第六話
「……なんの用だよ」
相原との会話で、より疲労が蓄積された僕は、乱暴な仕草で携帯電話を手に取った。と言うより、どうせまた相原だろうと僕は予想していた。あいつは人をからかったりすることが好きなのだ。だから、電話を何度もかける、と言った徒労を厭わない。今回も例に漏れず、と言ったところか。
「もしもし」
『……あの、ワタシ』
不知火サンだった。
僕はあわてて整容し、ベットから跳ね起きた。まるで思春期の中学生のような反応。
「その、不知火サン?」
『うん。ワタシだよ、紅花君』
携帯電話から聞こえる声。不知火サンは嬉しそうに笑った。
「なっ、何か用かな?」
『用ってほどじゃないけど、紅花君の声、聞きたくなったから』
「……うん」
『迷惑だった?』
「そんなんじゃないよ。ただ」
ペースが乱れる。相原とは正反対のかわいらしい理由と動機、そして甘い声にすっかり自分のペースを持っていかれたのか。
自然と笑みが浮かぶ。やっぱり、不知火サンはかわいい。
『ただ、何?』
「なんでもない。不知火サンはかわいいなって」
『……それ』
「……ん」
『それ、もう一回言って』
「ん」
『……紅花君、わざとやってる。もう一個前だよ』
「不知火サンはかわいいなって」
『もう一回』
「不知火サンはかわいいなって」
『彼方のこと大好き、好き好き好き、超愛してるって言って』
「彼方のこと大好き、好き好き好き、超愛してる」
『……録音するから、ちょっと待っててね。カセットレコーダー、用意するから』
がさごそと音がする。
数秒後。
不知火サンは、『もう一度言って』と催促した。
そんなことが何分も続いた。
『ワタシもね、紅花君のこと超好きだよ。世界中の誰よりも好きで、理屈抜きで好きで、紅花クンから離れたくないよ。だからね、これはその代用品。これでいつでも紅花君の声が聞けるね』
臆面もなくそんなことを言う。いくら携帯電話越しでも、恥ずかしくないのか……? しかし不知火サンは荒い呼吸を繰り返しながら、愛の言葉をささやく。頭がおかしくなるくらいに、ささやく。「不知火サン」
『なぁに?』
「もうそろそろ、切るよ?」
『……切っちゃイヤ。もっと話したい。けど……もう夜も遅いね。紅花君も、もうそろそろ寝たい?』
時計の針は十時を指している。
倦怠感が尾を引く体は睡眠を渇望している。それに入浴も済ませたい。
「寝たい」
『……そうだよね、寝たいよね。私もそう思う。分かった、お休み、禊君』
不知火サンは僕の下の名前を言って、電話を切った。
お休み、彼方、と言えばよかったのかな。
バタッとベットに倒れこむ僕。
……疲れた。
一刻も早く風呂に入って寝てしまいたい。考えるのをやめてしまいたい。いっそこのまま寝てしまおうか。そんな甘い誘惑が頭をかすめる。
そんなことを半覚醒的に考えていた僕は、気がつけば柔らかいベットに全体重をかけた。羽毛のベットは優しく僕の体を包みこむ。疲労した体はずぶずぶと沈みこんだ。
そのまま。
僕は。
「お兄ちゃん」
と。
部屋の扉が開く。
「次、お兄ちゃんの番だよ」
バスタオル姿の葵は、眠りこける僕を見て苦笑したようだった。
「もう、寝ちゃダメだって。ちゃんとお風呂に入ってから寝ないと、汗臭くなるよ」
「分かってるよー」とベットに突っ伏したまま答える。弛緩した体はまったく動かない。
ベットの縁に腰かけた葵は、「ほらほら、起きて起きて」と僕の体を揺さぶった。一筋の筋肉すら機能停止した僕の肉体は、漂流した潅木のように揺れるだけだった。
そのうち吐き気がしてきた僕は、熊のようにのっそりと上体を起こした。バスタオル一枚に身を包んだ妹の肢体が見える。
葵は顔を少し赤らめて、バスタオルの裾を握った。タオル越しに隆起した胸。バスケで洗練された体躯。大きく露出した足は瑞々しく、張りがあった。
「葵」
「何でございましょうか、お兄様?」
「次からは服、着てから来い」
「襲いたくなったの?」と葵は悪戯っぽく舌をチロチロとさせる。むき出しになった肩の曲線美。葵はかわいらしく首を傾げた。
「そう言うわけじゃないんだけど」
「私の体、えろくなったでしょ? 惚れた?」
「惚れない」
「惚れてよ」
「何で兄の僕が、妹のおまえに惚れなきゃならないんだよ」
葵ははっとしたような顔をして、渋面を作った。額に皴を寄せて、瞋恚にも似た表情を浮かべる。その様相は悪鬼だった。
奇妙な沈黙。
何かが背馳したかのような空間。
「お兄ちゃんは」と葵は無気力な視線を投じる。「お兄ちゃんは、私のこと、好き?」
「好きだよ。決まってるじゃないか」
「……本当?」
「当たり前だ。変なこときくな」と僕は少し声を荒げた。
普段の葵とは径庭したズレ。腑に落ちない。葵はなぜ、そんな明白なことを質問する……? ただ一人の家族。大事に決まってる。当たり前の事実……。
葵は顔を伏せた。濡れている髪がその表情を隠す。僕には葵がどう言う表情を浮かべているか、分からない。
時々葵は、こんな感じになる。自己の矛盾に思い悩むような、答えが出ないことに困惑するような……。
「風呂、入ってくる」
「……お湯、熱いよ」
「おまえ、熱いほうが好きだもんな」
「お兄ちゃんは熱いの、苦手?」
「どうだろう。そんなこと、気にしたことなかったかな。いつもおまえが、お風呂の温度を調節してくれるから」
「お兄ちゃんが火傷したら嫌だから、だよ」
「お風呂で火傷はしないよ、葵」
「そうかな」
「そうだよ」
乾いた笑声を浮かべて、自室から退室する。背中から感じるは、妹の視線。粘り気のある妖しげな注視。背後から注がれるそれは、僕の肌を這いずるように知覚される。
怖気るような狂気。度し難い迷妄。
それすら感じる。