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いつかの君とどこかの僕  作者: 密室天使
第一章  引き金を引く世界
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第五話

 結局、家に帰ったのは九時頃だった。

 不知火サンに引き止められた。なんとか理由をつけて、帰途に着いた。

 桜サンも僕の宿泊に関して異論はないようだったけど、やはり抵抗がある。それにいずれ不知火サンのお父さんも仕事から帰宅するはずだから、何かと大変なことになるのは自明の理だった。次いで、夕食を馳走になって、家に泊まるなどおこがましいように思えた。不知火サンの提案を辞退した。

 そうした紆余曲折を経て、今に至る。

 忍び寄る夜気。自宅の玄関前にはチカチカと電灯が煌いている。

 力を使い果たした僕は、亡者のようにドアノブに手をかけた。開く。すると、魚の香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。

 靴を脱いだ僕は、リビングへと向かう。するとテーブルに頭を突っ伏していた葵の姿があった。

 僕の姿に気づいたのか、葵は顔を上げた。眠たげな瞳で僕を見る。

 と。

 威勢良く椅子から飛び上がった葵は、一直線に僕の元まで走ってきた。そのままの勢威を保ったまま抱きつく。その拍子に僕は、背中からダイブした。

「……お兄ちゃん! お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん! もう、どこ行ってたのよ! 心配したんだよ! これだけ待っても全然帰ってこないし、外はどんどん暗くなるし、ご飯は冷めちゃうし……。せっかくお兄ちゃんの好きな焼き魚を調理したのに、肝心のお兄ちゃんがいないと意味ないよ。これだけ妹を心配させるなんて、兄のすることなの? もう九時なんだよ? てっきり新聞配達で遅くなるのかなって思ったけど、夕刊を配るのなんて一時間くらいで終わるし、こんなに長くかからないよ。てっきりお兄ちゃんが事故に遭ったり、通り魔に遭ったのかと思ったんだよ? 私もういても立ってもいられなくて、ここら辺を必死に探したけど、どこにもいなくて、相原さんにも電話したんだけど、応答がなくて、ひょっとしたら相原さんごと何かに巻き込まれたのかと思って、私心配で心配で……。私、お兄ちゃんがいないと生きていけないよ。お兄ちゃんありきの生活なのに、これ以上私を一人にしないでよ! もう家族の誰かがいなくなるなんてごめんなんだから……。けど、もういいよ。ちゃんとお兄ちゃんが帰ってきてくれたから。お兄ちゃんはここにいるってことは事実だから。私、怒ってないよ。それはもう最初は頭に来たけど、だんだん寂しくなって悲しくなって、お兄ちゃんが恋しくなって、どうしようもなくて、ちょっと泣いちゃった……。私、お兄ちゃん依存症だね。お兄ちゃんがいないととたんに孤独感に襲われて、周りが全部敵に思えてきて、無性に腹が立って、イライラして、そして、虚しくなるの。だから、次に遅くなるときはちゃんと連絡してね? それとなるべく早く帰ること。絶対だよ? 絶対だからね、お兄ちゃん?」

 葵は僕の肩に頭を乗っけた。床に背中をつけた僕はされるがままになっていた。と言うより、上から葵に押し倒される形なので、身動きがとれない。何より背中が痛い。フローリングに背骨を打ち付けたのか。

 その痛覚を我慢して、腹筋の要領で起き上がる。僕の腕の中には震える葵がちょこんと納まっていた。僕の背中に手を回して、薄い胸板に頬をくっつける。その様子は母親に甘える小児のようだった。

 不知火サンとはまた違った体臭。乳製品のように甘美な香り。葵の光彩陸離たる髪。それが僕の皮膚に当たって、くすぐったい。

「……ごめんね、葵」と葵の背中をポンポンと叩く。ちょうど子守唄を歌う母親のように。「心配させたみたいだけど、僕はなんともないよ。怪我もしてないしこれと言った異状もない、からね」

