない表情。僕の目の前にいる子犬たちは、悩ましげに目を細めて、僕を見上げていた。
雨に打たれる子犬。寒そうに体を振るわせる。
ダンボールの前に中腰になる。そして、子犬の一匹を手で抱えた。体毛は冷たく、接触面の皮膚の熱を奪っていく。
子犬は抵抗することなく、僕の抱っこを受け入れる。
段々と雨の勢いが激しくなっていく。僕とその子犬は、静かに雨にさらされた。
「おまえは」
おまえは。
僕は。
ねじる。首の辺りをつかんで、思い切りねじる。
ぎぎぃと、骨を削るような音がする。子犬は苦悶の表情を浮かべ、ガスのような息を漏らした。
犬の頭蓋骨。ちょうど手のひらに納まるサイズ。それをがっちり固定して、蛇口をひねるように回した。
ぷるぷると体を弛緩させたり、硬直させたりする。子犬の爪が僕の皮膚を引っかいた。
力を緩めない。僕は片手で子犬の腹をつかみ、もう片方の手で子犬の首をねじ切ろうとした。
やがて。
乾いた音。
僕はすでに物となったそれを、ダンボールの中に戻した。
もう一匹の方に視線を投じる。そいつは何が起こったのか把握できていないらしく、キラキラとした瞳を僕に向けた。その後、困惑したかのように同胞の体に鼻を押し付ける。
僕は無感動に二匹目の子犬を鷲づかみにした。先刻と同様に、首と胴体を乖離させる。
皮は繋がっている。
けど、骨はつながってはいない。筋肉の繊維もきっと、二つに分離していると思う。
「おまえは」
と。
もう一度問う。
おまえは幸せだったか、と問う。
おまえのこれまでの人生は、果たして幸せと呼べるものだったか?
あるいは、どうしようもない不幸の連続だったのか?
答えはない。呼吸をしなくなった子犬たちは、ダンボールの床に横たわっていた。
当然の摂理。
僕は子犬たちの体温の残る両手を見る。
血に汚れているわけではない。かといって、皮や肉の筋が付着しているわけでもない。
ただ。
紛れもない死の感触があった。それが、呪いのようにこびりついている。
あぁ、と思う。そのかわいらしくも、あどけない表情。薄く開かれた目は、もう閉じることはない。それでも負の香りのする子犬たちの顔は、どこか安らかに見えた。
生は矛盾を確約するが、死は安息を約束する。
幸福。
不幸。
それを決めるのは、自分。けど、それを奪うのは、天。あるいは、世界の万能を司る何か。
そんなあまりにも分かりやすい法則の中で、僕たちは生きていって、死んでいく。その連鎖。
……止めよう。
死に至らしめた。欲求によって、罪のない二匹の犬が死んだ。それは忌むべきことだ。
僕ははるか遠い山々を遥拝する。粛々と両手を合わせて合掌した。
そんな中。
ふと。
思う。
僕の人生は幸福なものだったのかな、と。
僕が家に帰るのと同時に、小雨だった雨が車軸を流すようにその勢いを増した。
雨露と汗でべとべとになった服。まとわりつくような雨だった。下着は多量に水気を吸っていた。
「お疲れ様、お兄ちゃん」
と。
玄関先で葵が僕に、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
昨日のような奇妙で面妖な様子ではない。いつもどおりの葵。ただ、服装や髪型が違った。
部活着に着替えた葵は、肩に大きめのバックをかけ、髪をポニーテールにしていた。あらわになるうなじ。さっぱりとした雰囲気の葵は、僕にタオルを手渡してくれた。
「色々と大変だったね。ちゃんと全部配れた?」
「このアルバイトを何年やってきてるって思うんだ?」
「そうだよね。配達のプロ。さすがは、私のお兄ちゃん」と些細なことでも褒めてくれる。
「照れるだろ」
「ご苦労様でした。早くシャワーを浴びた方がいいよ。登校までにはまだ、たっぷり時間はあるから」と優しい笑みを浮かべる。
僕は少し嬉しくなって、静かに笑った。