「分かってるよ、お兄ちゃん。それで……どこ行ってたの?」とくぐもった声。顔を僕の胸に押し付けているからだろう。

 言おうかどうか悩む。

 別に何の問題もない。甲斐性無しの僕に、出来すぎた恋人ができただけ。とても僕とは釣り合わない、可憐で素敵な人が現れたと言うだけ。

 しかし。

 直感的に言うのはマズイと、僕の本能が警告している。そのことを言うのはヤバイ。止めておけと、そんなことを言うのだ。

 それは生存本能に訴えるものだった。具体的にどうマズイのかは明文化できない。ただ、漠然と何かが起こる。そう感じている。

 長考。その間僕は、ごまかすように葵の背中に手を当てる。

「……相原のところに行ってたんだ」と胸襟で相原に詫びを入れる。「今日、あいつのストリートライブに行っててさ、気がついたらこんな時間だったんだ」

「……そう。相原さんのところに……」

「連絡できなかったのも、それどころじゃなかった。大変だったんだ。僕は僕で、すっかり夢中になってた」

「珍しいね。お兄ちゃん、滅多なことで熱くならないのに。よっぽど楽しかったんだね」

「楽しかったよ。いつでもあいつはバカなことやって、色んな奴を楽しませる」

 僕は葵の頭部を眺める。葵はぎゅーっと僕を抱きしめた。それは何かにすがっているようにも見えた。

 そして。

 綺麗な声で。

 言う。

「……女の臭いがするよ、お兄ちゃん。私の嫌いな、メスの臭い」

「……それもそうだろうね。周囲にはたくさん女の人がいたから」

「あんまり女の人の近くに寄らないで。嫌な臭いがついちゃうから。洗濯じゃ取れないんだよ、それ」

「…………」

 葵はナメクジのような動きで僕の背中をさすった。葵の熱が僕の体温を侵食していった。

「それでねお兄ちゃん。今すぐその服を洗濯籠に入れて。そうしたら一緒にご飯食べようね」

「葵。悪いけど僕、もうご飯食べてきた」

「……そっか。ならいらないね」と葵は僕の体から離れ、立ち上がった。そのままリビングのテーブルへと向かう。テーブルの上には焼き魚を筆頭に白米や味噌汁。お浸しや佃煮などの和食が並んでいた。

 葵はそれらを台所の流しに持っていき、これと言った躊躇いもなく、捨てた。一切手のつけられていない食べ物が、あっという間に藻屑(もくず)のようになる。葵は無感情に皿の上の料理を廃棄していった。 

 目の前の空間が歪んでいるような気がした。酩酊を伴う違和感。まるで日が差しているのに、影ができないようなチグハグさ。

 ぼけーっと腰をついていると、「早く着替えてきて」と感情の色のない声が聞こえてきた。

 言われたとおり、衣類を着替えるために脱衣所へと向かった。




『それでよぉー、おまえ。何か変わったことはなかったかッ?』

 開口一番、相原庵はそんなことを尋ねてきた。

 僕は自室のベットに座って、壁に背を預けていた。開け放たれた窓からは冷たい夜風が室内に入ってきていた。

 手に持っていた携帯電話を切りそうになる自分がいる。まるでこの男は、今日の変事について何か知っているような口ぶりだったので、なんとなく癪に障るのだ。

「あったよ、変わったこと。この先の人生を大きく左右するようなことが」

 電話越しの相原は小さく笑ったようだった。

「……なんだよ? 何かおかしいか?」

『いやな、ひょっとしたらよぉー、おまえよぉ……いや、シンキングタイムだ。考える時間をくれ、誰しも時間ってもんは平等に降り注ぐもんだろッ……今から予言してやる……予言、だぜ、予言。世紀の大予言……そうだなぁ……おまえ、不知火に愛の告白でも受けたのかぁ?』

「……は?」

『刻下、おまえに起こりうるであろう一大事と言えば、それくらいしかなさそうだしなぁ。天は何もかも承知してるんだぜぇ、逃れられねぇもんもこの世にはあるんだなぁ、これがよぉー、因果な話だろうよぉ……だろッ?』

 相原は念を押すように言った。そしてそれは、限りなく確認に近い質問だった。

 いや。

 そんなはずは。

『にしても驚いたぜぇ、このオレがよぉー、天下の庵様がよぉー。ノストラダムス以来だぜぇ、溢れんばかりの衝撃、驚愕の奔流はよぉ。……まさか男嫌いで有名な不知火から、おまえのメールアドレスを教えろって言われたときは、メチャクチャビックリしたんだぜ。おまえ、不知火に何かしたのか?』

 どうやら、相原が不知火サンに情報をリークしたらしい。

 ぷるぷると震えていると、野次馬根性丸出しの声が聞こえてくる。

『一応まぁ、教えたけどなぁー、おまえのメールアドレス。てか、話は変わるがな、おまえ、友達が少ねぇんだな。多分不知火がオレのところに来たのだって、おまえのメールアドレスを知っている奴が極端にいないことを示唆してんじゃねぇーのかぁ? 事実、そんな奴は数えるほどしかいねぇ。だろ? おまえ、顔だけはいいんだから、どんどん女に取り入っていけばいいのによぉ、もったいねー奴だッ』

「……相原」

『ん? なんだ?』

「……おまえ、失礼な奴だな。友達がいないとか、普通言うか?」僕は話題を微妙にそらした。

『そのとおりじゃねーか。確かにおまえはよぉ、そんなに性格は悪くねぇ。だが、他の奴と群れるの嫌いだろ? 一匹狼だよなぁ、紅花は。なまじ銀髪なだけにマジで狼気取ってんのか、おまえ?』

 相原の罵言に鶏冠(とさか)に来る。しかしそれもまた事実だった。相原の言説どおり、僕は人と群れることがそんなに好きじゃない。

 孤高、というわけでもない。単純に一人でいるのが好きで、傷の舐め合いが嫌いなだけだ。思うに自分の孤独を癒すためだけに友達を利用するような奴は、真の友愛など築けない。僕はそんな偽りの関係に嫌悪感を覚えるってだけの話だ。

 と言うことは、普段よく行動を共にする相原とは、純の交誼を結んでいると言う論理になるけど、そんなこと恥ずかしくて言えない。

 そして今後は、不知火サンとも友好以上の関係を取り結ぶことになるんだろうね。

「僕はそんなんじゃない」

『せいぜい送り狼にならないよう、気をつけておくんだな』

「言いたい放題か、おまえは。散々引っ掻き回しといてこれか。もう切るぞ」

『待て待て待て、本題が残ってるだろ。そいつを忘れたらよぉ、意味ねぇだろがよぉ、この電話の意味がよぉ。一部屋いっぱいの黄金よりも価値のある時間って奴をよぉ、無に返すつもりかぁ? 感心しねぇなぁ、オレは感心しねぇなぁ、そのぬるい態度、姿勢がよぉー。それで不知火とはどうなったんだ?』

「へー。それで?」

『それはこっちのセリフだっつーの。てっきりオレは、放課後に不知火に呼び出されたのかと思ったんだが……』

「……まぁ、うん」

『呼び出されたのか?』

「……あぁ」 

『それで?』 

「……不知火サンに好きだって言われた」

 正直に言うことにする。どうせ、すぐに露見する。こういったセンセーショナルな情報はあっという間に伝播するものだ。特に学校と言う閉鎖空間においては、その作用は著しい。

『……マジ?』

「マジ」

『それはつまり……告白、だよなぁ、それは。好きって言葉は愛情表現にほかならないもんなぁ、それ以外の解釈はないよなぁ、少なくとも負の念を表す言葉じゃねーもんなぁ。……おまえはそれを受けたのか?』 

「受けた」

 相原は感嘆の息を漏らした。次いで、好奇心を抑えきれない声を発する。

『おまえもすみに置けねぇー奴だぜぇ、女なんか見向きもしない、路傍の石ころと同じだろみてぇーな目つきだったのによぉ、興味もないくだらないってつらだったのによぉ……察するがよぉ、心境の変化って奴なんだろ? ものすごい上玉を目の前にいたら、もう、選択肢は一つしかねぇよなぁ、万国共通、全ての男共通の意思選択だ』

「あぁ、そういうことだよ」

 僕は投槍に言った。なんだか面白くなかった。

 一方の相原は面白くて仕方がないようだった。

「……切っていいか?」

『いいぜ。それが聞ければもうおまえに用はな』

 切った。

 僕はベットの上で横になった。

 時計を見てみれば九時半だった。

 変化に富んだ一日だったと思う。色々なことがありすぎた。そうも思う。

 仰向けになる。天井には奇妙な模様を形作る木目があった。

 と。

 携帯電話が鳴る。

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