「じゃ、行ってくるね」と葵は靴を履く。すでに靴と靴下を脱いだ僕は、華奢な葵の背中を眼下に納めていた。
「遠征試合だっけ? バスケはバスケでハードスケジュールだね」
「そんなんだよねー。朝練が早くて、ほんと、メチャクチャ眠い」
「まだ五時だから。眠いのはしょうがないかな」
「お兄ちゃんはすごいよね。いつもこんな時間に起きて、新聞配ってるんだ」
「おまえほどじゃないよ。葵のほうが、僕よりもずっと、すごいと思う」
「私? 全然すごくないよ。私はただ、お兄ちゃんの負担を減らせるようにって、お兄ちゃんがもっと楽になるようにって、そう思ってるだけだから……私、お兄ちゃんのこと、すっごい好きだし……」
そっと呟くように言った。
表情は窺えないが、わずかに見える横顔は薄い朱に染まっていた。
後ろから見える、葵の肢体。純真で穢れを知らない肉と、骨と、血の塊。ここからはよく見えないけど、乙女のような恥じらいを浮かべる葵の面容は容易に想像できる。そのいじらしい笑顔。そして、引き攣るように歪む唇。
人の美醜が一つに収斂した顔。
健気に咲く生花を見て、その細い茎を折りたいと思う人はいない。
可憐に飛ぶ胡蝶を見て、その薄い羽を毟りたいと思う人はいない。
雄渾と泣く赤子を見て、その弱い体を壊したいと思う人はいない。
僕は自前の銀髪に指を入れる。その一房を掴み、軽く引っ張った。
誓ったんだろ、こいつに。
呪文のように、何度も何度もその言葉を暗誦する。忘れてはならぬと、破ってはならぬと、そう心に刻み込んだ誓い言を。わが身を賭して願った安息を。それを固持するために、おまえは変わろうとしたんだろ。そうなんだよな。そうすると約束したんだよな。
あの人に。
あの人のために。
もうこの世にはいない、彼のために。
葵や相原、そして彼女のためにも、それを戒めたはずなんだよ。二度と噬臍の悔いを残さないよう、あの人に約束したんだ。
「……お兄ちゃん?」
と。
葵の心配するような声。
「……へ?」と間の抜けた声。すっかり正気を失っていた僕は、涙をこらえるように顔に手を当てていた。
「……なんか変だよ、お兄ちゃん? 風邪でも引いたのかな」
「……いや」と僕は砕けた腰で立ち上がり、「なんでもないんだ」と平静を装う。
葵は眉を顰め、唸るような声を上げた。「なんでもないならいいんだけど……。あんまり無理したらダメなんだからね」
「分かってるよ」と笑みを貼り付け、「それよりも、早く行かないと間に合わないんじゃないかな」と葵に提言する。「朝練」
葵は目に見えて慌てた。「わっ、そうだった! い、行ってくるね、お兄ちゃん!」
「いってらっしゃい」
慌しい様子で靴を履き終えた葵は、ドアノブをひねって、「いってきます」と外へ出た。頭の天辺で縛られた長い黒髪が、一個の生き物のように揺れる。
その微笑ましい光景を目に映し、とりあえず僕は、リビングを抜けて、ベットにダイビングした。
「なぁ、よく小学生とかがよぉー、何で人を殺したらいけないんですか、って言うだろ。あれ、一見深遠な命題に見えて、その実、メチャクチャ簡単で暗愚な問いなんだぜぇ」
相原庵はやぶから棒にそんなことを言い出した。
朝っぱらから何の用だよ、と悪態をつきたくなるが、いつものことなのでむべなるかな。こういう場合は反発するよりも素直に相槌を打った方が得策だと理解している僕は、「なんでそう思う?」と訊いてやった。
案の定、相原はにやにやとした笑みを浮かべた。
「そう言うおまえこそ、なぜそうだと思う?」と僕の質問を同じ質問で返す相原。
「やっぱり倫理観に接触するから、かな。人を殺したら、その人の遺族が悲しむ。また加害者も人殺しの十字架を背負う。それを避けるために刑法と言う形で、殺人を規制した。そういうことなんじゃないか?」
「まぁ、一般論はそうだよなぁ、常識って奴は意外に強固でよぉー、そうやっててめーみたいに視野を狭めるんだよなぁ、罪深いぜぇ、常識って言う先入観はよぉー、なかなか抜け出せねぇ。けどよぉ、話はもっと簡単なんだぜ」
「簡単って言われてもね」
「とりあえず聞けって。考えても見てみろよぉー、紅花よぉ、簡単な話だろうがよぉ。その小学生はな、自分を殺されることを勘定してないだけなんだよ。だから、無邪気にもそんな馬鹿げた問いを口にできるのさ。その結果、そんな明白な理すら感得できない奴が増えるんだぁ、しかも計れないところにあるだろ、そういった理はよぉ、ペーパーテストじゃよぉー」
「いつもいつも変なことばっかり言うんだな、おまえは。ま、ためしにその小学生の首を絞めてこう言えばいいんだ。これでさっきの質問が言えますかって。そういうことだろ」
相原は小さく笑ったようだった。「そう言うことなんだよぉ、おまえも分かってきたじゃねぇーか、オレは紅花の成長具合に瞠目だぜぇ、やっとオレの思考に追いついてきやがった。……オレは自分のことを棚に上げて、答えのない問いかけをするアホが嫌いなんだよ。まぁ、探究心の発露、あるいは好奇心の開花であるなら、むしろオレはいいと思うんだがなぁー」
「そう言えばおまえ、言ってたな。好奇心のない人間は滅ぶ、とかなんとか」
「そのとおりなんだよ、紅花。欲のない人間は世間では善人だとか、聖人だとか言われるだろ? あれはな、真実じゃねーんだよ。そんなわけがねぇ。向上心のない生き物は、即効で滅ぶんだよ。だろ? これまでに進化を放棄して、この世に生存し続けた生物が果たしているか? いるわけがない。そんなふざけた奇跡は起こらない。欲望は全ての発信源で、知識の源泉なんだ。未知への欲求こそが、人間たる証。だから、欲のない人間は人間として欠陥してるんだよ」
その点、相原は謙虚な人間を評価する。
「おまえはな、何で競馬の馬があんなに速いか知ってるか?」
「知らないよ。おまえみたいに競馬場に行ったことないんだから」
「あれはなぁ、要約すれば定向進化の賜物なんだな。それで、定向進化は知ってるか?」
「あれだろ。キリンは高いところにある葉を食べるために首が長くなったとか、そんなの」
「ご明察。生物はそうした障害やら欲求やらに対応して、骨格を変容させ、肉体を変質させ、柔軟な変化を遂げてきたんだな。それにしても生き物はたくましいよなぁー、気がついたら進化してやがる、それも自分好みによぉー、家具に自分の垢、癖を馴染ませるみてぇーによぉ、使いこなすんだな。競馬の馬もなぁ、人間の手によって、人工的に定向進化させられた種なんだぜぇ」
「確かに、速い馬同士を交配させれば、より速く走れる子供が生まれるって聞いたことがある」
「あぁ。人為的にではあるが、そういう過程を経て、洗練された肉体美と、たくましい足を手に入れた――そういう寸法なのさ、競馬の馬はなぁー。人間もそれと同じなんだよ。環境に対応できない奴から死んでいく――これは厳然たる真理なんだな、動かしようがない。オレは寝ることと休むことがこの上なく好きだがよぉー、平和は争いに突入するための休戦期間。だらけるときはしっかりだらけて、締めるところは締める」
僕と相原は獣道のような通学路を歩いてる。
途中でいかにも不良の体をした数名の男とすれ違う。だぶだぶのズボン。ピアス。男たちは小さく相原に頭を下げて、ついでに僕にも頭を下げた。
推測するに中学生くらいだと思う。学校の方はいいのか。
そんなことを相原に訊いてみると、「てめぇにはてめぇの生き方がある」とそんな感じのことを言った。「あいつらはあいつらなりの信念持って生きてるんだよ。それが短絡的で愚かであっても、まぁ、脳細胞が化石化した大人が言うほど悪くないとオレは思うんだよ」
「そっか」と僕は納得することにした。
目の前には校門が見える。脇には先生が数名立っていて、機械的に挨拶をこなしていた。
僕たちも機械的に挨拶を返して、教室へと向かう。